11:海の歌姫
海神の娘
『いっそ私と貴方の魂を、同じ壺に閉じこめましょう。
そうして抜け殻のように生きて滅んで……
後は暗い海の底、壺を沈めて二人で空を見上げるの。
二人で歌えば永遠も、きっと楽しいものでしょう!』
*
夜の海は暗い。空の上から眺める海も、そう……そうは違わない。
カロンは屋敷を飛び出して、行く当てもなく街を彷徨う。そうして辿り着いた高台でぼんやり海を眺める。
(シエロ……)
シャロンの身代わりでも良い。一時の嘘でも良い。あの人の心が欲しい。どうすれば手に入るだろう。どうせ何をやっても無理だ。頭ではそうわかっている。わかっていても心がそれを認めない。口付けで駄目なら。それ以上。それ以上が駄目なら更に奥深くまで。
何がいけないのか。そっくりだって言って笑ってくれた。
俺が男だからか?それなら呪いで男になったシャロンを受け入れ、エコーのシャロンへの気持ちの否定をしないシエロがどうして、俺だけは否定するのか。
俺がシャロンより遅く出会ったからか?でもこればかりはどうしようもないじゃないか。
俺がシャロンと違って、人魚の生まれ変わりじゃないからか?俺は唯の人間だから?だからシエロの中に流れる血が俺を拒むのか?
幾重のどうして。そればかりが身体を支配する。堪らなく苦しい。お前はあの人を癒せない、傷付けることしかできないと、アルバに言われた。まったくその通りだと思う。
(だけどそれはシエロだって同じじゃないか)
酷いことをしておいて、言い逃れなんだと俺だって思う。それでもシエロは何時も俺に苦しい思いをさせて来た。大好きなはずの妹をなぜか疎ましく感じてしまうことが、どんなに辛いか。人の中であっという間にシャロン以上の存在になっておきながら、当の本人は此方を歯牙にも掛けない。街の何処を歩いても、誰と話しても……シャロンとの思い出ばかり。この街にカロンという人間の居場所はない。シエロでさえ受け入れてはくれない。
(ああ、シャロン……)
本当に申し訳なく思う。可愛い妹。誰より大事だった妹。その仇討ちのためにここまで来たはずなのに、もし今日今ここにシャロンが生きていたのなら……この手で殺してしまっていたかも知れないと、カロンは思ってしまう。目の前であの人が誰かと仲良くしていたら、それだけで苦しく切なく辛いのだ。
「あ、あの……か……カロン君、ですよね?」
「え?」
「あ、ご……ごめんなさい!急に話しかけたりしてっ!」
少女は勢いよく頭を下げる。そして……
「これ、使って」
手渡されたのは可愛らしい刺繍の施されたハンカチだ。そんなに高価には見えないが手作りのような温かみを感じさせる。
「ありがとう」
受け取り涙を拭いて……視界がはっきりすると、その子はどうも見覚えがある。
「歌姫ドリス!」
「え、ええと、うん。はい、ドリスです」
「なんで歌姫が俺の名前を知ってるんだ?」
「あ、あの……私貴方の妹さんの、シャロンさんと仲良くさせて頂いてまして。それで度々お兄さんの話を……それで似てらっしゃったのでもしかしてと」
「そっか」
正体がばれた。別にもうどうでも良い。今は海へと帰ることしか考えられないから。シャロンの復讐なんてもうどうにでもなれ。今はシャロンを殺した相手より、何をしても振り向いてくれないシエロの方が憎らしい。
「あはは……やっぱり私なんかのこと、覚えてないよね」
敬語と普通の女の子の口調を行き来させる歌姫ドリス。彼女も何かに戸惑っているようだった。
「覚えてるって何が?」
「私みんなより綺麗じゃないし……影が薄いって良く言われるから。別に気にしてなんかいないんだけど…………あのね私、カロン君と下町で会ったことがあるんだよ?」
「君と?俺が?」
「2年前まで私下町に暮らしていたの。それで、ほらね……2年前に大きな災害があったでしょう?」
その災害自体はカロンの記憶にある。町の大半が海水に侵される大惨事だった。
親父を失ってから初めてとも言える、大きな水害。かつて高波に挑むように人を救った親父の背中を追いかけるように必死に舟を漕いだ。
「あ、ああ。あったな」
「私その時貴方の船に助けて貰ったの」
「…………ごめん」
カロンは素直に謝る。全く覚えていない。何人助けたのかとかそんなこと数える暇もないくらい必死だった。必死に生かそう、生きようと舟を漕いだ。
それがなんだろう。たかが恋に破れたくらいで、当時の必死さが今は滑稽に感じる程……今は死を見つめる自分がいる。
またシエロの傍に行き、何か否定されるくらいなら、その前に死にたい。不謹慎だが今この瞬間だけはシャロンの死体に憧れた。あのくらい滅茶苦茶になればもう、何も考えずに済むと。あそこまでなれば……シエロも少しは凹んでくれるだろうか。その心の傷の一つくらいにはなれるだろうか。もしも自分が振り向いていたならこの馬鹿な男は死ななかったのだと思ってくれるだろうか。
カロンの暗い瞳を見、ドリスはそれには触れずに首を振る。
「ううん、そうだと思う。お互い名乗る暇もなかったし、お礼を言う暇もなくて、私を安全なところまで置いたらカロン君、またすぐに他の人助けに漕ぎ出して……避難してる途中で貴方の名前を他の人から教えて貰ったの!貴方は下町のヒーローなんだって!」
「……そんなんじゃないよ」
何処の世界のヒーローが、あんな風に無理矢理惚れた相手を抱くだろうか。振り向かせるだけの器量も度量もない。その程度の男がヒーローだって?嗤わせる。
「そんなことないわ!だって私……あの日のカロン君みたいになりたくて、歌姫になったの!貴方みたいにあの街を……貴方の暮らすあの街を、守れる存在になりたいって!」
「え……」
「ねぇ、カロン君。貴方がそんなに悲しい目をしているのは、あの人の所為なんでしょう?リラが言ってたわ。シエラさんっていう綺麗な人……貴方の恋人なの?」
「シエラは……」
頷けたらどんなに良いか。嗚呼、でも……ここでシエロと呼べない様な俺には、その資格の欠片もない。こんな初めて会うような人の目さえ気にしている。
「あの人は、俺が大好きだった人だよ……だけどあの人には好きな人がいて、俺は振られたんだ」
「まぁ!酷い女っ!遊ぶだけ遊んでカロン君を捨てるだなんて!許せない!」
ドリスの勘違いからの怒り。第三者にでもあの人を否定されるのは辛い。だから違うんだとカロンは首を振った。
「いや……違うんだ。嫌われるようなこと、したのは俺の方なんだ」
「え?」
「女の子がさ、好きでもない男に何かされるのって……辛いこと、だよな?」
自分への確認のため呟いた言葉。だけどそれは余りに無神経。下層街の歌姫であるドリスにとって、それは自らが行っている仕事を尋ねられたようなもの。カロンがそれに気付いたのは、ドリスの頬を透明な涙が一筋流れてからだ。
「……いっそ舌を噛んで死のうか。何のためにここにいるのかわからない」
「ど、ドリス……」
「それでもね……カロン君。女の子って意外と図太く神経据わってるの。今日の太陽は沈んだけれど、明日もあの海からまた昇るわ」
ふわりと優しく笑う歌姫ドリス。彼女の笑顔は力強い生命力に満ちていて、全てを肯定するような温かさで溢れる。その瞬間の歌姫は、エコーやシレナよりも愛らしい少女に見えた。それでもあの人には遠く及ばないと思う辺り、すっかり自分はあの人に毒されてしまっているのだと思って胸が痛む。
「どうしようもないものはどうしようもない。そこから今できることを考える。だけど決して諦めたりはしない。そういう生き物なんだわ女って」
「そっか。それじゃあ……」
それじゃあ、あの人は駄目だ。あの人は姿形こそ女にもなるが、心は魂は男のままなのだ。そこまで強くもなく逞しくもない。あの人は思っていまいか。“いっそ舌を噛んで死のうか。何のためにここにいるのかわからない”……いや、もし仮に最中に舌を噛まなかったのが……最悪の拒絶を選ばなかったということ。多少は絆される心があったのか?そう思ってはならない。
シエロが死を選ばなかったのは、復讐があるからだ。どんな屈辱を受けても、シャロンの仇を取るまでは死ねないのだあの男は。だから泣き喚いても死んで、逃げ出したりはしなかった。僅かでも許されただなんて思おうとする我が身の身勝手さをカロンは呪う。こんな最低な奴、あの人でなくとも好いてくれるはずがない。自分だって自分を肯定できないのに、どうしてそんな人間をあの人が肯定してくれるだろうか。
「…………もう一つ、聞いても良いか?」
「ええ」
「もしも好きな人に好きな人がいたら、女の子ならどうするんだ?」
何の解決にもならないけれど、それは現実逃避として聞いてみたくなったこと。
「二つに一つ」
「え?」
「諦めないか、諦めた振りをして見守って……何時までも思い続ける」
「どう違うんだ?」
どちらも諦められないというのは共通している、しかし身を引いたように見えて引いていないというのはどういうことか。
「手段を選ぶか選ばないか。体裁を選ぶか選ばないか。でも結局自己満足みたいなところもあるんだと思うわ誰かを思う事って性別関係無しに。だから本人が満足を感じられるかられないか。或いは満たされない自分に酔うこと出来るか出来ないか」
「な、なんか難しいな」
ドリスの恋愛観はよく分からない。
「ねぇカロン君。貴方はあの人の心が欲しいの?身体が欲しいの?それともどちらかを得ればもう一つも直に付いてくると思うの?」
心を求めるならば身体を手に入れてはならない。
身体が欲しいなら相手の心を殺す気構え。哀れになど思ってはならない。
そしてその片方で両方を得ることは出来ないと、ドリスは冷酷な言葉をカロンに突きつける。
「俺は……」
「どっちも欲しい?」
「……うん」
「そうね。それは誰でもそう思うわ。私だってそう」
「……え?」
「だけどどちらかに優先順位を付けるならどっち?」
例え触れ合えなくても心で通じ合える仲。心は重ならないのに身体ばかり求め合う仲。どちらがマシかと夜に染まる歌姫が言う。
選べと言われても、やはり選べない。心が触れたら触れたくなる。もっと近づきたくなる。触れたらその心までこの手の中に欲しいと思う。
「男の人は良いわね。本命に手が出せなくても、他の女を抱けばいいもの」
ドリスは語る。本命には心を求め、その代用品に身体を求める。そしてどちらも得たつもりになるのが男だと、彼女は吐き捨てる。そしてその直後……
「…………カロン君、私は貴方が好き」
「……え?」
女の子に告白されている。生まれて初めて。
そう思うと死に傾いた心臓が、思い出したように生き急ぐ。
「あの日から、私はずっと貴方が好きだった」
あの日。それは2年前。2年間もずっと俺のことを想ってきたのだと彼女は切々と語る。
「でも歌姫になってからは……別の世界の人間だから、私は貴方とどうこうなるつもりなんかなかった。何時か私が人魚になって下町を守って……そこで貴方が笑って暮らしてくれるならそれでいいかなって思ってた」
「ドリス……」
俺みたいな屑野郎のために、その身を汚して彼女は歌姫になった。今も頑張っている。時には死を望みながらも明日の光を信じて眠る。
「でも、こんなところでまた会えるなんて……夢か奇跡か。もしかしたら運命なんかなんじゃないかなんて、馬鹿みたいだよね。浮かれて、はしゃいで……私ったら」
「ごめん、俺は……」
「ううん、いいの。カロン君はあの人が好きなんだものね。あんな綺麗な人、私絶対勝てないよ」
ボロボロと泣き出したドリスにどうすればいいのか解らなくなり、カロンは咄嗟に口を開いた。
「そ、そんなことない。君だって可愛いよ」
そんな言葉が口から零れれば、歌姫ドリスが胸へと飛び込む。そして至近距離での甘い声が、脳天へと攻撃を開始する。
「……本当?それなら私を貴方の恋人にしてくれる?」
「そ、それは……」
「……なんてね、冗談だよ。でも私はカロン君が大好き。貴方があの人をちゃんと大切だって気持ちを大切に出来るように……カロン君さえ良ければ私、何をされても良いんだよ?」
二度とあんな事がないように。シエロを泣かせないように。そういう駄目な欲を全部吐きだして……唯その心が欲しいのだと訴えていけばいい。そんな甘い悪魔の囁き。
「ねぇ、目を瞑って。そうすれば何も解らなくなるから。この身体はこの胸は、この唇はあの人の物。そう思ってくれて、いいんだよ?」
「や、止めてくれ」
彼女の姿はまるで、先程の自分のよう。
シャロンの代わりで良い。だから愛して。好きになって。一時で良い。
そうシエロに囁いたカロン自身を見せられているみたい。
(シエロが俺を拒んだのは……)
今カロンがドリスを拒むのと同じ理由だ。この唇に触れられたら、もう二度と触れられないあの人の感触が薄れる。カロンがしてしまったことは……二度と触れ合えないシャロンの温もりを、シエロの中から殺してしまうことだった。
それは、俺が嫌いだから拒むのではなくて……シャロンが大切だったから拒んだ。今自分が彼女の口付けを拒むのはそれと同じだ。
それなのに俺は、嫌われてはいなかったのに……みすみす嫌われるようなことをしてしまった。そう思うと、もうどうにでもなれと不意に生じる諦め。
迫る唇を拒む力もなくなった。このまま目を閉じれば、何もかも忘れられるだろうか?
「!?」
ガサと揺れる草の音に、カロンの視線がシフトして……そこに会いたくて会いたくない人の姿を映す。
「きゃっ!」
「し、シエ……」
ドリスを引き剥がし、その人に弁解の言葉を……そう思った。けれどその人はまた泣いている。そうして何も言わずそのまま走り去る。
「待ってくれ!」
探しに来てくれた。あんな事をした俺のことを。そう思うと本当にあの人が愛しくて。
だけど追いかけてきてくれた人の目の前で、他の女とキスをしてしまうなんて……なんだかとても酷い裏切りを犯したような気になった。
(俺は……)
シエロにこんな気持ちをさせてきたんだ。シャロンを愛するあの人に、俺が手を伸ばす度に、あの人は……こんな苦しい思いをしていたなんて俺は知らなかった。
「シエロっ!」
相手は女の姿だ。子供の足には敵わない。やがては追い着きその手を掴む。
「離して」
「嫌だ」
「離してよ!」
「嫌だ。離したら……俺の言葉これから何も、絶対聞いてくれないだろ」
シエロは嫌々と身を捩るが、手をふりほどけないと知りその場に蹲る。空いた片手と両膝で顔を覆い隠して泣く。
「カロン君なんか、大嫌い」
覚悟はしていたがかなりショックだ。頭を思い切り金槌でぶん殴られたような強い衝撃。此方も涙目になるがそれも仕方のないことだ。それだけのことをしたのだと受け入れる。
「シエロ……俺は」
「大嫌いなのに………何でだろう」
「シエロ?」
「君がいなくなったと思ったら心配で、何かあったんじゃないかって馬鹿みたいに取り乱して僕は……」
「……シエロ?」
シエロの言葉には僅かの希望が見え隠れ。本当に不思議なことだが、完全に嫌われた訳でもないらしい。
「カロン君なんか嫌い……君が居ると僕がおかしくなる。変なんだ」
お前は元からどっか変だろとは、流石にこの状況では突っ込めなかった。
「君はシャロンじゃない。君には君の人生がある。だから君が誰を好きになろうと誰にキスしようと君の勝手だし僕にはどうでも良いことなんだ」
「そ、そこまで言うか?」
「なのに僕は……見てられなかったんだ。僕にはシャロンが居るのに……一瞬でもそれが嫌だなんて、酷い裏切りだ!」
シャロンと同じ顔の人間が他の人間と親しくする。それが気に入らない。多分そう言うこと。自分はもうシャロンに触れられないのに。おそらくそれはそういう葛藤。……でももしかして、ほんの少しでもカロンに対する嫉妬の気持ちがそこにあるのではないかと、浮き足立つ心がある。
「ま、待てシエロ!」
「僕は僕が許せない!手を離してカロン君!」
すっくと立ち上がり海の見える崖まで歩いて行くシエロ。全体重かけて引くが、シエロの方が大人の体型に近い。カロンはずるずると引き摺られてしまう。
「何する気だよ」
「何するのも僕の勝手だよ」
「……いや違う。お前と俺は一蓮托生。お前が俺を嫌っても、それでも俺達は約束した。シャロンの仇を取るんだってお前、言ったじゃねぇか!」
「僕は嫌だ。これ以上シャロンを裏切るくらいなら僕は死ぬ!それでシャロンに謝ってくる!仇取れなくてごめんって謝る!」
シエロは呪われている。海に飛び込めば海獣を呼ぶ。運良く高さで死ななかったとしても人食い鮫に人食い鯨に襲われて必ず命を落とす。それが約束されている。
「駄目だ!」
「離して。離さないとカロン君も死ぬよ」
「お前が俺を嫌っても俺は約束を果たすまでお前から離れない。その途中でお前が死ぬなら仕方ない。俺もそこで死ぬだけだ」
「どうして?……なんでそんなこと言えるんだよ!?君にとって僕なんか大した人間じゃない」
「それは俺が決めることだ」
「カロン君……」
「お前がシャロンに謝るなら、謝る原因作った俺も行くのが筋だ。俺はシャロンにぶん殴られてもそれでも……お前が諦められない。冥府でシャロンと蹴り付ける」
「な、何で僕なんかを」
「俺は、お前が好きだ」
その言葉に脅える風に一歩後ずさるシエロ。それに恐れずカロンも一歩前へと崖へと進んで距離を元に戻す。
「俺もシャロンと同じだ。一目見て、俺はお前が好きになった。だけどこんなの初めてで、どうしたらいいのか全然わかんねぇし……お前はいつもいつもシャロンのことばかり考えてる」
「カロン君……」
「俺はそれが……凄く、苦しい。俺だって……こんな思いずっとする位なら今ここで、最期までお前の傍にいたい」
「僕は……」
シエロがその場にへたり込む。再びその青い瞳に大粒の涙を浮かべた。
「あんなことされたのに、嫌じゃなかった。それが、堪らなく嫌だった。僕は繰り返さない!僕は裏切っちゃいけない!やっと巡り会えた彼女をまた裏切るなんて、僕は絶対にしてはならない!」
「嫌……じゃ、なかった……?」
「うん」
静かに頷くシエロにそんなこと言われた日には、涙腺までシンクロしたのかこっちまで泣けてくる。
「シャロンと同じ顔なのに、何もかもが違う。キスの仕方。手の動き他にも色々。シャロンじゃないんだって思い知って辛いのに、それが嫌じゃなくなっていくのが嫌なんだ」
言葉を最後まで待たず、背伸びをして無理矢理口付けて……カロンは尋ねる。
「今の、嫌だった?」
「……嫌、……じゃない。いつも君は一生懸命で、君が必死なのが伝わって来る。どうしてそんな君を憎めるだろう」
「シエロ……」
それならもっと確かめたい。何が嫌で、嫌じゃないのか。その口で一つ一つ教えて欲しい。
そう思い再び背伸びをするけれど、にこりと笑うシエロの指に阻まれた。
「だから、これでお終いにしようカロン君。このままじゃ僕は近い将来君を嫌いじゃない、じゃなくて好きになってしまうような気がする。それは絶対に許されないことだ。僕はシャロンを裏切れない」
キスするため此方が腕から手を肩にに移動させたのを見計らい、シエロはその手を振り払い、崖へと駆ける。
「短い間だけど楽しかった。僕の我が儘に付き合ってくれて、ありがとう」
最後にふわりと微笑んで、そのまま海へと身を投げた。
「シエロっ!!」
大急ぎで後を追う。迷うものか!近場の大きな石を抱えて一気に崖を飛び下りる。石の重さと海風が味方し何とかその手を捕まえる。
「カロン君!?」
見開かれた青い瞳に、根拠のない確信を持ってカロンは頷いた。その手を力一杯引き、シエロの身体を抱き寄せる。
「鯨にも鮫にも食わせない!俺がお前を守ってやる!」
「ふふ、シャロンならそこで鯨と鮫の降りの後に“私が貴方を食ってやる!”が入りそうだなぁ」
「俺だって言おうとしたけど自重したんだ」
「あはははは、そうなんだ」
「シエロ、歌えるか?」
「どうして?」
「海面にぶつかる前に音をぶつけて落下の衝撃を弱まらせる。鯨鮫云々の前に水面に叩き付けられて死ぬってオチが目に見えてる」
「でも超音波だとカロン君耳塞げないし、大声だとそれはそれで鼓膜が大変だよ?」
「う……」
「でもそうだな……」
シエロは軽やかに歌う。すると眼下になにやら無数の透明な蠢く物体が生じる。
「何あれ」
「召喚魔法、海月君。僕のご先祖様の昔の友達らしくてね……縁あって召喚できるんだ。クッション代わりに落下したらそんなに危険ではないかも」
「お前そんなことも出来るのか!凄いな!」
「この間下に降りるときも空中召喚して踏み台階段にして安全圏まで降りたんだったなぁ」
「お前以外とアクティブだな」
「うん、でも最後に足を滑らせてあの様だったんだ」
「ああ」
確かに初対面時から情けない男だった。
それを思い出してカロンが小さく笑む。水面はもう間近だ。
海月は触手を伸ばして此方の身体を掴み、スピードの減速を手伝ってくれる。
「ぶはっ!」
海月のクッションのお陰で衝撃は和らいだ。しかし投げ出されて海水へ浸かってしまう。陸まで百メートルは有るだろうか。海獣が来る前に急いで逃げなければ。まるで泳げないシエロに海月を何個か抱かせてその腕を引き陸地へと泳ぎ始める。
「この海月意外と役に立つんだな」
「いやぁ……でも一つ欠点があってね、食べると美味しいらしいんだ。栄養価も高いし遭難したときに召喚すれば多分生き延びられるって言われているくらい特殊な海月なんだって彼らも自負してて」
「それ、欠点じゃないだろ。下町で海月屋でも開いたら良いんじゃないか?」
「いや、ええとご先祖様の友達だし、僕の友達だし食べるのはちょっとそれに……だからね、つまり……」
「うわああっ!」
水面を過ぎる幾つもの暗い影。こんなに早く鮫が現れるなんて聞いていない。
「僕にも本人達にもそれが何故なのかよく解らないみたいだけどあまりにも美味しい出汁が漂っているのかすぐに鮫を呼んでしまう欠点があるんだ」
「そういうことは早く言えっ!シエロ!海月を放せ!」
召喚した海月が片っ端から食べられていく。それを見、カロンはシエロの手から海月を奪い遠くへ投げる。
「え!メドゥーサ!クヴァレ!ウォーターマザー!シームーンっ!」
「俺に掴まれ!ていうか一匹ずつ名前あんのかよ……」
幸い人間よりもその海月は美味らしい。海月に鮫達が群がる内に陸を目指そうとカロンは賭に出る。
「シエロ!身体の力抜け!流れに身を任せろ!ってそこで照れるな!」
「は、はい」
なんなんだこいつ。こんな時に命掛かってるのに嫌らしい発想するなんてこいつも大概変態じゃないか。確かにエロいシーンでありそうな台詞が混ざっていたが。
「お前……こんな時によく笑えるな」
「カロン君の所為だよ」
「は?」
「僕本当に死ぬつもりだったのについて来るし」
「それはお前が……」
「カロン君が来ちゃった所為で、なんだか全然死ねる気がしない。君は冥界の渡し守には向いていないね」
「当たり前だ。俺は生きてる奴のための渡し守だ!だからお前を死なせない」
「……そっか」
何を思ってシエロが笑うのか解らないが、少なくとも先程よりは思い詰めていないらしい。これなら落ち着いて話が出来る。安全なところまで行けば。
必死に手足を動かして……進む内に近づく何か。
「あ……あれ、俺の舟だ!何でこんな所に?まぁいいや!乗れシエロ!」
さてはオボロスの奴、ちゃんと繋がなかったな。舌打ちしかけるカロンも、友人のその適当さで今助けられている。咎めるわけにはいかないと櫂を手に取る。
「よし!逃げるぞシエロ!」
俺は船頭だ。舟と櫂さえあれば恐れるものなど何もない。みるみる陸が近づいてくる。見慣れた下町までもうすぐだ。
「見てるかシエロ!どんどん遠離っていくぞ」
「ああ、僕のアクアマーテル…アーグワマードレ…ヴァッサームッター……マールルーナ…マーレルーナ…メーアモーント。君たちと一緒にぷかぷか海月風呂をした日々のことは忘れないよ……うぅっ」
「そんなにあいつら名前あんのかよ!?って全部くらげって意味じゃねぇか!!」
「あいたっ」
思わず櫂で頭を叩いてしまった。ツッコミのつもりが強くやりすぎた。
「うわぁっ!」
「大丈夫かシエロっ!!」
舟から投げ出されたシエロ。引っ張り上げようと手を伸ばし水中で揺れる影を見る。
「……っ!」
引っ張り上げる途中でシエロの足が噛まれた。このまま引っ張ればシエロの足が食いちぎられる。
「くそっ!」
一度手を離しカロンは櫂を手に水中に身を投げる。
(離れろってんだ!)
飛び込む勢いで振り下ろした一撃。それは良かった。しかし水中での水の抵抗、櫂を振り回すのは地上よりも遅れてしまう。
(くそっ!)
蹴りの方が早い。連続で蹴りを入れるが相手はシエロの足を放さない。流れる血の臭いに海月を補食していた奴らが躙り寄る。
もう駄目か。シエロも水中に引き摺り込まれて息が出来ない。このままじゃ捕食云々の前に溺死する。シエロは泳ぐことも息を止めることもよくわからない、天上暮らしの箱入りだ。
さっきまで死ぬのを諦めたような顔をしていた癖に、今度はあっさりと生きることを諦める。今会いに行くよシャロン、と海の中から空を見上げて優しく微笑む。
(“そんなの認めるもんか!”)
沸々と湧き上がる怒り。
(“シエロを放せっ!”)
怒りのままに櫂を薙ぎ払う。水の流れが味方をしてくれたのか、すんなりと攻撃が決まった。鮫がシエロの足から口を離す。
シエロはカロンの攻撃が、叫びが聞こえたのか、目を見開いて……そして口をこう動かした。
“カロン君、歌って”
意味は解らない。それでも、確かにシエロの声が聞こえた気がした。
理屈は解らないが何かを喋っていた方が攻撃が決まりやすい。シャロンが人魚の生まれ変わりならその兄である自分にも何か恩恵があったのかもしれない。そう決めつけてカロンは口を開いた。
いつもシャロンが歌っていた歌。シエロが歌って見せた歌。俺は鼻歌だけの歌。それに今歌詞を付ける。
シエロは死なせない。そういう強い意志と、今の自分が持つ理不尽な怒りと悲しみ……それと僅かな幸せを織り上げて、カロンは歌った。
《ゆらゆら大海原を 漂う小さな舟
求めた岸は遙か 届かぬ想い乗せ
嗚呼愛しい貴方よ 空と海の此方に
二人歩く街並も 砂の城消えゆく
愛しい空よ どうか僕を愛して
貴方まで届く言葉 一つだけ僕に下さい
ゆらゆら嗚呼波間に 送る人魚への涙
ゆらゆら貴方の傍に 居るだけで苦しい
ゆらゆら貴女の瞳 僕だけ映したい
嗚呼愛しいあの子の空 この腕伸ばしても
二人別つ時が来て 貴方を呑み込む闇
愛しい貴方よ 忘れないでいて
貴方の傍には僕がいる お化け鯨の胃の中だって
ゆらゆら 嗚呼闇間に 笑い流した涙
ゆらゆら 嗚呼貴方と 暗い海の底まで
ゆらゆら 嗚呼何時か 想い届く日まで 》
するとどうしたことだろう。鮫たちの動きが止まる。
(シエロ!)
その隙にシエロを抱いて海面へ。再び、舟へと上がる。見れば人食い鮫たちはゆらゆらと、沖の方へと帰って行く。
「大丈夫かシエロ!?」
「うん、平気。凍らせて止血したからしばらくは」
「そっか。じゃあ……」
そこで手に櫂がないことを思い出す。しかし辺りを見回せば舟の横まで浮かんできてくれた。
「カロン君……君とシャロンは、双子だったよね」
「そうだけど?」
「そっか」
「それが何だって言うんだ?」
「君もウンディーネだったんだってことだよ」
「は?」
突然の言葉にカロンの櫂を持つ手が止まった。
「君の歌は確かだ。それに海獣を鎮める歌なんて、海神の娘にしか歌えない。君とシャロンは人魚の魂を二分して生まれてきたんだ」
「俺が……俺が人魚!?」
シャロンのことを聞いた時以上に信じられない。
「全く酷なことをしてくれたものだ。それじゃ僕が君を嫌えるわけが無いじゃないか」
驚くカロンの傍らで、シエロはぐったりと舟に横たわり……ぶつぶつと言っている。
「でも俺、呪われてないぞ」
「そ、それは……き……君が僕なんかを好きになるから。僕は呪いでこんなことになるけど元々は男だから、男に恋をしたって性別が変わるわけが無いじゃないか」
「でも俺今海水被ったけど」
「あのねぇカロン君。強姦が結ばれたって表現に変わるなら世の中のお伽話は大変なことになるよ。要するに君がシャロンと同じ呪いを得るには……想いが通じ合った上でそういうことをしないとだね」
「つまり俺に呪いが発動したら、その時はシエロが俺に惚れた時ってことか」
なるほどとカロンが内容確認したところで、シエロが両手で顔を覆いながら暴れている。
「こら!暴れるな!舟沈んだらどうしてくれる!」
「嫌だぁああ!どうしてこんなことになるんだっ!僕にプライバシーはないの!?なんで僕の裏切りを明確化してしまうんだ君の呪いはっ!」
「だけど俺も自在性別移動出来た方がシャロンの仕事やる上では楽じゃないか?正体ばれる確率も減るし」
「なんで君はノリノリなんだよカロン君んんんんっ!」
「シャロンには俺も一緒に謝ってやるから諦めろ。俺も人魚なんだろ?それならお前が俺に惚れない訳がないじゃないか。むしろ俺に振り向かない方が半分は先祖への背信行為じゃないのか?」
「半分はそうだけど半分は裏切りなんだってば!」
「意固地だなお前は」
「僕は僕のご先祖様みたいに軽薄な男にだけはなりたくない。生涯同じ人を一人だけを愛するって決めてるんだ!だから駄目ったら駄目!」
「嫌じゃなかった癖に」
「嫌じゃなかったってだけで、別に良かったって訳でもないからね!」
「でもお前欲求不満なんじゃないの?」
「マイナスさんの言葉悪用して流用乱用するの止めてっ!僕はそこまであれじゃないんだ!」
「あれってなんだよ。俺ガキだからよくわかんねー」
「う、ううう。カロン君そんなに僕を怒らせて楽しいの!?」
「ああ、楽しい」
「ひ、酷いよカロン君!この数日で僕虐めに拍車が掛かってる。誰に毒されたの?アルバ?マイナスさん?エコー?」
「……そんなことよりもう着いた。その足じゃ歩けないだろ。掴まれ」
「うわぁっ!」
水路に入って下町へ。舟を繋いで陸へ上がる。シエロの服や髪は水を吸っていて重かったがこれが命の重さかと思うとこの重さまで愛しく感じる。どうしようもないな俺。
「この間と違う家だね」
「俺の家、殿下の部下に随分荒らされてたみたいだからな」
通り過ぎた家は酷い荒れようだった。あれでは傷の手当て所かゆっくり休めやしない。
「つーわけで、オボロスの家を拝借した。あいつの鍵の隠し場所は知ってるからな」
「君、幾ら友達だからってそれは酷いんじゃ……」
「いーんだよ。あいつん家あいつしか居ないし。そのあいつも仕事でよく家空けてたし。その間俺が掃除任されてたんだ。この位当然の報酬だ。それにこいつの家のベッドの方がふかふかしてて寝心地が良い」
「……あはは、そんな理由なら……仕方ないね」
シエロがくすくす笑う。
「痛むか?」
「そりゃあ、まぁ」
「染みるけど我慢しろよ。とりあえず応急手当だ。明日下町の医者に連れて行く」
「うん……でも多分大丈夫だよ。僕は人魚の血を引いてるし、怪我の治りは早いんだ」
人魚の肉は食べれば不老不死になると言う話もある。その子孫なのだから身体の作りは多少普通の人より丈夫なのだとシエロは言う。
「そうなのか?でも俺やシャロンはそんなことないぞ?」
「シャロンや君は生まれ変わり、魂だけだから。身体の方は普通の人間なんだからそれは難しいと思うよ」
そこでカロンが納得すると、一度会話が途切れる。寝台に腰掛けて、手当てされた片足をシエロはプラプラさせている。
二人とも水に濡れた所為でびしょ濡れだ。タオルを借りて身体は拭いたが肌寒い。着替えを適当に借りたがシエロにはサイズが合わない。だからドレス姿のまま、時折クシャミをする。毛布を渡してやったがまだ寒そうだ。そんなことよりなんかベッドに女の子が腰掛けてる図ってエロい。そんなことは勿論ないんだろうけど、誘われてる図に見えるから困る。
(待て待て、こういうやましいことばかり考えるからシエロに嫌われるんだ)
しかしどうにも女シエロがけしからん姿なのは事実なので、健全な青少年としては仕方のないことだと思う。
「シエロ、寒くないか?」
「え?」
「勘違いすんな!風呂沸かすって言ってんだ」
勘違いされるようなことをしてきたし、考えていただけに説得力は無い。しかしこの悪友の家はなかなか設備が良い。こぢんまりとしているが、ちゃんと風呂もある。シエロを真水の風呂に入れて男に戻せば此方の精神衛生上も宜しいはず。そうに違いない。カロンはそう結論づけてさっさと風呂を沸かすことにした。
「はぁ……やっぱりお風呂は気持ちいいねー」
幸せそうな笑顔でシエロが出てくる。手当をした足は入れなかったがしっかり暖まることが出来たみたいだ。
少しサイズが小さいのか臍が見えるのがエロい。触りたくなるような腰をしている。しっとりと水気を帯びた髪はいつもよりも長くて尻以上の長さを保つ。女の時より足は細くなってて尻周りの肉も減ったけどこれはこれで……
(って俺相手が男に戻っても結局それかぁあああっ!どんだけ盛ってんだ俺はっ!自●覚えたての猿かっ!人魚の子孫ってなんか変なフェロモンでも出してんのかくそっ!)
「カロン君?」
壁に頭を打ち付け始めたカロンにシエロが目を瞬かせる。
「き、気にすんな。唯の下町健康法だ」
「へぇ、下町の文化は面白いなぁ」
興味深いとシエロが笑う。しまった、下町風評被害。ていうかシエロもシエロだ。そんな変な話信じるな。
「お、俺も入ってくる」
「行ってらしゃーい」
ひらひらと手を振るシエロはもう俺を全然恐れてもいないようだ。そりゃそうだよな。男に戻れば俺みたいなガキ、怖いことなんか無いんだろうな。そう思うとそれはそれで憂鬱だ。
ブルーな気分で風呂を上がれば、シエロが横になりぼーっと虚空を見上げている。
「シエロ?」
「あ、カロン君」
「どうかしたのか?」
「あのね、ここからだと空が見えるんだ」
寝台横の窓を指差し、シエロは不思議だねと自分がいた街を指差した。
「ここからあの街はあんなに遠いんだな。それに海の音、こっちの方がずっと近くに聞こえる」
「新鮮か?」
「うん、だけど少し怖いな」
「怖い?」
「あの海の音がもっと近くに迫ってきたら、僕は多分すぐに死んでしまう。下町の人達は毎日こんな気持ちで暮らしているのかと思うと、何も知らずに上で暮らしていた僕が、何だか申し訳なく思えてくるんだ」
それならお前が王になれよ。そうは言えなかった。シャロンを失ったシエロは玉座を求めないだろう。この街への感傷は、復讐を選んだ時点で切り捨てたからこそ。見捨ててしまったから感じる胸の痛みだ。
「怖くて眠れないとか言うんじゃねーだろうな?」
「僕は空に来たその日からちゃんと眠れた君の方が不思議だよ。怖くなかったの?もし街が落ちたらとか」
「いいか賢い馬鹿貴族。庶民って言うのはその日一日を生きるのに精一杯だ。だから明日のことは今日考えない。今日悩むのは今日の悩みだ。明日の悩みはまた明日悩めばいい」
「なるほど、僕は余計なことまで考えすぎているのかな」
シエロは笑って身体をずらした。一人分の寝台だが、二人で眠れないこともない。
「俺はあっちで寝るから良いよ。お前怪我人だろ」
やはり海が怖いのか、高いところで眠りたいらしいシエロは自分がベッドから降りることはない。それで自分だけ安全圏にいるのは申し訳ないと彼は言う。
「年下の子を床で寝せるわけにはいかないよ。それともカロン君は女の僕とじゃないと同衾したくないっていうのかな?」
「俺が何かするとか思わないのか?」
「仮に君に今の僕が襲えるならそれはそれで評価してあげるよ」
「い、言ったな!宣戦布告だな!」
「さぁ、どうだろう。波の音で何も聞こえないな。……というか流石にカロン君は友達の家の寝台で悪さをするような子には見えないってぎゃあああああ!ちょっ!変なところ触らないでよ!」
「やっぱ胸は無くなるんだな。あの脂肪何処に消えてるんだ?ていうかお前がどうぞって言ったんじゃないか」
「そうは言ってないよ」
甘く見すぎたとシエロが額を押さえる。
「シャロンはまだ解るよ、元は女の子だし。そう思えば精神的な背徳観念もないだろう。だけどカロン君。君は男の子だ。それに君が好きなのは呪いが掛かってる時の僕だろう?そんな無理してこっちの僕まで好きになった振りはしなくていいんだよ」
「そ、そりゃあ女のお前は好きだけど……俺が惚れたきっかけは下町で会った今のお前だ」
「え……?」
その割りに対応酷くなかった?基本的に女の時は優しいけどと俺を疑問視するシエロの声。
「信じられねぇ?」
「うん」
「真顔で頷くなよ」
覆い被さって額がくっつくほど近づいてもシエロに警戒心は見られない。一度あんなことをされておいてどこまで俺を舐めているんだこいつは。
(仕方ない……)
カロンは自分の服のボタンを外す。それに何事かとシエロは戸惑う。
「カロン君?」
「シエロ……練習しようぜ。今度は明日と同じでお前が俺に色々……」
「そ、それは駄目だよ!僕からなんて、そんなのもっと裏切りだ!」
寝台から転げ落ちる様な勢いで足を引きずり逃げ出そうとするシエロ。その顔はまた涙目だが、その背中を全体重かけて踏みつけてカロンは逃がさない。
「お前がシャロン相手ならどっちでもいいって言った様に俺だって……」
「カロン君……」
「俺はお前が相手なら……」
何されてもいい。足を離してシエロの青を見つめるがその目は曖昧に微笑んで……シエロはカロンの額に口付けるだけ。親が子供におやすみなさいと言うように愛情深いものだったけど、それはカロンの欲しいそれではなかった。
「今日はもう遅いし、明日も大変だから早く寝ようね?夜更かしは背が伸びなくなるよ」
「だからそうやって俺を子供扱いするな!」
くそ。今に見ていろ。いつか絶対に俺も呪いを発動させてやる。
そんな苛立ちも、この人が生きているからだと思えば次第に気は和らいでいく。本当に何か一つ間違えれば失っていたかも知れないのだ。今はこうして……この人が生きて居て、その隣にいられるだけで……カロンは十分幸せだった。
*
裏切りの王子
『いっそ貴女を裏切ったこの僕を、この上ない残酷な罰が襲えばいい。
それが明示されているなら裏切りなど、誰が犯すものだろう?』
*
「やれやれ……」
疲れていたのだろう。すんなり眠りに落ちたカロンの寝顔を見守って、そこに失った人の面影を見出すだけで、シエロは歓喜し苦悩する。
よりにもよって人魚姫の魂が二つに分かれていたとは。裏切りの代償は余りに重い。運命の人が二人もいて、その二人を相手に裏切るなと強いられる。どちらを選んでも裏切りで、振り向かないのも裏切りで。こんな事が解っていたならシャロンとも何も起こらぬ内に自分は命を絶つべきだった。しかしその場合シャロンはもっと不幸な人生を歩んでいただろうか?それなら少しは彼女の幸福の手伝いを自分は出来たのだろうか?
「いや……」
結局守れず死なせてしまった。それでは先祖と同じだ。
(カロン君……)
振り向くことは絶対に出来ないけど、君をシャロンみたいな目には遭わせない。今度こそ守れと貸し与えられた尊い命なのだと思う。
「でも、君をあそこまで追い詰めてしまうなんて……やっぱり僕は復讐なんか望まずに、君に会いに行かずにシャロンに会いに行くべきだったのかな」
この少年は女のシエロのみならず、男の姿のシエロを含めて好きだなどと宣った。それを嫌だと思わない、思えない心が問題なのだ。やがてそれは裏切りに繋がってしまう。
(だけど……)
死ぬかもしれない。死ぬと解ってて一緒に海へと落ちてくれたこの子。どうして嫌うことが出来るだろう?
あそこでカロンが人魚の力を出さなければ二人ともあそこで死んでいたのは間違いない。
「はぁ……」
あんな必死な姿見せられたら多少なりとも心は揺れる。
(シャロン……どうか僕を戒めてくれ)
カロンが吹っ切れた。
ドリスが怖い。
シエロは海月パラダイス。