七瀬楓
「暇だな。あー暇だ。暇」
今日、いや僕、皆河裕が両足骨折にアキレス健断裂してから何度、暇という言葉を口にしただろうか、百回はくだらないと思う。最近は僕の横のベットに移動してきた明日香ちゃんとオセロをしたり、話をしたりと暇になることは少なくなっていたわけだったのだが、その明日香ちゃんは検査があるようでまだしばらくは帰ってこない。
こんな時に限って僕専用看護婦である南さんは書類整理があるらしく、今頃働いているのだろう。僕専用というのは、特別研修期間というやつで、看護婦としての能力を判断するため、僕一人を無事に退院させるまで僕だけを受け持つことになっているということ。今のところは大事にはなっていないが、細かいダメージを追っているのは確かだ。
両足が固定されているので、寝返りすらうつことができないのはストレスだ。僕は身じろぎして、寝返りしたい気持ちをごまかす。
夜がつらくなるが、今は寝ることにしよう。意味はないが、羊を頭の中に浮かべていく。羊を数えて寝れるだなんて、一体誰が言ったのだろう。僕も実践したが、四桁になったたりであきらめた。羊を数えるのをやめてから、少しして、ようやくまぶたが重くなってきた。これは、寝れる。そう思ったとき、何者かが扉を叩く音が眠気をすべて吹き飛ばした。
「どうぞ」
「失礼します」
まるで面接を受けに来た学生のようにキリッとした声で少女が一人入ってきた。少女はツカツカと僕のベットの横に来てさっきの丁寧さはどこに行ったのか、荒っぽくパイプイスに座った。
「裕、交通事故なんだって? 情けないなぁ」
「うるさい楓。こっちにも事情があるんだよ」
出会いがしらに人をけなしてきた少女、といっても僕と同い年なのだが、楓、フルネーム七瀬楓は僕の幼馴染で生徒会長様。くされ縁というのがぴったりで、幼稚園から今までずっと同じクラスで、周りの冷やかしがあいまって常に席も隣だ。その楓が見舞いに来てくれたらしい。人をけなしてくる割にはしっかり見舞いに来てくれるあたり、楓はいいやつなんだと思う。
「はい、これ、たまったプリント。勉強しておきなさいよ。進級できないから」
「不慮の怪我だし、学校側も多少の融通を利かせてくれるだろう?」
「進級試験に合格しなきゃ意味ないわよ」
「わかってるよ。でも今は忘れさせて」
まだ、いつ退院するかもわからないうちから、勉強のことで頭を悩ますのは嫌だ。楓は現実主義のお堅いやつなのだが、こいつのおかげで高校に入学できたし、感謝しているのだが、試験が近づくたびに、勉強を教えに来るのはやめてほしい。助かるけど、気がめいる。
僕は、楓から渡されたプリントに目を通すと、ため息が自然に出た。何が書いてあるのかまったくわからない。数学は暗号文にしか見えないし、世界史も知らない名前がずらりと並んで、写真の顔が僕を見つめている。英語にいたっては、八割僕の知らない単語のオンパレード。まだ、入院してから二週間もたっていないというのに、僕の知識はほぼ役に立たない。お先真っ暗とはこのことだ。これからこれだけの量を勉強して、さらに新しいことを覚えていくなんて……退院したくないな。
プリントを棚において楓を見ると、なぜかメガネをかけ、バッグの中から三冊の本を取り出した。僕の目がおかしくない限りその本は、数学、世界史、英語の教科書のように思える。嫌な予感がたっぷりした。それはもう、南さんが注射器を取り出して薬品じゃなくて空気を入れようとしている姿を幻想させるほどに。
「楓さん、いったい何をするつもりなのでしょうか?」
「勉強」
さも当たり前といわんばかりに言われた。勘弁してくれよ。暇ではあったが勉強はしたくない。いやなことは先送りにしたいが楓はそんなことさせてくれないだろう。受験のとき文字通り僕を縛り付けて年号をひたすら朗読するようなやつだ。あの時は夢にまで将軍様が出てきて悪夢だったな。何とかして逃げられないものか。
「楓さん」
「なに? いまならこの三教科から選ばせてあげるわよ?」
「オセロでもしませんか?」
「いいわよ」
「え?」
「でも、私が勝ったら勉強ね」
「わかった、でも僕が勝ったら勉強しないからな」
これはチャンスだ。何とか逃げ道を見つけた。一瞬の光明。このロードを駆け抜ければ僕の平穏な入院生活が認可される。僕はオセロ盤を取り出した。
パチリ、パチリとオセロを置く音だけが響く。元々弱い僕だが、いまや毎日オセロしかしていない僕が負けるはずがない。よく明日香ちゃんに負けてるけど、あれはきっと明日香ちゃんが強いだけに違いない。
五分後、僕は泣いた。四隅を取られどうあがいても無理な状況を作られていた。逃げられないと悟ってしまった。たとえ今このオセロ盤が爆発してももう勉強しなければならないだろう。
「勝負あったわね。さぁ、数学からいきましょうか」
観念してボールペンを握った時、病室の扉が勢いよく開いた。小さな台風のご帰宅のようだ。顔をそちらに向けると、南さんに車椅子で押されて俯いている明日香ちゃんがいた。というか、ストッパーにぶち当たるまで扉を開けたのは南さんか、あの人は看護婦としてどうなんだ。
「おかえりなさい。……明日香ちゃんどうしたんですか?」
見るからに機嫌が悪そうだ。いつも笑顔で元気印の姿しか見ていないので、落ち込んでいる姿も可愛いとか思ってしまった。もしかして、本当にロリコンが進行しているのか。いや、これはあくまで兄が妹を愛しむような感情なわけで、そう、家族愛に近いものだ、それ以外にない。
「注射はいやだ。注射はやだ。注射はや。あんなに穴だらけに、ひぃぃ」
なんか怯えている。たしかに注射が好きな人なんかいないだろうけど、ここまでとはよっぽど嫌いなんだろうか。穴だらけとかいやな言葉も聞こえるのも気になるけど。明日香ちゃんは呪詛をつぶやきながら布団をかぶってしまった。
「いやぁ、私の注射の練習風景見せたら、なんだか怯えちゃって」
後頭部をかきながら南さんが笑っている。注射で針を折ってしまう実力の持ち主だ。練習風景もさぞ凄惨な絵づらなんだろうと想像出来てしまうのが悲しい。というか、まさか人相手に練習してたんじゃないだろうな。
「お聞きしますが、なんか医療器具で練習してたんですよね?」
「そうよぉ。注射練習用のトレーニング用アームって言うのがあるの。一つだめにしちゃった。あれ九万円くらいするからなぁ。お給料から引かれなきゃいいけど」
「ちなみに何回くらい刺しなおしたんですか?」
「……よんじゅ、いや、三十回くらい?」
これは五十回以上だな。本当に僕の怪我が血を抜くような怪我じゃなくてよかった。
本当によかった。
「それはいいじゃない。で、そちらにいるのは、裕君の彼女?」
「いえ、コイツは……」
「裕お兄ちゃん! それ本当!?」
否定しようと思ったら、布団を飛ばして明日香ちゃんが飛び起きた。襟首をつかまれてシェイクされる。明日香ちゃん入院しなくても元気なんじゃないだろうか。
「やめなさい!」
三半規管が麻痺してそろそろ気持ち悪くなりそうになったとき、楓の一喝で動きが止まった。さすがにあれ以上はまずかった。こんなところでもどしてしまうと動けない僕は大惨事だ。
「私は、七瀬楓。コイツとはただの幼馴染で恋人とかそんなのじゃないわ。はい、あなたの名前は?」
「……明日香」
いきなり大きな声で止められたので、少し機嫌が悪そうにしていたが明日香ちゃんは自己紹介した。南さんは楓の迫力に驚いたのか、気をつけの状態になって固まっていた。この人は年長なのに何やってるんだろう。
楓はしゃがみ込んで明日香ちゃんに視点をあわせ言う。
「明日香ちゃん。コイツは馬鹿でどうしようもないやつだけど、怪我をしてるの。いきなりあんなことしたらびっくりして足がすごく痛くなってしまうわ。明日香ちゃんだって痛いのはいやでしょう? ほら、ごめんなさいしなさい」
「裕お兄ちゃん、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。足も痛んだりしてないしね」
なんか楓にボロクソにいわれた気がしたけど、今回は明日香ちゃんが悪い。楓は高圧的だが言っていることは正しいからな。
「はい、よく言えました。明日香ちゃんは裕のお友達なの?」
「ううん、明日香、裕お兄ちゃんのお嫁さんになるの」
「駄目よ。裕は私の物なんだから」
「私も裕君ほしいなぁ」
なんか爆弾発言がいろいろ出た。明日香ちゃんもそうだが、楓もいったい何をおっしゃっているんだ。そして南さんもなに言ってる。まず、僕は物じゃない。
なにこれ、モテ期ですか、人生でこんなに女の子に好意を向けられたことないぞ。そうか夢か、どこからだ。入院したところからか、それとも事故なんてなくて、目を覚ましたら自宅にいるとか。もしかして僕もう死んでるんだろうか。
「明日香、お兄ちゃんとキスしたもん!」
「なに言ってるの。私は裕のファーストキスを奪ったわ」
「最近の子は進んでるのね。私なんか……って、裕君、本当にロリコンなの?」
何も聞こえない。これは夢。そう僕がちょっと青春の塊を発散できないから見ている夢に決まっている。なにかすごく睨まれているけど、その視線がとても冷たいけど、僕は逃げられない。足が動かないのが恨めしい。
口論が続いていたのだが、次第に楓が僕の子供の頃の話にシフトしていた。人の黒歴史を掘り返さないでくれ。男がみんな経験するんだ。穴あきグローブとか、アニメのかっこいい台詞を言ったりとか、そんな黒歴史をみんな経験するんだ。マジでやめてくれ。
女が三人集まると姦しいというが、本当によくしゃべる。南さん仕事はいいんですかね。しばらくすると、婦長さんが南さんを探しにやってきて、お開きになった。もちろん南さんはこれから説教されるのだろう。二人も騒いでいたので、注意されて少しは反省したようだ。
去り際、楓の「明日も来るから」という言葉を聴いて、頭が痛くなった。
どうしてこうなった。
約一年ぶりに更新です。
読んでいただいた方、ありがとうございます。
誤字脱字などあるかもしれません。
もしあったらごめんなさい。
なるべく早く更新できるようにがんばります。