第6話 静寂の別れとリスタート
リビングの大型テレビには、まだ三週間前の情事が映し出されていた。
二人の荒い息遣いと、生々しい肉体のぶつかる音が、バックグラウンドミュージックのように部屋の空気を支配している。
「あ、あぁ……消して……お願い、消してよぉ……!」
三浦玲奈は両手で耳を塞ぎ、懇願するように叫んだ。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、先ほどまでの「可哀想な被害者」の演技は見る影もない。
俺、相沢和也は、ゆっくりとワイングラスをテーブルに置いた。
カトリ、と乾いた音が響く。
「なんで消すんだ? これは君が『被害者』じゃなく、主体的に楽しんでいたという動かぬ証拠だぞ。よく見ておいたほうがいい」
「ちがう、違うの……これは……」
「何が違う? 『無理やり』か? 『断れなくて』か? この映像のどこに拒絶がある? 君は権堂部長……いや、権堂被告と言うべきか。彼に対して、自分からキスをしているじゃないか」
俺はリモコンを操作し、一時停止ボタンを押した。
画面が止まる。玲奈が権堂の首に腕を回し、蕩けるような笑顔を向けている瞬間の静止画だ。
その笑顔は、俺には一度も見せたことのない、淫靡で、そして残酷なほど幸せそうなものだった。
「うっ……ううぅ……」
玲奈は床に崩れ落ち、震えながら言葉を失っていた。
逃げ場はない。
言い訳も通用しない。
彼女が積み上げてきた嘘の城壁は、この映像一枚で跡形もなく吹き飛んだ。
「玲奈。君は俺のことを『退屈』だと言ったな」
俺は静かに問いかけた。怒鳴り声ではない。あくまで日常会話のようなトーンで。それが余計に彼女を追い詰める。
「真面目なだけがつまらない、と。確かにそうかもしれない。俺は君のように器用には生きられないし、スリルを楽しむような遊び心もない」
「ごめんなさい、あれはその場のノリで……本心じゃなくて……」
「本心だろう。酔った勢いでも、人は思ってもいないことは言わない」
俺はソファに深く腰掛け、彼女を見下ろした。
「俺は君を大切にしたかった。だから、嫌がることはしなかったし、君のペースを尊重した。将来のために無駄遣いをせず、コツコツと貯金もしていた。でも、君にとってはそれが『退屈』だったんだな。会社の金で豪遊し、背徳感に酔いしれるほうが楽しかったんだな」
「違う! 私は和也くんとの生活も大事で……ただ、魔が差して……」
「両方欲しかったんだろ? 安定したATMとしての俺と、刺激的な愛人としての権堂。いいとこ取りをしたかっただけだ」
図星を突かれたのか、玲奈がハッと息を呑んだ。
「でも、残念だったな。その両方を、君は失ったんだ。俺が奪ったんじゃない。君が自分でドブに捨てたんだよ」
俺は立ち上がり、寝室へと向かった。
玲奈が這うようにして追いかけてくる。
「ま、待って! 和也くん、どこ行くの!?」
「荷物はまとめてある」
寝室のクローゼットを開けると、そこはすでに空っぽだった。
俺の服も、書類も、思い出の品も、すべてなくなっている。
部屋の隅に置いてあったスーツケースとボストンバッグを持ち上げた。
「え……? いつの間に……」
「今日の昼間だよ。君が会社をクビになって、途方に暮れている間にな」
俺はリビングに戻り、玄関へと歩き出した。
玲奈が俺の足に縋り付く。
「行かないで! お願い、捨てないで! 私、もう行くところがないの! お金もないし、仕事もないし……和也くんがいなくなったら、私、死んじゃう!」
その言葉を聞いて、俺の中で最後の一線が冷ややかに引かれた。
彼女は最後まで、「自分のこと」しか考えていない。
俺への謝罪も、俺の傷ついた心への配慮もない。
ただ、自分の保身のために、俺という安全地帯にしがみつこうとしているだけだ。
「離せ」
俺は冷徹に告げた。
玲奈の手を振り払い、ポケットから鍵の束を取り出した。
「この部屋の契約は俺の名義だ。だが、解約手続きは来月末で予約してある。敷金も戻ってこないだろうな」
「え……?」
「家賃は今月分までは払ってやる。それが俺からの最後の手切れ金だ。来月からは君が払うか、出て行くか好きにしろ。まあ、無職の君にここの家賃が払えるとは思えないが」
チャリ、と音を立ててスペアキーを床に放り投げた。
玲奈はその鍵を呆然と見つめている。
「そ、そんな……ひどいよ……」
「ひどい? 自分の家で浮気された俺のセリフだよ、それは」
俺は靴を履き、ドアノブに手をかけた。
背後から、玲奈の絶叫に近い泣き声が響く。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 愛してるの! 和也くんだけなの! やり直させて! 何でもするからぁ!」
俺は振り返らなかった。
かつて愛した女の泣き顔も、今は醜悪な仮面にしか見えない。
未練など、一ミリもなかった。
「さようなら、三浦玲奈。二度と俺の前に現れるな」
バタン。
重い金属音が響き、ドアが閉まった。
廊下に立つと、中から籠もったような泣き声と、何かを叩く音が微かに聞こえた。
俺は深く息を吸い込んだ。
夜の空気は冷たく、そして驚くほど澄んでいた。
終わった。
俺の三週間が。いや、三年間の恋が。
胸に穴が開いたような喪失感はある。だが、それ以上に、重い足枷が外れたような、圧倒的な解放感が全身を駆け巡っていた。
俺はスマホを取り出し、カメラアプリと連動させていた監視システムを「解除」した。
もう、あの部屋を見る必要はない。
あの部屋は、過去の墓場になったのだから。
俺はスーツケースを引きずりながら、駅へと歩き出した。
カツ、カツ、と響く自分の足音が、新しい人生へのカウントダウンのように聞こえた。
*
それから、三ヶ月が経った。
季節は夏へと移り変わっていた。
太陽が照りつける都内の工事現場。
そこには、汗と土埃にまみれて働く一人の男の姿があった。
「おい権堂! 何やってんだ、もっと早く運べ!」
「は、はい……すいません……」
現場監督の怒声に、権堂剛は力なく返事をした。
かつて高級スーツに身を包み、エアコンの効いたオフィスで部下を怒鳴り散らしていた姿は、もうどこにもない。
作業着はサイズが合っておらず、薄くなった頭髪には白いものが目立つようになった。
顔は日焼けで黒ずみ、目元には深いシワとクマが刻まれている。
腰が悲鳴を上げているが、休むことは許されない。
あの日以来、彼の人生は坂を転げ落ちるように崩壊した。
会社からは懲戒解雇され、退職金はゼロ。
横領した金の返済と、妻の実家への借金返済のために、高級マンションも愛車も、ロレックスも全て売り払った。
それでも足りず、現在は安アパートに住みながら、日払いの肉体労働で食いつなぐ日々だ。
離婚調停は、一方的な条件で成立した。
慰謝料の支払いも残っている。
親権など望むべくもなく、子供に会うことも禁じられた。
再就職しようにも、ネット上にばら撒かれた「横領・不倫部長」という悪名は消えることがなく、まともな企業はどこも門前払いだった。
「クソッ……なんで俺がこんな目に……」
重いセメント袋を担ぎながら、権堂は呪詛のように呟いた。
休憩時間。
コンビニで買った一番安いおにぎりを齧りながら、彼はスマホを見た。
画面はヒビが入ったままだ。
SNSを開く気力もないが、ふとニュースサイトに目が止まる。
『商社業界、好景気続く』
アステア商事の株価も、あの一件から回復し、今は以前よりも上昇しているらしい。
自分が切り捨てられた会社は、自分がいなくても何の問題もなく回っている。
いや、むしろ「膿」を出したことで健全化したと言われている。
「相沢……あいつさえいなければ……」
権堂の脳裏に、かつての部下の顔が浮かぶ。
大人しく、従順で、無能だと思っていた男。
あいつが、全てを仕組んだのだ。
だが、今の権堂には相沢に復讐する力も、気力も残っていない。
もし相沢に会ったとしても、今の自分を見られたくないという惨めなプライドだけが残っていた。
ふと、現場の近くを通りかかった若いカップルが目に入った。
綺麗に着飾った女性と、エリート風の男性。
二人は楽しそうに笑い合っている。
「……チッ」
権堂は舌打ちをして、目を逸らした。
かつては自分もあちら側にいた。
玲奈という若い愛人を連れて、世の中を支配した気になっていた。
だが、それは砂上の楼閣だった。
自分の実力ではなく、妻の親の七光りと、会社の看板があったからこそ成立していた「虚構」だったのだ。
それを失った自分は、ただの薄汚れた中年男でしかなかった。
「休憩終わりだ! 作業戻れ!」
監督の声が響く。
権堂は重い体を無理やり起こした。
腰に激痛が走る。
この地獄のような日々が、死ぬまで続くのだ。
それが、人の尊厳を踏みにじり、快楽に溺れた男への罰だった。
*
一方、新宿の歌舞伎町。
雑居ビルの薄暗い楽屋で、三浦玲奈は化粧直しをしていた。
「玲奈ー、指名入ったよ。準備して」
「はーい……」
気だるげに返事をし、彼女は作り笑いを鏡の前で練習した。
現在、彼女はキャバクラ嬢として働いている。
といっても、高級店ではない。場末の、時給も安い店だ。
あの日、和也に部屋を追い出された玲奈は、実家にも戻れず、友人たちにも絶縁され、完全に孤立した。
ネット上での炎上は収束しつつあるが、本名と顔写真が晒された「デジタルタトゥー」の影響は甚大だった。
普通の事務職の面接に行っても、人事担当者が彼女の名前を検索すれば、すぐに「あの不倫女」だとバレてしまう。
結果、身元調査の緩い夜の仕事に就くしかなかった。
「……はぁ」
ため息をつくと、厚塗りのファンデーションが浮いて見えた。
ストレスと不規則な生活で、肌は荒れ、目の下のクマも酷い。かつての透明感のある可愛らしさは失われ、どこか擦れた、疲れた女の顔になっていた。
ロッカーからスマホを取り出し、通知を見る。
弁護士事務所からの督促メールが来ていた。
権堂の妻からの慰謝料請求だ。
権堂が破産寸前のため、連帯責任として玲奈への請求も容赦がない。
毎月、稼いだ金のほとんどが返済に消えていく。
欲しい服も買えない。美味しいランチも食べられない。
住んでいるのは、壁の薄いワンルームのアパート。
隣人の生活音が筒抜けで、夜中に酔っ払いの叫び声が聞こえるような場所だ。
「なんで……私だけこんな……」
玲奈は涙ぐんだ。
悪いのは権堂だ。彼が私を誘ったのだ。
私はただ、愛されたかっただけなのに。
和也くんだってそうだ。あんなに優しいと言ってくれたのに、最後は私をゴミのように捨てた。
男なんてみんな嘘つきだ。
指先が勝手にOustaのアプリを開く。
以前のアカウントは削除したが、見るだけのアカウントを作っていた。
検索履歴には『相沢和也』の名前。
彼のアカウントは非公開になっていない。
最新の投稿が表示される。
『新しいプロジェクトの打ち上げ。最高のチームに感謝。』
写真には、お洒落なビアガーデンで、同僚たちと笑顔で乾杯する和也の姿があった。
その隣には、綺麗な女性が座っていて、親しげに和也の肩に手を置いている。
和也の表情は、玲奈と付き合っていた頃の「気を使った笑顔」ではなく、心の底からリラックスした、男らしい自信に満ちた顔だった。
「……幸せそう」
嫉妬と後悔が胸を締め付けた。
あの隣にいたのは、私だったはずなのに。
私が裏切らなければ、今頃私は彼の妻として、平穏で幸せな生活を送っていたはずなのに。
プロポーズされるはずだった。
子供ができて、マイホームを買って、年に一度は旅行に行って。
そんな「退屈」だけど「温かい」未来が、私の手の中にあったはずなのに。
それを、一時の刺激と引き換えに、自ら粉々にしてしまった。
「玲奈! 何してんの、早く行けよ!」
「あ、ごめんなさい! 今行きます!」
ボーイに怒鳴られ、玲奈は慌ててスマホをしまった。
鏡に映る自分を見る。
安っぽいドレスに、派手なメイク。
これが今の私。
落ちるところまで落ちた、愚かな女の成れの果て。
「いらっしゃいませぇ〜♡」
店に出た玲奈は、媚びるような高い声を出して、小太りの中年客の隣に座った。
その客の腕には、安物の時計が光っている。
権堂のロレックスとも、和也の堅実な国産時計とも違う。
けれど、今の私にはこれがお似合いなのだ。
タバコの煙と安酒の匂いにまみれながら、玲奈はグラスに酒を注いだ。
その琥珀色の液体の中に、二度と戻らない輝かしい日々の幻影が揺れていた。
*
日曜日、午前十時。
俺、相沢和也は、新しいマンションのベランダに出て、淹れたてのコーヒーを飲んでいた。
今度の部屋は、以前よりも少し都心に近い、見晴らしの良い場所だ。
家賃は上がったが、給料も上がったので問題ない。
権堂がいなくなった後、営業部は大規模な人事刷新が行われた。
俺はこれまでの実績と、権堂の不正を見抜いた(と評価された)観察眼を買われ、新しいプロジェクトのリーダーに抜擢されたのだ。
「いい天気だ」
青空を見上げ、深く空気を吸い込む。
胸の中にあった重い澱みは、もう完全に消え去っていた。
時々、ふとした瞬間に過去の痛み――玲奈の裏切りを知った時の絶望――を思い出すことはある。
だが、それはもう古傷のようなもので、血を流すことはない。
インターホンが鳴った。
俺はカップを置き、モニターを確認する。
そこに映っていたのは、少し緊張した面持ちの高木さんだった。
あの日、俺に協力してくれた元同僚だ。
彼女は今、別の会社で元気に働いているが、俺とは定期的に連絡を取り合っていた。
「はーい、今開けるよ」
俺はドアを開けた。
高木さんは「お邪魔します」と少し恥ずかしそうに微笑み、手土産のケーキの箱を差し出した。
「これ、駅前で美味しそうだったから」
「ありがとう。ちょうどコーヒー淹れたところなんだ。一緒に食べよう」
リビングに招き入れる。
かつて玲奈と暮らした部屋とは違う、俺一人の趣味で統一されたシンプルな空間。
そこに、新しい風が入ってくる。
「……相沢くん、なんか表情明るくなったね」
ソファに座りながら、高木さんが言った。
「そうかな? まあ、肩の荷が下りたからね」
「うん。すごくいい顔してる。……私も、あの時は相沢くんに救われたよ。ありがとう」
「いや、俺の方こそ。君の協力がなかったら、ここまで上手くはいかなかった」
俺たちは視線を合わせ、自然と笑い合った。
そこには、共犯者としての絆を超えた、穏やかな信頼関係が芽生えつつあった。
まだ「恋」と呼ぶには早いかもしれない。
俺もまだ、完全に人を信じ切るリハビリの途中だ。
けれど、焦る必要はない。
時間はたっぷりある。
窓の外では、夏の入道雲が空高く湧き上がっていた。
俺の人生は、一度壊されかけた。
理不尽な悪意と、身勝手な欲望によって。
だが、俺は逃げずに立ち向かい、自分の手で決着をつけた。
失ったものは戻らない。
でも、その瓦礫の上には、新しい土台を築くことができる。
「さて、ケーキ食べようか」
「うん!」
高木さんの明るい声が、部屋に響く。
それは、俺の新しい日常の始まりの音だった。
俺は心の中で、過去の自分に別れを告げた。
さようなら、つまらない男だった俺。
そして、ありがとう。怒りに震えながらも、最後まで戦い抜いてくれた俺。
俺は前を向いた。
復讐は終わった。
ここからは、俺自身の幸せを掴み取るための、新しい物語が始まるのだ。




