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帰宅したら上司と彼女が繋がっていた。だから俺は、三週間かけて二人の人生を『詰め将棋』にする  作者: ledled


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第1話 幸福の崩落と冷たい殺意

「お疲れ様です、部長」


午後四時半。フロアに響く俺の声に、デスクから顔を上げた男――権堂剛ごんどう つよし営業部長は、値踏みするような視線をこちらに向けた。仕立ての良いスーツに身を包み、腕にはロレックス。四十五歳にしては若々しく、精悍な顔つきをしているが、その眼光には常に他人を見下すような冷たさが宿っている。


「おう、相沢。もう上がりか?」

「はい。先ほどご報告した通り、今日の商談が予想より早くまとまりまして。このまま直帰させていただきます」

「ふん、まあいい。お前みたいな凡才にしてはよくやったほうだな。今回の契約、粗相がないように最後まで気を抜けよ」

「はい、肝に銘じます」


俺、相沢和也あいざわ かずやは深々と頭を下げた。

アステア商事に入社して五年。中堅商社であるこの会社で、俺は営業職としてそれなりの実績を上げてきた自負がある。だが、直属の上司である権堂は、決して部下を褒めない。それどころか、部下の手柄を自分の指導のおかげだと吹聴し、ミスがあれば徹底的に糾弾する典型的なパワハラ気質の上司だ。


「俺も今日はこれから会食だ。大事な客だからな、連絡してくるなよ」


権堂はそう言ってニヤリと笑うと、鞄を片手に颯爽と立ち上がった。フロアの女性社員たちが「お疲れ様です」と黄色い声を上げる。仕事ができ、金離れも良く、既婚者でありながら大人の色気を漂わせる彼は、表面的には人気がある。裏でどれだけ部下が泣かされているかも知らずに。


俺は権堂の背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

嫌味な上司だが、今日ばかりはその言葉も気にならない。なぜなら今日は、同棲している彼女――三浦玲奈みうら れなとの記念日だからだ。


付き合って三年、同棲を始めて半年。今日はその半年記念日だった。些細な節目かもしれないが、俺たちにとっては大事なイベントだ。

スマホを取り出し、MINEマインの画面を開く。


『お仕事お疲れ様! 今日は早く帰れそう? ご飯作って待ってるね♡』


玲奈からのメッセージに、自然と頬が緩む。

彼女は派遣社員として別の会社で働いている。今日は俺に合わせて定時で上がると言っていた。俺が今から帰れば、彼女より少し早く着くかもしれない。


「……ケーキでも買って帰るか」


俺は駅前の有名パティスリーに立ち寄ることにした。玲奈が以前、雑誌で見かけて食べたがっていた季節限定のフルーツタルトがあるはずだ。

行列に並びながら、ショーケースの中の色鮮やかなケーキを眺める。玲奈の喜ぶ顔が目に浮かんだ。

彼女は感情表現が豊かで、美味しいものを食べると子供のように目を輝かせる。そんな彼女を見ているだけで、日々の仕事の疲れも、権堂からの理不尽な扱いも、すべて浄化されるような気がした。


俺はいずれ、彼女にプロポーズするつもりだ。

指輪の貯金も目標額に近づいている。平凡な俺には勿体ないくらい可愛くて、家庭的な彼女。この幸せを絶対に守り抜く。そう心に誓っていた。


店を出て電車に揺られ、最寄り駅で降りる。

夕暮れの商店街を抜け、閑静な住宅街にあるマンションへと向かう足取りは軽かった。

手に持ったケーキの箱が、心地よい重みとして感じられる。

マンションのエントランスをくぐり、エレベーターで五階へ。見慣れた「502」のプレートの前で立ち止まる。


鍵を取り出そうとして、ふと気づいた。

ドアの鍵が開いている。


(あれ? もう帰ってるのか?)


玲奈が先に帰宅していたのだろうか。それならそれでいい。驚かせるために、そっと入ろう。

俺は静かにドアノブを回し、玄関へと足を踏み入れた。


「ただいまー、玲奈?」


声をかけようとした瞬間、言葉が喉に張り付いた。

違和感。

圧倒的な違和感が、玄関の空気を支配していた。


そこには、見慣れない靴があった。

玲奈のパンプスやスニーカー、俺のビジネスシューズ。それらが並ぶタタキの真ん中に、場違いなほどの存在感を放つ、焦げ茶色の革靴が一足。

それは、明らかに高級品だとわかる光沢を放っていた。イタリア製の、独特なとがったフォルム。


(……これ、どこかで)


既視感があった。

つい数時間前、俺はこの靴を見ていた気がする。

会社のフロアで。俺のデスクの前で。足を組んで座っていた男の足元で。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

ドクン、と重い鼓動が全身に響く。

いや、まさか。そんなはずがない。

思考が拒絶反応を示すが、体は勝手に動いていた。

靴音を忍ばせ、廊下を進む。

リビングのドアは少しだけ開いていた。そこから漏れ聞こえるのは、テレビの音ではない。


「……あ、んっ……すご……い……」

「どうだ、玲奈。俺のほうがいいだろ?」


雷に打たれたような衝撃が走った。

聞き間違いようがない。

甘く濡れた、玲奈の声。

そして、低く、粘着質な、あの男の声。


俺は呼吸を忘れ、リビングのドアの隙間から中を覗き込んだ。

そこは、俺と玲奈が毎晩食事をし、笑い合い、くつろいできたリビングだった。俺たちが選んだベージュのソファ。その上で、二つの影が重なり合っている。


一人は、ワイシャツをはだけ、汗ばんだ背中を見せている男。

そしてその下で、乱れた衣服を身に纏い、恍惚の表情を浮かべている女。


三浦玲奈だ。

そして男は、紛れもなく、俺の上司である権堂剛だった。


「あっ、や……部長、だめぇ……」

「部長じゃないだろ? つよしさん、と呼べと言ったはずだが?」

「……つよし、さん……もっと、奥……」


視界が歪んだ。

血管の中を、血液の代わりにマグマが駆け巡るような感覚。

頭の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。

手に持っていたケーキの箱を握りつぶしそうになる。


(ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!)


なんでだ。

なんで、ここに権堂がいる。

なんで、玲奈があいつを受け入れている。

俺の家だぞ。俺のソファだぞ。俺の彼女だぞ。

今日は記念日じゃなかったのか? ご飯を作って待っていると言ったのは嘘だったのか?


激情が喉元までせり上がり、叫び出しそうになった。

今すぐドアを蹴破り、あの男を殴り飛ばし、玲奈を問い詰めたい。

その衝動に突き動かされ、俺は一歩、踏み出そうとした。


「……それにしても、あいつの家でやるのは興奮するなぁ」


権堂のその一言が、俺の足を縫い止めた。


「和也くん、遅いんでしょ?」

「ああ。面倒な仕事を押し付けてきたからな。今頃、汗水たらして残業してるはずだ。無能な部下を持つと苦労するよ」

「ふふ、かわいそう……でも、和也くん、真面目だから」

「真面目なだけがつまらない男だ。ベッドの上でもあいつ、退屈なんだろ?」

「んー……まあ、優しいけど……つよしさんみたいに、激しくしてくれないから……」


玲奈の言葉が、鋭利な刃物となって心臓を抉った。

退屈。

優しいけど、激しくない。

俺が彼女を大切にして、嫌われないように、痛がらせないようにと気遣っていた全てが、彼女にとっては「退屈」という二文字で切り捨てられていた。


「ははは! 傑作だな。あいつが必死に稼いだ金で借りてる部屋で、あいつの女を抱く。これ以上の酒の肴はない」

「もう、いじわるぅ……でも、そういう強いところも好き……」


二人の笑い声が、耳鳴りのように響く。

俺の中で燃え上がっていた赤い怒りの炎が、急速に冷えていくのを感じた。

いや、怒りが消えたわけではない。

あまりの屈辱と絶望が、怒りの質を変質させたのだ。

熱く暴れ狂う炎から、絶対零度の氷のような殺意へと。


今、ここで飛び込んで何になる?

権堂を殴れば、傷害罪だ。会社はクビになるだろう。

玲奈に泣きつかれれば、情にほだされてしまうかもしれない。

権堂は口がうまい。うまく言いくるめられ、逆に俺が悪者にされる可能性すらある。社会的地位も、権力も、あいつのほうが上だ。

感情に任せて暴れたところで、俺が失うもののほうが大きい。


(落ち着け。冷静になれ、相沢和也)


俺は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。

指先が冷たい。全身の血の気が引いているのがわかる。

それでも、俺は震えを必死に抑え込み、カメラアプリを起動した。

動画モード。


まずは、玄関に戻る。

静かに、音を立てずに。

タタキに置かれた権堂の靴を撮影する。ブランドのロゴ、サイズ、靴底の減り具合まで鮮明に。

次に、リビングのドアの前へ戻る。

ドアの隙間にレンズを向けることはリスクが高い。気づかれる可能性がある。

だから、俺はドアの隙間にスマホのマイクを近づけ、録音を開始した。


「……あ、すごい、つよしさん、おっきい……」

「玲奈、愛してるぞ。妻とは別れるから、俺と一緒になろう」

「ほんとに? 奥さん、怖いんでしょ?」

「あんなババア、金だけの女だ。俺が愛してるのはお前だけだ」

「嬉しい……私も、和也くんより、つよしさんがいい……」


嘘だ。

権堂が妻と別れるわけがない。

彼は社内でも有名な恐妻家で、現在の地位も奥さんの実家である資産家のコネクションがあってこそのものだ。

それを知らずに、甘い言葉に酔いしれる玲奈。

そして、平然と嘘をつき、俺を嘲笑う権堂。


五分ほど録音しただろうか。

行為がクライマックスに近づき、二人の声が高まったところで、俺は録音を停止した。

これ以上の音声は、生理的な嫌悪感で吐き気がして耐えられそうになかった。


証拠は取った。

時刻は十七時十五分。

俺はまだ、帰宅していないことになっている。


俺は来たときと同じように、音を殺して玄関を出た。

ドアを閉める瞬間、中から玲奈の高い声が聞こえた気がしたが、もう振り返らなかった。


マンションを出て、駅とは反対方向へ歩き出す。

手に持っていたケーキの箱が、酷く邪魔だった。

公園のゴミ箱が見えた瞬間、俺は何の躊躇もなくその箱を投げ捨てた。

箱が潰れる鈍い音がした。

中身のタルトはぐちゃぐちゃになっているだろう。

俺たちの三年間の思い出のように。


「……はは」


乾いた笑いが漏れた。

涙は出なかった。

ただ、胸の奥にどす黒い塊が居座り、重くのしかかっている。


行き場を失った俺は、隣駅にある会員制のネットカフェに入った。

個室のフラットシートに体を沈め、薄暗い空間で一人、天井を見上げる。

周囲からは誰かのいびきや、タイピングの音が聞こえる。

日常の音だ。

けれど、俺の日常はもう、完全に崩壊していた。


スマホを取り出し、先ほどの録音データを再生する。

イヤホン越しに聞こえる、愛していた女の裏切りの声。

俺を嘲笑う上司の声。


『和也くん、真面目だから』

『真面目なだけがつまらない男だ』


その言葉を、何度も、何度も繰り返し聞いた。

胸が張り裂けそうな痛みが襲うたびに、俺はそれを憎しみという燃料に変えていく。


真面目なのがつまらないだと?

ああ、そうかもしれないな。

俺は今まで、波風を立てないように、穏やかに生きてきた。

それが幸せへの道だと信じていたからだ。

だが、お前たちはそれを踏みにじった。

俺の家で、俺の聖域で、泥足で踏み荒らした。


許さない。

絶対に許さない。


権堂剛。

三浦玲奈。

お前たちが味わっているその快楽を、何倍もの苦痛に変えて返してやる。


社会的に抹殺する。

経済的に破綻させる。

精神的に追い詰める。

二度と、日の当たる場所を歩けないようにしてやる。


そのためには、今の証拠だけでは足りない。

あれは「浮気」の証拠にはなるが、権堂を地獄に落とすための決定打としては弱い。

もっとだ。

もっと致命的で、逃げ場のない、完璧な包囲網を作る必要がある。


俺はスマホのカレンダーを開いた。

今日から三週間。

会社の決算報告と、権堂の昇進がかかった重要な役員会議がある日まで。

そこがXデーだ。


「……見てろよ」


暗い個室の中で、俺は呟いた。

その声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。


「感情で動くな。論理で追い詰めろ。泣いて許しを請うまで、徹底的にやってやる」


俺の中で、何かがカチリと音を立てて切り替わった。

相沢和也という「つまらない男」は、今日死んだ。

ここから始まるのは、裏切られた男による、慈悲なき復讐劇だ。


俺はPCを起動し、まずは隠しカメラの購入サイトを開いた。

検索ワードは『超小型』『長時間録画』『遠隔監視』。

画面の光が、俺の顔を青白く照らし出す。


モニターに映る俺の瞳は、もう以前のような温かさを失っていた。

そこにあるのは、獲物を狙うハンターのような、冷酷な光だけだった。

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