44:海帝の歌姫
永遠と遊ぶ娘
「どれだけ永い時を生きても、忘れられなかった心が二つ。
それはあの人への恋心。そして……あの男への憎悪の心!」
*
(綺麗な人……)
それは外見だけじゃない。ボロを出さない相手が憎い。澄ました顔をずたずたにそぎ落としてやりたい。
引き裂いてやりたいと思う。着飾ったその女の、ドレスを。あの時のように。
「行方不明のメイドのこと、先程疑問に思っていらっしゃいましたわね?」
居心地悪そうに椅子に座ったその女。憎い相手を前に、ベルタは目を吊り上げる。
(こんな男の何処が良いの、カロン君……ウンディーネ)
それは顔?それとも歌声?それとも女らしいその身体?
どれも無駄よ。無意味よ。どんな美人だって、いずれ老いて朽ちていく。だけど私は違う。いつまでも若くいてあげられる。貴方はもっと色気のある女性が好きだって言うのなら、私はあの頃の姿にまで成長してあげた。
(簡単な事よ)
肉が足りないなら取り込めばいい。骨が足りないなら取り込めばいい。食べて私の血肉に変えて、最盛期の私になれば良い。
メイドが一人消えたところで、誰も気にしないわ。陛下の傍仕えになったと言い、その後粗相をしでかし解雇されたと言えばいい。どうせこれから忙しくなる。誰もそんな些細なことを気にはしない。
「お似合いですね、フルトブラント様。本物の女性でも無い癖に、人魚の衣装が本当によくお似合いで」
着飾らせた相手。その髪色が金色で……あと数歳幼かったら。この女は彼女によく似ていただろう。そう思うと今の相手に感謝も出来る。今の外見なら心から憎むことが出来ると。
ベルタは宿敵を殺意よりも暗い憎悪の瞳でじっと見据える。ずっと憎かった男。それは前世の時代から。
「私はずっと貴方が妬ましかった。私の方がずっと昔からあの人を見ていたのに」
「……」
「貴方は誰でもない魂!人に愛され、人に語り継がれることで生まれた魂っ!第七魔力から生まれた存在の癖に!」
「……」
「言うなれば私が彼女とお前を歌にして、語り継いであげたから!だからお前は魂を得て、生まれることが出来た!私に感謝すべきよ!それなのに、お前はカロン君を私から奪った!生まれた恩を仇で返すなんてっ!」
「……」
罵れば罵るほど、自分の醜さが露見するよう。すると相対的に、目の前の美女がますます煌びやかに艶やかに……清らかにそこに佇むようで非常に腹立たしい。
美しい魂を持っていてもこいつは人間。汚い心があるはずだ。何時になったら尻尾を出すの?
(王子の子孫の癖にその、ウンディーネみたいな目っ、許せないっ!)
あの頃とは違う。私は女、私のウンディーネは身も心も男として生まれ直した!それは私と今度こそ結ばれるためよ!お前を愛するためじゃないっ!何もかも忘れて、別人として私達は三度であった!私は再び貴方に恋をした。これはもう運命としか考えられない。
(どうしてそれが解らないのカロン君!)
こいつは女でもない癖に、紛い物の女の癖に!私の愛しい人を何度攫っていくのだ、許せない!幸せになる権利も、あの人と結ばれる権利もすべては私のためにある。
「男の癖にっ、気持ち悪いっ!私のウンディーネを惑わす魔女めっ!」
「……」
「何とか言ったらどうなの!?その余裕面っ、本当に苛々するわ!あの人はっ、私のウンディーネ!カロン君は、絶対にお前に渡さない!脚本の名の下に、最後に笑うのはこの私よ!」
感情的に、引っぱ叩いた白い頬。痛みで帯びる赤みさえ、可憐な乙女の羞恥に見えて、その顔を靴底で床に踏みつけたくなる。
一日裁判を早めるという嘘を流しただけで、彼は慌てて城へやって来た。こんなに腹立たしいことがあるだろうか?
(でも)
それをこの男に伝えるのは癪だ。
「折角の噂が無駄になってしまったわ。貴方を本当に好きなら、すぐに駆けつけるものだと思ったのに。来なかったわよ、カロン君」
愛されていないのね。耳元でそう囁いて嘲笑う。
そうだ、このまま明日も彼は牢に閉じ込めておこう。この女は愛しい人に裏切られ、失意のままに死んでいくのだ。
そして海神を止める新たな王に彼がなる。私が彼の人魚になるのだ。この女は、彼には要らない。だから、死ぬべきなのだ。私の定めた軸として、海神の柱として。
嘘だけど、不安になれば嘘を人は信じてしまう。嘘が真になる。嘘を吐き続ければ、物語が歴史になるように……世界は裏返る。彼の愛だって、きっとそう。永遠を手に入れた私に、第一の凱旋たる愛が手に入らぬ道理などないのだから。
*
夢現の悪魔
「ここだけの話ですが、私……
第二領主様って苦手です。
というわけで!助けて下さいましねお兄様っ!
きゃっ!兄様の背中大きくて温かくて……はぁはぁ。
あら?そんなに大声で喜ばなくても宜しいですのに。
兄様ったら照れ屋なんですから。」
*
(カタストロフ……)
奴の纏ったプレッシャーに息を呑む。動くあいつと会ったのは、何億年ぶりだろう?
ティモリアは考える。
据わった目の威圧感。その姿を見ると、ぞくぞくする。恐ろしくて、懐かしくて……それからよく解らない親しみで。こいつが来てくれたら絶対助かる。そう思いながらも、こいつに助けられるのは癪だと、矛盾した思いに苛まれる。
「そこを退けアムニシア。邪魔をするなら、この領地ごと破壊する」
「きゃっ、お兄様ぁああん!」
「げっ」
エペンヴァを匿うようなら容赦しないと、鋭い眼光を向ける第二領主・カタストロフィ。
その殺気に正面から対抗するのは無謀だと、エフィアルの拘束を解き背中に隠れるアムニシア。恐ろし妹に擦り寄られ、エフィアルは固まり青ざめている。奴としては第二領主より第三領主が怖いらしい。
(おいおい、マジかよ)
ティモリアは絶句する。絶句しながら、何億か何万年ぶりの養親を見る。奴が寝ていた間、俺はずっと魂を狩って魔力を高めていた。それなのにまだエングリマの野郎にも勝てない。それどころか、あんたに近付いた気がしない。
(この野郎、寝ながらまた……魔力を高めやがった!)
「カタストロ様っ!お会いしたかったですっ!」
「ははは、相変わらずエングリマは可愛らしいな」
「おいこら待てっ!何起きて早々にそいつばっかり撫で回してっ……」
カタストロフィに抱き付くエングリマ。彼はこの億年寝太郎に頭を撫でられ、甘えている。野心の欠片もないこんなのが自分の片割れかと思うと、反吐が出る。ティモリアはいちゃつく二人を睨んだ。しかし久しぶりの再会である二人は此方の話を聞いていない。
「む?下着を穿いていないじゃないかエングリマ!私はお前をそんな子に育てた覚えはありません!」
「こ、これはエペンヴァさんに僕のぱんつを盗まれて」
「……エペンヴァ。そこに座りなさい」
魔力を滾らせているのか、カタストロフィの髪の色がみるみる鮮やかな赤になる。これには敵わないとあの変態第六領主は逃げ腰だ。しかしこんな時でも甘いのがあの馬鹿、エングリマという偽善者もとい偽善悪魔だ。
「カタストロ様、エペンヴァさんは暴走しては居ましたが、一応……あの」
「人の弱みに付け込み、無体を働こうとは、悪魔の風上にも置けん!」
「いや、まぁ普通悪魔ってそういう者なんですがねぇ」
「偶数領主の皆様は随分と変わり者が多いですわね」
「アムニシア嬢、その変人に私まで入れた理由は?」
「うふふふふ」
「第六領主っ!エングリマの優しさに感謝しろ。今度この子に指一本でも触れてみろ。その瞬間がお前の命日だと思え!とりあえずエングリマ、私の下着を与えるからそれを穿きなさい」
「え?」
「いい加減にしろこの変態っ!何時まで俺を無視する気だっ!!」
「ん?ああ、ティモリアか。大きくなったな。見違えるようでお前だと気付かなかったよ」
「え?お、俺が成長したって?」
「ああ、本当に……立派になって」
思いがけない言葉に、俺の胸が高鳴った。いや、俺にそう言う趣味は無いんだって。俺は女だけど女じゃねぇんだ!俺様は男なんだ!いつか本物の男悪魔になるんだ!
(でも、こいつからこんな認められるようなこと言われるなんて……)
少し嬉しいな。そう思って苦笑した先、視線が合わない。この億年寝太郎は違うところを見ている。視線は随分ずれていて……
「おい、クソ野郎」
ティモリアは怒気を孕んだ声を出す。
「なんだい?」
視線をその場所から逸らさぬまま、立派になってばかりを繰り返すカタストロフィ。こいつに邪気はない。存在自体は高齢者でも、精神の清廉度ではこいつが一番綺麗で幼い。本当に感心しているんだ、純粋に……このティモリア様のダイナマイトボディ改め、ロリ巨乳っていう俺のコンプレックスたる女体その物にっ!
「俺の胸ばっか見てんじゃねぇよ死ね変態っ!!」
「ははははは!相変わらずティモリアは照れ屋だなぁ」
本気で殴りかかっても痛くも痒くもないらしい。微笑ましいなぁと奴は笑って俺様のことまで抱きしめる。
「お前も無茶をしていただろう。怪我はないか?ティモリア」
「だ、抱き付くなっ!は、離せ変態っ!何時までも俺様を子供扱いしてんじゃねぇ!」
「そうか、元気そうだ。それじゃあ今日は三人で川の字になって寝ようか。アムニシア、布団を三人分借りられるだろうか?」
俺とエングリマに会って機嫌を直したのか、カタストロフィは鼻歌交じりにそんな事を口にする。隙あらばまた眠るつもりだ。そうはさせるか。そう思ったのは勿論、ティモリアだけではなかった。
「それは出来ませんわカタストロフ様。ここは私の力が侵食してきたとはいえ、イストリアの支配する世界の中。ここにずっと我々が捕らわれているわけにはいきません。それでは地獄の統治もままなりませんわ」
そうなれば、悪魔達は統率を失い、烏合の衆となり限度を忘れ魂を狩る。そして魂を刈り尽くし、数多の世界を滅ぼすだろう。悪魔の仕事とは生かさず殺さず、或いは生かして殺すが必要なのに。
地獄にとって魔王達は生ける法。絶対に必要な物なのだというアムニシア。
「ならばここから出せ。私が目覚めれば被害は最小限で済む。この世界一つと引き替えに、我々はここから脱出できる」
「だ、駄目です!ここにはっ……カロンさんがっ!シエロさんにアルバさんがっ!」
「ああ!勝手なことを言うなカタストロフ!お前に滅ぼされたら殆どの魂が消滅するぞ!?その時点でどろっどろの魔力に溶けてお前に換算されるじゃねぇか!俺らの契約とか全部パーになるっ!つーか、俺のマイナスを殺す気か!?」
「駄目か?」
それが一番手っ取り早いのにと言う育て親に、ティモリアは思い切り噛み付いた。
「ああ、駄目だ駄目だ駄目だめだっ!」
「ええ!僕らのためにそんな大勢殺すわけにはいきません!」
珍しく片割れと気が合った。ティモリアとエングリマが気まずい様子で沈黙していると、カタストロフィはにたにたと笑みを溢す。
「そうか、おまえ達の意見が合うのは何億年ぶりだろう?そんなことを言われたら、面倒臭いが聞いてあげないわけにはいかないか」
俺としては不本意だ。
ティモリアがそれを訴えても聞く耳を持たない。そして奴はくるりとアムニシアの方を振り向く。その先では嫌そうな顔をしたエフィアル……その肩から顔を出しているアムニシアが様子を見ていた。
「アムニシア、ここに六人の魔王が居ると言うことはあれを使う気か?」
「ええ。彼女を弱体化させ、我々をこの本から解放させるのです。こんなことを暇つぶしで起こされていては、地獄の支配もままなりません。その度に貴方もこんな風に呼び出されるのは嫌でしょう?」
なら協力しなさいと、アムニシアは言う。暫し考え込むよう沈黙を貫くカタストロフ。しかしやがて……
「事情は分かった」
カタストロフの野郎は頷いた。そのままこくりと睡魔に襲われそうになりながら。この野郎、今寝てたな。目を開けて寝てやがったな。俺は奴の脇腹を肘でど突いた。
それでも奴は痛くも無さそうに、腹を撫で、その後に「こら」と甘い口調で俺の頬に触れる。そのままちょっと頬を抓ってすぐ離す。舐められてる。この俺をまだ子供扱いしてやがる。
(くそっ!)
離れようと暴れるが、やっぱり奴は俺を放さない。この変態の、川の字計画は未だ続行中らしい。さっさと揉め事解決して眠ろうと、奴は何時になく凛々しい顔つきで物騒事を口にする。
「そうだな、つまり手っ取り早く私が目覚めればいい」
「解っていただけていないようですわね」
アムニシアの方は微笑んではいるが、苛々とした様子で暗に殺意を飛ばしている。この馬鹿は今まで何を見聞きしていたんだと、こめかみをぴくぴくさせながら。いい加減、アムニシアも限界に近そうだな、ありゃ。そんなところにこの馬鹿、また余計なことを……
「ええと、それで……誰だっけ?」
「あ、アムニシアですわ!第三領主のっ!」
「ああ、しばらく見ない間に大きくなったな。前に会った時はまだ君も子供悪魔で……まだ可愛げが」
ついさっきまで普通に話していたのに、アムニシアのこともう忘れたのか。さっきうとうとしてた時に、こいつ一瞬記憶飛んだな。また最初から説明しなきゃならないことに、アムニシアだけじゃねぇ。俺達全員ボケ老人の無限ループを相手にしているような苦痛に苛まれ、皆苦い顔つきになる。
「やや、これはエングリマ!相変わらず小さくて可愛い!」
「か、カタストロフ様……あの、ええと」
「今日は一緒に寝よう。たまにはそういうのも良いな。ぐっすりと良い夢が見られそうだ」
「おい」
「あれ?あ、ティモリアも居たのか」
「居たってなんだ!お前が俺を放さないんじゃねぇか!離せっ!」
「よし、今日は川の字で眠ろう。アムニシア嬢、布団をお借り……ぐぅ」
「いい加減になさって下さいカタストロフィ様っ!」
「む?ここは……ああ、アムニシア嬢か。大きくなって。綺麗になったな……だが昔の方が可愛らしかった」
いや、あの野郎寝起きってだけじゃねぇな。ボケ始まってるんじゃねぇの?だったら俺に第二領地譲ればいいのに。いや、その内実力であんた殺して奪うけど。
(だけど、本当にこいつ怖い)
あのアムニシア相手にこんなことよく言えるな。裏返しの何でもありの悪魔を前にして置きながら、全く臆さない。小娘なんか相手にならないって言うのか?
(いや、そうかもしれない)
悔しいが、この悪魔が地獄最強。アムニシアもトリアも何でもありの能力者だが、限界はある。カタストロフの馬鹿は魔力量が半端ねぇ。あいつらの何でも有りを片っ端からぶっ壊す。持久戦なら確実にカタストロフの阿呆が勝つ。
「カタストロフって悪魔は存在しませんでした。いた気がする?それ夢です」ってアムニシアが裏返しても、「んなわけあるか!」と奴は嘘を破って現れる。
俺とエングリマが今日まで魔王やって来られたのは、奴の七光り……その否定は出来ない。俺達はまだ子供悪魔だ。俺達に下克上仕掛けてこようとする馬鹿が居てもおかしくはない。でもそんな馬鹿があんまりいないのは、俺達の実力以上に、カタストロフの逆鱗を恐れてなんだ。エペンヴァとか言う変態は、あれでも自重してるんだ。もっと手段選ばずやってれば聡明な俺は兎も角、お人好しのエングリマは何回だって食われてるはずだぜ。
しかしアムニシアもめげない。兄に腕を絡ませて、胸を押し当て上目遣いだ。外見と身体だけならいい女なのに、迫られてエフィアルがドン引きするのは主にあの女の性格が災いしている。
「あら?今だって可愛いですわよね?ね!兄様っ?」
「……(そうだろうか?)」
「小声で今、可愛いって言いましたね!きゃっ!目を逸らすなんて兄様の方が可愛らしいですわっ!」
馬鹿兄妹の漫才に、寝起きで苛々しているあの野郎は舌打ちをして眼飛ばす。エングリマの野郎はあいつが優しいとかほざいているが、寝起きが人の本性だと思う派の俺としてはそれは否定すべきだと思う。
(関わるの、やめとこ)
ティモリアは遠巻きに、その騒動を見守る。
あいつら馬鹿そうに見えても地獄のトップスリーなんだ。俺じゃまだ勝てねぇ。掟破りで弱体化している今、とばっちりの攻撃でも受けたら本当に死にかねない。
「……ぐぅ」
「あ、カタストロフ様!」
「おい、アムニシア。こいつ寝ちまったぞ」
エングリマの呼びかけも無駄。仕方ないとティモリアが抓っても叩いても起きない。
(俺の超絶テクの足技で下半身踏みつけても反応しねぇか。このED野郎が)
これは完全に寝てやがるな。そう結論づけてティモリアはアムニシアに告げる。
「こいつ、もう本の中に行ったんじゃねぇの?ぶっ壊しに」
*
物語の悪魔
「げほっ!ごほっ!がはっ!
な、何だこのとんでもない魔力の気配っ!
このろくでもない桁数っ!あの男が!?
え?嘘っ!?マジか!?
あいつが起きるなんて天変地異の前触れだっ!
使い魔!なんで連絡しなか……使い、魔?
おい!返事をしろ!」
*
女でもない癖に、女でもない癖に。その言葉がやけに胸に刺さる。
そんな資格無いのよ。産めるはずないのよ。お前は男なんだから。だから死なせてしまったんだ。そう、言われているような気がして辛い。
ドリスの去った部屋の中、シエロは虚ろに横たわる。昼が夜になるまでの時の流れも、長く短く感じられた。
(僕は……)
一人だ。一人になってしまった。今朝まで感じていた鼓動が今はない。代わりに逸り、落ち着かない自分の鼓動だけが響く。胸騒ぎがする。おかしいことばかりが起きる。
シャロンもドリスも生きている。それでも頼りの悪魔がいない。丸腰のまま魔王に対抗できるはずがない。それでも黙って唯、弄ばれるわけにはいかないのだと、シエロは思う。
(シャロン……カロン君)
明日になれば、きっと良くないことが起きる。悪魔の脚本の魔の手から逃れるためにはどうすればいい?シエロはそれを考えていた。
足を繋いだ鎖は、身投げできないように室内の柱と繋がれている。室内には武器らしい物は何もなく、縛めを解くことは出来ない。そもそも、両手も縛られていて自由が利かない。自分に出来ることは明日を待つか眠ることだけ。
それでもここは昨日までの部屋とは違う。窓の外にバルコニーがある。鎖を引っ張ればギリギリ届きそうな距離。
そこから見える真っ青な海。遙かな水平線……あの下に海神がいるのだろうか?
(二人に分かれたウンディーネ。貴方は明日、どちらの肩を持つ?)
どちらを選んでも、それは間違い。どちらも幸せになれなければ……海神の怒りが街を襲うだろう。
(シャロン……)
君は人のために歌姫になった。君は空虚で……常に満たされない心を持ち、所有欲が強いところはあったけど、良い子だったんだ。だから、人のために君は歌姫になった。
そこで君は自分の幸せも欲しくなってしまっただけなんだ。僕は自惚れていた。僕なら君を幸せに出来ると思い上がっていた。
(君を嫌ったことはない。何をされたって僕は……)
それでも僕は君以上に、彼を好きになってしまった。それが罪だと言うのなら、僕はどんな罰でも受け入れる。それでも君のやり方は卑怯だ。そして……悲しすぎる。君が本当に欲しいのは、そんな物だったのかい?
(僕の歌には力があると、悪魔達が言っていた)
歌うまで、契約を迫られたりしなかった。つまり僕の歌には意味がある。雨を降らせるだけじゃない。僕の歌がウンディーネの血を色濃く映しているのは間違いない。ならば何か出来ないか?終わらせられないか?明日がやって来る前に。
(海神よ……)
貴方も海神の娘達の父ならば、誰かを愛する意味を知っているはず。貴方はずっと一人だけを愛したか?違うだろう。心変わりは生きること。変わらない人間など居ないのだ。それを開き直りだと罰するならば、貴方は人の心を魂を持たざる神だ。冷たい神だ。貴方が犯したその罪を、人には罪だと罰するか。
(僕を裁くのは貴方じゃない。僕を裁いていいのは……シャロンなんだ)
我が子を失うのは辛い。悲しい。その痛みを僕は知った。貴方に共感する。涙が止まらない。それでも、でも……海神。
ウンディーネは死んだ。そこで貴方の神話は終わったんだよ。人の世は人の世として巡り続ける。ウンディーネは普通の人間に生まれ変わったんだ。もう貴方が干渉して良いことじゃない。それなのに海よ、貴方は何をそんなに嘆くのか。誰をそんなに憎むのか。呪う必要なんてない。
僕も祈るよ。僕が消してしまった灯火が、せめて魂だけでも巡り巡って……どこかで生まれ変わって、今度こそ。生まれて幸せになれるようにと心から。そして……もう一つ僕は祈りたい。
(シャロン……)
僕は君を傷付けた。本当にすまないと思っている。まだ償い足りないなら何をされても構わない。
ねぇ、シャロン。君は罪を犯した。だけど、僕も同罪だ。今日、僕は人殺しになった。
だから僕は君を責められない。
それにね、シャロン。僕は君が不幸になればいいと思ったことは一度もない。これからもそうであればいいと思う。僕は君の幸せを祈りたい。だから僕が祈れるように……僕が君を憎まずに済むようにカロン君だけは、……これ以上、誰も傷付けないで。
どんなに願って祈っても。それでもこの声は、彼女に届かないのだろう。それなら別の手段を考える。
(海神よ……僕は貴方と話がしたい)
シャロンの思考は前世を重く引き摺っている。海に縛られているのかもしれない。ならば海神との対話が、シャロンとの対話に何か繋がる可能性はある。
声は出ない。それでもシエロは歌う。
《 愛することは責められない 愛する者は責められない
愛することは責められない 私が歌える奇跡
戦ぐ風揺れる波 貴方が生まれたのは
愛する二人が何処かにいたから
蒼い空碧い海 貴方が生きているのは
古の過去にも 愛が歌うから
私の名は海神の娘 聞けよ今宵の海風
私の姿は貴方の 愛した娘ではないけど
愛しい人と歩けば 私の足は痛むの
見下ろすこの街並みが 私の罪を歌うわ
貴方が今宵、百の民 海の底に沈めるなら
私は明日身籠もって 二百の母になりましょう
貴方が明日、あの人を 高い波で攫うなら
私は身を投げ出そう 海原の柱になりましょう
私の名は海神の娘 聞けよ今宵の波風
娘より今母になり 守ろう私の子らを
我が名はウンディーネ 海帝の歌姫 》
歌えない歌を歌った。それで何が変わった?
外の海は静かだ。誰の声も聞こえない。衣装も歌もある。それでも呼び出せない。
(やっぱり、駄目か)
シャロンに知られることがないように、歌詞は変えて歌った。それでも旋律は同じだ。心が届いたのなら呼び出せたはず。だけど呼び出せない。
海神の歌姫。人魚の資格が僕にはないのだと、シエロは肩を落とす。そこで直ぐ傍らに何者かの気配を感じ、シエロは振り向く。
(第一領主様?)
気配の先には立派な角の、長い髪の悪魔がいる。だけどじっと見る内に、表情が全く違うと言うことに気付く。
「……」
(貴方は、誰?)
「……今の歌は、何だ?」
(は、い?)
質問をされている。相手が何かも解らない。答えて良いのだろうか?
シエロが惑い、よく分からない内に、相手は歌を褒めてくる。
「綺麗な歌声だ」
(あ、ありがとうございます)
ぺこりと一礼して顔を上げれば、悪魔が近付いてきていた。敵意は感じられない。
「美しいな」
(は……?)
「とても澄んだ、魂だ」
(ええと、どうも……)
「罪深い人間よ。愛のために、命を投げ出すか」
(え、えっと……これはそういう歌詞の歌で)
「……愛した者と、愛する者。どちらも大切。殺し合わせたくなどない。その気持ち、よく伝わった」
悪魔は同情するように、優しい声でそう告げる。歌に込めた心を完全に読まれていた。
(そんな、綺麗な気持ちじゃありません。僕は……)
僕は今、カロン君を愛している。
シャロンとカロン君。残るのがどちらであれ、僕は今ある愛を守りたい。僕の心に灯ったこの気持ちを信じたい。しかし、一度心変わりをした僕だ。シャロンを裏切った僕だ。僕は僕を信じられない。何時か僕は彼を捨てるのではないか?
(そうなるくらいならいっそ……僕が死ねば良い)
二人は同時に失う。争わずに済む。僕さえ居なければ良かった。最初から僕が居なければ、こんな事件起こらなかった。僕が悪いんだ。
この悪魔が味方だって保証はない。それなのに、得体の知れない相手の前で弱った姿を晒してしまう。恥ずかしいと言うより情けない。そう思っても涙は勝手にあふれ出る。
(僕も、人殺し……だから)
腹に触れて、シエロは嘆く。もう、いないのだ。
今更どうして思えるだろう?自分はもう、自分が幸せになって良いとは思えなくなった。
「まだ生まれもしない子の死を嘆くか?」
「……っ!」
ふるふると首を横に振る。存在しなかったんじゃない。居たのに殺してしまったのだ。
この衣装を着ていると苦しい。これは歴代人魚が、母になった娘達が纏った衣装。シャロンを撒くために、僕は宿った命を殺してしまった。まだ生まれても生きてもいなかったかもしれない。でも、魂の温かさを感じていたんだ。無から有になる温かさ。呪いが解けるような幸福を。
「……これがエングリマの認めた人間、か。……そうだな、確かに勿体ない」
(この人、第四領主様を……エングリマさんを知っている!?)
貴方は誰?そう問いかけた所で、男は微笑み姿を消した。
続編である『終末のカタストロフ』への伏線を配置するため、シエロとカタストロを出会わせる。
シュリーとフォルテは、『海神の歌姫』に出ている魂なのでその辺上手い具合に仕上げたいです。
ラスト1日!頑張ろう。