28:夜の歌姫のアリア
物語の悪魔
「 その足で歌姫は城へと向かいました。
けれどその前に私は一つ忠告しました。
何事も先の道筋を立てるのが大事。だからちゃんと自分のハッピーエンドを想像してからお行きなさいと。けれど彼女に私の声は、残念ながら届きません。
嗚呼、人間って本当に愚か!」
*
「…………」
「シエロ様、どうしても向かわれるのですか?」
目は口ほどに何とやら。己の主にじっと見つめられれば、アルバはこれ以上の反論の余地もない。それでも無理だと知っても尚、もう一度は言わなければならなかった。それは自分のためではなく……ここに彼女を置いていった少年のため。
「カロン様はシエロ様を危険な目に遭わせたくなかった。それは先日のシエロ様と同じ気持ちでの行動。一度は無理を通したシエロ様。一度は彼を立ててあげても良いのでは?」
「………」
唇だけ動く。「それで彼が死んだなら、僕は一生後悔するよ」
ここまで言われてしまえば、もう負けを認めるしかない。
「解りました。お付き合いします」
そう答えれば、主は嬉しそうに笑う。
(……仕方ないか)
第四領主が味方に付いた。これで半分、召喚の条件は整った。後の半分は……運だ。この二人の悪魔でどこまで俺の幸運を引き上げられるかがネック。それさえ上手く行くならば……何とかなるだろう。
「……シエロ様、ゲートを使うのはお体に障ります。階段から参りましょう」
彼女を負ぶさり空までの長い階段を上る。歩かなくて良い悪魔達は周りをふよふよ飛んでいる。まったく便利だなあいつらは。
「……昔より、重くなりましたね」
「っ!」
不意に口から零れた言葉、背中のシエロ様が取り乱す。別に降りて欲しいと言っているわけではないのだと、どう言えば伝わるだろう?
「いえ、そう思うほど……俺は貴女から離れていたのだと。そう言いたかったのです」
「……」
傍にはいた。それでもそれだけ。こうして触れることも殆ど無くて。
いつもこんな風に背負っていたならば、重いと感じることもなかったはず。段々と、成長して行く姿に気付かなかった。今この人を重いと感じることは、俺がそれだけこの人に触れてこなかったということなのだ。
(いいや……)
あの少年が来てからは、何度かこの肩に触れていた。気絶したこの方を運んだ。それでも落ち着いて物事を考えられるような余裕がなかった。だから今初めて、重くなったなと感じることが出来ている。
「シエロ様……ありがとうございます」
あの日この人が俺を助けてくれた。救ってくれたから俺は生き存えた。生きる喜びを再び思い出すことが出来た。
そんな俺ではやはり今でも、あの憤怒の悪魔は従えられない。だが、それでもいいと思うのだ。今ならば……
怒りに勝る幸福を知ることが出来るなら、それは確かに幸せなことだ。そういう意味でなら俺はあの少年よりも報われている。
「……」
シエロ様は、「僕は何もしていないよ」と告げるよう、俺の肩口に顔を埋める。そんな仕草が、子供のように思えて……俺は少し、泣きたくなった。もうあれから何年経つ?あの頃より重くなったこの人は、……こんなやり方でしか何かを伝えられないくらい不器用にされてしまった。
(シャロン様……)
シャロン様とシエロ様。
在りし日の二人の姿。二人とも、幸せそうに笑っていたのに。俺の時とは立場が逆だが、女が恐ろしい生き物だというのは同じか。シャロン様の本性を見抜けなかった俺が馬鹿だった。どんなに可憐な少女であっても、男らしい一面があっても、それは女だ。やはり女は恐ろしい。
その認識をしかと持ち、あの少年が戻るまで……この方をお守りしなければ。
「シエロ様。彼は貴女を置いていったのではありません。……初めて俺を信頼してくれたんです」
「……」
返ってくるのは沈黙だ。それでも彼女が肯定してくれたのは俺にも伝わっていた。
長い長い、螺旋階段。登り終える頃にはもう日も暮れかかっていた。
*
エコーは部屋にいた。兄により、室内に閉じ込められていた。仕事はキャンセル。悪さをしないように暫くこうして謹慎を命じられた。扉の外には見張りが居る。ドレス姿では窓から逃げることも出来ない。
「シャロン……僕のウンディーネ」
僕は何か間違っていただろうか?折角こうして再び君に出会えたのに。どうして君は生まれ変わりである僕ではなく、他の男に恋をしたのだ。これが、あの日の裏切りの報いだとでもいうのだろうか?
「はぁ……」
僕は一体何のために生まれ変わったのかわからない。今度こそ君と幸せになるためではなかったのか?
エコーは窓硝子が曇るほどの溜息を吐き、その彼方に愛しい人の眼差しを思い浮かべてはまた溜息。そうしている内に、今日も日が暮れる。辺りが暗くなり、更なる静寂を得る頃に……コンコンと、窓が叩かれた。屋根を登ってきたらしいその女は、その手に一通の手紙を保っていた。
「貴女、ドリスの……」
手紙を持ってきた女はドリスの女従者。私を連れ出す手助けかと思えば、用件は違ったみたい。
エコーは手渡された手紙の封を切る。そこに記されていた内容は……恐るべき事だった。
「シャロンが、殺人容疑で追われている……ですって!?」
手紙が教える情報は……天地がひっくりかるような大事件。あの日のシャロンはシャロンに扮するシレナ。翌日私と一緒にオペラを歌ったのが本物のシャロン。
シャロンが私を拒んだのは、私を試して……私がその答えを見誤ったから。シレナに扮した自分を見つけて欲しかった。その上で私の口付けを待っていてくれたのに。それじゃあ嫌われても仕方ない。エコーはその場に泣き崩れる。
窓からの訪問者は、気を取り直すよう……そんなエコーの肩を抱き、窓へと連れて行く手紙にはまだ続きがあった。
「シャロンが城に捕らえられているのね……解ったわ。私はその弁解のために城へと行けばいいのね」
「……」
なら着いて行こう。ドリスの従者の手を取ると、従者は頷きエコーを抱きかかえる。そうして窓の外へと出、暗い夜へと飛び込んだ。
*
「なるほどな」
アクアリウスは、可愛がっていた歌姫ドリスから届けられた情報に耳を傾けた。それは今朝方のことだった。
歌姫シャロンが殺された。だが死んだのは歌姫シレナ。その亡骸を隠したのがフルトブラント。シレナに扮したシャロンは現在行方を眩ませている。
そこからは、こうして情報を得るため……顔も見たくない知り合いを呼びだした。
「それで?そこの自己愛選定侯」
アクアリウスは大理石の床に転がした、選定侯ナルキスを遙かに見下ろした。
「貴様はシエロの幼なじみだろう。ならばあの男の正体も知っているな?ならば、洗いざらい奴の秘密を吐いて貰おうか奴はどうすれば女になる?」
「……ふん、人魚の血が薄まったアクアリウトの殿下では、呪いの意味も解さぬか」
「俺を見下すか?見下されているのは貴様の方だっ!」
アクアリウスは愚かな男を踏みつけて、傍に控える歌姫を見る。歌姫ドリスはいつものように、優しく微笑んでいた。
「別に良いんですのよアルセイド様?貴方が話したくないというのならそれで。……それならエコーさんに尋ねようかと思うんです。彼女も人魚の末裔。きっと何かを知っていますよね?私の従者を使って彼女を呼び出してあるんです」
実の妹を人質にした言葉。これにはこのナルシストも目を見開いた。この自己愛者は妹思いな自分が好きなのだ。決して見捨てられまいよ。
(しかし……)
歌姫、ドリス……えげつないやり方だ。俺では思い浮かばなかった。
アクアリウスは複雑な思いで歌姫を見る。
「マイナスさんでもお呼びします?火責め水責め鞭責め……色々試してみれば、お答えいただけるかも知れません。お話しして貰えなくとも、その途中で変身させることが出来るかも知れません」
「ぐっ……俺の妹と友を、天秤にかけろと言うのか!?」
「ええ、言います。これ以上貴方の身体で呪いのやり方を試したところで、お話していただけないでしょう?」
城の書庫から持ち出した、古き文献によれば海水に触れれば呪いが現れると聞くが、これは鮫を呼び寄せるだけ。この呪いならアクアリウスにもあった。
「伝承では恋により性別が変わるという話だったな……だが、フルトブラントは自在にその行き来をしている。その絡繰りについてまずは教えて貰おうか」
「……それについて知らんと言うことは、お前はこの国の王に相応しくはないと言うことだ」
「何だと!?」
自己愛者程達の悪いものもない。幾ら痛めつけてもそんな自分にうっとりするばかりで話にならない。
「落ち着いてください、アクアリウス様」
取り乱す俺にドリスが微笑んだ。
いつも癒されていたはずのその笑みに、アクアリウスは何やら不気味ささえ感じていた。
「あのねアルセイド様?私が命令すればエコーさん、すぐに死んじゃいますよ?アクアリウス様が王位に就けば、殺しの一つくらい幾らでも揉み消せますよね?ああ、そうそう!最近エコーさん様子がおかしかったみたいですしね。シレナさんの殺害に関与してる可能性もあるそうですよ。それを目撃した私の従者を口封じに殺そうとして、返り討ちに遭った。そう証言したなら何とでもなりますよね?幾ら選定侯家の人間であっても……」
「もう、良い」
「待っていてくださいアクアリウス様。イリオン様。間もなく吐かせてみせま……」
「黙れと、黙れと言っているんだっ!」
もう、俺は……それ以上に耐えられなかった。
俺の愛した女は、こんな女などではない。俺の歌姫は……こんな風に笑う女ではなかった。許せなかった。これ以上、俺の思い出を汚されるのは。
*
物語の悪魔
「 愚かね歌姫。
だけど下層歌姫の貴女には、その程度がお似合いよ。」
*
どうして?どうして?何でなの?
ドリスは城を逃げ惑う。信じられなかった。自分を愛しているはずの殿下が自分に斬りかかってくるなんて。回廊を走る内、幻聴のように響き笑う女の声がした。
「イストリアっ!まさか……」
柱の影から現れる、薄ら笑う悪魔の顔。
契約者である私を裏切った?でも、私は……これから破滅の物語を記すつもりだった。フルトブラントを惨めに殺し、そしてこの国ごと破壊する。それはこの悪魔にとっても愉しめる喜劇であるはずだ。
「何故、私の邪魔をするのイストリアっ!私が貴女の契約者なのにっ!」
「悪いわねドリス。私、唯の腑抜けた女には興味ないの」
男に現を抜かし、判断を見誤るような契約者なら要らないわ。軽い調子で悪魔が言った。
「それにあっちの選定侯、いい男じゃない。妹のために友のために口を割らずにいたぶられる様にぞくぞくしたわ。あんた達に殺させるには勿体ないから助けてあげようかと思って」
かと思いきや、自分は男に現を抜かす。不公平だ、理不尽だ。そして男の趣味が悪い。あんな男、絶対貴女に惚れないわ。そう訴えても「そこがいいんじゃない」と返させる。
(まずい……)
完全に相手のペースになっている。このままでは……
「わ、私が死んだら……っ、貴女だって、困るはずっ!」
そうだ。その事実を思い出させる。こんな怪我、悪魔が味方につけば致命傷にはならない。
(だけど……)
命に関わるような傷ではなくとも、悪魔が敵に回れば……それは致命傷になる。何とかこの場を凌がなければ。ドリスは口を動かした。
「そうよ!私に何かあれば貴女との契約は終わってしまう!貴女に貸し与えた私の目は死ぬ!私に帰る!そうなれば貴女はこの世界を見る事なんて出来やしない!」
「そうねドリス。だけど見る必要なんか無いじゃない。今、私がここにいて、この世界を見ているのだから」
そうか。この悪魔が本の中に入って来たのは、私の不甲斐なさを助けるためじゃない。私の不甲斐なさに半ば見切りをつけていたんだ。
「私は基本一つの世界で一人の人間としか契約しないけれど、別に一人としか契約できないなんて言ってないわよ?」だなんて……悪魔はとんでもないことまで口にする。私は、騙された。踊らされていた。
「貴女の人生観察する権利っていうのが貴女の死で消えたとしても、その後私がこの世界から手を引く道理はないじゃない。物語の悪魔たる私は契約無しでも世界を思い通りに操れる」
唯、契約して力を与えた方が面白いと思った時だけそうしているだけだと悪魔が笑う。
「待って……待って、イストリア様。せめて、せめて今日の夜っ!オペラ座でカロン君に会いたい!一度で良い、デートがしたいっ!彼の腕の中で死にたいの!お願い、私をまだ死なせないでっ!」
「……“哀れ、少女の傷は深く……手当をしたところでは助からない。その傷により身体の中に入った雑菌が体内から少女の身体を毒す。しかし血は止まり、皮膚は回復の兆しを見せる……身体の奥にその毒を、残したままで”」
悪魔の歌うような言葉に、ドリスの血が止まる。痛みさえ消えていた。けれど物語の悪魔は、契約者である私が……生き延びる道など示さない。続く言葉は私の破滅を予言した。
「“だが、しかし……その毒は12時の鐘を前に暴れ出す。そこから保って一時間が限度だろう。”」
「……それで、十分よ。その位あったら、カロン君は殺せるわ」
だって彼、私を愛していると言ったもの。
最愛の人と死に別れるなんて、彼が可哀想だわ。私がこんなに苦しいんだもの。この気持ちは彼だって同じ。だからちゃんと殺してあげないと。
(死んで二人で幸せになりましょう、カロン君)
血まみれのドレスで、ドリスは上層街を駆け下りる。
情報を聞き出したところで、本当は殿下も殺すつもりだった。選定侯同士が殺し合ったと言うことにする。そしてそれさえ工作。残って得するフルトブラントが二人を殺したのだと陛下と皇后様に助言する予定だった。そうすることであの憎きシエロ=フルトブラントの正体曝き、辱め、処刑して……歌姫ドリスは最愛の人と添い遂げるという計画。
イストリアが確立を弄っているのか、人に出会さない。けれど最期に時計を見たときは……もう11時を過ぎていた。あの自己愛貴族が無駄な抵抗を続けるから、こんなに長引いてしまった。
(カロン君……っ、カロン君…)
オペラ座に忍び込んだ時、館内で見つけた時計。もう0時を五分も過ぎている。
「ごめんなさいっ!カロン君っ!」
私女の子なのに、遅れてごめんなさい。30分前に着いてなくてごめんね。それで時間ギリギリに来た貴方に「ううん、私も今来たところだから」とか言ってあげられなくてごめんね。恋人失格だよね。でもカロン君は優しいから、そんな私のことも嫌わないで大好きだって言ってくれるんだよね?今月三食もやしご飯になる覚悟で夜の仕事キャンセルしてきたんだよ。だってカロン君が嫌がると思って。カロン君は仕事でも私が他の人と何かするのは嫌でしょう?でもちょっとの辛抱なんだよね。私が人魚になって、カロン君が王様になるまでの辛抱!私達きっと幸せになれるわ。だってこんなに愛し合っているんだもの……
「カロン君……?」
貴方から私への初めての誘い、記念すべき初デートの日。
もう、約束の時間を過ぎている。なのに、どこにもカロン君がいない。
「ドリス、貴女弄ばれたんじゃないの?」
ドリスをせせら笑うよう、現れたのはイストリア。観客席に腰掛けて、嘲笑を隠さずそこにある。
「カロン君を馬鹿にしないで!彼は照れて隠れているだけよ!彼は私を好きなの!愛しているの!私を泣かせるようなことはしないわ!私を驚かせたいだけ!好きな子を苛めてしまう思春期にありがちな可愛らしい性癖の男の子なの!私はそんな彼を丸ごと愛しているわ!そんなことで嫌ったりしない!」
「そうね。それなら見つけてみなさいな。残り時間の許す限り」
*
人間だった男の悪魔
「 真っ新なまま生まれ変わった。それでも彼女を目にした瞬間、約束されていたように、この目が心が奪われた。
魂の記憶を取り戻していく度に、愛しさが募る。
しかし、愛しい人よ。君は何故、そんなにも……つれない態度を取るのだろう。」
*
一人の男が居た。
天は彼に全てを与え、彼は全てを持っていた。彼は強く、美しく…天地上の誰より心優しく、慈しみの心に満ちていた。しかしある日を境に、男は狂った。
それから男は常に怒っていた。目に映る世界の全てが無性に苛ついた。
だから男は壊し続けた。殺し続けた。むしゃくしゃしてやった。それ以上の理由など無い。
人々は男を悪魔だと恐れ戦いた。あんなにも善だった彼は何故狂った。理由もなく人はそこまで残虐になれるものかと、誰もが彼に恐怖した。
二人の出会いは一冊の本。禁書と呼ばれる本を始末するため手にとった……その日男は悪魔に出会う。
その本は創作物か、歴史書か。聞いたこともない歴史を綴ったその本は、悪魔の視点で描かれる。偉大なる先人達が非業の死を遂げる度、その悪魔は彼らを嘲笑う。その残虐非道な女は確かに、その本の中に息づいていた。男はその悪魔の存在を、確かに感じ取っていた。そしてその本はまだ未完。最後の頁には男の名を記した文章がある。今、その悪魔は自分を見ているのだ。そう思うとこれまで感じたこともない、喜びが溢れた。
男はその残虐なる悪魔に恋をしてしまった。残虐を働けば働くほど、続く文章、その先で……悪魔が喜び笑う。全ては彼女を喜ばせるため。
そしてその身を地獄へ堕とすため。全ては彼女と出会うため、悪という悪を尽くした。誰よりも深い業を抱え込まなければ、そこに辿り着けないのだと男は信じていた。
しかしその向こうで出会った女は余りにつれなく、冷たい態度。釣った魚に興味がないのか、元は人間であったちっぽけな魂の由来など、知る気も起きないのか……まともに話も聞いてくれない。だからこそ自分は、自分が誰であったかなど伝えられる術もなく……こうして今も燻っているのだ。
それでも伝えられたなら。そう思わずにはいられない。
狂おしいほど君を愛していると。
*
「屋敷に帰らないのか?」
それは傍らの悪魔から……今日一日、何度も繰り返された問い。
屋敷というのはこの下層街の屋敷のことではない。おそらく上層街のことを指すのだろう。
それでもカロンは頑として、同じ言葉を繰り返す。
「屋敷の傍には、明らかに敵が待機してるはずだ」
幸いこの屋敷には敵の侵入した形跡はなく、この場の安全を高めるありとあらゆる確立を弄らせた。その甲斐あってか空に戻ってきてからまだ一度も、マイナス達に出会していない。しかし上層街の屋敷には……連中が待ちかまえている可能性がある。カロンはそれを危惧する。
俺を殺す気かと傍らの悪魔を睨むも、この悪魔余裕綽々だ。
「第五領主風情に我が敗北するとでも?」
暫定的最強である魔王エフィアルは本当に自惚れている。第二位の同僚が万年サボリ魔、イストリアは限定的力しかない。アムニシアは特殊能力が優れているだけ。他の悪魔は話にならない。
しかし今回はイストリアの力が最大限発揮される場所での戦い。アウェイの地で相手を屈服させれば今度こそ惚れた女が自分に惚れるはずだと信じているのだろう。多分こっちの世界に現れたのもそんな下心からだ。下心満載の第一領主は、さっさと事件を終わらせてあの第七領主とハネムーンに入りたそうな顔つきだ。
「負ける負けないじゃない。敵を嵌めようとして自分が嵌められたら大変だって言ってるんだよ。シエロのためにもあんまり危ないことは出来ない」
万が一でも、下町に残したシエロに危害が及ぶようなことがあってはならないのだ。そのために早急にドリスとマイナスを仲違いさせておく必要があった。
シエロを得るため俺が邪魔なマイナス。
俺の言葉からシエロを憎むドリス。昨日の夜……ドリスとの会話。その中で敢えてシエロの身を危険に晒すことで、ドリスとマイナスに同士討ちに持って行ける。
ドリスの力は脚本能力。おそらくはもう、マイナスにとって都合の悪い脚本展開を講じている。従えている悪魔の力の差でも、ドリスが勝つ。ならば次はドリスの始末を考える。これは、その先を見据えたためのイストリア攻略作戦。
「いいか、エフィアル。あの第七領主って女は芸術、文学好きの女だ。そういうのを力押しで口説いても駄目だ」
俺の作戦はこうだ。一日かけてこの悪魔に歌というモノを教え込む。その歌をもってあの悪魔を口説かせるのだ。
「お前は声が良い。顔だって良い。それで相手が振り向かないのなら、それはお前の内面が問題だ!」
「いい加減興醒めだ人の子よ。我が心は地獄の業火。我が身は一振りの剣。我は我をもって全ての戦場を駆け抜ける。全ての勝利はその果てにこそある」
完全に脳味噌筋肉族だこの悪魔。颯爽と鞘から剣を抜き、格好良くポーズを取ったところであの女悪魔はこの男に惚れたりしないと思う。
「言ってることは格好良いかもしれないけどさー……それで着いてくる女はいないって。あんたの部下って男ばっかじゃないか?」
カロンの呆れた言葉に、悪魔は赤い眼を見開いている。
いや、何故それを……みたいな顔されても。予想外の反応に、カロンは暫く言葉を見失う。
「あんたとあの女じゃ話している言葉が違うんだ。だから話したところで話せない。だから俺があんたのために歌って言う言語を教えてやろうとしてるんじゃないか」
「しかし、そのような付け焼き刃……通用するのか?」
「歌は魂。心で歌う物だってシエロが言った。あんたに熱い心があるのなら、必ず届く。あんたに足りないのは、心を言い表す術だ」
歌とは何か。その概念を脳筋悪魔に徹底的に叩き込む。
そうして約束の時間より……わざとカロンは遅れて行った。時間にして五十分。これだけ馬鹿にすれば、ドリスは兎も角その従者は怒りを顕わにすることだろう。これはあの女従者の神経を逆撫でするための行動。ドリスにはまた甘い言葉でも囁いておけば騙せる。その積み重ねであの二人を仲違いまで持っていく。その邪魔をされないようにイストリアだけは今日攻略しておきたいところ。
ドリスのことだ。俺が行くまできっと何時間でも待っている。しかしカロンが狙い通り忍び込んだオペラ座は、狂ったような女の声が響いていた。
「カロン君っ……何処!?……出てきてっ!カロン……カロン君っ!」
声の響きから感じ取る違和感。それはドリスの声だが明らかに様子がおかしい。しばらく隠れて様子を見ておくことにしよう。
カロンは悪魔と共に上の階へと上がり、客席からステージ上のドリス様子を観察し始める。ドリスはうろうろと、下の階を彷徨っている。客席ステージ、舞台裏。手に短刀を携えながら、何かを探し回るように歩き回る。
それが自分を探しているのだと知り、カノンは息を呑む。見つかったら大変なことになる。エフィアルに、自分が見つからない確立を引き上げさせた。
それから十分ほど見ていただろうか。泣き崩れた歌姫ドリスは、そのままステージに倒れ込むようにして動かなくなる。
「……死んだ、のか?」
「そうらしい」
人の魂の動きに敏感な悪魔が保証する。事切れていると教えてくれる。それでも何故だとカロンは訝しむ。早めに退散すべきだろうか。そんなことを思う間に、傍の観客席から笑い声。
「あははははっ!あんたみたいなボロ雑巾みたいな腐れ下層歌姫にしてはマシなピリオドだったじゃない!」
息絶えた歌姫を嘲笑うのは、彼女と契約していたはずの悪魔イストリア。
「利用していた男に失望され、愛したはずの男と心中しようにも、相手は来なかった!結局自分は愛されていなかったと絶望の中死んでいく魂の悲鳴は、取るに足らない醤油小娘でもなかなか良い味出してたわよ!」
悪魔は前の椅子の背を叩き蹴り付けながら、必死に笑いを耐えていた。いや、耐える気は殆ど無く、心の底からその死を嘲笑っている風でもあった。
「さて、一日ぶりね人間。自分の脚本と違った展開に驚いたかしら?」
「……そりゃあ。まさか契約者を死なせるとは思わなかった」
「あら?だってこのままドリスを生かしていても、坊やにいいように使われて、脚本能力を悪用されるのが目に見えていたもの」
そんな物語、見ていても退屈じゃない。悪魔は平然と言い放つ。勝手に動くマリオネットは要らない。糸ごと切って捨ててやる。悪魔は実に合理的。
予定は狂った。脚本は当てに出来ない。ここでイストリアを口説き落とせなかったら、この暴走を止めることは出来ない。カロンに冷や汗が浮かぶ。
「それで?私に何の用だったのかしら?」
「……エフィアルが、言いたいことがあるんだってさ」
頼んだぞエフィアル。控える悪魔に視線を送り、カロンは伴奏のためのメロディーを歌い始める。それに意を決したように、傍らの悪魔が唇を震わせた。
強く太い男の歌声。男の声は魅力的だが、拙い言葉。歌詞としてはまるでならない。しかしその飾らない言葉が、ストレートに思いの丈を等身大で歌っている。
歌詞は物語調。一人の男と、男が愛する女の物語。それがこの二人のことなのだと聞いているカロンにも解る。それでも敢えて、物語の悪魔に捧げる歌なのだからそういう形式を取ったのだろう。
突然何をと馬鹿にしていた女悪魔。その嘲笑は観察へと変わる。何この男。恥ずかしい奴。今後一生笑いものにしてやろうと粗探しを始め、じっと相手を見ている内に……音がダイレクトに届き始める。曲が終わる頃には、イストリアの頬はほんのり赤く……目はエフィアルから逸らされていた。
「……すぐにとは言わん。考えて、くれ」
「あ、馬鹿っ!」
ここは引くところじゃなくて押すところだろうがと睨み付けるもこの脳筋悪魔。慣れないことをした所為で、もう一杯一杯らしい。このへたれが。カロンは心の中で罵った。
「考えるって、何をよ?」
「我に嫁げ。俺の妻になれ、イストリア」
ストレートにも程がある。思わずカロンは吹き出した。
「冗談じゃないわ。アムニシアを敵に回してまでどうこうなりたいと思えるほど、あんたはいい男じゃないわ」
「ならば……あれを討てば、構わないと?」
「別にそうは言ってないっ!」
揚げ足を取るなと怒ったイストリアはそっぽ向いてそのまま姿を消した。傍らの悪魔にも見えていないようだから……見えなくなった、だけでもないらしい。
「消えた……」
「一度本の外へと出たのだろう」
「なら、一応……好印象だった、ってことか」
「いや……アムニシアの復讐を恐れて手の届かない場所まで逃げたとも言える」
お前の所の妹何なんだよ。カロンは言ってやりたかったが、自分の所も人様のことを言えるような妹ではないことを思い出し取り止めた。
「それじゃあ帰るか。こんな所に居て、殺人犯にされたら堪らない」
壊れた駒には、カロンも興味はなかった。
*
(……ドリス様の帰りが遅い)
城に歌姫エコーを監禁しつつ、その見張りをしていたリラ。朝帰りになるかも知れないとは聞いていたが、いくら何でも遅すぎる。もう朝も過ぎて昼。仕事の時間も近付いている。
(仮にもドリス様は歌姫。恋愛ごとのために昼の仕事を土壇場でキャンセルするようなことがあるはずはない……しかし)
こうまで遅いと心配にもなる。
「可哀想な人ね、貴女」
振り向けば頭から角を生やした女の姿。しかしイストリアと言うあの悪魔ではない。髪の色はもっと濃い色。あの悪魔より小娘臭がする、娘悪魔だ。
「……」
「私は全てを見ていた。だから知っているわ」
何のことだ。そう凄むも悪魔は動じない。
そもそも悪魔とは面倒臭い生き物だ。マイナスとその悪魔のやり取りから察するに、自分で扉を開けることも出来ない。当然内側から鍵をかけているこの部屋に、侵入するなど不可能。確認すれば部屋の何処の鍵も壊れていなかった。
得体の知れない訪問者。警戒しリラは剣を構える。そんなリラの対応に、口で説明するのも面倒だから。そう呟いて女は歌を歌った。
小一時間ほど眠っていただろうか。その眠りの中で酷い悪夢を見せられた。
「初めまして勇ましい歌姫。私は夢現の魔女、眠りの森の悪魔。この世界では歌姫シャロンと契約している悪魔よ」
夢から目覚め、嗚咽を繰り返すリラに……女悪魔は白い手を差し伸べる。
「貴女の主を殺した人間達に、復讐したいとは思わない?」
悪魔は優しく微笑んだ。
*
まだ本は完結していない。それでもイストリアは、本の中から出て来らざるを得なかった。
「お帰りなさい、お嬢様。お早いお帰りで。……お嬢様?」
出迎える使い魔への言葉もそこそこに、寝室へと飛び込んだ。そうして寝台に寝転び心を落ち着ける。
同僚が歌った歌には覚えがあった。大昔だが、面白い人間の男を見つけた世界があった。あの歌は、その世界に酷似していた。
不覚にも、ほんの少し、極々僅か。本当に微量っ!それでもその歌はイストリアの心を揺さぶった。
「お嬢様?如何なさったんです?」
「使い魔……」
寝室の前まで着いて来た使い魔。部屋の中には入らずに、そこに控える。
「……あんたは自分が悪魔になる前のことを覚えている?」
「いいえ。俺は第六公に生み出された悪魔です。彼が魂を分割して作った悪魔に過ぎません。元の魂が何処の誰であったかなど……」
「そう……そうね。私だってもう忘れたわ」
思い出したくなくて、忘れる事に努める。そうしなくとも、いつもいつも思い出そうとしていなければ、時に埋もれ忘れてしまう。悪魔になると言うことは、それくらい果てしないこと。
(私だってそれを本にしていなければ、きっと忘れていた)
あの同僚が悪魔になったのも、随分と昔のこと。あれも大分古株だ。それがまだそれを覚えていて、生前から変わらず思っていたのだと言われれば、この物語の悪魔でも……少しは動揺もする。
(でも、やっぱりあいつ嫌いよ。頭が硬くて大嫌い)
あの男が求めるのは伴侶としての私。女として、妻としての私が欲しいだけなのだ。そう。それはあの人魚達にも劣る愛情。
彼らはどっちがどっちでも良い。そう言える程、互いを愛し求め合っている。
「ああああああああああ!やっぱ苛つくわ!決めたっ!あの二人、最高のバッドエンドに叩き落とすっ!」
イストリアは飛び起きて、変身。それに気付いた使い魔はノックの後に室内へと入り、着替えの仕度を始める。
鏡に映る自分の姿。そこに豊かな胸はない。背も幾分縮み、その身体は少年の物となっている。
基本的に完全体である悪魔はどっちでもありどっちにもなれる。子供悪魔のエングリマとティモリアは完全体ではないために、性別が固定されているだけ。
イストリアが女型であることが多いのは、別段大した理由もない。女の衣装の方が個人的に好きだから。唯それだけの理由である。それの何を勘違いしたのかあの男は、それを女としての幸せを望んでいるからだとか勘違いも甚だしい。
(私だって、魔王だ)
侵略されるより、侵略する方が余程好き。土地の所有欲はないが、征服欲は胸の中に熱く滾っている。執筆し、他人を不幸にするという行為は、一種の征服だとイストリアは考える。だからぞくぞくする。あの腐れ同僚共をこの掌の上で、脚本で操り踊らせること!それこそが私の征服。
「久方ぶりの姿だが、どうだ使い魔?」
「個人的にはこっちの方が好みです」
主の裸体を観察しつつ、着替えを手伝う変態使い魔。元の魂があの第六公なのだから、多少の性癖は継承されているらしい。
ああ、そうだ。これも理由だ。だから女型を装うことが多かったのだと、イストリアは思い出す。
「変態め」
それでも僅かに満足そうな笑みが、鏡の中の自分に浮かぶ。この腐れ使い魔は、減らず口は減らないが、どちらの自分にも悶えているのは確か。エフィアルなどより余程可愛げがあるとさえ思う。一回くらいなら侵略されてやっても構わないと思える程度には、好感を抱く。
「……使い魔、歌ってみろ」
「お断りします。それは俺の業務に含まれていませんので」
「主には向かうとは、まったく使えない使い魔だ」
使い魔の皮肉めいた反応に、イストリアは笑みを溢した。ようやくいつもの自分らしさを取り戻した気になった。