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1:下町の少年渡し守

裏切りの王子

  『今度こそ君を裏切らないと約束しよう。

   心変わりが人という生き物ならば……僕は人に生まれ変われなくても良い。

   人になれた君と再び出会えたら……僕が裏切られても構わない。


   愛していたんだ。

   愛しているんだ。

   動かない君を見て、ようやくそれに気がついた。

   こんな僕を愚かだと嗤ってくれ。罵ってくれ。


   愛しい僕のウンディーネ』


 *


 最愛の人の亡骸を前に、青年は安堵していた。

 彼は思う。自身を苛む深い絶望。怒りと悲しみ。それが癒えることはない。そう確信できることは、至上の喜びだった。


(私は違う)


 過ちを犯したその男と、自身は違うと心の底から信じられた。


 「シャロン……」


 華やかな舞台で歌った、最高の歌姫。……その栄光や今は何処か。路上に打ち棄てられた哀れなその遺体はまるで路傍の石。一目に人は、それがあの彼女なのだと気付くまで……かなりの時間を要するはずだ。

 可憐な少女だったモノは今や冷たい。海のような青い眼をしていた彼女に似付かわしくない赤い血だまりに横たわる。青年は自身の身が汚れるのも気にせず彼女のもとへと跪き、抱き寄せて……ぷんと香る血の臭いに絶望を深く心へと刻みつけた。愛らしいその顔は見るも無惨に潰されて、直視出来るものではない。それでも青年はそれを涙ながらに眺めるのだ。

 まるで仮面を求めるように、垂直に顔面が切断されている。肉も骨もお構いなしに、真っ直ぐに、頭蓋の一部ごと持ち出されている。

 彼女を殺した人間は、余程彼女への憎しみ、そしてある種の劣等感を抱いていたのだろう。それは憧れ、或いは好意も入っていたのかも知れない。だって彼女の遺体の有様は、余りに猟奇的である。奪われたのは顔だけではない。彼女の腹には穴があり、子宮が引きずり出され……燃やされていたし、その咽も潰されている。最悪、死んだ彼女を見つけた人間……つまりは複数の人間の悪意を身に受けた可能性さえ有る。

 彼女はとても素晴らしい人物だった。それ故理不尽に他人の憎しみを買う人でもあった。人間とは概して偏狭で醜く浅ましい。彼女の崇高なる心根の美しさは、人の目から見て……異様なモノだったに違いない。

 彼女は人であり、その魂は人でなかった。人と呼ぶにはあまりにも、それは純粋で美し過ぎた。いっそ目眩がするほどに。


 「シャロン……僕は幸せだった」


 だから青年は確信する。失われた日々。それ以上の幸福を我が身が知る日は来ない。


 「僕は、君を愛している……」


 彼女が失われた今も、それは変わらない。この絶望こそ、永遠を教えてくれるものだと……その時彼は信じていた。


 *


海神の娘

   『はい、私が先に彼を裏切りました。

    (。すでんたっ切裏を私が彼は当本、えいい)


     だから殺されるのは彼ではなく……私であるべきなんだと思います。』

     (。すでのいなせ殺を彼はに私……らかるいてし愛を彼どけだ)


 *


挿絵(By みてみん)

 少年は空を見上げる。大嫌いなその空を。

 この世で一番嫌いな色はあの空色だ。彼にとってあの空は、自分たちからあまりに多くを奪って来た、憎しみの色だった。


 船を漕ぎ、町を巡れば嫌でも出会う。東西南北に設けられた空への道。閉ざされた城門の向こうには、天と地を隔てる長い螺旋階段。その前には屈強な兵士の姿があり、簡単には通れない。


 この階段の向こうには……城がある。城とは便宜上の名であり空中に設けられた城塞都市とでも言えばいいのか。町の上にもう一つ町がある。そう表現するのが恐らく正しい。しかし上の人間達はこの城下町……通称下町を町とは思っていないだろう。

 精々、遺跡か廃墟。そんな認識。この町は捨て置かれている。一切の救済は無い。毎年水害により大勢の人が死んでいるが、国はこの下町のために何も行わない。上の人間達は天空に築いた自分たちの都市を箱船と呼んでいるとは、少年も聞いたことがある。

 要するに金のあるお貴族様達だけが移り住むことが叶う安全な場所。あまり多くの人間が移り住んでは町が落ちる。空中に築くとはいえ、この時代の技術力では支えも無しに空に浮遊させることなど叶わない。しっかりとした無数の足場が海へと陸へと伸びて津波洪水から逃れるだけの空中都市。

 住める人間の数は決まっているようで、時折空から人が落とされる。それは生まれて間もない赤子だったり、年老いた老人だったり。そんなものを見つける度に、少年は思う。まるでここがゴミ箱みたいだと。

 勿論空の町から下町までは大分縦の距離がある。落下すれば唯では済まない。大抵は遺体となって発見される。それでも風に乗り、運良く助かる者も稀にいる。少年の知る限りでも1人、そんな人間が居た。

 その幸運な友人も今はこの町から離れている。仕事で船に乗り、余所の国へと出かけていたはず。騒がしい友人がいなくなると、本当に音がない。聞こえるのは波の音だけ。

 この静けさが日常になりつつある今に、少年は深く溜息を吐く。何も失われたのは彼だけではないのだ。

 だから少年は、憎々しげに空を見上げる。小舟を漕いで城の下を通りかかれば、天空からこぼれ落ちる歌と音楽。


(腐れ貴族共が……)


 この下町では多くの人間が毎年命を失っている。それを助けもせず自分たちはああして音楽に浸り踊り狂っていると思うと怒りすら湧いている。

 だけどちっぽけなこの僕に、何が出来るだろう。そんな諦めを少年は拭い去れない。……だからこそ、空から落ちる調べに……縋る心もあるのだ。あの音楽。その中に彼女の歌が無いだろうかと耳を澄ませて、大切な人を奪われた悲しみを紛らわす。


 「……lalararara~」


 懐かしい鼻歌で自分の心を慰める。


 「綺麗な声ねぇ……空から来たっていう歌姫さんかしら?」

 「馬鹿ねぇあんた。この国の掟も忘れたの?大体、一端空へ上がればよっぽどのことがないと下には戻れないって話じゃない」

 「それじゃああの子男の子なの?勿体ないわあんな綺麗な声なのに……男じゃ歌姫にも楽師にもなれやしないなんてねぇ」


 海に関われるのは男だけ。音楽を携われるのは女だけ。そんな妙な決まりがこの国にはある。だからその歌を歌うのは少年だろうという噂好きの女性達の会話。

 それが自分を指すことに気がついて、少年は口ずさむのを止めてしまう。聞かれていた。恥ずかしい。

 少年は我に返ったその時だ。何者かに背後から話しかけられた。


 「カロンちゃん、ちょっと向こうの通りまでお願ーい」

 「毎度あり、綺麗なお姉さん」

 「嫌だもぅ、口が上手いんだからこの子は」

 「あ、すぐそこだね。それじゃタダでいいよ。お姉さんの顔に免じて」

 「嫌ねぇっ!カロンちゃん将来良い色男になりそうで今から怖いわー!」


 満更でも無さそうに中年女性が笑う。少年の仕事は通路を海水に飲み込まれたこの下町を行き来する便利屋タクシー。船頭や渡し守と呼ばれる仕事。

 少年の父は、彼が幼い頃に水害で死んだが、最期まで船を漕いで水に飲み込まれた人を救い続けた。そんな父が少年にとっての憧れで誇りだった。父の遺した船で、その後を継ぎ下町のために働くことは生き甲斐でもある。


(また、やっちゃった…)


 しかし、そうは言っていられない事態が起きた。だというのに日々の稼ぎはそう多くない。金儲けと人のためは両立できない。そう思うのだが、どうしても親しみある下町の人々から大金を巻き上げることは出来ない。


 「カロンちゃん、これお駄賃代わりに取っておきなさい」


 女性は手にしていた買い物袋から、果物を幾つか置いていく。今日はまだ何も食べていなかったから正直有り難い。


 「ありがとうお姉さん。今後ともご贔屓に」


 笑顔で立ち去る女性に、にこりと笑って頭を下げる。

 それじゃあ遅い食事にでもしようかと小舟を泊めて、腰を下ろした。目に入ってくるのはゆらゆらと揺れる水路の海水。水面に映る自分の顔。そこに誰かの面影が重なる。

 金色の髪の海色の瞳。それがもっと長かったなら……少年のそれは別の少女のそれに近くなる。


 「シャロン……」


 シャロン=ナイアス。今はシャロン=ナイアード。

 それは少年の妹の名だ。空に攫われた妹の名だ。

 彼女は歌姫になると言い、貴族の養女になってこの町を出て行った。最初は引き留めたが、強い決意に根負けし……送り出すことになった。

 歌姫は女性だけがなれる職業で、この国で一番の名誉職。下町の女の子だって皆一度は歌姫に憧れる。一種の通過儀礼のような憧れの職業。


 この国は海神に呪われている。度々起こる水害は海神の怒りであるとまことしやかに囁かれるにはわけがある。

 昔々の話だが、この国の王子は海神の娘と恋に落ち結ばれた。彼女の名前はウンディーネ。

 それは愛らしく、心優しく……素晴らしい歌声の持ち主だった。

 しかし海神は二人の結婚を認めず、王子と娘を呪った。海神は娘を男へと変え、それでも愛が誓えるかと王子を試した。それでも王子は変わらぬ愛を彼女に誓った。

 二人の強い愛の絆を知り、海神は根負け。二人を祝福し呪いを解いた。……二人の間には子供も生まれ、それは幸せな……めでたしめでたし。そこで終わればどんなに良かったか。


 現実はお伽話よりも残酷だ。王子は裏切りを犯した。

 母になった娘より、娘である女の色香に誘われた。他の女との浮気を知ったウンディーネは深く嘆き悲しむ。その事実を知って海神は怒り狂った。

 海神の怒りで国を災害が襲ったのを期に、王子はとうとうウンディーネを見限った。王子は彼女と離縁し、他の女を妻に娶ることを決め……海神は掟に従い彼を殺せと娘に迫った。

 しかし裏切られてもまだ王子を愛していたウンディーネは、浮気を働いたのは自分だと言い王子を庇い、掟に背いたことで彼女に死が降りかかる。


 最愛の娘を裏切って、死なせる原因となった王子を……海神は深く憎み、王子と国を祟り始め、これまで以上の水害が国を襲うようになった。

 その海神の怒りを静めたのが、歌姫だった少女。彼女の人魚の如き歌声に、海神は娘を思い出し涙したという。怒りが悲しみに変わる間は海神は災害を起こさず、嘆き悲しみに明け暮れる。

 それ以来歌姫という職業が重んじられるようになり、歌姫になれば空に移り住むことが許され、社交界の一員に加われる。

 国一番の歌姫には、《人魚》の称号が与えられ……王族との結婚が許される。


 そんな玉の輿や名誉、身分目当てに人魚を目指す歌姫も多いが、そんなものを目指して……少年の妹が空に上ったわけではない。シャロンはこの下町の現状を憂い、国王、王子に直談判。そして国の改革のために歌姫になりたい。海神と話して彼の怒りを解きたい。

 歌姫の才能を見込まれ、貴族から養子の誘いがあった時……彼女はそんなことを口にしていた。

 妹は兄の贔屓目無しにも可憐であり、歌声にも魅力があった。必ずや人魚になることが出来るだろう。それでも少年は最愛の妹……最後の家族を失うことが嫌だった。

 妹は世のため人のためと行動しようとしているのに、利己的でちっぽけな自分に嫌気が差した。それでもとても寂しかったのだ。

 空に上れば滅多なことでは下に降りては来られない。それほど上での生活が素晴らしいのか、簡単には降りられない理由があるのかは下の人間からは何も見えない。唯想像するより他にない。


 「おい、カロン。そんなに水面見つめて入水自殺でもする気かよ?」


 突然肩を叩かれ、心臓が跳ね上がる。振り返れば外へ出ていたはずの幼なじみの姿がある。以前より小綺麗な格好だが、人懐っこい笑顔は相変わらずだ。


 「オボロス!驚かすなよっ!!」

 「悪い悪い。相変わらず元気ねぇなーお前」


 さして悪びれもせず友人が謝る。


 「お前、いつこっちに帰ってきたんだ?」

 「ん?つい最近。忙しいのなんのって」


 彼は商家に仕える船乗りになったと聞いている。そこそこ稼ぎも良いらしく、以前は自分とそう変わらなかった細身の身体の肉付きは多少良くなっているし背も伸び健康的な印象を与える。彼自身、自分と友人の違いに気付き溜息を吐く。


 「お前、客は?」


 暇そうだった自分の姿を見ていたのだろう。オボロスはあきれ顔。


 「今日はゼロ」


 先程の女性からは金銭を取っていないから客とカウントは出来ない。友人はそういう意味で聞いてきたのだから。


 「はぁ……そんじゃ、俺を家まで運んでくれ」

 「毎度ありー!」


 金貨を数枚投げて寄越す友人に、カロンはにやりと微笑んだ。やはり持つべきものは友人だ。こちらの事情を理解してくれているため、話が早い。


 「最近調子はどうなんだ?こっちは貿易で人手不足で忙しいのなんのって」


 くたびれたように彼は言い、舟へと上がり込む。


 「なぁ、お前も船乗りなって海の男になんね?結構儲かるぞ?旦那様にお前のこと話したら、俺の友人って事で既に高評価!お前がその気ならいつでも雇ってくれるってよ」


 その言葉は有り難い。しかし船頭も海の男だ。何より父の遺志を継いだ以上、おいそれと鞍替えは出来ない。そしてこの仕事は儲からないが誇りはある。誇りと金を天秤に掛け……こうして誘われる度段々金に傾いてくる心があるのはカロンも認めている。


 「それに、シャロンの仕送りのためにも色々入り用だろ?」


 そう。それなのだ。カロン自身、頭が痛い。

 カロンが舟を漕ぎ、町を進む中……舟に寝転んだオボロスがぼんやり空を眺めて呟いた。


 「しかしなぁ……あのシャロンが社交界の仲間入りか」


 この友人は妹に惚れている。兄であるカロンには筒抜けである。


 「お前の嫁にはやらんからな」

 「うわっ!出たよシスコンっ!」


 毎度毎度の恒例行事と友人が懐かしげに苦笑する。

 まだまだ幼いシャロンには、恋愛感情など解らずそれが伝わりはしなかったが、この友人が良い奴だと言うことくらいはカロンが誰よりも知っている。シャロンにその気が芽生えた時は、一発殴る程度で交際を認めてやろうとカロンは考えていたが、シャロンは空へと行ってしまった。それは丁度、この友人が仕事に出ていた時だった。

 それを伝えるのは心苦しかった。何故行かせたのだと罵られるかと思ったが、オボロスはそんなことはしなかった。唯一度、そうかと悲しげに呟いた後……何時も通り笑ってみせる彼はとても強い。「俺が稼いで金持ちなって、貴族になったらお前も使用人として空に連れて行ってやんよ」と笑う程度に。彼は前向きにシャロンとの再会を夢見ている。

 そんなこと無理だと諦めているカロンとは違う。


 「でも変な決まりだよな。衣食住の食住は他人から支援されてもいいけど“衣”は自分か血縁者で賄えだなんて」


 歌姫の世界には、色々と不思議な決まり事がある。オボロスの言うそれもその一つ。

 華やかな衣装に身を包む方が人目を引く。高価な衣装を他人から送られることは、歌姫としての努力もせずに一気に魅力が上がる。だからそれを防ぐための法らしい。歌と共に歌姫として成長し、歌の力で金を稼いでそれに相応しい衣装を身に纏うべき……そういう考えは正しいが、既にスタートラインからこれは酷い話。

 貴族の娘が歌姫になれば、血縁者は金がある。しかし、シャロンのように養子に入った歌姫は……後ろ盾の貴族が血縁者ではない。なので食住の支援はできても衣装は自分の稼ぎで賄うしかない。

 女の身では海には関われない。「父のように、人を救いたい」という彼女の願いは、歌姫になることでしか叶えられないものだった。その強い決意を知り、カロンは妹を送り出すことを決めた。今はその仕送りに励む毎日である。カロンが金を必要としているのはそのためだ。いくら妹が優れた歌声の持ち主でもボロ雑巾のようなドレスで歌っても馬鹿にされてしまうだけ。妹の実力に相応しい衣装を着せてやることが、彼女の夢を叶えてやるための後方支援。そう考えるなら、オボロスの好意に甘えるべきなのだ。父の遺志も自身の誇りも捨てて、金を稼ぐ必要がある。

 案外やってみれば楽しいだろうなとは思う。友人は大変そうだが弱音は吐かない。彼と一緒なら心強い。そうは思うのだけれど、この街に縛り付けられる心があるのだ。

 もし万が一空での生活に苦しんで逃げ出してきたシャロンが空から帰って来て……そこに自分が居なかったら、彼女はどんなに寂しい思いをするだろう?

 彼女の帰ってくる場所でありたい。あの家で彼女を温かく迎える自分でありたい。

 だけど本当は知っている。それはいいわけだ。そして弱いカロン自身の願いに過ぎない。

 国より人より妹が、自分を選ぶことはない。そんなことなら最初から空になど行かない。

 だから彼女は帰ってなど来ない。そんな弱音を吐く妹ではない。一度決めたことは絶対にやり通す意志の強さを持っている。自分とは違う。


 「シャロンの歌なら心配ない……俺がしっかりした服買ってやれればあいつはすぐに人魚になれる」


 あいつは外見も才能も思いも努力も十分だ。足りないのはそう……衣装だけ。

 そうだ。そのためにも頑張らなければ。


 「シャロン……」


 お前が歌姫になれば、また会えるのだろうか?それとももっと遠くに行ってしまって……二度とお前に会えないのだろうか。

 支えるために頑張らないと。そう思う気持ちと、人魚にさせたくない気持ち。戻ってきて欲しい気持ち。矛盾した感情に振り回されて、こうして今日も船頭を続けている自分がカロンは酷くちっぽけで情けなく矮小な存在に思えてならない。


 「カロンっ!前っ!」

 「前?」


 物思いに耽り下を向いていると、突然叫び出すオロボス。この辺りの道なら目を瞑ってでも舟を動かせる。何かにぶつかると言うことはないはずだ。首を傾げながら、カロンは前方を見る。当然何の障害物もない。


 「またお前はそうやって俺をからかってっ……!」


 元気づけようとしてくれるのは有り難いが、からかわれるのはあまり快いことではないと睨み付けるが、オボロスは上空を見上げたまま、今度は上だ上と叫んでいる。前とは彼から見て前の意味だったのか。


 「上……?」


 カロンは見上げる。確かに何かある。近づいてくる。落ちている。ふわと風に広がる色は人のそれとは思えない、とても綺麗な……


(空が、落ちてくる……)


 一瞬目を疑った。下町なんかじゃお目にかかれないような綺麗な人。それはその衣服の質さもさることながら、その人自身の美しさ。

 人間じゃないみたい。まずはそんな第一印象をカロンは抱く。髪の色も睫の色も本当に空を映したような色。光を浴びてその色は雲の白から明るい空色までのグラデーションを描く。この髪の毛と巻き取って刺繍をしたらどんなに素晴らしいものが出来上がるだろう。そんなことを考えてしまうような綺麗な色だった。



 「大丈夫か!?カロン……」


 どこかでオボロスが何か言ったが、よくわからない。というかどうでも良い。そんな風に感じるほど、今はその色だけが目に映る。広がった長い髪に視界を視線を奪われている。

 だけど綺麗だったのはその髪だけではない。ゆっくりと瞼を開けたその人は、海水をそこに酌み取って閉じ込めたような美しいマリンブルーの瞳。宝石みたいな目だ。そんな人が自分の上に落ちて来た。目を開けたと言うことは死んではいないようだ。しかしどうしたことか退いてくれない。その人は驚いているようだ。そこでカロン自身も気がついた。

 此方に駆け寄り固まっていたオボロスも我に返ったようだった。


 「って何してんだあんた!!突然空から降りて来て、その上……」


 みなまで言うな。言わないでくれ。カロン自身、我に返って愕然とした。


 「痛たたたた……やはり無謀だったかな」


 その人の口から漏れた声は、女のそれではない。綺麗な声だが男のトーンだ。幾ら綺麗と言ってもそれは……よくよく見ると胸はない。こいつ男だ!しかもその出で立ち。何より大嫌いな貴族に違いない。そして何より……


(男なんかに貴族なんかにっ俺のファースト……)


 この落下物とぶつかった際に、キスをされてしまった。その感触を思い出して羞恥と怒りでカロンは櫂を振り回す。


 「ぎぃやぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!!貴族が空から降って来たぁああああああああああああああああああああああああっ!!」


 事故だ。事故だとは言え、深く抉られた心の傷は癒えない。どういう風に落ちてきたらそんな風になるのか小一時間重力と風の関係について考えてみたい。

 しかし此方に心の傷を負わせた相手とは言えば、平然とした顔でこんな事を言い出す始末。


 「ここは舟か。丁度いい。下町の裏通りの三丁目まで運んでくれないか?」

 「誰が運ぶかっ!さっさと降りろっ!」


 カロンは青年を睨み付けるが目が合わない。しっかり視線を逸らしたまま彼は今のは事故だと言わんばかりで話にならない。


 「金なら幾らでも出す。頼む、舟を出してくれ」

 「嫌だ断るっ!俺は貴族が嫌いなんだ!俺は下町の人間しか舟に乗せないって決めてるんだ!」

 「カロン……そんなんだからお前の仕事儲からないんだよ」


 カロンの背後でオボロスが嘆息していた。


 「なぁカロン」

 「何だよ、今こいつ追い出すのに忙しいんだ」

 睨み付けるが友人は、顔を近づけ耳打ちしてくる。


 「見たところこの兄ちゃん、下町のことは全然わかってねぇ世間知らずだ。幾らでもぼったくれるから乗せてやれば?それに目的地こっからすぐじゃん」

 「だから尚のこと歩けって話だろ」

 「道わかんねーんだろうよ。易い仕事で儲かるんならいいだろ。目的地の俺の家からも近いしついでだと思って」


 そういうことは自分が事故に遭っていないから言えることだとカロンは行き場のない怒りから友人の顎を櫂で突く。


 「うぐっ……がはっ!ちょっ……手加減っ!たんまっ……ほら!シャロンのためにもここは耐えるんだ!」


 お前もこうなりたくなかったら出て行けと、見せしめのように友人を小突いていたら貴族男が食い付いた。


 「シャロン?」

 「あんた……俺の妹を、シャロンを知ってるのか!?」


 これまで憎いと思っていた青年貴族が一変。もしかしてシャロンの知り合い?友人か?妹は男女関係なく仲良くなっていたからあり得ないことではない。だがこの男がロリコンでないという証明も難しい。僅かな親しみと許し、それから確かな警戒心を持ってカロンは男に近寄った。


 「落ち着けシスコン!シャロンなんてよくある名前だろ!」


 だが友人からは後者が感じられなかったようで、此方の身を案じるような声が上がった。失敬な。俺だって警戒心くらい持ってる。例え妹の名を出されたからって気を許すような阿呆じゃない。少なくともカロン自身はそう思っている。

 だからオボロスが何か言ったが聞こえない。聞こえないぞ断じて。カロンは友人無視を決め込んだ。


 「ああ!確かにあの子によく似ている!そうか……君が、あの……」

 「な、なんだよあんた!」


 親しげに此方の頬に手を伸ばしてくる貴族。その手を払いのけながら、カロンは男を睨み付けた。すると彼は失礼したと優雅に微笑み……ひらひらと封書を見せるのだ。


 「申し遅れたが、私は彼女の知り合いで……君に手紙を預かって来た。話を聞いてくれるねカロン君?」


 名前まで当てられた。知り合いだというのはどうやら間違いなさそうだ。わざわざ手紙を届けてくれるなんて、実はこの男良い奴なんじゃないか?貴族にも良い奴がいるんだなぁと少しだけカロンが感心していると、何やら物騒な声が聞こえてくる。あれは人の話し声、それからガシャガシャと鳴るのは鎧の音?


 「いたか!?」

 「そっちに落ちた!探せっ!」


 その男達の声に青年貴族が狼狽える。オロオロしている様子が頼りなく、仕方ないという気になった。


 「来い。こっちだ。ここからなら歩いた方が早い」

 「え?」

 「俺の家で聞いてやる!行くぞ!」


 貴族の袖を引いて奔り出すカロンに、舟に残されたオボロスがまた何か叫いていた。


 「カロンー!俺はー?」

 「お前は帰れ!降りろ!家すぐそこだろ!あ、あとちゃんと舟繋いどけよ!」


 何やら不平が聞こえたが、当然黙殺。何とか無事に家までたどり着く。男は下町の家が珍しいのか家の中で挙動不審にあちこちキョロキョロしている。

 妹の下着でも盗むつもりなら半殺しにしよう。そう思っていたが貴族は、男だと知っていても思わずどきっとしてしまうような笑顔で笑う。


 「ここがシャロンの生家か……いい家だね。なかなか趣があって。幽霊とか出そうで」

 「出るか!あんたは下町を何だと思ってるんだ!」


 カロンが茶を叩き付けるとありがとうと奴はまた微笑み、優雅にそれを啜り出す。何をしても絵になる様が腹立たしい。


 「……で?話って何だ?さっさと本題に入れ」


 こいつに任せていてはいつまで経っても話が始まらなさそうだ。そんな予感を感じてカロンはさっさと切り出すことにした。それには貴族も茶を置いて、神妙な顔つきになる。

 その様子だとわざと本題から逃げ居ていた、そんな風にも思える。


 「それじゃあ単刀直入に言うよ」

 「ああ、そうしてくれ」

 「君の妹、シャロンが死んだ」


 一瞬、何を言われたのか解らなかった。カロンは男を振り返り、彼を凝視。嘘だろうと目で聞くも、彼は残酷にも、絶対的な絶望を再び繰り出した。


 「殺された」


 その刹那、世界が割れるような音を聞く。けたたましい音。


(シャロンが、死んだ……?)


 その衝撃に目眩を感じた。しかしそれは幻聴だ。男から奪い取った手紙を、恐る恐る開け……そこに冗談ですとかドッキリとか書いてあることを期待する。しかし、そんな悪趣味な妹ではないことは百も承知。それでもこのパンドラの箱に希望が残っていることを信じたくて、それに縋りたくて……カロンは手紙を手に取った。


 “カロンお兄ちゃんへ


 お元気ですか?私は元気でした。

 本当なら、一生……この手紙がお兄ちゃんの目に触れることがないことを、切に願っています。


 だけどこの手紙がお兄ちゃんの所に届いた時は、もう私がいなくなった時なんだと思います。この手紙は信頼できる人に預けました。私に何かあった時は、必ずこの手紙をお兄ちゃんに届けてくれるはずです。


 お兄ちゃんに寂しい思いばかりをさせてしまってごめんなさい。これからも寂しい思いをさせてしまうならごめんなさい。そして最後まで我が儘ばかりの私を許してください。


 カロンお兄ちゃん……シャロン最後の我が儘です。どうかお願いです。人魚になって……私の代わりに歌ってください。そしてどうかこの国を……みんなを助けて”


 全部を読み終える前に、もう涙が浮かんできた。必然的に下を向いているのだから涙が紙を濡らしてしまう。それでも文字は滲まず、彼女の強い意志をそこに刻んだまま。カロンの望むような言葉に変えてはくれない。


 「彼女はいつも、君を自慢気に話していたよ」


 青年貴族が慰めのような言葉を口にする。


 「彼女は空では天才と呼ばれた。だけど本当はいつも自信が無くて……本当は君の方が歌姫の才能があると言っていた。お兄ちゃんの方が上手いんだって、僕に嬉しそうに話してくれた」


 「ねぇカロン君。君は知っている?彼女の夢を」


 当然だ。俺はシャロンの兄貴だぞ。知らないはずがない。あいつは最高の歌姫になって……


 「彼女はね、本当は船頭になりたかったんだ。憧れのお父さんや君のようにね」


 父親のようになりたい。それは人を救う者になりたい。そういうことだと思っていた。

 だけど違った。本当は同じ方法で人を救えるものになりたかった。そんなこと、俺は一度も打ち明けられたことがない。てっきりあいつが歌姫になりたいものだとばかり思っていた。だって歌姫は女の子みんなの憧れで……

 その先入観こそが誤りだとカロンは知る。目の前のこの男は、兄である自分より……深く妹を理解していた。


 「本当は歌姫なんかより……君のようになりたかったんだって。あの子は優しいからね。人を救うために人を蹴落とす歌姫という仕事をあまり快く思っていなかったんだろう」


 誰もがヒロインにはなれない。大衆の心を得るヒロインは、枠が限定されている。だから他人を傷付け蹴落とし罵って……夢破れていく世界。この下町を救いたいというシャロンの瞳は……そこで何を見たのだろう?

 船頭は人を蹴落とさない。傷付けない。人を運ぶだけの仕事。だけど生と死を隔てる境界を越える仕事。溺れた人を、沈んだ人を、波に見込まれる人を寸前で救って命を運ぶ。父はそういう船頭だった。歌の才を持ちながら、歌姫にならなかった女を娶り、貧しいながらに幸せに暮らしていた。

 母が空に攫われてからも父は船頭の仕事を続けた。何故母を取り戻しに行かないのか。金になる仕事をしないのか。カロンも幼心に彼を咎めたこともある。それでも死ぬまでその仕事を続けた父の背中に認識を改めた。シャロンもそんな父の背中を見て育った。そこから強く感じるものがあったのだろう。

 同じものを見てそだったというのに、カロン自身は目の前の人を救うことしか考えられず、先のことは考えられない。改革など実行できる度量がない。そんな情けない兄の陰で幼いシャロンがこの町を救いたい思うまでに成長したのは……喜ばしいこと。お前は俺の誇りだ。だけど、それでも……


(お前は立派だシャロン。だけど俺は……俺はお前みたいになれないよ)


 国のために?他人のために?こんな時に、いきなりそんな事を言われても。


 「最期の我が儘が……他人のためってっ!そんなのってないだろ!?」


 大事な妹を失って、こんな気持ちで誰かのため?歌えるわけがない。こんな悲しい気持ち、悔しい気持ち……誰かのために祈れるか?無理だよそんなの。


 「……手紙はありがとう。でも…、もう帰ってくれ」


 壁に背を付け膝を抱えて俯いて……なんとかその言葉を青年に向かって振り絞る。窓際で風に吹かれていた彼が、カロンの言葉に歩み寄って来た。それでも拒絶の意思は崩れない


 「俺は歌えないし……男は歌姫にはなれな……」


 不意に隣に彼が腰を下ろした。此方にピタリとくっついて、それでも此方は一切目もくれず……彼が歌を歌う。

 とても綺麗な声。それは俯いていたカロンさえ、思わず彼の方を向いてしまう程。綺麗なだけではない。

 その歌に詞は無い。今はどんな優しい言葉も慰めと感じてしまうから。だから彼は旋律だけを歌う。それこそ彼の優しさだ。それでもどんな慰めの言葉より、強く激しく胸を打つ。

 悲しみが僅かに和らぐ、その優しい歌。そして妙な懐かしさ。既視感を覚える。


(この歌……何処かで)


 此方の心に気付いたのか、ここで初めて青年は歌に言葉を付け足した。それにカロンは思い出す。


(この歌……俺とシャロンの歌だ!)


 舟を漕ぎながら鼻歌を歌っていると、一緒に舟に乗っている妹が歌詞を付けて歌い出した。客が居ないときはそんな風に二人遊んで。客が来ればカロンが恥ずかしくて何も歌わなくなるのを知り、シャロンだけが歌っていた。


 《ゆらゆら 海の波間に 覗く暗い影は

  ゆらゆら 星の闇間に 私求め縋る

  嗚呼愛しい貴方 空と海の彼方に

  二人歩く街並みが 何よりの幸せ》


 その歌に人が集まり、一時期渡し守業は繁盛した。その噂を聞きつけシャロンを養子にと貴族が迎えに来たのだった。

 それでもシャロンはあの歌はカロンと二人きりの時しか歌わなかった。人の気配を感じるとすぐに一緒に鼻歌に変えて、カロンが歌うのを止めると別の歌を歌い出す。

 二人だけの秘密という暗黙の了解が、その歌にはあった。それが破れた。何だかそれは……とても裏切られたような気分だった。それでも妹に文句は言えない。憎しみを向けるべきは必然的に目の前のこの男となる。


(こいつ……シャロンとどういう関係なんだ?)


 あの歌を教えるほどだ。もしかして……兄である自分と同等。或いはそれ以上に大切な相手?


(まさか、恋人……とか?)


 兄である自分の許しもなく愛しの妹に手を出す輩は殺してやりたい。しかしその歌があまりに素晴らしいので睨むはずのカロンの目は戸惑うばかり。お前が歌姫になれよと言いたいくらい、彼の歌は素晴らしい。


 「カロン君」


 名前を呼ばれたことにも気付かないくらい、彼の歌にのめり込んでいた。そのことに気がついて気恥ずかしくなり、怒りでそれを誤魔化した。


 「な、ななななな何だよ!」

 「彼女には人魚の才能があった……だけど君に会って確信した」


 貴族がこちらを見ている。彼もまた泣きそうな顔でカロンを見る。


 「素質だけなら最高に優れた歌姫だった彼女を越えるものが君にはある。君ならこの国を救う人魚になれる!どうか私と一緒に空に来てくれ!」


 彼から眼をそらせない。それでも頷けない。固まるカロンに青年は……尚も諦めず、語り続ける。その熱い思いに承諾は出来ないながらも拒絶も出来なくなっている。


 「それに空に行けば……」


 不意にだ。彼の声のトーンが影を孕んだ。


 「彼女を殺した犯人を見つけることも出来るかもしれない」

 「!?」


 その一言。頭の中がクリアになっていく。考えもしなかった。それでも一度耳にすれば離れない……魔法のような呪いのようなその言葉。復讐。シャロンを殺した相手を……探してそして……


 「君が望んでくれるなら、私も私の持ちうる限りの力と手段を用いて、その復讐に手を貸そう。……どうする、カロン君?」


 もし自分が断るなら。この男はきっと……自分1人でそれをする。それを感じさせる何かがその男にはあった。


(本当にこいつ一体……シャロンの何なんだ?)


 唯、この男は俺の敵じゃない。解り合える。同じものを見ている。もしかしたらこの世界で誰より俺の味方……?そう思わせる協和音のようなシンパシーを感じる。

 だけどこの男は耳が良いんだな。カロンがそれに気付く前に青年は目を見開いた。その直後、カロンも聞いた。家の傍まで近づく足音。


 「向こうから声がしたぞ!」

 「今の歌、シエロ様だ!」


 「カロン!耳を塞いで!」


 シエロ?それがこの男の名前だろうか。そんなことを思いながら、言われるがまま耳を塞いだ。それでもおとは完全には遮断できない。


 「観念しろフルトブラントっ!」


 人の家の扉を蹴破り現れる鎧の騎士達。人の家を何だと思って居るんだ。弁償しろ。


 「大人しく城まで戻って貰いますよシエロ様……」


 ジリジリと詰め寄る騎士達を前に、すぅとシエロが息を吸う。そして……彼は歌った。

 だけど何も聞こえない。それでも頭が割れるように痛い。耳を塞いでいてもだ。


(これは超音波!?)


 耳を塞がず波状攻撃の直撃をくらった騎士達は、その場に倒れ込む。鎧の中まで反響して凄いことになっていそうだ。だけど他人事ではない。耳を塞いでいたカロン自身も気が遠くなり……ついには気を失った。多分家の所為だ。気を失う直前に、カロンはその結論に至る。部屋が狭すぎて反響してしまったんだ。もしこれだから庶民の家はとか言われたら後で一発ぶん殴ろう。


 *


 「……んん………」


 目を開ける。見慣れぬ天井。天井?違うこれはどうやら寝台のようだ。だがそれは所謂天涯ベッドとか言う代物ではないか?カロンはそれが自分の生活水準から見てあり得ないものだと考え、これは夢だと結論づけ一度目を閉じる。もう一度開ける。まだ見える。どうやら夢ではないらしい。


(ここ、何処だろう……)


 現実ならば尚のこと、意味が分からない。とりあえず周りの状況を確認するため身体を起こす……


 「よかった……気がついた?」


 挙動不審なカロンの枕元で、カロン以上に挙動不審な男が居た。シエロだ。

 ほっと安堵の息を吐く貴族。本当に心配してくれていたらしい。妙な感じだ。他人がそんな……貴族の癖に妙に馴れ馴れしい奴だ。

 色々と分からないことが多いが、自分を介抱してくれたのは間違いないようだ。


 「……助けて?くれたんだよな。一応礼は言っておく。……ありがとう」

 「ううん、気にしないでくれ。私が巻き込んでしまったようなものだし」

 「だよな」


 カロンが頷き正にその通りだと告げると狼狽える貴族。しかし次に狼狽えたのはカロンだった。


 「って何だよこれっ!!」


 何故か女物の服を着せられている。おまけにご丁寧に髪まで弄られ左右で結われていた。


 「あはは、大丈夫大丈夫。似合ってるよシャロンみたいで」

 「そうじゃなくて俺はっ!」


 会話が噛み合わない。この男は独特な感じで話すから。


 「君は今日から歌姫になるんだから当然だろ?男の格好じゃ歌姫になれないしねぇ……」

 「はぁっ!?」


 確かにそうだ。掟に従えば、男は音楽に携われない。職業に関する性差別は厳しく、なんでも法だけではなく宗教問題にも発展する大問題。あれやこれやとこれに背けば死刑にされる。だから男の格好のままで歌姫なんて当然無理。しかし女装したとしても……万が一その正体が露見すれば、人魚所の騒ぎではなくなる。死刑なんて、そんなの嫌だ。


 「俺は女装なんて御免だぞ!」


 髪のリボンを解き、シエロを睨むが奴と来たらにこやかに微笑するだけ。


 「大丈夫だよ。僕が守る」

 「守るって言ってもな……」

 「君を我がフルトブラント家の養子にしておいた。我が家は後ろ盾としては申し分ない」

 「は?」

 「君は今日から記憶喪失のシャロンを演じて……歌姫をやって貰うことになるからよろしくお願いするね」

 「ちょっと待て!俺は歌姫になるとは一言も言って無い!承諾してないっ!」


 カロンが反論するも、シエロは思い出すよう嫌なことを言う。


 「……君の家、もう彼らに見つかっただろ?」


 確かにそうだ。家にはあの騎士達が来た。巻き込まれたってレベルじゃない。


 「だからもう帰れない。帰ったら彼らに捕まる。君は誰かに保護される必要が生じた。だから私の家まで連れて来た」

 「それじゃあここ……空なのか」

 「うん、見てみる?」


 窓の外を見せられた。その光景に息を呑む。


 「凄ぇ……」


 城壁に囲まれた空中都市。空が近い。雲があんなに近い。


 「貴族の身分によって住める高さが変わるんだ。フルトブラントの本家はかなり高い方だと思うけど。他のエリアにも別宅を置いていてここは一番低い層の屋敷。だから一番狭いし……散らかっててごめんね」

 「嫌味か?」

 「あ、ごめん。そういうつもりじゃなくて……あんまり最近使っていなかったから掃除とか行き届いてなかったらと思って」


 一番低い場所にある屋敷か。それでも十分立派だし、カロン自身の家に比べれば嫌味な程広い。


(でも……一番早く介抱できる場所を探してここに来たんだろうな)


 そう思うとそれ以上悪くは言えなかった。

 窓の外。屋敷より少し低い場所に街があり、城壁の隙間から下が見える。広がる海は果てしない。何処までも続いていそうな希望を感じさせる不確かさ。いつも見ているはずの海が、全く別のものに見えて不思議だった。


 「王の居城まで行けば雲海を越える。もっと凄い景色が広がっている」

 「へぇ……」


 自分たちが暮らす町の上に、こんな景色が広がっていたなんて。

 整備された歩道。美しい家々。箱船という町は確かに美しい。そこに住む者達の中身がどうなのかは別として。絵画を見ているような気分になる窓枠。街行く人々は皆着飾り、まるで人形だ。けれどこの華やかな町は下町の犠牲があってのものだと思うと、この景色も歪んで見える。


 「ああ、でもここに慣れるまではしばらくは高山病とかになるから気をつけて」

 「ふぅん……病気があるのか。それじゃああんまり空の上って言うのも良いものじゃないのかな」

 「まぁ、住めば都さ。何処だって」


 シエロは変なことを言う。住めば都だって?

 下町を訪れた時のシエロの様子を思い出し、確かにこの男なら下町にも嬉々として溶け込みそうな感じではある。何というか、そう。貴族らしくないのだ。調子が狂う。


 「……お前なんで追われてたんだ?」


 つい物珍しさで脱線したが、聞きたいことは沢山あった。吹き込む風に広がるシエロの長い髪。空で見るとより綺麗な色に見えるのは、ここが下より太陽に近いからだろうか。それともこの男の風変わりさが、この浮世離れした街にしっくり溶け込んでいるからなのか。


 「彼らは今の殿下の手下だよ」

 「殿下?」

 「王様の子供。俗に言う王子様」

 「王子様に追われるなんて、お前何したんだ?」


 カロンの疑問にシエロは苦笑。君に会いたかっただけだよと笑う。


 「別に何も。下に下りる許可を求めた。だけど私は殿下に嫌われているから許可が下りず、許可無く空を降り、その妨害を受けた。わざわざ文句を言うためだけに手下を追わせるなんてご苦労なことだよ」

 「許可……?」

 「箱船の民が下に降りるには王族の許可が要る。だけどこの許可を取るのが難しい。今回は緊急だったし、陛下には会えなかった。殿下も嫌がらせで許可をくれなかった。それでも選定侯家である我が家にもゲートはある」

 「ゲートって……あれか?階段?」


 カロンの言葉にシエロは頷く。東西南北にある、この街へと続く階段。あの一つがこの男の家の持ち物らしい。


 「無論許可が無くてもその気になれば降りられる。そもそもゲートの管理者がその許可を行っているはずなんだけど、職権乱用がお好きでね殿下は。“大事な選定侯家の跡取りが野蛮な下町に向かい怪我でもしたら大変だ!連れ戻してやれ!”と、なんともまぁ親切な嫌味を送って邪魔してくる」


 少なくともシエロに限ってはその掟を破っても咎められることはないらしい。向こうが親切心という建前で追ってきている以上は。それを知って少し安堵した。


 「……ところでさ、そのさっきから出てくるせんてーこーって何なんだ?」


 シエロは下町で使われないような難しい言葉を普通に使う。空気が読めない男だ。


 「ああ、ごめん。選定侯っていうのは次期国王候補を所有する貴族の家のこと」

 「次期国王候補?王子様が居るのにか?」

 「うん、だからこそ私は彼に怨まれている」

 シエロが深々と溜息を吐く。


 「殿下は王の子ではあるけど、この国は世襲制じゃない。次期国王候補の中から新たな王が決まる」


 聞いてみたがよく分からない。この男が将来王様になるかも知れないというのだけはなんとか理解したが。


 「結局お前、なんなんだよ」

 「……僕は、シエロ=フルトブラント。僕は選定侯家の人間で、ナイアード家に養子に入った君の妹……」


 そう言えばまだ、ちゃんと名乗って貰ってなかったな。後は一人称が変わったことが少し気になった。


 「シャロン=ナイアスの恋人だった男だ」


 *


(シャロンの……恋人……?)


 今度こそカロンは絶句した。

 目の前の男が、妹の恋人?あの妹が……もうそんな年に?男を作るような年に?まだそんな年じゃないだろう。まだまだ子供らしさの抜けない幼気なあの妹が、妹に……恋人だって!?


 「……僕は、彼女を殺した相手を見つけ出し……この手で同じ目に遭わせて殺してやりたい」


 驚きのあまり言葉を返せないカロンの傍で、シエロは続ける。突然、低くなったそのトーンに思わずカロンは息を呑んだ。

 シエロが怒っている。激しい怒気を隠そうともせず虚空を睨む。見えない敵と戦っている。それは彼の中と外にある。一人きりで、戦っているんだこの男は。


 「シャロンと瓜二つの君が彼女を演じれば、人魚に近づけば……犯人は必ず現れる!」


 シエロの海の瞳が炎のような激情に燃え上がる。つかみ所無くふわふわしたこの男が、ここまで怒りを顕わにしたのは初めて。


 「君をこんな事のために利用するのは、巻き込んだのは本当に心苦しい。申し訳ないことをする。僕に出来る償いなら何でもする……!だけど……っ」

 「シエロ……」


 情けなくも、とうとう男は泣き出した。だけど……流れたのは一筋だけ。両目一杯に堪った涙を塞き止める。その全てを解放する術を、この男はまだ知らないのだ。それが出来るのはきっと……この復讐が終わる時。その日までこの男は、この悲しみを身体の内側に抱え込んで貯め込んで……押しつぶされて生きていく。それがとても可哀相だとカロンは思った。


 「この怒りを、悲しみを……理解し一緒に復讐してくれるのは、きっと世界中を探しても君だけだ!君以外にあり得ないっ!そう、思ったから僕は……」

 「……国のためっていうのは嘘だったんだな」


 冷たい声が出てしまった。別に見下したわけではない。唯、どんな風に言葉を紡げばいいのか、解らなかったんだ。


 「……軽蔑した?」

 「いや……」


 そっとシエロに歩み寄り、……意を決しカロンは片手を振り上げた。


 「恋人の癖にあいつ守れなかった腑抜けだとか俺の大事な妹挨拶も無しに付き合っただとかそもそもお前らどこまでやった仲なんだとか!恨み言や言いたいことは山ほど有るが……むしろ初めてあんたに好感持った!」


 その衝撃に彼の涙が散ったのか、驚きのあまり飲み込んでしまったのかは知らない。見ないようにした。唯、手が痛かった。

 息を吸う。これから自分は引き返さない言葉を口にする。最悪死ぬかも知れない。

 それでも大好きなシャロンを殺した相手。……そんな相手が今も生きていて、俺をこいつを苦しめている。それはあってはならないことだと思った。

 この男はカロンが協力しなくとも、きっと一人でそれに挑んでしまう。そんな孤独な男が同士として自分を求めてくれている。それは、信頼と呼んでも良いのではないか?

 この男は何故か俺を信頼している。深く信じている。その信頼を……裏切ってはいけない。それだけはしてはいけないような気がした。

 それにもしもの話。もしここで降りて、噂でこの男の死を耳にしたら……どんな気持ちになるんだろう。

 目の前で溺れかかっている人間。その命。救えるかも知れない。それを俺は見捨てて逃げることにならないか?ここに舟が櫂が無くとも……俺は船頭ではないのか?救える命があるのなら、少なくとも目の前のものは死なせない。それが俺の親父の仕事だったはず。


 「そういうことなら、付き合ってやるっ!あいつ殺した奴なんか…俺だって許せねぇよ……!」

 「ありがとうカロンっ!一緒に犯人血祭りに上げて、シャロンの仇を取ろうっ!!」


 感極まったと抱き付いてくるシエロ。下町は此方のテリトリー。いろんな匂いが溢れてる。あの時は気にならなかったが、香水でも付けているのかと今更気付く。甘くて妙に良い匂い。そして甘いのは他にも……奴の声だ。喜びの感情がそのまま宿ったその声は、此方の心臓がどうにかなりそうなくらいの破壊力を持つ。とんでもなく良い声だ、こいつ。本当にこの男が歌姫やればいいのにと思うくらいに。こんな良い声でも歌姫になれないなんて……掟は残酷だ。


 「ってそうやって俺に近寄るなっ!」


 下町での一見を思い出し、その手を引き剥がす。そんな傷ついたみたいな顔するなよ。こっちが被害者なのに加害者にされたような嫌な気分だ。

 いや、それはない。酷い。常識的に考えろ。分かり易く例えるならあれだ。強姦した側の男が、女に文句言われる前に自分が掘られたような顔をするようなものだ。やっぱり悪いのはこの男だ。俺は悪くない。


 「でもある程度仲良しを演出しないと。君は僕の恋人だったシャロンの振りをするんだし」

 「……つーことはいつもこんなノリで俺の妹にくっついてたんだなこの野郎っ!許さんっ!平手じゃ済まさねぇっ!その綺麗な面ぼっこぼこにしてやんぞっ!」


 拳を握って息を吐きかけ……奴の顔を見て、手が動かない。こんな女みたいな顔した男、殴れない。手を平手に変えるがやっぱり無理だ。仕方ないので足を思い切り踏んでやった。

 そんなことくらいで涙目になるなよ。情けない男だな。でもやっぱ器用に泣けないんだなこいつは。また涙を飲み込んだ。


 「はぁ……面倒臭い奴」


 とても年上とは思えない。妙な男との共同戦線。命懸けの復讐劇だっていうのに、どうにも締まらない。この男がこんなふわふわした感じだから駄目なんだきっと。

 カロンはこれからどうなるものやらと、深く深く溜息を吐く。

空から可愛い女の子が振ってくると思うなよ!残念っ!野郎だ!

二次元だってのに、世知辛いもんだぜ。

可愛い女の子かと思ったのに、やって来たのはネコにもタチにもなれるとんでもない野郎ヒロインだ。参ったね。


次回から続々女の子増えるけど、どうなることやら。

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