39:人魚の涙
終末の悪魔
「……ここは、領地か。ならば世界が一つ壊れた。私の目覚めで、世界が壊れた。
あの夢は終わった。ならば彼も目覚めているだろう。世界とは概してそういう物だ」
*
(夢……)
目覚めと共に、カロンは気付く。頬を伝っている涙。
これまで思い出せなかった前世の記憶。それが確かに自分の物であると認めざるを得ない。そのくらい、胸が痛む。この涙の理由に共感できる。
(俺は……)
あのウンディーネは、大切な友達を手に入れた。だけど結局運命の人には出会えなかった。
(俺の友達……)
今の俺にとって、彼女に代わる人はオボロスだろうか?あいつも俺とシャロンを心配して、空まで来てくれた。それなのにどうして、すれ違ってしまったのだろう。
オボロスがシエロを悪くさえ言わなければ俺だって、あんな風には言わなかった。もう死んだ人間とはいえ、オボロスに根も葉もない悪評を植え付けた歌姫ドリスが憎くて堪らない。
(ああ、そうだ。それなら……前の俺、ウンディーネは)
前世の俺は、シャロンもシエロも居なかった。あの頃のウンディーネには、友達しか居なかった。それなら俺がオボロスを思っている以上に、ウンディーネはベルタが大切だったはず。そう思えば、今の今まで彼女のことを忘れていたことが酷く、申し訳なく思えた。
(俺がオボロスを忘れるようなもんか。それも……シャロンに出会っておかしくなる前の。出会った頃のオボロスを)
あの頃の俺とあいつなら、今以上の親友になれていたと思う。今の俺とあいつの関係は、シャロンの登場によりシャロンありきの関係になってしまった。それさえなければ、俺はもっと悩んだだろう。シエロを悪く言うオボロスに、あんな強い口調で物は言えなかった。そうに違いない。
だけど現実として俺達はシャロンありきの関係……それでも。友達だったのは事実。俺は空に来るまで、シエロと会うまで。誰かを愛する意味も知らずに生きていた。シャロンのために身を削って生きてきただけ。それさえ、仕組まれた愛情。一種の強迫観念、間違った罪悪感。
両親も妹も居ない家。下町で一人きりで暮らしていくのはとても寂しい。船乗りになりなかなか帰ってこない友人。それでも久々に会えれば楽しかった。あいつの存在は支えだった。馬鹿な話で笑い合ったりさ。あいつの土産の品や話は俺にとっても新鮮で……そうだな、楽しかったよ。
だけど俺はシエロに出会って、変わっていった。自分でも戸惑うことばかり。それでも俺はあの人を、どうしても失えない。誰にも渡したくない。そういう強い思いに支配されている。これまで大切にしていたはずの物。その全てを捨てて壊しても良い。そんな風におかしくなる程、あの人のことばかり考えている。
優しげで穏やかな普段の様子からは想像できないほど、シャロンを失い復讐に燃えていた暗い色の瞳。あの危なげな様子に胸が締め付けられた。
大事な妹をそこまで思ってくれてありがとう?そうじゃない。俺はシャロンが羨ましかった。俺には誰もいないのに、シャロンにはシエロが居た。俺とシャロンのどこが違う?どうして俺を愛してくれないんだ?俺はそう叫いていたんだ。
俺はあの目が欲しかった。その心も欲しかった。そうしたら……あの人の全てが欲しくなった。
俺の執着。俺はそれを、前世だの前々世からの縁なのだとは思わない。俺の心は今生きている俺自身の物。だってシエロは俺の前世にも前々世にも存在しなかったんだから。
そう思うと尚のこと、シエロが愛おしい。俺はシエロを失いたくない。でも、誰にも渡したくない。
(シエロ……)
今すぐにでもお前に会いたい。ちょっと前の俺なら考えられないくらい。下町で暮らしていた俺はお前のことなんか知らずに、それでも生きていられたなんて……今じゃ信じられないよ。だって今、こんなにお前が足りないんだ。
「俺……どうすればいいんだろ」
窓から差し込む朝の日差しにカロンは一度起き上がり、それでも再びベッドに倒れ込む。その顔を心配そうに覗き込むのは第四領主、エングリマ。その髪の色にさえシエロを思い起こして、溜息を吐いてしまう。過去の夢を見せられた。思い出した。だけど、躊躇いが消えたわけじゃない。
(シエロ……)
お前を疑う訳じゃない。それでも思ってしまうんだ。今更のように。
お前が俺を恐れたように、俺がお前を恐れている。俺に手を伸ばされることを恐れたお前は、シャロンを裏切ることで……いつか自分が俺をも裏切る人間になってしまうのだと嘆いていた。どんなに俺を愛していても俺を求めないことをお前は望んだ。でもそれは俺が嫌だった。俺はシエロからの確かな答え……その形が欲しかった。
「ベルタ……か」
夢の中でウンディーネを貪り食らったあの娘。泣きながらも彼女は笑っていた。愛しい人を自分だけの物にする。その愛は手に入らなくとも、もう誰にも奪われない形にする。それでもその人の力が永い時を与えてくれる。彼女にとってその時間とは、どんな物だったんだろう?
(もしシエロが……)
俺とシエロが踊らせられたまま、シャロンの復讐を果たすか諦めるかして……その先シエロが後を追って自殺でもしたとして。残される俺はどう思う?俺も死ぬ?そうじゃない。きっとベルタのようにその肉を食らっただろう。美しい人が死に奪われて行くのを見るに見かねて、自分の中に留めようとするだろう。死ねない時間は彼と生きているような感覚?自分の中に彼が居てくれるようで、きっと嬉しい。
(いや、そうじゃない)
カロンは何か引っかかる物を感じて、傍らの悪魔に声を投げかける。
「なぁ、エングリマ。悪魔はどのくらい生きるんだ?それは……永遠みたいなものなのか?」
「そうですね。基本的には魔力が無くならない限り、死なないと思います」
何千万年も何百億も何十兆年も何京年も生きる存在。俺達人間からすれば、十分彼らは永遠側に属している。少年悪魔の答えに、カロンは目眩すら感じてしまう。
「じゃあもし、普通の人間が永く生きすぎてしまったら……、彼らはどうなってしまうと思う?エングリマはそういうの、見てきたことはあるのか?」
「ええと……それは」
少年悪魔は言いにくそうな顔で、しばし口籠もる。悪魔はその後、質問で返答を返して来る。それはイストリアが定めた推理小説のタブーに触れないか。それを考えてのことだったのか?
「それはアルバさんのことですか?」
「勿論そうだ。でも……それだけじゃない」
「…………」
エングリマが答え辛い。それはこの物語の軸に関わる情報だから?
「永遠は、人には過ぎた毒だと……そう思います」
少年悪魔がやっと絞り出した答えはそんなものだった。自分の考えを述べるくらいならば問題ないとの判断か。
「人を生き存えさせる術を、神や悪魔がもたらしても……人の心は永遠を知らずに作られています。知ることがないように作られています。永遠に耐えられる人間はまずいません。みんな……歪んでしまって、価値観が逸脱し出します。中にはその内に、悪魔として地獄に招かれてしまう方もいらっしゃいますね」
客観的な情報、よくある話として彼は言う。しかしその言葉からも、感じ取れる物がある。
地獄に招かれるのは、悪魔だけではない。多くは魂として、契約者達は招かれる。
(そうだ、悪魔には、俺達人間が見えない物が見える。例えば……魂)
エングリマは俺を見て、人魚の魂を言い当てた。つまり彼には前世も前々世も見えている。それを一々言い当て教えてくれないのは、既にもたらされた情報以外を教えるのは、きっとこの本に定められたタブーなのだ。そりゃそうだ。一応これは推理小説なんだから。容疑者達の前世を勝手にペラペラ教えられたら推理どころの話じゃなくなる。
(だから俺が気付かなきゃ駄目なんだ)
幸いなことに、協力的なこの悪魔は天然だ。本人にそのつもりはないのだろうが、今の態度が与えてくれる情報もあった。話の根に触れている感覚を、カロンは今確かに感じている。
エングリマがこの世界に現れたのは、シエロがマイナスに捕まった時だと聞いた。エングリマが直接見た人間……それは俺とアルバとシエロ以外に、歌姫マイナス。エペンヴァの使い魔が見た分は、エングリマは見ていない。
だけど、アルセイド邸でナルキスを見ている。リラの襲撃時もいた……ってことはメリアとオボロスのことも見た。シエロが殿下に攫われる時も居たのだから、イリオン殿下とその手下達のことも直接見た。シエロの両親も見ている。
(となると……)
エングリマが直接見ていない人間は、歌姫エコー、歌姫ドリス、歌姫シレナ、歌姫シャロン。エコーはフルトブラント、シャロンはウンディーネ。シレナはベルタルダかもしれないがもう死んだ。ドリスももう死んだ。
(当てはまる人間が居ない……)
それなら俺の考え過ぎか?
(ベルタ……って子は、もう死んだのか?)
俺の前世の親友。そう考えるならもしかしてオボロスの前世が……とか?
それでもそれは、何かが違うとカロンは思う。
(オボロスは……ドリスに色々吹き込まれておかしくなったが、本当に良い奴なんだ。唯……良い奴過ぎたんだ)
喧嘩をしてしまったこと。多分もう仲直りは出来ない。そう思うと少しは悲しい。
夢の中の少女は、言っていることは健気だった。それでも……何かやっぱり引っかかる。オボロスとは違うのだ。
オボロスがベルタなら、オボロスはウンディーネを食わない。きっと優しいあいつのことだ。きちんと埋めて埋葬して、死ぬまで墓守をしてくれたくらいだろう。でも、ベルタは食った。ウンディーネの肉を食らった。それは相手を思いやる愛ではなく、自分を愛する心から。
(いや、人のことは言えないか)
きっとそうしてしまうと思った俺も、シエロを綺麗なだけの心で愛せては居ないのだ。あいつを愛すれば愛するほどに、俺は汚い心、狡くて醜い心を抱え込んで行く。それが人間の業、なのだろうか?
ウンディーネは愛しい人を愛した。でも人間である俺は、俺がシエロに愛して欲しい。俺の本質は、シャロンとそう……変わらないのかも知れない。シエロが俺を好きでいてくれるからまだ、こうしていられるだけで。もしシエロが心まで俺を裏切ったなら……俺はシエロを今度は躊躇わずに殺してしまう。殺せてしまう。
(でも……)
それだけ歪んでしまった人間が、伸びた寿命を無事に全うできたとは思えないのだ。俺だってもう悪魔と契約している。もっと長い時間を狂気に囚われたあの少女は、人として死ねたのだろうか?
自分の最悪の未来。それを夢の中の彼女を重ねて、シンクロさせて考える。シエロを失い永遠を手に入れた俺は、その時何を考えるだろう。その時自分の力が足りないならば、悪魔の囁きに必ずや耳を貸す時が来る。
「エングリマ。おまえ達の所に……ベルタって悪魔はいないか?」
「ベルタ……ですか?うーん……聞いたことありませんね」
少年悪魔はすぐにそう答えてくれた。その様子から見るに、本心のよう。本当に彼は知らないようだ。なら、彼女の魂は今地獄にはないと言うこと。
しかし愛する人を食らっておいて「私凄く善人っ!」なんて気持ちで昇天できる物だろうか?その時点で狂っているよ。そんな人間が天国に行ったなんて信じたくない。死んだのならば彼女は絶対地獄にいると思うのだが。悪魔に食われて魂が消化され、消滅してしまったと考えるのが妥当なところ?
唸るカロンに、エングリマは軽い調子で言葉を紡ぐ。
「でも、いたとしても無意味ですよ。悪魔は悪魔になった時、新たな名前を手に入れますから。僕だって悪魔として生まれる前は、別の名前がありました」
「え!?そうなのか?っていうか、生まれる……!?さっき招かれるって……」
「悪魔の誕生には幾つかの方法があるんです」
「一つは、生前積み重ねた悪徳が認められて死後……その魂が悪魔に転化する“転生発生”。次に、悪魔と結婚し……離婚時に悪魔に名前を与えられることで悪魔になれる“名前分け”。更に、生前人々に恐れられ悪魔と呼ばれ忌み嫌われることで悪魔にされてしまう、“神格化”。または魂を食らった悪魔が、取り込んだ魂に乗っ取られて支配されてしまうこと。これは“寄生発生”。それから……ええと、最初から悪魔として生を受けること。それは無や混沌から生まれたり、悪魔同士の結婚で生まれること。これはそのまま“誕生”と呼ばれていますね。後はオーソドックスな所で天に属する者が地獄に落ちて悪魔になるという“堕天”があります」
「へぇ、悪魔にも色々あるんだな……」
みんな最初から悪魔は悪魔から生まれる物だと思っていた。カロンが中でも意外だと思ったのは寄生発生という言葉。
「悪魔が人間なんかの魂に負けて、乗っ取られるってのも不思議だな」
「そうですね。自身の冠する悪徳に染まった魂。それを取り込むことで悪魔としての格を高める内に、僕らは自分が誰かを忘れてしまいそうになる」
食らった魂。それを従え滅ぼし自身の血肉にする器量。それが悪魔としての格。強い自我を絶えず保っていなければならない。だから悪魔達はあんなに個性が強くて自分勝手なのか。カロンは少し納得してしまう。それでも悲しそうな目をしている少年悪魔は、その例からはかなり外れた場所にいるようだ。
「僕やイストが魂を食べないのは……魔力摂取の方法が他にあるからだけじゃない。たぶん……自分を忘れたくないから」
「自分を、忘れたくない?」
「はい。誕生以外の方法で生まれた悪魔はみんな……そう思っているはずですよ?……あの、カロンさん。永遠を生きる者は、心に一つ愛を持っています。アルバさんがこれから頑張って生きようとするのも……シエロさんとの思い出がちゃんと残っているから。だから耐えられるんです」
アルバの長い寿命が幸せな時であるように。もしかしたらこの悪魔は俺達のためだけじゃない。それも願って、確率を上げてくれた?
目の前の少年悪魔は、悪魔なのに……本当に澄んだ心根をしている。エングリマは神格化からでも生まれた悪魔なのだろうか?本当に彼は不思議な悪魔だ。悪魔が愛についてを説くなんて。
「……愛?」
「ええ。その者が歪んでしまっても……その記憶だけは何時までも美しいまま。彼らは……いいえ僕らはそんな聖域を心の中に、最低一つは飼っているんです。イストのこの脚本趣味も、永遠を飼い慣らすための一つの手段なのかもしれません」
「他人を不幸にすることが、永遠と付き合う方法だって!?」
まさかあの諸悪の根源、慈悲の欠片もない性悪悪魔が何かを愛しているだって?とてもじゃないが信じられない。誰かを愛する心を持った存在が、あんな歪であるはずがない。多少なりとも愛により歪んでしまった俺でさえ、あいつはおかしいと断言できる。
カロンの憤りに当てられた同僚を少し哀れむように、少年悪魔は苦笑する。
「自分を愛する方法……なんだと思います」
永遠を生きる者の考えることを、瞬き一瞬程度の時を生きる人間が推し量ることなど出来ない。まともな人間には永遠など生きられないと、先程少年悪魔の口から出た言葉。永遠を生きる者は歪んでいる。彼はそう言っているにも等しい。
「僕にも、会いたい人が居る。あの人がいつか……何処かに生まれるのを僕は待って居るんです。その人への気持ちがあるから僕は……この永い時間も耐えられる。でもイストは……僕らの中でも古株です。無くしてしまった記憶も多いんじゃないかな。永遠って……辛いことも多いから」
だから自分を愛するようになったんだろう。哀れむように悲しい目で悪魔が目を伏せる。小さな嘆息の後、彼は再びカロンを向いた。
「イストは、愛すること傷付けることは慣れている。でも愛されることも傷付けられることも慣れていない。愛という物に彼女はとても脅えている。永遠なんてあり得ないと決めつけて。だから……幸せそうな二人を見ると不幸のどん底に突き落としてあげたくなる。彼女は何時か、そんなことを言っていました」
「そんな……無茶苦茶な」
イストリアという悪魔は、ハッピーエンドをぶっ壊すのが大好きなんだとか。趣味が悪いにも程がある。そんなことをするくらいなら、自分も恋人を作って好きなだけいちゃつけば良いだろう。
「エフィアルは、あの女のことが好きなのに。あいつだって……満更でも無さそうに見えたぞ?」
「カロンさん。イストも悪魔です。しかも魔王です。プライドがあるんですよ彼女には」
「プライド?」
「彼女は可愛い服が好き。だから女の姿で居るだけです」
「え?」
「大人の悪魔って基本的に両性です。エフィアル様もエペンヴァさんもアムニシアさんもイストもその気になればカタストロフ様だって、異性に変化出来ますよ」
「ええええええ!?」
何それ気持ち悪い。女のエペンヴァとか見たくない。そいつ明らかに胡散臭い結婚詐欺師の姉ちゃんみたいなオーラ醸し出しているに違いない。他の悪魔達だって、ちょっと第一印象が強すぎて、今更性別逆転した図が想像できない。
「だからイストは、自分を嫁にと言い出すエフィアル様が嫌いなんです。意外と繊細なんですイストって」
あの悪魔は女の姿の自分は好きでも、女として男に組み敷かれるのは性に合わない。常に自分が優位に立ち、相手を翻弄するのが好き。それが悪魔なのだと少年悪魔が説明する。
「って、あああああ!そうです!エフィアル様っ!カロンさん!エフィアル様が昨晩から何処か行ってしまったんです!」
「エフィアル?……あ、そう言えば」
すっかり忘れていた。夢の中でシエロと会って、そこからエフィアルと離れてしまった。てっきりシエロの方に付いているものだとばかり思っていたが。
「エペンヴァの使い魔から連絡は?」
「それが何も……付いているのは確かなんですが。エフィアル様からの連絡がありません。夢の中でアムニシアさんが何か仕掛けてきたと見るべきでしょう」
「くそっ……」
あんなんでも居ないと困る。エフィアルの確率変動。あれが此方から消えたなら、他の悪魔に太刀打ちできない。エングリマは良い悪魔だが、アムニシアやイストリアには勝てない。勝てるとしたらカタストロフとかいう悪魔が駆けつけた場合のみ。
「あのカタストロフって悪魔、来る気なさそうだったしな。自分の代わりにエペンヴァ殴っておいてくれなんて言ってたし」
「うう、カタストロフ様ったら……」
「仕方有りません。カロンさん。最後の最後……本当に困ったら僕に命令してください。僕がカタストロフ様を呼ぶ方法が、もう一つだけ有るかもしれません」
「それってどうすればいいんだ?」
「僕が、タブーに触れます」
「え!?」
「貴方にヒントを一つ残して、僕はイストの掟に背きます。そうすれば僕はたぶん危ない目に遭う。カタストロフ様が来てくれなければ間違いなく消滅して死にます」
笑って恐ろしいことを口にするエングリマ。そこまでして貰う義理はないとカロンは慌てふためくが、悪魔はくすくす笑うだけ。
「ふふ、カロンさんって優しいんですね。シエロさんが貴方を好きになるのも当然ですよ」
「だ、駄目だって!そんなこと、絶対に駄目だ!」
悪魔を使役する側が、悪魔のことを哀れむなんてと、少年悪魔は驚いたような口ぶりだ。消滅の危機に差し迫ることを話しているのにこの少年、いつものように取り乱しもしない。エペンヴァのセクハラ一つであんなに大泣きする子だとは思えない。彼は今、魔王としての風格、余裕の一端を見せているようだった。
契約者に祝福を。幸いを願うその姿。悪魔のルールに背いた彼は、ある意味悪魔の中で誰より悪名高い悪魔なのかも。そしてそのスタンス、それが彼なりのプライドなのか?
「そんなに心配していただかなくても大丈夫ですよ。カタストロフ様は優しい方です。今も起きてはいてくれます。解るんです」
「どうして……?」
信じ切ったその口調からは、厚い信頼が見て取れる。あんな面倒くさがりの悪魔を信じてこの子は大丈夫なのだろうか?カロンは少年悪魔のことが心配になる。
「あの方は眠ることで世界を作ります。いいえ……眠ることで一つの世界を支配します。あの方が夢に見た世界はその時点で、あの方が世界の心臓になります」
「……ええと、何だか素で恐ろしい悪魔だな」
「ええ。でも眠らずに永遠を過ごすのは辛いです。優しいあの方には、地獄でのいざこざはとても見るに堪えない物」
「だから、眠るのか?」
「はい。一度眠ったらあの方は長いこと目覚めません。そうしてその世界の中で何度も輪廻を繰り返し、人として生の旅をします」
それも一つの永遠との付き合い方なのだろうか?カロンにはよく分からない。
「何回も生まれて死ぬなんて、痛くないのか?」
「あの方にとってそれは夢ですから。痛くても、地獄にある本体には傷一つ付きませんよ」
「でも、痛いものは痛いんだろ?うわぁ……あの悪魔凄い奴だったんだな」
「凄いの基準が凄いですね、カロンさんは」
既に死を知っているらしい少年悪魔は、不思議そうにカロンを眺める。
「カタストロフ様は、目覚めれば地獄に帰られる。覚めた夢はどこへ行きますか?そうです、壊れて消えてしまいます。あの方がここに来ないのは、夢としてここに来てしまったら……僕らを連れ帰るためにここを夢に見て、ここから目覚める!つまり、この世界に暮らす人々を消滅させてしまうから」
ね、お優しい方でしょう?そう彼は惚れ惚れしているが、カロンにとってはそんな反応を示せるような相手ではなかった。あのぐうたら悪魔、恐ろしい!
「や、やっぱ来るな!そいつ来るなっ!」
「そんなに脅えられなくても……」
カタストロフ様お可哀相と、少年悪魔は苦笑する。
「でもカタストロフ様は、アムニシアさんと違って現の領地も持っています。ですからカタストロフ様ご自身が夢ではなく現実としてこの世界に来て下されば……この騒動は何とかなります」
そのための手段として、自分の命を人質に取るのだと彼は言う。
「そうだ。それとは別件なんですが、カロンさん……あの、今はエフィアルさんがいませんので……」
「えっと、そうだな。それが何か?」
「アルセイド邸へのお出かけの件なんですが」
少年悪魔が何か言いかけたところで、部屋をノックする者が居た。使用人ではない。扉の向こうから聞こえる声……あれはシエロの母親だ。
「シャロンちゃん、お客様よ」
「私にですか?こんな朝早くに?」
扉から顔を出し、対応してみれば確かにそれはシエロの母。横には連れの姿は見えないが……
「ええ、アルセイドのご兄妹が」
アルセイドならよくあること……なんだろうな。ナルキスは一応シエロの幼なじみ兼婚約者候補みたいなものだったんだから。慣れた様子でそれを伝える義母に礼を言い、仕度をしてから出向くと言うも、廊下を駆けてくる足音がある。言わずもがなエコーとナルキス。正確には、妹をおんぶしてやっている俺格好いい状態のナルキスと、彼に背負われているエコーの図。
「フルトブラント婦人、我々がここに来たのはくれぐれもご内密に。シエロを狙う輩に俺達は狙われている」
「まぁ!それは大変!貴方っ!」
珍しく焦った様子のナルキスの言葉に、おっとりしていたシエロ母も慌てて踵を返して行った。
「すまない、匿ってくれ」
そう言うや否や、室内に転がり込むアルセイド兄妹。迷惑と言えば迷惑ではあるのだが、助かったと言えば助かった。
(エングリマ、お前って良い奴だな)
カロンは付き添ってくれた悪魔にこっそり礼を言う。礼を言わずにいられる物か。
エフィアルがいない今、屋敷を離れるのは心配。それでもアルセイド家に行きたい。それならどうすればいい?そうだ、向こうから此方に出向いて貰えばいい。おそらく彼が確率変動をしてくれたのだろう。
(いえ、僕が確率を上げた結果だけではないみたいです)
カロンがエングリマからの返答に首を傾げる間もなく、ナルキスがわけを話し始める。
「つい先程だ。アルセイド家に城から兵が送られて来た。俺とエコーを城へ連行しようというのだから当然親父達は反発。その隙に逃げてきたと言うわけだ」
「身に覚えは?」
「美しさは罪と言うことか」
「なるほど、全裸で歩いた猥褻物陳列罪くらいしか心当たりはないわけだ」
エコーは前科が幾つかあるが、ナルキスに関してはそれ以外はまぁ無罪だろう。心当たりがあるはずもない。
「寝台、借りるぞ」
「ん、ああ」
病み上がりのエコーは、まだ熱があるらしく、息も荒い。ナルキスが彼女を寝台に降ろして寝かせると少し呼吸も楽になったよう。こうしてみると良い兄妹みたいに見えるんだけどな。今になってみれば、自分とシャロンに比べれば、随分増しな兄妹をこの二人はやっているようにも思える。
「……何だよ」
じっと此方に視線を向ける、エコーの視線にそう返せば……居心地悪そうに彼女が毛布を被って隠れてしまう。何だかいきなり女の子っぽい。思わず可愛いと思いかけたが、忘れちゃいけない。俺はこの女にとんでもないことをされたんだ。外見に騙されるな。いや、それを言うなら俺も初回はシエロにとんでもないことをしてしまったわけなんだけど。それはこの際置いておこう。
「それで、ナルキス。昨日のことなんだけど」
「ああ、これには違わず話して置いたが」
「……前世殺人、か」
少し此方を馬鹿にするような、呆れたような声が毛布の下からかけられる。
「確かに動機という意味でならそこまでおかしくはないけれど……その場合ドリスはどうなるの?」
「そ、それは……」
「彼女は貴方に執着していた。貴方、彼女にそれだけ慕われるようなこと、何かなさったの?」
「うっ……」
そうだ。そこなのだ。カロンは言葉を詰まらせる。
(歌姫ドリス、か)
彼女の言葉を信じるならば、俺とドリスは下町で会っている。その時俺は彼女を助けたらしいが全く覚えていない。
「一応、俺が津波の時に彼女を助けたらしいんだ」
「一応……?覚えていないの?」
「そんな緊急時、いちいち人の顔まで覚えてられるか?一人でも多く助けようと焦ってたんだから、そんなの全然覚えてないって」
「なるほどな。確かに俺も平均以下の顔はなかなか覚えられん。特徴のない醤油顔は覚えづらいな」
正直、ドリスの顔を思い出すのもやっとだと頷くナルキスは素で酷い。一緒にはされたくないが、彼女を死なせた俺もそれなりの外道だ。否定は出来ない。
「私が思うに……あの執念。とても今生だけのものだとは思えない」
「まさか……エコー!あの女にも前世の心当たりがあるのか?」
「そんなものはないわ。正直、ネレイードさんと一線越えたってだけでもショックなのに」
「歌姫シレナが言うなら兎も角……お前にショックを受ける権利はないと思うけどな、言いたいことは何となく解った」
シャロンと間違えてシレナや俺に手を出すくらいだ。エコーの猪突猛進ぶりには怒りを通り越して呆れてしまう。
「お前、オボロスに会ったらとりあえず一発殴られとけよ。俺は殴らないでおいてやるから」
「それ誰?それよりどういう意味かしら?どうせあの子中層街レベルの歌姫だもの、今更一回穢れたくらいで何だって言うのよ」
お高く留まったその言葉に、俺の中の何かが切れた。カロンはエコーを起き上がらせて、その頬を一発殴ってやった。
「前言撤回だ!俺も殴るがオボロスにも殴られろ!」
「……っ!?」
それまで静観していたナルキスも、慌てて二人の間に割り込んで、カロンからエコーを庇い立つ。
「一発ならば仕方ない。だが、それ以上やるのなら、今度は俺にして貰おうか?」
「兄さん……」
「ふっ……惚れるなよ?俺は格好いい男だが、近親相姦はなかなかの罪だぞ?」
「……馬鹿」
エコーが笑う。常に兄を馬鹿にしていた彼女が、前世に囚われていた彼女が……初めてエコーとして、ナルキスの妹として、彼への親しみを込めて苦笑した。
その顔はこれまでのエコーとはかなり違った印象だ。角が取れて丸くなった?今のエコーは、何だか普通の美少女のようにさえ見える。
「全部終わったら、シレナの墓参りには行けよ。あとシレナの家族は……無理だろうから、とりあえずオボロスに謝れ。何もなかったら……あいつらきっと、もっと仲良くなってたはずなんだ」
「……彼女はそうやって、僕とウンディーネの死後も……他の誰かを愛したんだろう。その程度の愛で……僕らをあいつは引き裂いた」
「エコー?」
その口ぶりから、シレナが貴婦人で間違いないのか。エコーは暗い憎念を感じさせる声で呟いている。生まれ変わった彼女は自分の罪を忘れて、他人に罪を押し付けたのか。
「ウンディーネの死後、僕がどうしたと思う!?法を整え国を整え、彼女との再会を夢見て僕は死んだ!僕は自害したんだ!それからずっと煉獄で罪を償う日々っ!僕は僕の罪をひたすらに責められてきたっ!これがどうして憎まずにいられる!?僕と彼女の誓いを破らせた女が、僕への愛を守れずにいたなんて……」
「あのさ。エコーとしてのあんたはどうなんだ?前世がどうとかじゃない。エコーはシャロンが好きだったんだろ?男としての愛し方じゃない。女としてお前はどうあいつを好きだったんだよ!?」
何が僕だ。彼女のそういう男視点の口調に腹が立つ。今はもうお前はエコーなのに。いつまでフルトブラントの顔をしているつもりなんだ。そうやって、今から逃げてどうするよ?
普通の女の子が、再び亡霊の姿を借りて語り出す。その様子に一度拳を納めたカロンも再び激昂!ナルキスに抑え込まれながらも、それでもエコーに叫び続ける。
「過去の記憶でシレナに辛く当たり、シャロンを愛そうとして。そうやって何が変わった?周りの人間を傷付けただけじゃないか!前世では辛い思いをしても、今度は三人で違う関係を築けたかも知れない。みんなで良い友達になれたかもしれないじゃないか!」
俺の前世は悲しんでいた。どうして三人で幸せになれなかったのかと。
大事な伴侶、大切な親友。どちらか一つなんて選べない。どちらも大切な人なのだ。そんな記憶を引き摺っていたのが前の俺。その気持ちが今にシンクロして、響く。
それがどうしてこんなことになったのか。当事者でもないのにカロンの言葉は熱くなり、目からは涙がぼろぼろ零れていた。泣きすぎて鼻水まで出てきたが、それでも言葉は止まらない。
ウンディーネは選べなかった。前の俺であるウンディーネは親友を選んだ。俺はウンディーネではないから、親友と伴侶なら伴侶を選んでしまう。生きてきた人生が別々なんだ。それは仕方ない。
俺にはシエロが居る。誰かを愛すること、愛されることがこんなに幸せなことだなんて思わなかった。だからこそ思う。死に引き裂かれたシレナが可哀相だ!オボロスに思いを打ち明けられなかった彼女が哀れだ!彼女は人魚じゃない。精霊じゃない。いろんな欲がある人間だったのに、自分の心を押し殺して……そうして殺されてしまった!こんなことがあって良いのか!?駄目だろそんなの!
オボロスだって、シャロンを想い続けても報われなかった。それなら自分を慕ってくれるシレナと幸せになっても良かったはずだ!むしろそうなるべきだった!シャロンなんて性悪女、オボロスには勿体ない!オボロスが勿体ない!
「あんたが今女として生まれたのは、男としての心を捨てるためだろ!?前に間違えた愛し方じゃない!今度こそ正しく愛してやるために、女の子の気持ちを理解できるように、あんたはエコーとして生まれたんじゃないのかよ!?それなのにっ、どうしてっ!どうして解ってやらなかったんだ!?どうしてなんだよ!!」
女の身体に男の心。前世の自分に支配され、間違った愛を引き継いだ。身体さえ奪えば心も手に入るなんて、馬鹿な考え。そんなの違う。絶対違う。先に心を手に入れなければ、それは心を殺す行為だ。
俺だってエコーに襲われた時は、傷付いた。それでも俺は立ち直れた。俺にはシエロが居てくれた。でも、歌姫シレナは……。
シレナの夢は本当にささやか。オボロスと一回、デートをしたい。それだけ。その夢だって、キスまでだ。キス一つに夢を見て、その夢を自分で壊す夢を見る。辛い仕事をしていても、日溜まりの夢を見ていたんだ。自分の身に起きたことを語る勇気がなかったのは、嫌われたくなかったから。幻滅されるのが恐ろしいと泣くほどに、彼女はあいつが好きだった。それなのにあの子は……何も出来なかったんだ。あの子が日記に残したあの夢は、何一つ叶うことなく消えたんだ。シレナ殺しとは何も関係ないけれど、この行き場のない悲しみから、俺がオボロス一発ぶん殴りたくなって来た。
「あんたも前世に振り回されるのはいい加減にしろよ!それで今を見失ってどうするんだ?」
「今……だって?」
エコーの肩が震え出す。ナルキスに両腕を取られたカロンに向かって、彼女は何度も枕を叩き付けて打ってくる。埃に咳き込む此方などお構いなしに、彼女は声を張り上げた。
「愛しているのにシャロンの偽者に二回も騙され抱いてしまったっ!命を狙われているあの子を助けてあげられなかった!シャロンを失望させてしまったっ!悲しませたっ!こんな私に今更どんな今があるって言うの!?」
怒りに彩られ……それでも嘆き泣く様は、力ない少女の瞳。転生前から引き継いだ罪悪感と後悔の記憶。彼女はわからないのだ。どこからどこまでが自分の心なのかがわからない。シャロンを愛しているのは自分なのか、前世の自分なのか。
「それを決めるのはエコー……お前自身だろ?友達が悪いことしているならどうする?一緒に荷担する?それとも止める?見て見ぬ振りか?どれだって自分で好きに選べばいい。唯、これだけは言っておく」
「俺はシエロが好きだ。シエロを傷付けたシャロンを、俺は許せない。俺からシエロを奪おうとするシャロンが許せない。だから俺はシャロンを殺す」
俺達は、三人で幸せになんかなれない。俺もシャロンももう海神の娘じゃない。人間として生まれた以上、二人で幸せになりたいのだ。
「シャロンが本当に好きならエコー。俺からシャロンを守って見せろ」
その気があるなら部屋から出て行け。そう告げ窓を指差してやるも、エコーは寝台から動かない。膝を抱えて座り込み、何やら必死に考え込んでいる。
「……よく、解らなくなってしまった」
そうして彼女が絞り出したのは、震える声。
「僕が愛したウンディーネは……シャロンとは違う。誰かをあんな風に傷付けたり、陥れる子じゃなかった」
「失望したのか?」
「ああ。フルトブラントとしての僕は。それでも……シャロンの歪みを見ても尚、彼女を愛しいと思う気持ちがある。それが僕の物なのか、私の物なのか……まだ解らないけれど」
シャロンが人殺しだと知っても、まだ好きなのだとエコーは語る。自分と前世との境界を、探るようなその声で。
「ここにいて良いのか?」
「もし、貴方がシャロンを殺すなら……傍にいた方が防げるわ」
「解った。勝手にしろ……ナルキス、その時お前はどっちに付くんだ?」
肝心なときに邪魔されては堪らない。いい加減放せと手を振り払いカロンが睨めば、複雑なトラウマ抱えの自己愛者が、ふうむと唸る。
「親友の幸せと、妹の幸せか……」
悲しいことにそのどちらにも彼自身の幸せは入っていない。彼もそれに気が付いたのか、自嘲気味に笑っていた。
「俺くらい大きな男は、そろそろ愛の枠を広げる時期か。そうだな、俺も一つ新しい夢でも追いかけようか」
城から追われたのは丁度いいと、ナルキスがほくそ笑む。
「国と民の幸せを願う男というのも、最高に格好良くはないか?」
「お前……」
「カロン、だったか。俺の親友をよろしく頼む。殿下などに奪われるなよ?」
平等にならなければいけないとは言え、エコーに何かあればあまりそちらの肩も持てないのでな。そう付け加えて男が苦笑。
「シエロとお前で海神と歌姫制度を何とかしてくれ。俺はイリオン辺りと決着を付け、華々しく玉座を勝ち取ってみようではないか!」
「兄さん……」
「良かったなエコー。これでお前は自由だ。荊道でも何でも突っ走るが良い!」
「……うん!」
エコーが笑う。俺も……きっとナルキスも初めて見た。何の翳りもない、心からの彼女の笑顔を。それから……こんな風に、穏やかに涙する彼女の姿を。
あの事件以降、やっとエコーとカロンが対面。