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帰宅したら上司と彼女が繋がっていた。だから俺は、三週間かけて二人の人生を『詰め将棋』にする  作者: ledled


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第5話 崩壊する日常と因果応報

金曜日の午後三時。

アステア商事の第一応接室は、凍てつくような静寂に包まれていた。

空調の稼働音だけが低く響くその部屋で、権堂剛はパイプ椅子に座らされ、脂汗を垂らしながら目の前の人物たちを見上げていた。


正面に座っているのは、コンプライアンス室長の佐伯と、会社の顧問弁護士。

そして、その隣に座る人物こそが、権堂にとっての死神だった。

権堂真理子。彼の妻であり、彼が今の地位を築くための「土台」となった資産家の娘だ。

彼女はブランド物のバッグを膝の上に置き、能面のような無表情で夫を見つめている。その隣には、冷徹そうな眼鏡の男――彼女が連れてきた個人の弁護士が控えていた。


「権堂部長。いや、元部長と言うべきか」


顧問弁護士が事務的な口調で切り出した。


「調査の結果、貴殿による接待費の私的流用、架空請求による横領、そして取引先からのリベート受領の事実は明白となりました。裏帳簿と、貴殿の個人口座の入金履歴が完全に一致しています。総額にして約一千八百万円。弁明の余地はありますか?」

「そ、それは……仕事上の付き合いで、どうしても必要な金で……」

「愛人とのホテル代や、彼女へのプレゼント代が『仕事上の付き合い』ですか?」


佐伯室長が、テーブルの上に数枚の写真を放り投げた。

高級料亭でのツーショット。タクシーに乗り込む姿。そして、俺が送りつけた、自宅マンションへの出入りを捉えた画像。

権堂は言葉を詰まらせた。喉がカラカラに乾き、心臓が早鐘を打つ。


「会社としては、本日付けで懲戒解雇処分とします。退職金は当然不支給。さらに、横領した全額の即時返済を求めます。返済が滞るようであれば、刑事告訴も辞さない構えです」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 一千八百万なんて、すぐに用意できるわけがない! 刑事告訴だけは勘弁してくれ、俺の経歴に傷がついたら再就職も……」

「再就職?」


今まで沈黙を守っていた真理子が、鼻で笑った。

その冷たい響きに、権堂は背筋が凍りつく思いがした。


「あなた、まだ自分の立場が分かっていないのね。再就職どころか、あなたは今日で人生が終わるのよ」

「ま、真理子……」

「お父様にも全て報告しました。お父様は激怒されて、あなたへの融資――新築マンションの購入資金の援助と、あなたの実家のリフォーム代の立て替え分、全額を一括で返済するように仰っているわ」


権堂の顔から完全に血の気が引いた。

そうだ。彼は妻の実家の財力を当てにして、分不相応なタワーマンションを購入し、さらに地方に住む両親の家の改築費まで出してもらっていた。その額は、会社の横領額など比ではない。


「そ、そんな……そんなことされたら、俺は破産だ!」

「破産すればいいじゃない。知ったことではないわ」


真理子はバッグから一通の封筒を取り出し、テーブルに叩きつけた。


「離婚届よ。もう記入してあるわ。慰謝料は一千万円請求します。あなたの不貞行為の証拠は、あの気味の悪い音声データも含めて揃っているから、裁判になってもあなたが勝てる見込みは万に一つもないわよ」

「ま、待ってくれ真理子! 俺が悪かった! 魔が差したんだ! 愛しているのはお前だけだ、あの女が俺を誘惑して……」


権堂は椅子から転げ落ち、床に額を擦り付けて土下座した。

プライドも何もない。このままでは路頭に迷うどころか、借金地獄で一生這い上がれなくなる。

だが、真理子の目は汚物を見るように冷ややかだった。


「見苦しいわよ。あの音声データで言っていたじゃない。『ババア』で『金だけの女』なんでしょ? お望み通り、金だけ回収して捨ててあげるわ」

「ち、違う、あれは……!」

「もういいわ。弁護士さん、あとは任せます。私はこの人の顔を見ているだけで吐き気がするから」


真理子は立ち上がり、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。

残されたのは、絶望に打ちひしがれた中年男と、淡々と手続きを進める弁護士たちだけだった。


「な、なんでだ……なんでこんなことに……」


権堂は床に突っ伏したまま、呻くように呟いた。

今朝までは、次期役員候補として持て囃されていたはずだった。

それが、たった数時間で全てを失った。

誰だ。誰がこんな仕打ちをした。

相沢か?

いや、あんな大人しいだけの男にこんな芸当ができるはずがない。

じゃあ誰だ。

そうだ、あの女だ。

三浦玲奈だ。

あいつがSNSなんて馬鹿なものに証拠を残していたからだ。あいつが俺を誘惑したからだ。あいつさえいなければ、俺は今頃……!


権堂の心の中で、かつて「遊び相手」として愛でていた女への感情が、ドス黒い憎悪へと変わっていった。


          *


同時刻。都内のビジネス街。

三浦玲奈は、段ボール箱を抱えてオフィスビルの裏口から放り出されていた。


「もう二度と敷居を跨ぐな。我が社の恥だ」


派遣先の部長に吐き捨てられた言葉が、耳の奥で反響している。

通り過ぎる人々の視線が痛い。

スマホは震えっぱなしだ。通知を切っても切っても、画面には新しいメッセージが表示される。

Twotter、Ousta、MINE。あらゆるSNSのアカウントに、誹謗中傷の嵐が吹き荒れていた。


『こいつが不倫女か』

『会社の資料晒すとか脳みそお花畑すぎ』

『相手の奥さんかわいそう。地獄に落ちろ』

『住所特定したったw』


指先が震えて、スマホを取り落としそうになる。

怖い。

世界中が敵になったみたいだ。

なんで? どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの?

私はただ、素敵な人と恋をしていただけなのに。ちょっとだけ自慢したかっただけなのに。

悪いのは私じゃない。

私を口説いた権堂部長が悪いのよ。

そうだ、彼に助けてもらおう。彼は部長だし、お金持ちだし、きっと何とかしてくれるはず。


玲奈は震える手で権堂に電話をかけた。

コール音が鳴る。一回、二回、三回。

お願い、出て。つよしさん、助けて。

十回ほど鳴ったところで、ようやく通話がつながった。


「も、もしもし!? つよしさん!? 私、会社クビになっちゃって……ネットでも叩かれてて……怖いの、助けて!」


玲奈は涙声でまくし立てた。

しかし、返ってきたのは、今まで聞いたこともないような怒声だった。


『ふざけるな! お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!!』

「え……?」

『お前がSNSなんかにくだらない写真を載せるからだ! あれのせいで全部バレたんだぞ! 会社はクビだ! 妻からは離婚と莫大な慰謝料を請求された! 俺はもう終わりだ!』

「そ、そんな……だって、つよしさんは奥さんと別れるって……」

『別れるわけねえだろバーカ! ああ言っておけばお前みたいな軽い女は簡単に股を開くからな! 遊びだよ遊び! そのせいで俺は全てを失ったんだ! 慰謝料はお前にも請求が行くからな! 首洗って待ってろクソアマ!』


プツッ。ツーツー……。


一方的に切られた電話。

玲奈は呆然と立ち尽くした。

遊び?

嘘だったの?

愛してるって、妻とは上手くいってないって、あれは全部嘘?

体から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。

段ボール箱が傾き、中に入っていたマグカップや私物がアスファルトに散らばった。


「う、うそ……いや……」


涙が溢れ出し、化粧が崩れていく。

通りすがりのサラリーマンが、奇異なものを見る目で彼女を避けていく。

孤独だった。

寒気がするほどの孤独と絶望。

職を失い、社会的な信用を失い、信じていた恋人には裏切られ、罵倒された。

慰謝料? 請求?

派遣社員の私に、そんなお金払えるわけがない。


どうしよう。

どうすればいいの。

誰か。誰か助けて。


その時、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。

優しくて、穏やかで、私のことを一番に考えてくれる男。

相沢和也。

そうだ、和也くんなら。

彼は鈍感だから、まだネットの騒ぎには気づいていないかもしれない。

私が上手く説明すれば、きっと信じてくれる。

「変な男にしつこく言い寄られて、断れなくて困っていた」

「SNSの画像は合成されたものだ」

「私は被害者なんだ」

そう泣きつけば、彼は必ず私を守ってくれる。

彼は私にプロポーズしようとしていたんだもの。私のことが大好きなんだから。


玲奈の中に、歪んだ希望の光が差した。

それは蜘蛛の糸のように細く、頼りないものだったが、今の彼女にはそれしか縋るものがなかった。

玲奈は散らばった荷物を乱雑に箱に押し込み、タクシーを拾った。


「……お願い、和也くん。私にはもう、あなたしかいないの」


タクシーの中で、玲奈は崩れたメイクを必死に直した。

可哀想な被害者に見えるように。

和也くんが守ってあげたいと思うような、儚い女に見えるように。

自分が犯した罪の重さにも気づかず、彼女は最後の安住の地へと向かっていた。

そこが、すでに処刑台へと変わっていることも知らずに。


          *


午後七時。

俺、相沢和也は、自宅のリビングで静かにその時を待っていた。

部屋の明かりは少し落とし、テーブルの上には二人分の食事が並んでいる。

コンビニ弁当やスーパーの惣菜ではない。俺が手作りした、玲奈の好物のハンバーグだ。

そして、その横には一本のワインと、二つのグラス。

まるで、記念日を祝うディナーのような光景だ。


スマホを見る。

ネット上の祭りは最高潮に達していた。

権堂の名前と顔写真は完全に特定され、過去の悪評まで掘り起こされている。

玲奈の方も、学生時代の友人と思われる人物からのタレコミで、性格の悪さや過去の男性遍歴が晒されていた。

アステア商事の公式サイトにはお詫び文が掲載され、株価も少し下がったようだ。

俺が放った矢は、想定以上の破壊力で二人を貫いた。


「……そろそろか」


玄関の鍵が開く音がした。

俺はスマホを伏せ、表情を作る。

心配そうな、優しい彼氏の顔を。


「ただいま……」


蚊の鳴くような声とともに、リビングのドアが開いた。

そこには、見る影もなく憔悴しきった玲奈が立っていた。

髪は乱れ、目は泣き腫らして真っ赤だ。抱えている段ボール箱が、彼女の置かれた状況を物語っている。


「玲奈! どうしたんだ、その格好! 連絡もつかないし、心配したんだぞ」


俺は駆け寄り、彼女の荷物を受け取った。

演技だ。心の中は氷点下のように冷めている。

だが、玲奈はその演技にすがりつくように、俺の胸に飛び込んできた。


「うっ……うわぁぁぁん! 和也くん、怖かったよぉ……!」

「どうした、何があったんだ? ゆっくり話してごらん」


俺は彼女の背中を優しく撫でた。

その背中は小刻みに震えている。

権堂に抱かれていた時とは違う、恐怖による震えだ。


「あのね、会社で……変な噂を流されて……クビになっちゃったの……」

「噂? クビ?」

「うん……私、何もしてないのに……誰かが私のなりすましアカウントを作って、変な写真をばら撒いて……」


予想通りの嘘だ。

自分の罪を認めず、被害者面をする。

この期に及んでまだ、俺を騙せると思っているその浅はかさに、怒りを通り越して感心すら覚える。


「それに……部長が……権堂部長が、私にしつこく迫ってきて……断ったら逆恨みされて……『お前を社会的に抹殺してやる』って……」

「権堂部長が? あの人がそんなことを?」

「うん……私、怖くて……誰にも言えなくて……信じて、和也くん。私、何も悪くないの……」


玲奈は涙に濡れた顔を上げ、俺を見つめた。

その瞳は、必死に「信じて」と訴えている。

俺はその涙を指で拭ってやった。


「そうか……辛かったな、玲奈」

「和也くん……」

「俺は信じるよ。君がそんなことをするはずがない」


玲奈の顔に、安堵の色が広がった。

計画通りだ、と思っているのだろう。

チョロい男だ、と安堵しているのだろう。


「ありがとう……やっぱり、私には和也くんしかいない……」

「ああ、そうだな。俺たちには、お互いしかいない」


俺は優しく微笑み、彼女の手を引いてテーブルへと導いた。


「とりあえず、ご飯にしよう。君の好きなハンバーグを作ったんだ。お祝いしよう」

「お祝い……?」

「そう。君が悪い奴らとの縁が切れて、俺の元に帰ってきてくれたお祝いだ」


玲奈は「うん、嬉しい」と、少しだけ笑顔を取り戻した。

俺は彼女を席に座らせ、ワインをグラスに注いだ。

そして、リモコンを手に取る。


「食べながら、テレビでも見ようか。録画しておいた面白い番組があるんだ」

「面白い番組? バラエティ?」

「まあ、そんなところかな。とびきりの『ドキュメンタリー』だよ」


俺はリモコンの再生ボタンを押した。

大型テレビの画面が明るくなる。

そこに映し出されたのは、バラエティ番組でも、ドラマでもない。


薄暗い部屋。

見覚えのあるベージュのソファ。

そして、絡み合う男女の姿。


『……あ、んっ……すご……い……つよしさん……』

『どうだ、玲奈。俺のほうがいいだろ?』


部屋に、嬌声と卑猥な会話が大音量で響き渡った。

玲奈の動きが凍りついた。

グラスを持った手が空中で止まり、顔から表情が抜け落ちていく。


『和也くん、真面目だから』

『真面目なだけがつまらない男だ。ベッドの上でもあいつ、退屈なんだろ?』

『んー……まあ、優しいけど……つよしさんみたいに、激しくしてくれないから……』


画面の中の彼女は、今の憔悴した姿とは別人のように、快楽に溺れ、俺を嘲笑っていた。


「……え?」


玲奈の声が震えた。

ゆっくりと、錆びついた機械のように首を動かし、俺の方を見る。

俺はもう、優しい彼氏の顔をしていなかった。

グラスを片手に、無表情で画面を見つめる、冷徹な観客の顔。


「な、なに……これ……」

「何って、見れば分かるだろ? 三週間前の、この部屋での出来事だよ」


俺はワインを一口飲み、淡々と告げた。

玲奈の顔が、恐怖で歪んでいく。


「合成……じゃないよね? 自分の声くらい、分かるだろ?」

「か、和也くん……これ、いつ……」

「三週間前の金曜日。記念日のお祝いにケーキを買って帰ったら、君たちは盛り上がっていた。だから俺は、特等席で録画させてもらったんだ」


俺は立ち上がり、呆然とする玲奈を見下ろした。


「なりすまし? 部長に迫られた? よくもまあ、そんな嘘がスラスラ出てくるな。感心するよ」

「ち、ちが……まって、和也くん、聞いて……」

「聞く? 何を? 『退屈な男』の話をか?」


俺の冷たい視線に射抜かれ、玲奈はガタガタと震え出した。

彼女はようやく理解したのだ。

自分が逃げ込んだ場所は、シェルターではなく、処刑台だったのだと。


「なんで……気づいてて……ずっと……」

「復讐するためだよ。今日、この瞬間のために、三週間かけて準備してきたんだ」


俺はスマホを取り出し、画面を見せた。

そこには、権堂が連行される写真と、玲奈への誹謗中傷が溢れるタイムラインが表示されていた。


「会社への通報も、奥さんへの証拠送付も、ネットへの暴露も。全部、俺がやったんだ」

「え……?」

「権堂部長も、君も、俺が地獄に落としたんだよ」


玲奈の口がパクパクと動くが、言葉にならない。

あまりの衝撃に、思考が追いついていないようだ。

だが、事実は一つ。

彼女の人生を壊したのは、彼女自身であり、そして目の前にいる「最愛の彼氏」だった。


「さて」


俺はテレビの音量を少し上げ、画面の中の二人の喘ぎ声をBGMにしながら、冷酷に告げた。


「食事にしようか、玲奈。これが最後の晩餐だ」


俺の復讐劇は、クライマックスを迎えた。

ここにあるのは、愛も情けもない。

ただ、裏切りに対する代償を支払わせる、残酷な清算の時間だけだった。

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