33:白い靴の告白
裏通りを通り、上層街から中層街へ。中層街の裏道を通り通り下層街へ。それだけ歩き回ってもメリアは現れない。
「おい、これはどういうことだ?」
痺れを切らしたのは第五領主である少女悪魔。それはカロン自身も聞きたいことだ。街を歩き回って早数時間。ここまで誘って仕掛けてこないのは妙だ。
代わりに手に入れたのは、シエロの裁判に関する噂。街の噂はそれで持ちきり。歌姫シレナの失踪と相成って、何故かの選定侯が裁判を?シレナ失踪に関わったのかとわいわいがやがや喧しい。
根も葉もない誹謗中傷にカロンは怒りを覚える。シャロンに嵌められたとは言え、シエロはシレナの事件の容疑者には成り得ない。シエロをよくも知らない人間が、シャロンを持ち上げシエロを貶す。人気の歌姫を恋人にしておいて、一人では満足できなかったのか他の歌姫に手を出そうとして、それが失敗して今回の事件になったのだとしたり顔で語る情報通ぶる連中の、顔面を一発ずつ思い切り殴って回りたい。が、そういうわけにもいかずカロンは俯いたまま歩みを勧める他にない。
「仮にも魔王三人で出会す確立を最大まで上げてるのにあの女現れねぇ」
「第五領主様」
少女悪魔に声を掛けたのはアルバ。
「第三領主様が貴方に接近した。しかし第二領主様の覚醒で、それはどうでもよくなった。そう仰りましたね?」
「ああ、言ったぜ」
「それはつまり貴方が第三領主様から協定を結ぶ必要がないと思われたということ」
「それがどうした?」
「あ、そっか!」
惚けた様子の少女悪魔にカロンは気付き、距離を置く。その反応にエングリマも身構える。
「ま、まさか」
「ははは、そう来たか」
若干怯えた様子の少年悪魔の傍らで、大凡の展開に気付いた青年悪魔はにたにた嗤う。
「お前がマイナスから離れると、マイナスは確立変動に守られることはなくなる。それはつまり、シャロンにアムニシアに狙われる可能性がある」
シャロンはマイナスを許すだろうか?見逃すだろうか?わからない。それでもこの悪魔が本当に第五領主なら、マイナスから離れるとは思いがたい。悪魔達はすぐに契約者を殺したがっているわけではない。求めるのは上質なる魂。その魂を成長させるために敢えてシエロを泳がせている変態もいる。ならばマイナスと契約したという悪魔ティモリア、彼女も出来る限りマイナスの魂を自分好みのより上質な魔力を生む物に育てたいはずだ。そんな相手を危険に晒す者が果たしているだろうか?
「つまり何か?俺がとんでもない失態を犯したとでも?」
「失態を犯したのは俺達だ。お前、第五領主じゃない。姿を現せ第三領主、アムニシア!」
「あらあら、もうお気づきになりましたの?可愛らしい歌姫さん?」
くすくすと笑いながらティモリアだった少女の姿が揺らぐ。そうしてその揺らぎは頭二つ分ほど少女の背を伸ばし、慎ましやかながら品のある出で立ちへと変貌。長く伸びた紫の髪、頭の翼は小さな角へと変わり、別の女が現れる。
「初めまして探偵歌姫。貴方のことはシャロンから常々……。それから先程ぶりですわね、各領主様方」
礼儀作法を感じさせる立ち振る舞いで女悪魔は一礼。貴婦人のような美しく可憐な少女。しかしその目の光は何かいい知れない恐ろしさを感じさせる。建前上最強に君臨する第一領主が恐れる程の女だ。夢と現を裏返すという、恐ろしき魔女。何しにここへ現れたのだろう。カロンは不意に不安に駆られる。そんな不安を和らげるためか、知りうる知識をさらけ出すアルバの言葉。
「……第一から第三領主は夢の領土を持つ。けれど第三領主がその地位に甘んずるのは、夢の中にしか領土を持てない悪魔だからに他ならない。その能力は非常に強力であり魅力的なものではあるが、裏返しの力は本来関わることが出来ない世界に関与するための力であり、それ以外の現には、常に夢を見ているような思いこみの強い妄想癖を持つ人間の現でしか視認できない。故に召喚者は何処かしら頭の螺子がぶっ飛んで居なければ召喚に成功することはない、或いは夢の中で契約するか。よって契約は困難を極め、召喚者の相性を選ぶ」
「まぁ、よくご存知ですのね。此方の世界に文献など殆どありませんでしょうに」
「ははは、我々の主はだねレディ。悪魔使いとしてはそこそこ優秀。下級悪魔から準に次々召喚使役し、我々の文献を得、召喚物を得、わらしべよろしくここまでやって来たのだ」
アルバの悪魔知識に小娘のように驚く第三領主。それを自分の手柄のように語るのが第六領主。
「ならばご存知のことでしょう。そこまで夢見がちではないはずのあなた方にもみえるなら、現であるはずの今の時間今の場所に私がこうしているのは何故か?世界の侵食は進み、裏と表が裏返りかけているのです」
現に行けないならば夢と現を入れ換えればいい。そうすることでこの悪魔は全ての世界に関わることが出来てしまう。
「夢の世界になってしまえはここは私の思うがまま。イストリアに閉じ込められた私達も簡単に出られるようになりますよ」
「ただし、貴女の許可を頂かない限り無理ってことですね」
微笑む女悪魔に、幾分声を強張らせた少年悪魔が問う。
「それは簡単なことです。仕える主は別ですから、仕事に関しての口出しは致しません。其方は其方、此方は此方ですわ」
「では何を?」
「それは勿論お兄様っ!ああ!お兄様がこの書類に判を押すよう説得して頂ければそれで問題ありません」
「こ、婚姻届……」
もう既に妻側の方に名前と判を押した書類を手に薄ら笑う女悪魔。既に新居の住所まで勝手に決定しているようだ。
長く不在になれば、領地が他の眷属に攻め込まれないか心配なのか、エングリマはおろおろ取り乱す。それを目に、落ち着きなさいと笑うエペンヴァは、さり気なく少年悪魔の肩を抱く。あれはセクハラに入るだろう。
「騙されてはいけないよエング君。残念ながらアムニシア嬢の夢現能力はレディイストリアの脚本能力ほどのオールマイティさはない。そんなことが出来るなら、第二領主を起こす必要など無かったのだからね」
考えても見なさい。それならとっくに私は彼女の側に付いていたに決まっている。そう語る第六領主の言葉は説得力に充ち満ちている。
「え?」
「目覚めてもやる気のない第二領主の所為で、我々がここから脱出するのは絶望的だ。おそらく彼が他の業務を押しつけられることから逃げ回り二度寝をし、それに厭いてよくよく考えればどちらの方が面倒臭くないかを結論づけるまでの月日を費やしようやく我らは脱出が叶う。つまり半永久的とまでは言わないが数万年かは無理だろう。しばらくここから脱出することが叶わないならもういっそこの世界を新婚生活の地にしようとお思いか」
「ちょっ……ちょっと待ってくれよ」
悪魔達だけで話が進んでいく会話。それについて行けずにカロンは叫ぶ。
「今のこれが、夢だって?そんな馬鹿な。これは推理小説って枠に囚われている。そんな馬鹿みたいな話があるか。他の悪魔達だって力を制限されているのに」
「では歌姫さん、貴方はどうして?どうあって?今を今だとここを現だと断言できるのですか?証拠は?果たしてあるのですか?」
「それは……」
「悪魔なんてわけのわからないものが出てくる今こそ夢なのだと貴方は思いませんか?そう。あのシエロという選定侯も、そもそも存在しない人間。貴方が作り出した妄想の産物!母恋しさに女を求め父恋しさに男を求め、全ての悲しみから貴方を守り、愛してくれる存在を貴方が願って見た夢だと何故思いませんの?」
抱き締めた感触も、キスをしたときの唇の柔らかさも。厚さの変わるあの胸も。自分を優しく呼ぶ声も。こんなにはっきり思い出せるのに、それを夢だと霧の中へと連れて行こうと魔女が囁く。
「貴方だって最初は思いませんでした?これは悪い夢。大好きな妹が殺されたなんて、これはきっと悪い夢。早く覚めればいいと思いませんでした?」
「俺にとってはここが今!ここが現だ!勝手に夢になんかにされて堪るか!」
「それは貴方ではなく私のマスターが決めることです」
女悪魔は小綺麗な顔でそれでも小気味よく笑む。カロンとしては不快なだけだ。
「あの青年が心を入れ替え貴方を愛していないと認め、彼女を愛することを誓うなら……再び彼は元の身体を取り戻す。男として幸せに生きられるのです。でも貴方を愛し続けると言い張り彼女を拒むなら、彼女は生涯彼を女として辱め続けることでしょう」
どちらが幸せなことか考えれば解るでしょうと悪魔が囁く。
「本当に彼を愛するならば、貴方は彼を諦めるべきなのです」
本来男として生まれた彼が男として生きられない苦痛。それを与えているのがカロンの存在なのだと悪魔は説く。
「……違うっ!それでもシエロは幸せだって言ってくれたんだ!」
もう歌えなくても、もう男として生きられなくとも。それでもこの俺を好きだと選んでくれたのだ。そこまで言って貰って諦める?ふざけるな。
「シエロの幸せ?そんなこと言って俺がシエロを諦めたら、それが俺のシエロに対する裏切りだっ!」
「アムニシアさん、貴方の契約者はカロンさんに脅えていますね」
カロンの言葉を援護するよう、エングリマが前に出る。今朝の恩を返すかのように。
「もしもその方がリードしているなら夢と現を入れ換えようだなんて思わない。シエロさんに復讐しながらいたぶり愛すにも。仮にカロンさんを殺したところでカロンさんに勝てないと思ってしまっている!だからこうして裏返しの力を強めている!そもそもカロンさんとシエロさんを出会わなかったことにしようとっ!」
最初は唯、第三領主の力の及ぶフィールド拡大を狙ってのことだったのだろう。しかし段々と目的が変わった。
恋敵を殺したところでその心まで奪い返せない。その可能性を危惧し始めた。だから万が一のためのリセット。そのために現を侵食し始めている。
「今こうして僕らを連れ歩いたのは時間稼ぎ。貴方の主が何か犯行に及んだと言うことではありませんか?」
「うふふ、さぁ、どうかしら?」
クスクス笑い、微笑む女悪魔。ひゅうと吹いた木枯らしに、一瞬にしてその姿を霧に消す。はっと気が付けばそこには誰もいない。長い間歩かせられた気もするが、太陽の傾き加減を見るに、数刻の時が流れている。しかし下層街まで下ったはずが上層街の一角に一行は佇んだままである。カロンは本当に全員が妙な白昼夢を見せられたのではないかと思った程だ。狐につままれたような感じとは、こういうことを言うのだろう。
「夢現の魔女……」
恐ろしい女。その意味をようやく正しく理解する。
何が本当か嘘か。何処から何処までが夢か現か。あの女に出会ったことで、恐ろしい認識を植え付けられる。例えどんなに幸せなことがあったとしてもそれを幸せとして正しく享受出来なくなる恐怖。幸せの絶頂に至ったところで表と裏を裏返し、不幸のどん底に叩き落とすということを、あの女はやりかねないのだ。
そんなことを繰り返されてみろ。本当にシャロン殺人事件は起こる。犯人はこの俺だ。いや、唯でさえそうするつもりだったのに。ああ、それでも死ぬのか?シャロンは死ぬのか?殺せるのか?殺したところで裏返し。無かったことでまたどこか見知らぬ現に落とされる。唯、こうして手に入れたはずのシエロが遠く連れて行かれる恐怖で堪らなくなる。何処へ逃げても駄目だ。シャロンを殺しても駄目だ。二人で心中してみるか?きっとそれでも駄目だ。裏返されたら全てがリセット。アムニシアの掌の上。
「厄介ですね。本来一人で部屋から出ることも出来ないはずの我々。現で何も出来ないはずの第三領主。それが……世界が傾いてきた今、妙なことになってきました」
「だ、だけどここはイストの本の中!流石に行き過ぎた真似はさせないでしょう。如何にアムニシアさんと言えど、ここはイストの脚本です。彼女の定めた枠からは彼女だって抜け出せない」
「まぁ、そういうことだろうね。だからこそこうして我々を混乱させに、或いは予告に来たというわけだ。少年、とりあえずめぼしい場所を巡ってみよう。向こうが何かを仕掛けてきたのは確かなのだ」
*
物語の悪魔
「アムニシア。彼女は取っつきにくくはあるが、私はそんなに嫌いじゃない。
目の仇にはされているけれど。
彼女の脚本は、興味深いものがある。」
*
「な、なんだよこれ……」
カロンは絶句した。
第六領主の使い魔を飛ばしに飛ばし、シレナの屋敷異常なし。ドリスの家、異常なし。ナイアード家異常なし。中層街にて異常有り。
歌姫ドリスの死亡事件。それを経てしばらく公演中止になって封鎖されたオペラ座。そこに彼女の後を追うように、自害をした女が居た。彼女の名はメリア=オレアード。ドリスに仕える、女従者。オペラ座前まで来る頃にはすっかり辺りは騒がしく、再びオペラ座は封鎖されていて中の様子はまるで見えない。それでも飛び交う噂話から、大凡の流れは掴む。
「ティモに扮して、拷問して吐かせるって言ってたけど、あれ嘘だったんだ。何かを吐かれる前に、こうして始末を!そのためにああやって僕らを」
憤慨する第四領主。
「いや、それだけならまだ良い。少年、今すぐここを逃げるぞ。情報は私の眷属に任せろ。エング君!確立全開だ!」
珍しく焦った様子で叫く青年悪魔。その様子に追い立てられるよう少年悪魔は従った。フルトブラント本家に戻り、カロンは悪魔を問い詰める。
「何だってんだよ一体」
「目撃者の声が聞こえたのでね。本当に酷いぞ」
毒薬を用いられた以上、これが自殺を見るが明らか。主の後追い自殺。そう見るのが自然だが、目撃者が言うにはこれは他殺だとそう言った。
「犯人が彼女に口付け毒を飲ませたと言う。その目撃者が言うに、犯人は年端もいかない金髪の少年。犯人は君の姿を騙って殺人事件を引き起こしたのだ。言うまでもなく君の片割れの仕業だろう」
「シャロンが俺として!?」
してやられた。そう舌打ちするのはアルバ。カロンがその詳細を尋ねる前に、彼から言われた。これはこうこうこういうつもりなのだと。
「これでカロン様がカロン様として動き回ることは難しくなりました。空での貴方は何の身分もない。後ろ盾もない。あくまで貴方はシャロン様を演じて来られたのですから。男の身でシャロン様を演じていたことが知れれば法に触れます」
「しばらく女になってた方が安全ってことか」
男の身で歌姫として街で歌っていたと知られれば、最悪死刑だ。カロンの言葉にアルバが神妙な顔つきで頷いた。
「こうなった以上、カロン様はシャロン様の姿でいた方が安全だとは思います。シレナ殺しの犯人はシエロ様という噂が広まっている以上、シャロン様を犯人として追う動きはないでしょう」
「でも、それが犯人のシャロンの狙いってことだよな。俺を女にさせてシャロンを演じさせることが」
それがシャロンの策ならば、何かまだ仕掛けてくる。それも限りなくこの上なくとんでもないことを。それを見抜けぬまま踊らされるのは危険だ。かといってこのままというわけにもいかない。
「くそっ!」
シエロなら俺とシャロンの違いを気付いてくれるはず。それでも他の人間達はどうだ?ちょっとでも屋敷を空ければここをシャロンに乗っ取られる。かといって、エコーに会いに行くのを怠れば、シャロンがカロンの振りで情報を得に行くかもしれない。
一つ一つの行動が重くなってくる。どう動くのが最善なのかがまるで見えない。
(こんなことなら俺も……)
何かシャロンとは違う印があれば良かった。シエロがマイナスに入れられた焼き印のように、絶対に見分けられる証拠があれば。
中層街での噂話はまだこのフルトブラント本家まで届いていないようだが、それも時間の問題だろう。シエロが城に捕らえられている話は既に流れているようで、出迎えてくれたシエロの母親は顔色が悪かった。真犯人を誘き寄せるために協力させられているだけだと話はしたけれど、シエロの父親は家の名誉がどうのこのだかで城に苦情を言いに行った。
「……カロン様」
俯き髪を掻きむしるカロンに、アルバが差し出すは手鏡。そんなものを見せられても、シャロンにそっくりな自分が映るだけ。髪を整えろとのことだろうか?適当に直しもう良いと返そうとするも戻って来る。鏡の中に何かあるのだと言わんばかりに。
(あ……)
あった。そこに大切なヒントがあった。シャロンとカロンの絶対的な差があった。
「そうか、ありがとうアルバ」
カロンは礼を言い、その差を見つからない場所へと隠すことにする。悪魔達の力を借りて紛失盗難の確立を極限まで低下させもした。
そして、もう一つ思い出したことがある。それは二つの恋人証明書たる指輪だ。
「……これを上手く使えば、俺達も一度シャロンを出し抜ける。罠に嵌められる」
唯問題は、アムニシアの能力。現を夢として見ることが出来るというその力。
「エペンヴァ、エフィアルに使い魔通信繋いでくれ」
「ふむ、了解した」
《何?この口説き文句は駄目なのか?貴様の採点は厳しいな……ふむふむ》
「なんだか楽しそうだなおい」
通信が繋がってすぐに聞こえたのは浮かれた様子の第一領主の声。城の一室に閉じ込められて暇しているシエロから、口説き文句講座を受けていたらしい。働け悪魔。いや、働いてるのかも知れないけど、確立で守ってくれてるのかもしれないけど、働いているように見えない現状には問題があると思う。
「シエロ、聞こえているか?」
《……》
《頷いて居るぞ》
「こっちで入った新しい情報は、使い魔から届いてるよな?アムニシアは厄介だ。どんどん現を侵食してきている。それでエフィアルに聞きたいことがある」
《何だ?》
「お前の妹は、現を夢に見ることが出来るって言ったよな」
《うむ》
「だけどこれは推理小説だ。イストリアはそこまで万能勝手に出来ないように制限を加えていると思う。それ以外にお前が何か知っていることはないか?」
《夢と言っても、夢を見るのは契約者。契約者の時間的拘束がこれは条件となる。つまり夢見とは、実際にその現場に本人が居て観察している、に等しい。故に推理小説にも矛盾しない》
これは気配を消すのが上手い人間を街中に張り巡らせて情報収集に当たらせている、つまりはエペンヴァの使い魔、それの姿形がないバージョンに等しいと彼は言う。
《よって貴様の妹が起きている間、夢は生まれない。アムニシアは監視が出来ないというわけだ。いや、監視だけではない。契約者が起きている間、アムニシアは一切の魔力の行使が叶わないことだろう。第三魔力は夢の力。本当に貴様らが夜に見る夢の中なら完全にあれの領土、支配下になるが、現であれを自由自在に闊歩させるには契約者が眠り第三魔力を紡ぐ必要がある》
「つまり、アムニシアが暗躍している間は、シャロンは身動きが取れない。シャロンが犯罪を犯す間はアムニシアは何も出来ない。二人同時に悪さは出来ない。唯、本当に眠って見る夢は完全にあっちのフィールドってわけか」
《ああ、そうなる》
これまではシャロンは表舞台に出て来なかった。だからずっと寝ながら俺達の様子を窺っていた。だけどシャロン自身が事件に絡んで来た以上、シャロンはずっと眠っては居られない。
「エフィアル、アムニシアは確率変動自体はシャロンの意識の有無、世界の裏返り程度に関係せずに現に影響できるのか?」
《それは問題なかろう》
「やっぱそうなるか」
それなら第一領主を傍に配置してあるシエロは一番安全だろう。カロンはほっと息を吐く。アムニシアが仕掛けてきたのも確率変動で自分に勝るエフィアルが離れたからだろう。仕事のためとは言え一番会いたいエフィアルに近づけないのだから歯痒い思いはあるだろうがそれでも暴走しない辺りが恐ろしい。まだまだ冷静と言うことか。冷静に狂っているあの女悪魔は確かに恐ろしい。
「エフィアル、お前はアムニシアが力を使えば大体解るんだよな?」
《悪寒を感じるからな》
「わかった。じゃあその度に逐一連絡を入れてくれ」
《よかろう。イストリアはどうする?》
「ああ、イストリアのも解るんだっけ?じゃあ本に入って来たようなら頼む。シエロ、何かそっちで困ったことはないか?」
《無らしいが》
「あんまり危ないことはするなよ」
《お前こそという顔をしているが》
「あーもうっ!その位雰囲気でわかるから一々解説しないでくれっ!」
折角のシエロとの触れあいを逐一邪魔されている気分になる。もっとも向こうは喋れないのだから仕方がないと言えば仕方がないが。
《ならばこれは教えてやらぬ方が良いか?今は小さく笑いながら、身体休めてそれから歌の練習頑張ってと笑って居るが》
怒った様子の口調でエフィアルはそう告げて、回線を切断。実に怒りっぽい悪魔だ。
「とりあえずこれで少しは向こうの手にも対応できるはず。後手に回りすぎないように気をつける感じだな。それから……あの殺人現場の検証がまだだ。隙を見つけて、エングリマ。お前の力で調べに行かないとな」
「ですがカロン様。あの辺りを貴方が彷徨くのは危ない。シャロン様の振りをしてもです」
「ああ、そうだ。だからエングリマ、ちょっとアルバについて行って現場検証を頼めるか?」
「しかしそれではカロン様の護衛が第六領主様だけ。確立変動力的に心許ないのでは?」
「失敬な。出掛ける前にエング君に結界を張って行って貰えば良いじゃあないか。エング君は守りに関しては天下一品。防御力だけなら魔王中最高!彼の氷の結界を破れるのは第二領主様くらいなものさ。私は壊さないでも入り込めるけど」
「……それじゃあそれで頼むエングリマ。流石にさっきの今でシャロンがもう眠ってるってことはないだろう」
人一人殺してすぐにすっきり眠れるような妹だとは流石にカロンも思いたくはない。もはや外道に成り下がり、利用して捨ててやると思ったはずのドリスが死んだ日には、カロンも少し寝付けなかったくらいだ。あんな女が相手でも、死んだと解ると綺麗な場面ばかりが甦る。行き場のない自分にやさしく駆けられた声。自分を好きだと見つめる瞳。
そう言うときは彼女がカロンをエコーに売り渡しただとかそんなことも一瞬忘れるような後ろめたさが思い浮かんだ。ならばシャロンも少しは何か思うところがあるだろう。
第一エフィアルの話ではシャロンとアムニシア。二人が同じ時間に活動できることはない。つまりアムニシアの行動は時間稼ぎなどではない。稼げなどしないのだ。アムニシアが自在に動き回るほど、シャロンは動けない。そこで身柄を押さえ込まれてしまえばお終い。最悪そこでカロンにシャロンが殺されることだって起こり得る。唯殺すだけならそれでも良いのだ。
「俺達は一度、下層街まで下りた。そういう夢を見せられた」
そうなれば当然、下層街で何かが待っているのではと思わせられる。唯でさえ、下層街には寄るべき場所が二つある。マイナスの居るナイアード家、ドリスのいた家。
中層街のシレナの屋敷は今そこに行って手掛かりがあるかどうかと言われれば、もう粗方調べ尽くした感がある。シャロンがそこに戻っているなら兎も角兵士が見張っている今それはない。となれば手掛かりを求めに下層街まで下りようと思うのが当然の心理。
「それを利用して、シャロンはアムニシアにああいう夢を見させたんだ。俺達が下層街、そしてあの女従者を意識するようにし向ける。当然裏道を通った俺達はオペラ座での騒動を知らずに通り過ぎる。シャロンはそれまでの間にメリアを殺して逃げたんだ」
逃げるときにはアムニシアが現にも関与できる、確率変動の力を使いまんまと逃げおおせる。確立で彼女に勝るエフィアルを手放した時点で、カロンが出し抜かれるのはもはや必然と言える。
「俺達は操られた訳じゃない。自分たちで考えて下層街まで行った。それでも俺達は踊らされていた」
かと言って、今度その裏を掻けば正解に辿り着けるかと言われればそうとも言い難い。後手に回ればこれから幾度もこんな問いに悩まされることになる。
「だからここは先手を打っておきたい。アルバ……」
カロンが手渡すは、シャロンの名が記された指輪。
「俺の考えをお前に伝えたらもしシャロンが寝ていた場合それがあいつに知られてしまう。だからこれを俺は何も言わずにお前に預けておく。察してくれ。考えてくれ、その時々のお前の頭で。それはアムニシアが相手であっても、きっと読めない」
カロンの意図を理解して、アルバは恭しく頷いた。
「それじゃあエングリマ、アルバよろしく頼んだ」
カロンの言葉に少年悪魔は部屋を出て屋敷の一帯に結界を張りアルバと伴い出掛けていった。
「さて、二人きりだな少年」
「気持ち悪いこと言うな」
「おやおやつれない。君にだけに知らせておきたいことが合ったのだがねぇ」
「何だよ?」
「ドリスに助けられた君のお友達が居ただろう。彼はドリス亡き後もあの女従者の所にご厄介になっていたとしよう。そうした場合、一緒に行動していたとしよう。そうするなら少年、あの女従者が殺された時の第一発見者目撃者は誰になる?」
「あ……」
「そうだ。あのオボロスという名の少年だ。つい先日君と喧嘩別れしたばかりの少年だ。そんな子を相手に君の妹歌姫は見事に君を演じきった。余程態度の悪い男を演じたのだろう。彼から君に対する評価はガタ落ちだ。本当に君が歌姫ドリスを騙し死なせたと信じるに至った。それでも長年育んだ友情というものを、彼は捨てられないらしい」
そうなればよりいっそう、彼が誰を憎むか分かり切ったことだろう?と青年悪魔がにひり笑う。
「あいつ……また、シエロに責任転嫁してるのか?」
「二日後に気をつけるべき人物がまた一人増えた。そう思って動いた方が良いだろうね」
「くそっ……」
なんだってこんなことになったんだ。本当にこの数日で目まぐるしいほど世界が変わる。ぐるぐると、もう頭が目が回ってしまいそう。
空だ。空だ。空が落ちてくる。落ちてきて、俺に口付けて。そこから何もかもを変えてしまった。まるで魔法だ。それでもこれが現実だ。嫌なこと、どうしようもないこと。それら全て引っくるめて俺の今だ。
「なぁ、そう言えば結界を破れなくてもアムニシアは覗き見ることは出来るんだよな?」
「君の妹君が寝ているのならね」
「そう思って動いた方が良いってことか」
とりあえず発声練習だけはしておいた。肝心の歌はシャロンに見られているかも解らない。練習は夢の中……改め記憶の中だ。
エフィアルに頼んで悪夢を見せて貰っても良いが、エフィアルの領域までアムニシアが侵入してくる可能性もある。勿論その場合はエフィアルが気付くだろうし追い払えるくらいには強いだろうけれど念には念を入れて。幾らシエロに会いたいからってあれは最後の手だ。
カロンは第七魔力の宿るという本を捲り、うとうとと記憶を手放すことにした。
*
雪が降ったはありがたい。アルバは何度もそう思う。
オペラ座の現場検証のついでだ。それが終わったら下層中層上層街の屋敷へも寄り、調べられるものは調べよう。
第六領主の力はあくまで聞き込み、そして擦り抜け調査。予め此方が指示したことを中心に行うため、証拠発見というのに至るまでは難しい。対するこの第四領主の力は現場に直接足を運ぶという危険を犯す必要こそあれど、証拠品を見つける手助けをして貰える。第六領主の使い魔も一匹借りておけば、いざ此方の身柄を拘束されたとしても証拠のある場所を向こうに伝えることも叶うのだ。
オペラ座は当然封鎖されていたが、人も捌けてきたようだ。肝心のメリアの遺体は鑑定のため城に移されたと聞く。これは城にいる主に頼むしかないだろう。とりあえず使い魔で情報は届いているはず。
(問題は、どう忍び込むかだな)
アルバの仕える主、そして主の恋人が不審がられている今、怪しい動きをするのは問題だ。となればこれしかないだろう。
「む、貴様はフルトブラントの」
「しっ……静かに。陛下のご命令です」
さもお忍びで任務を行っていたような顔をする。そうして見張りの兵士の中で一番偉そうな隊長格と話を付ける。彼だけを物陰に連れて行き、見せるは忌々しき生家の紋章だ。
「私は陛下……アクアリウト家の政敵であるフルトブラントの家に潜り込ませられた密偵。伏せっておられる陛下に変わり、ここに来るよう申しつけられたが故ここに」
もっともらしい言い回し。それを不審がらせないのは紋章の力だ。これに背けば王命に背くことになる。そうなれば厄介だ。そう思わせるだけの力が選定侯、それも現国王の家の力。あの腐れ殿下が好き勝手出来ているのもその家の力によるところが大きい。
「うわぁ!凄いんですねアルバさん!」
無事にオペラ座に忍び込むことが出来たアルバを褒め讃える少年悪魔は浮かれた様子。犯行現場である舞台、そしてをそれを見渡せる客席の隅から隅までを調べ上げたが、証拠らしい証拠は既に城に持ち帰られた後だった。
しかし床に付着した血の色はまだ見るに鮮やかで……それが血だけではないことことをアルバに思わせる。それを拭き取りその匂いから、血液以外の香りを感じ取る。それが犯行に使われた毒物の残り香か。
「第四領主様、お願いします」
「あ、はい!」
エングリマがその場を凍らせアルバは辺りを調べ上げる。止まった時間は匂いまでもその場に留める。まだ微かにだが追える。その匂いを辿れるところまで辿り、アルバは時間を戻させる。ここから先は人の鼻では追えない所。嗅覚に優れた下等悪魔を召喚し、血を拭き取ったハンカチの匂いを嗅がせる。犬を持ち出すのとそう変わらない捜査だ。推理小説枠には矛盾しないだろう。
しかし悪魔は一室の前で立ち止まり、咽せ込みこれ以上の捜査は無理だと弱音を吐いて消えていく。確かに匂いは凄い。その場所は楽屋の隣の小さな部屋だ。歌姫達の共同物置化粧室。歌姫達がそれを持って帰らないのは、少しでも歌姫達の荷物が減るよう、オペラ座側から好意的に与えられ誰でも自由に使えるように置いてあるものだからなのだろう。化粧品と香水の瓶があちこちで割れ、何かの匂いを隠すようにそこにある。第四領主を連れていて、それで先程までここに気付けなかったのは、その確立を捜査されていた。つまりは第三領主の仕業に等しい。見ればここは封鎖された様子もない。兵士達すら気付かなかった場所である。それを見つけられたというのは、あくまで推理の観点で捜査することでようやく辿り着けるということ。確立を幾ら低下させても、考え続けるならば、確立はゼロにはならない。そういうことなのだろうか?仮にもこれが推量小説と銘打ってある以上、第七領主は魔法や悪魔を大活躍はさせたくないらしい。
(あくまで悪魔を捜査道具として用いらせるか)
同僚諸君を何だと思っているのだろうか。まったく不思議な女である。
「詰まるところ、この部屋に何かがあるのは間違いない。もう一度ここで頼めますか?」
「解りました」
アルバの言葉に第四領主は再びその場を凍らせる。割れた香水瓶、化粧水。それをこれだけ派手にぶちまけたと言うことは、この場で犯人は何らかの失敗をしたに等しい。
毒薬その物をぶちまけたか。いやそもそも妙だ。これが自殺か他殺か、それを断言できるのは目撃者だけ。その者が真実を話しているかもわからない。
メリア自身、それがカロンと解っていたら毒薬を口にするか?シャロンと気付き、尚かつ何か向こうの企みに乗るところがあったから、その指示に従った。その真相に目撃者が気付かなかった、そう見るならばどうだろう?
(この毒薬の詳細について、調べられることを恐れた?)
だからこの場に毒薬を落としてしまったら、それを薄めるためにもこうやって仰々しく様々な物をぶちまけるしかなかったのだ。それの意味するところ。
決定打となる証拠はない。それでも可能性としてアルバにそれを思わせる。これを割った時、犯人は狼狽えていたはずだ。目撃者が事の真相を知らないのなら追ってきていたはず。にもかかわらずこれだけの瓶を割ればここにいますよと教えているに等しい。例え確率を下げてもだ。
ならばこれを割ったのは事件の前。ドリスの事件の検証を終え、兵士が立ち去ったオペラ座。それでもまだ閉鎖中。そんな場所に足を運ぶのは、主に思いを馳せるあの従者。誰もいないはずのオペラ座からそんな音がしたならば、どんな手を使ってでも忍び込んで来ることだろう。ならばこれを割ったのは誘き寄せるためである?
(しかしこれだけの香水を浴びたなら、逃げ出すことは難しい)
部屋の隅々まで探し、棚や机の裏まで確かめ、アルバは小高いところにある小窓の存在に気付く。人が通れるほどの大きさは無いが小動物なら通れるだろう。その裏付けのために聞き込みの指示を使い魔に連絡させる。
「第四領主様、ありがとうございます」
「何か解りましたかアルバさん?」
「ああ、収穫はあった。礼を言います」
犯人は血や毒薬を落としたわけではない。この部屋は囮として使われた。
犯人が消したかったのは他の薬品の匂い。おそらくは猫でもあの窓から入れるため、興味を惹くような餌を窓から室内に投げ込んだ。その辺は予め確立を弄っておき、鍵を開けておくように指示。その猫を暴れさせてこの部屋で物音を立てさせる。唯それはメリアがこの付近を通りかかった時でなければならない。なら、動物に与えた餌は睡眠薬が塗られていた。その後、それが目覚める頃に再び窓の外から鼠でも投げ込んだのだ。そうなれば暴れさせる。
その音に他の同行者が引き付けられた隙に、狙いの人物だけを他の方法で誘き寄せる。メリアという女は主を失いしばらくは正常な精神状態になく、満足にも寝ていなかったはず。そうなればほんの刹那の一瞬に、ちょっとした白昼夢を見、夢と現を誤認する可能性はある。そうなればそこは第三領主の領分だ。
第三領主はああ言ったが、それは違う。夢を見ていない人間に夢を見せるためには、契約者が眠っている必要がある。しかし本当に夢現で危ない精神状態の人間が、一瞬のうちに夢の内へと迷い込んだなら、仮にシャロンが目覚めていても第三領主は動けるわけだ。だからこれは、前の日に熟睡した自分たちとは勝手が違う。
「おそらくは、メリア=オレアードは不確かな精神状態から第三領主に踊らされ、シャロン様を歌姫ドリスと見間違え、フラフラと追いかけた。傍にいた同行者は連れが消えたことに気が付いて、彼女を追いかけた。そして追い着くまでの僅かの間に何かが行われたのだ」
ならば何故メリアが吐いた血から来た匂いで、下級悪魔はこの部屋を導いたのか。
メリアの同行者は恐らくこの部屋を開けた。その時に、ここに閉じ込められていた猫は逃げた。窓から投げ込む前に足は綺麗に拭いておいたなら、足跡は残らない。しかし臭気は残るだろう。動物を何時間も閉じ込めていたのだ。そうなればこの場所で排泄を行ったと見て間違いない。その排泄物から検出されるものとメリアに盛られた毒は同じ。つまりその猫が生きているならメリアは死んではいない。それは睡眠薬だった。
しかし野次馬が集まる前に事態の収集を図ろうとした兵達により、メリアが本当に死んだかどうかも確認しないまま、死体を城に運んだのだ。おそらくは一時的に深い眠りに落とし仮死状態に近づける薬でも用いたのだろう。
それを計画的に仮死状態に見せたとするなら、シャロンは城の中に死体として生きたメリアを忍ばせることが叶う。後は夢の中でアムニシアの力を用い、大まかな話の説明をすれば……手駒を自身が近寄れない城に送り込んだ事になる。
(しかし所詮は小娘か)
アルバは確かな証拠を掴み、後でカロンに尋ねることが浮上する。オペラ座を去る前に、化粧部屋の外を確かめ、そうして今度はシエロの屋敷のある場所だけを凍らせ調べ、辺りが荒らされた形跡があることを知る。
「シャロン様はカロン様の靴を盗みたかったのだろうな」
「カロンさんの靴、ですか?」
「ああ、如何にも。二人は双子とは言え男と女。まもなく身体の成長にも違いが出る。その顕著な例が靴のサイズだ」
顔はそっくり。身長もそんなに変わらない二人であっても靴の大きさまでぴったり同じと言うことはない。
「出来ることならカロン様と同じサイズの靴で歩いて、この雪の上に証拠として足跡を残したかった。しかしオペラ座裏には足跡が一度しかない。つまり猫を入れたのは昨晩、まだ雪が降る前」
街で買った石膏を流し込み、足跡の型を作る。やがてそれと同じ靴を探して点々。同じ商品をアルバは手に入れる。
「どうやら男物の靴、それも一年間離れていたことを考え自身よりも1,5センチほど大きな靴を買ったらしい。だがこれが誤りだ。実に子供らしい、可愛らしい勘違いではないか」
シャロンは恐らく自身が男になったときに履く靴と同じサイズの物を買おうとした。しかしその際、元々男である兄と、一時的に男になるだけの自分とで同じサイズかわからない。余裕を持って犯人が男であると思わせられるようにしたく、見栄を張ったのだ。
アルバは含み笑った。帰ってカロンに尋ねることが、もう一つ増えたのだから。
*
物語の悪魔
「人の心理に聡い歌姫も、所詮はまだまだ若い小娘。
知らないことはやはり知らない。これまで人に頼ってきた証拠。
そうして今日までの積み重ね。
さぁ、少しは推理小説らしくなってきたものじゃないか。」
*
動物なんか飼ったことはない。うちの仕事は船頭だ。家を空けていることが多い。とてもじゃないけど動物の世話なんてしていられない。
親父が猫は嫌いだったんだよとカロンは答える。よく釣り上げた魚を奪いに来る猫がいたからと。だけどとそこで思い出す。
(シャロンは飼えないからって拾ってきた猫を捨てに行かせられていたな。でも勝手に魚をやって懐かれて親父に叱られていた)
津波の多い下町。自分たちの生活で精一杯なのに、他の命の面倒など見ていられないというのが本当のところだったのだろうけれども。父の思いに気がついて、少し切なくなるカロンは、他の質問を聞き損なって首を傾ける。
「え?俺の靴のサイズ?」
「ええ、確認のためお願いいたします。これはご参考までに」
カロンはメモを渡されそれを身体で隠して自分のサイズを記入。再びアルバへ返す。これがアムニシアの夢見に対する精一杯の抵抗の一つ。
先に記されていたそれはシャロンの靴のサイズらしい。カロンのそれは奇しくもシャロンと全く同じ大きさだった。それに気付いて、女装のために履いていた靴の中身を確かめる。そこに記されている大きさは確かに同じものだけど……
「でも女物の靴ってちょっときついんだよな」
「そう、そこでございます」
にたりとアルバがほくそ笑む。待ってましたと言わんばかりに。
「これまで歌姫として生活し、そして呪いで男になり女装も度々繰り返して来られたシャロン様は、その気持ちを忘れてしまっていたのです」
「どういうことだ?」
「女物の靴と男物の靴の違い。それは大きさではありません。幅。つまりは大元となる型が違うのです」
背が高い人間は足も大きい。男の方が足が大きい。そういう思いこみはありませんかと尋ねられ、確かにそうだとカロンは頷く。しかし実際に違うのは幅なのだ。女に履けて男に履けないハイヒール。それは足の幅が違うから。
カロン女装の衣装とシャロンの衣装の一切を仕入れていたのはアルバだろう。となれば一番それに詳しいのはアルバということになる。シャロンは知らなかった。これまでその有能すぎる召使いがいたからこそ、雑学に無能だったのだ。
性別の変わるシエロが傍にいればわかりそうな物だが、シエロの身の回りの世話をしていたのもアルバ。となればシエロもその辺りは無頓着だったかもしれない。
例えばシエロの贈り物にとシャロンがサイズの合わない靴を申し出たとして、そうするならばアルバはそれを陰でこっそり注文し直しぴったり合う物を仕立てさせるくらいのことはする。有能とはそういうことだ。
「しかしこの一年男の姿でも女物の靴を履いてきたシャロン様の足は、変形しました。だからこうして、男物の靴を履く時に足跡としての重心のかけ方がおかしくなっているのです。念のためカロン様の足跡の石膏も取って置きましょう」
「俺とシャロンの違いが、足跡か。今朝は雪が降ってくれて助かったってことだな」
そんな見分け方もあったのかとカロンはほぅと息を吐く。まったく感心してしまっていた。
「ええ。しかし証拠が残るのは中層街まで。一度上層街に逃げられそこで靴を履き替えられたのでしょう。不自然な足跡はその後街の何処にも見つかりませんでした」
「流石に隠れ家まではみつけられなかったってことか」
「はい。それに日の光により雪が解けた場所も多い。空に近いと言うことはそれだけ太陽が近いと言うこと。物陰や、薄暗い場所などは幸い残っておりましたが」
どこからその足跡がやって来たのかはわからないということだった。
「勿論今の話が第三領主の力でシャロン様に届いていると仮定しましょう。しかし第六領主様の使い魔を街中に張り巡らせ、ここで新たに靴を買おうとすれば情報が入るようになっております。となれば今度は同じような背格好の少年から靴を奪うか、或いは下町まで降りカロン様の家から靴を奪いに行くか」
「そう言っておけばシャロンもそれを危惧して迂闊に動けない、か。見られてるのを逆手に取るのも手だな」
カロンは感心して唸る。
「それじゃああの女が生きていたとして、狙いはシエロか?」
「いえ、おそらくは殿下です。ドリス様の殺害の直接の犯人は彼なのですから。しかし死んだはずの女に犯行は及べない。まんまとあの女が逃げおおせたならばシエロ様がその槍玉となり喋れないことを良いことに不利な裁判をされる可能性があります。特に殿下の母親は息子を溺愛しています。息子に何かあれば、陛下を焚き付け盲目な判断をさせてしまうこともあるでしょう」
そのことを回線で一応伝えておくかとカロンは頷く。
「シエロ、殿下が危ないかも知れない。傍で警戒しておいてくれ」
*
夢現の悪魔
「まもなく日は暮れ、鳥は帰る。お前の家は何処?
まもなく夜が訪れて、人は愛しき人の元へ。お前は何処へ帰る?
お帰りなさい、お帰りなさい。さぁさぁ、目を開け、お帰りなさい。
お前の愛しい人の眠る場所は何処かしら?」
*
今日のシエロは少し様子が不思議だ。午後に茶でもどうかと部屋に赴けばそそそと擦り寄ってくる。元があの男だとは思えないくらい可愛らしい反応だ。女の姿になることで、心まで女になって、さてはいよいよ俺に惚れたかとアクアリウスも満更ではない。
茶も終わり、それではと部屋を出ようとするも此方の服の裾を掴んでじっと上目遣い。寂しげな表情だ。思えば部屋に閉じ込めていた。退屈して、いや寂しい思いをしていたのやもしれぬとアクアリウスは思い直す。
「そうだな。貴様も俺の妻となれば色々覚えることもあるだろう。少し城を案内してやろう。二日後の手筈の確認もある」
何気ない素振りでその手を握ると、そっと白く細い指がそれに応える。
喋らない女というのはこんなにも良いものだとは思わなかった。一つ一つの行動がただただ愛らしく映る。此方を裏切ることもない。正に、理想の女だ。このまま声を取り戻さなければよいのにとさえ思い始めた。
(まったく本当に人魚のような奴だ)
声を失うなどと、どこのお伽話の中の人間なのだろう。絵本の中から抜け出たように、確かに女は愛らしい。これまでの嫌なこと全てを忘れさせてくれそうな、柔和な微笑み。ドリス以上の柔らかさ。
繋いだ手がとても熱い。それは自身が緊張しているからか。笑わせる。ああ、しかしこの程度のこと。このような昼間の恋人達のようなことを、俺とドリスは唯の一度もして来られなかったのだ。何時もドリスが来るのは仕事でだ。こんな特別恥ずかしいわけでもない行為が何故ここまで気恥ずかしいのか。それはこの俺がこういったことに不慣れだったから。昼間は母様の目もある。下層歌姫など城に招かない。
しかし政敵の子を討ち取ったようにこうして女の姿をさせ辱め連れ歩く。それを見て、これほど俺に相応しい花嫁も居ないと城の面々は頷くのだ。事実、シエロは先祖返りと言われるほど人魚の血を濃く現している。その血を取り込めば、次代からも素晴らしい血筋を保てるはずだと浮かれてもいる。シャロンという小娘一匹出汁にするだけでこれだけの大物を釣り上げることが出来るとは。勿論シャロンも必要だ。シエロに声が戻らない内は、歌える人魚が必要なのは確か。上手い具合明後日にはシャロンを釣り上げなければ。
決意も新たにアクアリウスは城を回る。日常生活で使う場所の機能の説明、それから明後日に使う法廷、それから式場となるであろう聖堂へ。ステンドグラスから差し込む日暮れの日差しに当てられて、キラキラと色合いを変え映る空色の髪が美しい。そうしてすっと日が落ちて……夜の闇に包まれて、暗がりの中また感じ方を変えるその色をじっと見つめる内に、愛おしくなる。
「シエロ……」
抱き寄せるも、白い指先が唇に触れお預けだと微笑んだ。可憐な少女に見えながら、そんな態度は何処ぞの悪女、小悪魔めいても見えるが、相手の外見が外見だけに、それもまた清楚に映るから困る。仮にもシャロンという恋人がいた身の上。清らか何てはずがなかろうに、みずみずしさを失わない果実のように女はやはり美しい。
「恥ずかしいと?まったく、そんな様子では二日後にはどうしろと言うのだ」
アクアリウスが不平を言うも、シエロはただただ微笑むだけ。
「殿下っ!」
「何事だ?」
「城に確保したはずの例の女の行方が!」
中層街で死んだという女。ドリスの従者。何か奇妙な縁と後ろめたさを感じて、せめて主共々城の墓地に手厚く葬ってやろうと連れて来させたのだが、その遺体が攫われたのか?
しかし何者が?
「解ったすぐに行く!シエロお前は……」
兵士に部屋に連れ帰らそうとするも、この物騒な話を恐れたのか怖がる素振りでアクアリウスから離れない。ぎゅっと腕に縋り付いてくる女。自然な動作で腕に当たる胸の感触がとんでもなく柔らかい。何か違う物をそこに納めて欲しくなるくらいの温かさ。ごくりと生唾を飲み込んで、脅えた様子のシエロを庇う。確かにこの兵士も信用できるのか怪しい。俺が目を離した隙に何も言えないシエロを良いことに、好き勝手乱暴をはたらくのではないか?否、絶対にそうなる。これだけの女だ。それで悲鳴を上げられないとなれば誰だって手を出すだろう。俺が手を出さないのは俺が紳士だからに他ならない。
そう結論づけたアクアリウスは頷いて、シエロを安心させるよう笑む。
「解った、俺について来い。俺の傍にいれば安全だ」
そう優しく解けば、ほっと安堵の漏らす薔薇色の唇。ああ、あれが二日後に自分の物になるのだと思うと堪らなく、高揚する心がある。
いかん、今はこの女の前で良いところを見せ、更に惚れさせることにしよう。見事な采配でおの心配事を晴らさせてやらなければなるまい。
引き続き推理パート。
歌姫達はみんなニンフの名前や名称が元ネタ。
ドリスは苗字がエウリーデが元ネタなんで相方のメリア(リラ)はポジション的にはイメージオルフェ。素直に男にしておけばいいとは思ったけど、オルフェって聞いたら友人が違う名前のオルフェさんを思い出して元ネタ勘違いされそうだったので、んじゃ竪琴から命名→リラって女の名前っぽいから女で。そんな理由で女主従になりました。ぶっちゃけ傍に男が仕えていてそっちに走らないのもあれだから、これでいいような気もしました。
そんなわけで一端黄泉の国へということで仮死トリック。