18:ゆうぐれにうたうはじまりのうた
物語の悪魔
『日は翳り傾き、夕暮れは夜を呼び、夜は我々悪魔の領分。
すべてのはじまりは、おわりのために。
口を閉ざすことが出来ない哀れな人間は、愛を囁き裏切りの坂を駆け下りる。
さぁ、なればこそ!沈黙を尊び声を失え人魚姫!
その歌の先には、身の破滅しかあり得ぬのだから!』
*
「ねぇ、カロン君……ちょっといいかな」
勉強として本を読ませられていたカロンは本を片手に寝転がっていたが、扉をノックするシエロの声に飛び起きる。
「ん?何だシエロ?」
「あ、ちゃんと勉強してたんだね。偉い偉い」
資金調達の目処は立った。新しい衣装のデザイン。そのイメージ固めにと、様々なドレスのカタログを見せられていた。どれもこれもキラキラしていて眺めるのは楽しいが、ゴテゴテしていて長時間見ていると疲れてくるのは確か。呪い発動の警戒のためにメイド服を着ているシエロくらいシンプルな方が、一周回って可愛く見える。
そんなことをカロンが思っていると、シエロが扉の外へと手招き。隣の部屋まで誘った。
「ええと、ちょっとこっち来てくれる?」
「あ、ああ」
「昨日は暗くて見えなかったと思うんだけど」
「し、シエロ……こんな昼間から」
意味深な台詞に反応すれば、違うよと不平の声が上がる。
「いや、別に今はやらないよ。そういうのじゃなくて、見て欲しい物があるんだ」
「え?」
「君に隠し事するのは良くないと思ったし、歌姫ドリス……彼女の相方が恐ろしい女だって事もちゃんと覚えていて欲しい」
シエロはエプロンとブラウスを脱ぎ……ワンピースを腰までズリ下ろし、そしてカロンに背中を向ける。
何もない。一瞬そう思ったが僅かに視界の端に映るモノ。それは肌に押された何かの模様。近づいてみてみれば、それは入れ墨と肌を焼いた傷。それが下着の中まで続いている。
少し捲ってみればその全体像も見えてきた。左の上尻に、何かの紋章が描かれている。
「これ……何だ?」
「ナイアード家の紋章。シャロンの代わりに僕が受けた。昨日は暗かったしファンデーションで隠してたから会場の人たちにはバレてないと思うけど」
拷問、虐待を受けるシャロンの代わりにシエロはそれを申し出た。普通の拷問では人魚の回復力を持つシエロには消えない傷を作れない。だから治らない何かを考えた……歌姫マイナスは。カロンがその傷を、指でなぞればシエロが僅かに震える。
「シエロの回復力でも治らないなんて……」
「こればっかりは流石に無理だよ。ご先祖様、根っからの水属性だし」
「……痛く、なかった?」
「痛くないわけ無いよ。これに比べれば他のことが何でも大したことじゃないように思えるくらいには、痛かったかな」
俺に襲われたも大したことはないと言うその口調。これを押されたときのシエロの苦痛、想像するだけで身体が震える。
そそくさと服を着たシエロは、カロンの様子を見て一呼吸。後に軽く微笑する。
「彼女の怖さは解って貰えた?」
「う……うん」
「よし!じゃあ暫く僕が君の仕事には護衛で付き添う。それでいいね?」
「お前、強いの?」
剣を手に取り笑うシエロ。でも見た感じシエロはそんなに筋肉はない。男のままでも胸さえ詰めれば普通に女に見えるくらいだ。
「ええと、そうだな……はい、これ。長さは丁度いいかな」
モップを俺へと差し出して、自分は剣の鞘を手に取る。モップは鞘より長い。体格差、身長差を覆すにはもってこいの得物だろう。負ける気がしない。
「おいおい、俺結構自信あるぞ」
「あはは、だろうね」
舟を漕ぐのには結構体力とか要るし。昔から櫂を片手に、シャロンに寄りつく悪い虫を排除するため追いかけ回したりしてた。オボロスなんかも最初はその一匹だ。あいつはへたれだからシャロンを苛めはしなかったから無害な虫だが、好きな子を苛めるタイプの悪ガキは下町にだって幾らでもいた。俺の櫂さばきがあったからこそ、シャロンには手を出すなと奴らは震え上がったわけだから、俺だってそこそこ戦える。
(シエロと手合わせか)
俺も男だからこういうのは好きだ。シャロンが空に行ってからは俺に絡んでくる奴らも減った。チャンバラやるのは久々で、心が躍るようだ。
「手加減無しで頼むよ」
「当たり前だろ、じゃあ行くぜっ」
……結果として俺は、慣れない女装で見事に敗北した。シエロだって女装だって言うのに俺は俺が情けない。
「いや、でも驚いたよ。カロン君の一撃重いなぁ……普通に僕が筋力負けてる気がした」
感嘆しつつ少し凹んだ様子のシエロだが、カロンも同じような気持ちだ。
「お前だって何だよあれ」
「突きの剣技は割と厄介だから仕方ないよ」
攻撃力自体は大したことはないシエロだが、繰り出す素早い突きは打ち払うのが難しい。数度打ち合いあっという間に喉元を捉えられて、負けを認めるしかなくなった。
「少しは護衛として認めて貰えた?」
「ああ、……よろしく頼む」
「うん、任せておいて」
シエロはそう言って笑うけど、最初は見せるのを嫌がっていた背中を見せてくれたんだ。それは俺への心配と、俺への信頼。
シエロが弱くはないのは認める。それでも狙われるのはシエロの方だ。俺だってシエロを守りたい。流石にモップを持ち歩くことは出来ないが、無いよりはマシ。アルバに貰った得物を肌身離さず持つことにしよう。
(アルバは俺がここに来てからシエロが元気を取り戻したって言った……)
そうなら良いと思う。俺がもっと笑わせてやりたいって思う。シャロンに負けないくらい、この人を。
「それじゃあ仕事の時間まで、歌の練習でもしようか?今日は夕方から下町でライブが入ってる。シャロンが良く歌っていた歌は何曲かマスターして貰いたい」
「解った」
「もし無理そうなら僕も呪いで女になってそのサポートに入る」
「ああ」
「でも歌詞が解らなくても曲に乗って即興で歌ってくれても良い。君の歌いたいことを歌ってくれていい。そういうのの方が良い?」
「……ふ、普通に覚える方がまだ、なんとか」
「そう?なんならこの間の歌でもいいよ。僕が伴奏に入る。この場合やっぱり男だと法律違反で出来ないから変身しないといけないけど」
言われて思い出す。そうだ、この国には歌姫だけではなくて楽師も女しかなれないという掟があった。
「これまでシャロンはどうしていたんだ」
「人を雇ったりもしていたけど、彼女の場合は下町なんかで歌うのはアカペラが好きでね。そうしていると自然と人が集まって楽師達が勝手に伴奏してくれるんだよ。無償でね。歌姫シャロンと一緒に音楽を楽しみたいって人もいたんだろうね」
彼女の歌は彼らにお金以外の何かを思い出させてくれたんだろう。シエロは愛おしげに眼を細める。俺を好きになってくれたとはいえ、シャロンが嫌いになったわけではないのだ。仕方ない。
「まぁいいや、それじゃあそこに立って」
シエロは自室の楽器に手を置いて指を動かす。見たことはない楽器だ。アコーディオンのような鍵盤があるが、空気を送らず音を出す。覗き込めば無数の弦が張っていた。
見つめていたらシエロがそれはチェンバロって言うんだって教えてくれた。
「じゃあまず僕がお手本に歌ってみるから聞いててね」
そうして歌い出したシエロ。その歌を聞いていて思う。この人の歌を、もっと大勢の人に聞いて貰いたいな。俺一人だけの物にしているのは勿体ない。歌姫シエラにあのナルシストが興味を持ったのだって、もしかしてこの歌声に惹かれたからなのかもしれない。
シエロの歌を聞いていると、シエロと出会った日を思い出す。シャロンは歌姫ではなく船頭になりたかったとあの日シエロは言った。
シエロの歌を聞いていると思う。
(男とか、女とかじゃなくて……)
そういうの、関係なく……誰もが好きな風に生きられないものか。歌いたいなら歌えばいい。海に触れたいのなら触れればいい。人はどうして自ら枠を狭めて囲って楽しむのだろう?そうして何かを見下し排除しなければ、息も出来ない生き物なのか?そんなのきっと、あの海の底より息苦しい。ここにはたくさんの空気があって、あんなに綺麗な空があるのに。それなのにそこで暮らす人達は、どうしてあの空のように広くはなれないんだろう。
魂は、もっと素直に感じ、何かを思うはずの物。人はそれを持って生まれてくるのに、どうして底から生まれる物を、否定して生きなければならないのだろう。不意にカロンは……それが不思議で堪らなくなる。
歌は魂の声。それでは人の身体とは何か。人が発する言葉とはなんだろう?
(嗚呼、そうか)
それの名前は、多分……“嘘”。人は嘘を纏って生きているんだな。シエロが俺を拒んだように、魂の声を人の身体は否定せずにはいられない。だからどうやればその魂を、心を通わせることが出来るのかと人は思い悩む。
「こら、カロン君。今は歌の勉強中だよ?」
カロンはぼーっとしていることをシエロに注意されたが、歌自体は聞いていた。聞いていたからこそ思ったことだ。
「キスしてぇ」
「……は?」
思ったこと感じたことを自分はそのまま言葉に出来るだろうか。それと試してみたけれど、シエロは呆気にとられている。
「シエロ、キスしたい」
「可愛く言っても駄目!」
「してくれるまで俺は歌えない」
「君って子は……時々よくわからないよ」
「それじゃあ俺をわかるためにも是非すべきだ」
「もうっ……カロン君ったら」
意味がわからないとシエロがくすくす笑い出す。
「それじゃ、この後はちゃんと真面目に練習しようね?」
シエロは笑ってキスしてくれるけど、場所が不満だ。この照れ屋め。部屋中のカーテンでも下ろさないと口にキスも出来ないのか。
「頬はカウントに入らない」
「入りますー」
「いや、入らない」
「それじゃあ、今日の仕事が終わってからね」
それまでお預けと優しく微笑まれたら、俄然やる気が出た。心がふわふわ、わくわく、うきうき。楽しい気分が溢れ出す。
「わかった」
嗚呼、幸せだな。こんな幸せな気持ちで歌えるなんて。心で歌うっていうのは本当だったんだ歌は。
忘れかけていた俺の、歌への憧れ、歌う喜びを教えてくれたシエロには本当に感謝している。
(なぁ、シャロン)
お前は船頭になりたかったかもしれないけど……親父が死ぬまで俺は、歌姫になりたかったんだって知ってたか?
空から仕事で降りてくる上層街の歌姫達。他国の王族貴族に呼ばれて出掛けるために、親父の舟に乗った人。凄く綺麗だねって二人で騒いだな。親父の調子外れの舟歌なんか、相手にならない。
歌姫は小さく笑って綺麗な歌を歌った。他の上客や、道行く人。それに惹かれて舟へといろいろな物を投げ込んだ。勿論下町の連中が相手だ。お金を投げ込む人もそんなに沢山は入れられない。けれど魚に野菜に果物に……自分が持っている物でなにかあげられるものがあったらみんなそれを投げ込んだ。
その人は舟を下りて親父にお金を渡し、贈られたプレゼントを貴方の素敵な歌への対価ですと果物一つを手にとって、後は全てを置いていく。歌の世界で生きてきた人から見れば、親父の歌なんかゴミ屑同然。それでも罵るどころかあの人は色々置いていった。客を楽しませようとする親父の歌を気に入ったのかも知れないな。
だけど幼い俺には、その人が魔法使いのように見えた。歌一つで下町の人々をあんな笑顔に変えて。うちの家計も助けてくれて。馬鹿みたいな話だけど俺は何かの奇跡を見たような気にすらなった。
女装したいとかじゃないけど、あんな風に輝いて……素敵な歌を歌って誰かを笑わせて毎日暮らしていけたらそれって凄い幸せだよな。そう思って見送った。
シエロとの出会いは、幼い日の俺の夢をこうして叶えてくれようとしている。
シエロは俺にとっては歌姫だ。魔法使いだ。俺をこうして笑顔にしてくれるんだ。
(それなら俺は……お前の歌姫になりたいな)
お前を幸せだって、毎日笑わせてやりたい。言葉だけでは完全に伝わらない響きがあるのなら、歌に乗せてお前に託そう。
「わぁ、カロン君!今の感じっ、とっても良かったよ」
シエロが笑う。すごく、嬉しそうに。
伝わったかな。届いているか。ああ、きっと大丈夫。
*
「だけどいきなり下層街での仕事か……」
仕事の時間が刻一刻と迫り、カロンは緊張の色を隠せない。シエロは何時の間に作ったのかわからないケーキを出して15時のおやつの仕度をしている。
「いきなり中層街は無理だろう?リハビリって名目も兼ねて」
「でもお前は下層街の仕事には来られないんだろ?」
「だけどその甘さが今回の事件を呼んだ。それなら僕が君の護衛に付くのは問題ないよ」
「そっか」
シエロが一緒なら心強い。歌姫としての仕事はまだカロンはやったことがないのだ。彼のフォローは有り難い。
カロンが手にするのはスケジュールの刻まれた手帳。新しくシエロが買ってくれると言ったけれど、シャロンの形見を貰った。まだ今年の分の頁はいくらも残っている。
その中にはシャロンがこなしていた頃のようにびっしりとではないが少しずつ仕事がそこに記されていく。
「なぁ、シエロ。復讐終わったら……俺どうしよう」
「どうするって?」
「歌姫の仕事」
「なんなら本気で一緒に玉座と人魚目指してみる?」
シエロは冗談めかして笑う。
「なんてね、それとも僕もカロン君のお家にお邪魔して、君が渡し守やってる間に掃除洗濯炊事でもしようか?」
「でも下町危ないぞ?津波とか来るし。その時お前に鮫とか寄ってくるだろうし」
「そうだね。やっぱり下町の安全をどうにかして貰わないと。王位継承権を蹴って殿下に下町支援をお願いしても良いんだけど、彼僕の言うことは聞いてくれそうにないしなぁ……」
「俺、人魚目指してもいいぞ」
「え?」
「お前と一緒なら……それに俺にも呪いが掛かったんだし、歌姫やるのもそんなに危険じゃなくなった」
呪いを貰う前は常に男。ばれたら一巻の終わりだった。しかし今は違う。誤魔化すことは大いに可能。
「でも、他人事だよ」
「お前しれっと薄情な」
「あんまり重い物抱え込めないんだよ僕は。シャロンの話を聞かなかったら僕は王位を目指すこともなかった」
「シエロ……」
「事実、その他人事のためにシャロンは殺された。誰かを救いたいって言う優しい気持ちも人の怨みを買う世の中だ」
そんな世の中命を賭けて上を目指す価値はあるのか。本当に今ここにカロンが居なければ、復讐を終えたらさくっと命を投げ出しそうな軽々しさでシエロは言葉を紡ぐ。その言葉が重みを増すのは、カロンの方を見てからだ。
「カロン君。僕は君まであんな風に殺されたりするのは嫌なんだ。犯人を殺したら何処か違う国に行くのも良いと思ってたんだけど」
「だけど、それって……」
救える命を見捨てて自分たちだけ幸せに。そんなこと本当に心から喜べるのだろうか。俺の生まれ育った街はそれからも海神の怒りを受け続ける。彼らが何をしたわけでもないのに。
「まぁ、考えておいて。まだ先のことだよ。基本僕は君の考えに賛同するよ」
つかみ所がないわけではないが、なんだろう。海月のような男だ。波に乗ってフラフラとそのまま何処かに流れていく。全体的にやる気がない。
「シエロには何か夢って無かったのか?」
「夢も何も僕の未来は選定侯以外の何も無かったからね。必要な知識と教養叩き込まれて生きてきただけだし。後は優秀な歌姫を傍に置いて王を目指せって話で。シャロンに会うまで何度も歌姫送り返していた僕には両親共に呆れていたよ」
貴族も貴族で楽じゃないと、シエロは肩をすくめている。
「これ以上我が儘言うなら塩水ぶっかけて、いっそナルキスか殿下の所に嫁がせると脅されたこともあった。女作らないならお前が産めって」
「そ、それはまた……あれだな」
シャロンに感謝。シャロンに敬礼。シエロがシャロンと出会ってくれて良かった。本当に。じゃなきゃ俺とシエロは出会ってすら居ない。
「でもシエロって歌上手いよな」
「一応人魚の子孫だからね」
「もし女だったら歌姫なろうとか思わなかったわけ?」
「それって何か狡くないかい?」
「狡い?」
「他の歌姫達をご覧よ。才能の無い子は身を削って頑張っている。それを僕は血で歌う。大した努力もしないでね」
だから僕の歌は歌なんかじゃない。シエロが吐き捨てるように自らを卑下。
「本当の歌って言うのは血でも才能でもない。魂さ。心で歌うんだ」
歌は魂の声。魂の言葉。だから豊かではない心の自分に本当の歌は歌えないのだと彼は言う。誰かに何かを伝えたいという気持ちがない。別に知って貰わなくても良いよ。どうでもいい。何とも投げやりな彼らしい。
(だけど、その割りには……)
下町で、出会った日にシエロが歌ってくれた歌。それは僅かに俺の心を癒してくれた。
それをカロンは思い出し、シエロの言うこととはどうもぴたりと当てはまらないように思った。
「いっそ無難にナルキス辺りが王になれば一番良い。彼は臣下の言う事なんて聞かないだろうし、下町の人が彼を褒め讃えればそれで下町の問題を何とかしてくれそうだ。いや……王にさえなればやってくれるかな。肝心の王にするまでが大変だろうけど」
「でも……お前は」
「僕の心は大勢の人に歌えるだけの力がない。第一僕に歌う気がない。だから僕は歌姫は愚か王の器にもない。見知らぬ誰かを救いたいとも感じない。そこまで傲慢にもなれない」
例え自分一代だけの時代に支援を行っても、次の代の王にそれを無かったことにされるかもしれない。どうせ見捨てられるなら、下手な施しは残酷だ。海から身を守る術を知らない時代が来た時に、いきなり海に投げ出されるようなもの。
「カロン君、この空……箱船という街には多くの人は移り住めない。蹴落とし合いで時折勝手に人が間引かれるから街が沈まないだけの人間を保てるだけで」
「それなら堤防を作って……」
「その堤防を作るための税金は民から取るわけだろ?下町の生活は余計苦しくなる。第一自分たちのためにならない物のために金を使うことをこの街の人間は嫌がる。議会を上手く通って堤防を作れたとしても、海神がそれを越える波を作れば意味がない。根本的解決はやはり海神との蟠りを解くという一点に尽きる」
「海神との対話か……それって王と人魚にならないと出来ないこと?」
「正確には城に保管されている人魚の衣装が必要。海神を呼ぶことが出来るのは、真に人魚を名乗るに相応しい、歌姫の歌声だけ」
それを知らない歌姫が多いからこそ、誰かを殺してのし上がるなんて発想が生まれるんだねとシエロは溜息を吐いていた。
「それじゃあ別に人魚にならなくても……歌と衣装さえ何とか出来れば」
「歌は何とかなってもね。衣装は殿下と陛下が絶対に渡してくれないさ。お年を召されたとはいえまだ人魚は健在だからね。まぁ……もう海神も彼女の声に答えなくなってきたからこそ災害の頻度が増してきている」
「海神は若い娘が好きなのか?」
「それはそうだろうけど、それだけじゃない。人間年を取れば丸くなるとも言うけれど、そうじゃない人も多いんだ。彼女はその典型的な例。人魚として崇められる内に彼女は女になってしまった。そういうことだよ」
女になった。その言葉にこの数日で出会った歌姫達を思い出す。彼女たちは確かに、皆女だ。人魚という最高の位を目指す。その内で彼女たちは娘ではなく女になった。自分勝手で我が儘で、心根が腐っていく。
エコーは自分の怒りをシレナに当たり、シレナは弱気で仕事を投げ出しかけて、シャロンが死ねば良かったと思っていたと言う。ドリスは言わずもがな、マイナスはシエロとシャロンを傷付けた。彼女たちは何のために歌を歌うのか。今思えばあのオペラ座で見た、目を奪われた光景さえ……何か底知れぬ悪意が漂っていたのではないかと疑う。
女は怖い。笑っていても腹の底で何を考えているのか解らない。嗚呼、それはきっとシャロンだって。俺には無邪気に見えたけれど、シエロにしたことを聞いていると無邪気とも言えなくなってくる。俺がシャロンに騙されて、踊らされていただけなのかも。そう思うと必死になって彼女への仕送りを考えていた俺はなんて滑稽なんだ。
(女の歌が海神に届かないなら、それなら尚更だ)
歌姫は男がなればいい。男同士殴り合ってでも話し合えば良いんだ。「てめぇいい加減にしろ!何人無関係の人間殺せば気が済むんだ!ふざけんな」って。なんとなくだ。女の歌姫はそう言う歌は歌わない。歌えないんだろうな。きっと歌も化粧や宝石みたいなものに見えて居るんだ。歌は魂なのに。
「それなら尚更、シエロの歌は海神に届くんじゃないのか?お前は女にもなれるけど、お前は女じゃない」
この人の心は女じゃない。この人の魂は男であり、そして海神の娘だ。失った愛しい人のために怒り狂えるこの人は、この国を呪った海神に似ているのだ。その海神に話しかけ、よりよい方向へ持って行けるのは後にも先にもこの人しかいないのではないか?
「なぁ、シエロ……」
「僕の心は僕の歌は、この目で見てこの手で触れられる……そんな人達にしか向かわない」
「それじゃあお前の傍にいて、お前に触れられる。ここにいる俺のためには歌ってくれる?」
「ああ、何時でも、幾らでも」
「それなら俺の傍にいて。それでその時、一緒に歌って」
シャロンに謝るときは一緒に謝る。その代わりにと。そうカロンが頼み込めば、シエロは苦笑しいいよと言う。
「君が人魚になったときは僕も王か。それなら法に背いても問題は無いのかな」
その法を左右できる立場になるのなら、確かに掟など無意味。シエロはゆっくり頷いてくれた。
「それじゃあシャロンのためにも、君の夢のためにも……まず目の前の仕事から着実にこなしていこう」
さぁ、そろそろ仕度をして出掛けよう。シエロが跪いて、カロンの手を求めた。それにカロンが応えれば、恭しく一礼し彼は立ち上がる。
「行こうか、“シャロン”」
「ええ、シエロ」
*
とうとう始まった、カロンの初めての路上ライブ。下層街での仕事なんて簡単な物だろうと何処か舐めていたのは事実。それでも迎えられた歓声に、カロンはすっかり怖じ気づく。
(どうしよう)
声が震えて上手く歌えない。音は外さなくとも大きな声で歌えない。
そうだ。これまで俺は……人前で歌って来なかった。俺に集中する人の視線が怖い。何を思って何を考え人は俺を見つめてる?
歌姫シャロン。選定侯フルトブラントの恋人。それを知っていても送られる視線の全てが歌への共感だけではない。視線は小さな胸を見る。臍を見る。その下へと注がれる。小振りな尻にも向けられる。そういう仕事はやっていないシャロンに対しても、そういう目で奴らは見てくる。
(くそっ!シャロンは俺は……シエロの物だってのに)
ちゃんと歌を聞きに来てくれてる人に失礼じゃないか。
(いや……)
失礼なのは自分の方だ。そんな人達に、ちゃんと歌を送れていない。
視線に惑い声が消える。身体が強張っていく。
(シエロ……)
必死に彼の姿を探すが、観客の中には紛れていない。舞台裏で彼は護衛に努めている。誰からも見えない位置で怪しい動きをする者はいないかと探っているのだ。
けれどいきなりこんな夢と現実のギャップを叩き付けられるというのは辛い。あのオペラ座はこんな雰囲気では無かった。もっと神聖な舞台に見えた。
(いや、冷静に考えろ)
今の俺は女だ。歌姫シャロンだ。真っ当な男が好きな女の子にそういう想いを抱くのは当然だ。俺だってシエロが扇情的な衣装でも身に纏っていたらそりゃあ余裕で見る。ガン見する。だけど俺は悪くない。それはシエロが悪い。それなら確かに彼らは悪くない。悪くない……とは思うのだが、この視線は歌姫デビュー初日の俺には耐えられない。
そんな視線を跳ね返すほど、今の俺の歌に魅力がないのだ。歌姫としての力量不足をカロンは深く痛感していた。
「それじゃ、一旦休憩です。皆様後半までお楽しみ下さい」
休憩室として借りた近場の宿の一室。司会の声もカロンの耳には入らない。この様で、ここから持ち直せるのか?思えない。
どうしようどうしよう。その不安ばかりが押し寄せる。
「シャロンちゃんまだ病み上がりだから調子悪いのか?」
「いや……風邪引いたって大声でライブやるようなあのシャロンが?」
逃げ込む前に聞こえたファン達の声。違和感を覚えられている。もっとしっかりシャロンをやらないと。
「大丈夫?シャロン?」
「シエロ……」
先に部屋に来ていたシエロ。心配そうにこちらを見ている。手渡された瓶の水を飲み、一旦男に戻る。そして今度はまた塩水で咽を潤し女に変わる。
「あんなに人いるとは思わなくて……」
緊張して駄目だった。面目ないと告げれば、気にしないでと彼は言う。
「人前で歌うのって緊張するよね。僕もだよ。半年前は本当……シャロンが傍にいてくれたから出来たことだ」
「シエ…ろ…っ」
まだ塩水の残る口内。深く口付けられればシエロの視線が低くなる。
「あ……忘れてた」
しまったと、ボタンのはじけ飛んだ胸元を女になったシエロが押さえる。
「ねぇ、カロン君。人前で歌うのと僕とキスするの。どっちが緊張する?」
「シエロとやる方」
「そっか。それならもう大丈夫だよね?」
お預けって言ったのに、ここで僕からやったんだから。シエロは悪戯っぽく笑う。とりあえずそのけしからん胸をどうにかしてくれ。やっぱり女になったシエロも良い。自分からキスするのが恥ずかしかったんだろう。紅潮した頬が可愛い。
(今……俺女なのに)
女のシエロにドキドキする。女のシエロも女の俺にドキドキしている。してくれている。その事実がカロンは嬉しくて堪らない。どんなに姿が変わっても、愛せるし愛して貰える。こんな幸せなことがあるだろうか。シエロの反応は、俺の全てを肯定してくれている。何一つ、否定はしない。
「後半は僕も手伝う。だから歌う緊張も恥ずかしさも全部僕の所為にして?そうすればちゃんと歌えるよ」
予め用意していたらしいドレスに着替えたシエロ。全体的にフリルがあって可愛らしい服だけど、開いた胸元が俺にはない色気を醸し出している。今のシエロには女と少女の狭間のようなそんな危うい魅力があった。
さっさと男に戻ってシエロを抱きたい。その後真水をぶっかけてその水拭いてシエロが男に戻ったところでまたやりたい。そんな思考が向こうにも伝わったのか、シエロは少し怒っている。
「もう、カロン君そんなに僕の胸ばっかりじろじろ見ないでよ」
「いや、だってそれは卑怯だシエロ。鏡見ろ」
「君こそ。僕からすれば可愛くて堪らないよ」
シエロは女の姿なのに、その目に宿る情欲の炎は飢えた獣、男のそれだ。そんな視線が自分に向くことは初めてで、凄くぞくぞくする。
見てる。シエロが俺を見ている。シャロンじゃなくて、俺を見ている。こいつも俺をどうにかしたいって思ってくれるようになったんだ。もう、俺の独りよがりじゃない。
「ねぇ、君は知らないだろう?常にあんな目に晒される恋人を守れもしない恋人の気持ちなんて」
観客達の目に気付いていたんだ。それにシエロが嫉妬している。その目は君は僕の物だと言ってくれているみたいで凄く嬉しい。
シエロが嫉妬してくれるなら、ああいう視線に晒されるのも嫌じゃなくなってくる。
「シエロ……」
そんな目で見つめられたら、もう駄目。我慢できない。せめてもう一回キスしたい。唇を求めて背伸び。女になったシエロならほんの少しの背伸びで届く。もうちょっと……そんなところでシエロが片手を差し出し寸止めだ。
「もうそろそろ時間だね」
「お、お前なぁ……」
「仕事中だよ、シャロン」
「こ、このっ……悪女っ!」
「僕がちょっと意地悪になることで君が頑張ってくれるなら僕は意地悪になるよ。その方が君のためになるんだから」
君が人魚になりたいのなら、その力になるよとシエロが優しく微笑んだ。
(くそっ……今に見てろ)
仕事終わったら、屋敷に戻って色々してやるんだからな。そうカロンが睨み付ければ、シエロは「受けて立つよ」と挑戦的な視線で応える。なんて不貞不貞しい。昨日はあんなにぐすぐすめそめそ泣いてた癖に。シエロの癖に生意気だ。
「絶対泣かす!覚悟してなさいよ」
仕事モードに戻って口調を改めれば、シエロもそれに倣って返してくれる。
「ええ、シャロン。出来ることならお好きにどうぞ」
*
物語の悪魔
『さぁ、まもなく日暮れ!秋の日の夕闇は刹那!
さぁ、いよいよ夜が来た!この地に悪魔は来たれり!
宴のはじまりじゃ!さぁ、杯を!杯を血で満たせ!
その血で私が描いてやろう!記してやろう!悪魔による悪魔のためのシナリオを!』
*
「……やっぱ来たな」
「ええ」
歌姫シャロンが下層街に来た日は、他の歌姫は商売あがったり。コアなファン以外、客を根刮ぎ奪われる。だからマイナスも暇を持て余していた。それはドリスも変わらない。
「歌姫シエロ……会いたかったぜ」
童顔とはち切れんばかりのその胸の、アンバランスさが実に良い。その愛らしい面立ちは少女らしさを残しつつ、その肉体は女の色香を漂わせ……何とも下半身に響く。自分が男だったら孕ませたいくらいだ。じゅると舌なめずりをして、マイナスは愛しの歌姫を遠く眺める。
ふと隣から殺気を感じドリスを見れば、「女装カロン君はぁはぁ、可愛いはぁはぁ」とか悶えつつ、「私のカロン君を人前であんな辱め、あの男許せないギリギリ」と歯ぎしりをする。器用な娘だとマイナスも呆れ感嘆、もうどうにでもなれ。
「んじゃ、手筈通りに行くか」
「そうですね。恋する乙女は基本的に正義。愛の前に全ての罪は許されます」
恐ろしい女だ全く。他のチャラチャラした歌姫に比べて地味目なところが少し醤油顔可愛いと思ってからかっていたが、まったくとんでもない女。なんとも恐ろしい女の片棒担がされたものだ。
「まぁ、後半は私も同感だ。愛するからこそ痛めつけたい泣かせてぇ」
あの鮮烈な魂の輝き。貶めて辱めて汚して曇らせたい。その高貴な人の心の中に入りたい。一生かけても癒えない傷で抉りたい。そうしなければ彼は私の物にはならない。
「奪われる喜びってのを教えてやるぜ、シエロ」
愛とはそう、惜しみなく降り注ぐ……略奪だ!
悪女祭りはじまるよー……たぶん。