三日月山の主と六角岩の羊飼い
三日月山は、もとは名もない山だった。
幼い水竜が、くしゃみをするまでは。
沢の奥深く、柔苔が広がる静かな寝所。
そこに白糸ほどの小さな滝が欲しかった。
たったそれだけだったのに……どうして。
くしゃみ一発、魔術がブレた。
山の端、一瞬で吹っ飛んだ。
昇る月を冠した山。
いまや、山自体が削れた月になった。
……そう。
あれは、くしゃみのせいだ。
自分のせいじゃない。
あんなタイミングで出る方が悪い。
水竜はそう信じていた。
乱暴者の水竜は生まれつき、力が強すぎた。
山のものの住処を壊し、霧を裂き、荒山を湿原に変えてしまう。
――余罪は数えきれない。
山脈の主は、山々を束ねるもの。
天井山脈を束ねる主は、放任主義で名高かったが、
今回ばかりは、黙っていられなかった。
あまりに多くの者が、彼女の名を口にしたからだ。
こうして水竜は、三日月山の主から外された。
叱られもせず。
教えられもせず。
寄り添われることもなく。
ひとりぼっちの未熟な竜は、自分がどんなものを傷つけているのか、知らなかった。
穴になったところに、
なにか思い出があったことも。
だれか暮らしていたことも。
ながく春を待つものがいたことも。
何も、知らなかった。
それを『察すること』こそ、山の主の務め。
けれど――誰も、それを教えなかった。
気づけば、ひとり。
居場所を失った水竜は、捨てられた思いを胸に、水の行くまま、世界をあてもなく彷徨った。
高位の竜は、名と知と力を持ってこの世に生まれ落ちる。
その力が司る領地領域も、生まれながらに持っていた。
そんな竜が居場所を失い、
世界をさまようなど、前代未聞。
行く先々で、余所者と呼ばれた。
誰も歓迎せず、疎まれ、追われ、どこも受け入れなかった。
そうしてたどり着いたのが、大陸東の果て。
東峰山脈の一角にある、六角の柱でできた岩山。
人はそれを、柱山と呼んだ。
*
草も生えぬ岩山の頂で、やさぐれた水竜はとぐろを巻いた。
崖下では、風に毛をそよがせながら、子羊が反芻していた。
その澄んだ目が、ひりひりする胸を刺した。
あんなになにも持たないのに。
なぜ、あんな顔ができるのか。
どうして、わたしだけ、こんなに苦しいのか。
竜なのに。名も、力も、あるのに。
ねぇ、誰か教えてよ。
どうしても、わからない。
ただ、いらいらする。
ちくちくして落ち着かない。
もう、嫌になる。
ひとつ壊せば、わかるのかな。
……あの澄んだ目を曇らせれば、
この胸のざわめきも、静かになるのだろうか。
衝動に任せて、子羊に雷を落とした。
最初は少し離れた地面。
驚いた子羊が、一歩下がる。
次は足元。
前脚を振り上げて踊るように跳ねた。
そのぴくりと動く耳。
逃げ惑う鼻先に。
一挙一動が、たまらなくおかしかった。
「……ふふっ……ははっ、あはは――」
笑いながら見下ろした。
胸のちくちくは、なお増した。
嵐のように、心が荒れる。
けれど、ただ降る前の重苦しさより、
いっそ、ひどく心は軽かった。
「――っ!?」
稲妻が翻った。
空が裂けた。
視界が白に焼かれ、音も、感覚も、消えていく。
――なに、これ。
反射的に身を捩ったが、遅かった。
雷は、自分の背に落ちた。
焼けるような衝撃。
山肌を滑り、岩を砕き、転がり落ちる。
だが、もっと恐ろしかったのは――
それが、『返ってきた』ということだった。
まるで、「それは、やってはならないことだ」と
咎められたようで。
雷を扱えるのは、世界の支柱たりえるもののみ。
その稲妻が、返ってきた。
ただの人間に。
返された。
けれど、その人間の魔術は、山の気配と完全に重なっていた。
しかも――構えもなく、まるで風を受け流すように、雷を返した。
……そんなことが、あるものか。
人間が、山の主だと?
そんな在り方――
……否、在った。
世界に、たったひとつ。
月の魔物が認めた、ただひとり。
水竜は、ようやく悟った。
この者こそが、柱山の主。
風が息をひそめ、空の気配までもが凪いだ。
その沈黙のなか、声が落ちてくる。
低く、冷たく――けれど、あまりにもまっすぐで。
「――どこのどいつだ?うちの子を、泣かせたのは」
水竜は、凍りついた。
その目には、力も、種族も、映ってなかった。
ただ――泣かされた子の痛みだけを、まっすぐに映していた。
それが、六角岩の羊飼い――ジャックとの出会いだった。
*
人の身にして山の主。
世界でも類をみない、ただひとつの在り方。
月の魔物と契約し、暮らしによって山を治める者。
夜ごと魔術が満ちる『夜燈の書庫』の扉番。
未の季節――羊季を巡る命を、見つめ、導く牧者。
山と書庫をつなぎ、風と命の通り道を守り続ける。
――それが、六角岩の羊飼い。
人に過ぎぬその魔術は、山の風に溶け、
節理の裂け目に染み込み、苔の眠りをそっと撫でる。
力によらず、ただ積み重ねた暮らしで山を導く。
それが、この柱山の『理』。
山の流れに沿い、季節の息づかいを聴く者。
それこそが、六角岩の羊飼いだった。
水竜は、目の前の、なんの変哲もない男を見つめた。
この者が、人間だというのなら――
なぜ、あんな風に、山と風とが寄り添うのか。
なぜ、魔術が暮らしとともに、巡っていくのか。
……わからない。
けれど――確かに思う。
この男には、わたしの持たない何かがある。
そしてそれこそが、山を守り、誰かを泣かせない『ちから』なのだと。
気づけば、水竜は地に正座していた。
慣れぬ姿勢に脊椎がばきばきと鳴り、尾はぶるぶると震える。
足も組めず、手も置けず、しまいには尻尾が地を払って跳ねた。
自分でも嫌になるほど、みっともない格好だった。
「聞いてんのか、こら」
ひくひく震える声で、
「……きいてますぅ……」と答えた。
睫毛の奥が熱くて、思わず目を伏せた。
その痛みは雷撃の衝撃より深く胸を締めつけ、心の皮膚が剥がれていくようだった。
痺れ、痛み、耐えること。
水竜の生き方には、そんな『弱さ』は存在しなかった。
何度も羊の方を見るように言われた。
「力は見せびらかすためのもんじゃねえ。
怖がらせるためでもない。
――守りたいと思ったら、そこで一番の使いどころを考えろ。お前、名は?」
「メリ――っ」
水竜の口は思うように動かなかった。
本当の名前は、天井山脈の主に罰として封じられていた。
「メリ?」
「メ……リ、ユ……いや――メリィ」
羊飼いはわずかに眉を寄せた。
ただ、その顔に怒りや軽蔑はなく、深い諦めと覚悟が宿っていた。
「なら――受けろ、処罰を。……いや、やり直せ。メリィ」
たじろぐ彼女に、山の主は静かに続けた。
「六角岩の羊飼いジャックは、柱山の主として、
お前に『人の暮らし』を課す。そこで学ぶんだ」
「ひ、人の暮らし……?」
「そうだ。お偉い竜様なら、人の姿くらい、とれるだろ?
明日からは人として、羊の世話をしろ。
草を刈り、水を運べ。空を読み、風を感じろ。
――人と羊と共に生きられるようになるまで、
この山からは一歩も出さん」
それが、メリィに課された最初の『罰』だった。
――だが、時を経てメリィは気づく。
あの罰こそが、自分を世界から切り落とさずに済ませてくれた、たったひとつの救いだった、と。
罰の暮らしは、否が応にも、メリィに罪の重さを突きつけた。
あのときのくしゃみは、誰かの思いを、日常を、願いを――潰したのだ。
それは、どんな裁きよりも深く、メリィの胸に事実を刻んだ。
けれど、その罰はたしかに――《暮らし》だった。
誰かの願いに触れ、そのぬくもりに、ほんの少しでも応えられたとき――
暮らしとは、小さな祈りだ。
その祈りが、魔術を、理をゆるやかに、けれど確かに揺るがしてゆく。
それを、メリィはようやく知った。
本来、乾くことなどなかった水竜の手が、土にひび割れた。
――ああ、自分はいま、この地と、たしかにつながっている。
羊を追い、囲いを直し、空を読む。
雲の陰りに胸が騒ぎ、夜には、またたく星を数える。
眠る羊の鼓動が、静かに、自分の胸を打っていた。
時には、生まれ出る匂いに気づく。
時には、嵐の前の、重く冷たい死の気配に息を呑む。
そして、震える命に、そっと手を差し伸べる――温かくも、同時に怖い。
でも、とても大事なものだから。
かつては空の高みにいた竜は、今は、乾いた岩に膝をついて、名もない命に手を伸ばしている。
それは、はじまりだった。
罰ではなく、祈りとしての《暮らし》の――。
魔術は、必要以上に振るわない。
それは、力の喪失ではなく、力との“つきあい方”だと――ジャックはそう教えた。
ジャックは、その境目に厳しかった。
だがその厳しさは、決して威圧ではなかった。
誰かを守るためにこそある、静かな優しさだった。
そして――その日々のなかで、メリィは知っていった。
言葉にできない呼吸のリズム。
草を噛む音の、たしかな静けさ。
見守るという営みに、灯るあたたかさ。
祝祭にともに踊るときの、笑いの湿り気。
そのすべてが、知らなかった心の奥へ、ゆっくりと沁みていった。
やがて、彼女は理解しはじめた。
『力をどう使うか』ではなく、
『どう在るか』の中にこそ、律すということが宿るのだと。
あの暮らしは――たしかに罰だった。
だが、それ以上に、赦しであり、未来への扉だった。
*
羊飼いと過ごした時間は、あたたかく静かだった。
そのぬくもりに慣れてしまったからか、彼のいない三日月山にはどうしても戻りたくなかった。
天井山脈の主は、たった十数年で水竜に山の主へ復帰を許した。
後任者候補にろくな者がいなかったからだろう。
だが、メリィは帰らなかった。
くしゃみ一つで山を裂き、多くの命と日常を粉砕してしまった。
その悔いが、胸を深く貫いていたからだ。
解き放たれた『本当の名』は、竜が派生した山に紐づいていた。
名を音にすれば、魔術が応え、忘れたはずの山が呼び戻してくる。
メリィは三日月山の主。
柱山にいてはならぬ者だ。
抗えば、魔術はよそ者を排し、土地の呼吸さえ彼女を拒みはじめる。
あの暮らしすら、遠ざけるように。
だから、名を封じた。
竜であることをやめるたび、確かに何かが剥がれ落ちた。
従う魔術は減り、身に宿る魔術も薄れ。
その声は、もう空にも山にも届かず、誰の耳にも『竜』とは聞こえなくなっていった。
生まれ、愛した山の名さえも、自らの意思で沈め、蓋をした。
自分という存在の根を――
自らの手で、静かに引き抜いた。
やがて、己は『いなかったもの』となっていく。
痕跡さえも崩し、砂に還した。
世界に忘れられることを、自ら選んで。
*
人にしては長く生きたジャックが死の扉を潜り、次の生へ向かったあとも――
メリィは生まれた山には、帰らなかった。
死の間際、ジャックは言った。
『お前がいい。お前じゃなきゃ、駄目なんだ』
『代行』だった。
けれど、それでも、ジャックに、選ばれたのだ。
人の役職を、人の理屈で竜に担わせるなど――
そもそも、無理があった。
魔術の理も、時間の流れも、見ている世界すら違うのだから。
けれどその『違い』こそが役立つとして、
次代の山の主が育つまでの『つなぎ』として、任を託されたのだ。
六角岩の羊飼い。
それは称号ではなかった。
山を守る『座』そのものを、引き継ぐということだった。
メリィは、己の片角を折った。
竜の力を、自ら砕き、魔術の触媒とするために。
砕けたのは、角か、誇りか。
鈍い音が、深く胸を打った。
痛みはなかった。
けれど、心が、叫んだ。
竜の誇りを、自らの手で砕いたのだ。
名も、力も、山も、ひとつ残らず手放した――
もう何者でもない存在になったあと。
声も届かず、名も響かず、
ただ風に吹かれて、誰にも気づかれなかった。
羊の毛に手を触れたとき、温かさが返ってきた。
その、小さなぬくもりに。
なぜか、視界がにじんだ。
逃げず、隠れず、追われず。
この山にいることが、ただ、嬉しかった。
たとえそれが仮初でも、
この手のぬくもりだけは、今も、信じている。
この居場所は、竜としての領域の外。
けれど、メリィが自ら選んだ、唯一の居場所だった。
だから、今度は――
生きるための理由などいらない。ただ、ここに、在る。
*
それからいくつ羊季の未を見送っただろう。
やっと見つけ、育てた。
六角岩の羊飼いの、愛すべき後継者。
やさしくて、臆病で、
――だからこそ、誰よりも先に、火の中へ飛び込んでしまう子だった。
恐れながらも立ち向かうことだけは、決して忘れなかった。
ノラン。
かつて自分が与えられたぬくもりを、
今度はそっと彼の手に渡すように、メリィは育てた。
見守る瞳の温度を、
風にはためく洗濯物の匂いを、
名前を呼ばれたときの胸のあたたかさを、
並んで齧った干し肉の、少し硬すぎる歯応えを。
知っていた。
あれからずっと日ごと、我が身が透けていくこと。
声はかすれ、誰にも届かなくなりつつあること。
手を伸ばしても、もう何にも触れられず、
気をぬけば、指先は濡れた空気のなかで、にじむようにほどけていく。
わかっていた。
ずっと前から――あの子の目が、それを見ていたことを。
言葉にならない問いが、口もとで揺れていたことを。
震える肩。飲み込まれた声。
ノランは、気づいていた。
彼女の異変に。
そして、密かに、それをどうにかしようとしていた。
でも、メリィはそれを望まなかった。
ノランの時間を、自分のために止めさせたくはなかった。
けれど――
それを伝える術も、拒む力も、もう残されてはいなかった。
だから、
彼の願いを叶えるための「方法」を、教えたりはしなかった。
それは、黙って抱くしかなかった秘密だった。
竜であることを手放し、人と生きると決めた、その報い。
忘れ去られることでしか、終われない命。
誰の中にも残らないことを、選んで生きるということ。
それでも、メリィは笑っていた。
すべてを手放したこの場所で。
竜でも人でもない、どこにも属さない、このあたたかい場所で――
まだ、『ここに』いた。
……ほんの、わずかな時だけ。
ジャックと踊ったように。
ノランと、羊季の輪をつくり、笑いながら、踊っていた。
終わりは、風も立たぬほど、しずかだった。
その日、メリィが用を済ませ、夜燈の書庫へ戻ったとき――何かが、違った。
空気が、凪いでいた。
まるで世界そのものが、息を潜めているかのように。
そして、気づいた。
鍵が――ない。
あの鍵は、月の魔物と契約した柱山の主が手にするもの。
それがここにないということは、つまり。
別れだ。
ノランが、六角岩の羊飼いを継承したのだ。
*
ノランはメリィの秘密を探った。
望まれぬと知りながら、それでも、手を伸ばしてしまった。
……けれど、知ってしまった瞬間。
ノランは、本当は、見なかったことにしたくなった。
目をそらして、いつも通りの朝を装って、笑って、羊の世話をして――
そうしているうちに、きっと何かが戻ってくるような気がして。
でも、戻ってこなかった。
メリィの笑顔は、空に溶けるように薄れていく。
名前を呼んでも、あの声はどんどん淡くなって。
『月は隠すものだ。だが、どうやら君は、暴きたいらしい。
……まあ、たまにはいいだろう。
三日月山の竜を、呼ぶといい』
月の魔物はノランに気まぐれに秘密をこぼした。
天井山脈、その三日月山のその美しさを惜しんで。
『知りたければ『竜の事典』でも読むんだな。
六角岩の羊飼いなら覗けるだろう?』
知り合いの司書妖精は、あきれたように、けれどどこかで何かを期待するかのように、ぽつりと呟いた。
その秘密を知ったノランは、迷った。
人外たちは、人間をからかうのが好きだ。
これも、ただの罠かもしれない。
……でも、それがどうした。
彼女が、この世から消えつつあるのは、間違いない。
黙って見送るなんて、できるはずがなかった。
ただ笑って、消えていくのを見ていろというのか?
――無理だ。
絶対に、嫌だ。
たとえ、あのひとが望んでいないとしても、
それでも、俺は……俺だけは、笑って見送れない。
たとえ、もう一緒にはいられなくなったとしても。
それが償えない罪になるとしても。
(……勝手なのは、俺の方だ)
それでも、あの綺麗なひとが消えてしまうなんて――
そんなの、耐えられなかった。
ノランは、差し出す覚悟を決めた。
願いを、噂を、そしてこの身を。
記される罪でも、赦されぬ報いでも、構わない。
それでも彼女を、解き放てるのなら。
ノランが継承に失敗すれば、山に残ることは叶わない。
一族も、街も、すべてを追われたノランには他に頼る先などない。
そうして、『ここに居られた』その意味ごと、手放す覚悟で――
ノランは、夜燈の書庫の試練に挑んだ。
命がけの願いを胸に抱いて。
夜燈消えた新月に、脱走する暴れ本を追う。
書庫と世界の狭間、跳ね回るインクと紙魚の罠をくぐり抜けた。
立ちはだかる司書妖精には、知の代わりに近所の噂を差し出した。
扉の番人として、自らの言葉で書庫を守り、時に、己の身では足りぬものを求め、誰かに助けを乞うことも厭わなかった。
最終試験。書は突然、ノランの名を叫んだ。
狼の影が迫るなか、まだ息のあった友を置いて、逃げた。
誰にも教えていないはずの、過去の、罪。
書庫が、ノランの心そのものを写していた。
君はそれでも、この山を継ぐのかと。
ノランは、震える指で筆を取り、自らの名を記した。
涙で文字がにじんでも、名前は消えなかった。
そうして、ノランは継承の権利を手に入れた。
夜燈の書庫の鍵は、扉の取手になる。書庫へ通じる、たった一つの道だ。
メリィが差したそれを抜き出して、己のものとすれば名実ともに、『六角岩の羊飼い』となる。
「優しい夜の主の知恵よ、夜燈の書庫よ。
俺のこれからのすべての営みをこの山に捧げよう。
だから……あのひとを解放させてくれないか」
その言葉とともに、山の主の権限を手にし、ノランは向かった。
外部禁書庫――山の主に閲覧を許された、持ち出し禁止の書が眠る場所へ。
『世界の竜事典』
この書に名を刻まれた竜だけが、世界に存在できる。
名が消えれば、それはもう竜ではないか、死んだ竜だ。
そして、メリィが、決して見なかった本。
いや――触れられなかった、ただひとつ。
かつて一度だけ、ノランは見た。
禁書庫の前で、立ち尽くすメリィを。
震える指先で扉に触れ、唇だけが何度も呟いていた――
『記されては、ならない』『そうでなければ、赦されない』
その姿は開けられたのに、心がそれを拒絶した者の姿だった。
夜燈の書庫。静寂の奥で鍵が鳴る。
ノランの指が、事典の表紙をなぞった瞬間――
皮膚を刺すような冷気が、指先から心臓へと這い登った。
書架が軋み、古びた背表紙が歯のように開いた。
『それを取るのか』『記録は戻らない』『やめておけ』
囁きとも呻きともつかぬ声が、ノランの耳に重なって落ちてきた。
何度も迷う。
迷いは目を霞ませ、文字をよそよそしくした。
それでも、名前を探す。
月の魔物からえた『三日月山』という言葉を頼りに。
だが、三周しても見つからない。
やはり、彼女はもう取り戻せないのか。
ノランは目を閉じた。
迷いがあった。
彼女が望まないと知っていたから。
それで、いいのか?
静寂が、肺の奥まで凍らせる。
いや。
それでも――
目を皿のようにして探すこと五周目。
見落としたのではない。見えなかったのだ。
けれど今のノランには、見える。
彼女が消した、自身の名前が――
擦り切れたページの端に、ひそやかに、息づいていた。
それは、隠されていた名だった。
哀れな水竜が、自らをこの世から切り離すために。
もはや世界にたったひとつしかない、彼女の痕跡。
それが、いま目の前にある。
震える手で、その名に触れる。
掠れかけた文字は、どこか泣いているように見えた。
どうか、あの人に、生きていてほしい。
――いちばんの使いどころは、考えるまでもない。
守りたいと思った。つかうべきは禁書庫の奥なんかじゃない。
彼女の禁書が持ち出された理由は、それだけだった。
ノランは――己のために、禁を破った。
そして、懇願した。
いかないで、と。
……いなくならないで、と。
「このままじゃ、メリィさんが消えてしまう。
たとえ、ここにいられなくなるのだとしても――
この世からいなくなるのはもっと嫌だ」
握った拳、うわずった声、震える唇――
すべてが、ただ彼女を呼んでいた。
それは、祈りでも、命令でもない。
ただ――願いだった。
ノランは彼女の目の前で、ゆっくりと本を開いた。
その名を、紡ぐ。
『三日月山の清竜メリュジーヌ』
呼んだその瞬間、ノランは悟る。
――これは選択じゃない。贈与でもない。
自分自身を、捧げたのだ。
そして――あの人の自由を、奪ったのだ。
二度と戻れぬ扉は、音もなく閉じた。
*
メリィは呆然と受け入れる。
清水の滝から生まれし、水の竜。
世界に役目を与えられ、魔術の理に縛られた、かつての名。
誰にも呼ばれず、誰からも忘れられ、
そして、彼女自らも捨てた――痛みそのものの名。
『――よばれたく、なかった。
呼ばれるくらいなら、ジャックのところにいきたかった』
呼ばれてしまった。――戻って、しまった。
たったひとりの、心許した子は、自分を召喚して『元に戻す』ことでしか、未来を繋げなかった。
慈しんできた子の叫びが、胸に突き刺さる。
「生きていて、欲しい。
だったら……呼ぶしかないじゃないか。
なぁ――この世界にいてくれないか。
同じ空の下、きっとここと同じ風も吹くだろう」
それは、愛だった。
愛だとしても、それは残酷な――暴力だった。
自分が救われたいだけの、わがままな願い。
そして。
彼女にとって、哀しいほどに『命令』でしかない。
高位であるが故に、下賎な人の子の命令など、拒むことは簡単だった。
ただ、無情に却下すれば良い。
でも、そうするには、彼ら『六角岩の羊飼い』と過ごした時間は、心地よすぎた。
『同じ空の下、か――。
……ずるいな。
そんなふうに乞われたら、わたしは、拒めない』
忘れられた名は、死んではいなかった。
水竜が呼ばれた瞬間、水底の眠りが目覚めるように――世界が応える。
力も、役目も、世界との契約も――逃げていたものすべてが、戻ってくる。
水面に一滴が落ち、深い水底まで波紋が届くように。
静かに、けれど確かに。
しかし人と竜が繋がり続けるには、階位の差が大きすぎる。
ノランの魔術量ではメリュジーヌのすべてを呼び落とすことはできない。
だから、メリュジーヌはノランの身の魔術が底を尽きる前に召喚を解除する。
だが、メリィをメリュジーヌに戻すには、それで充分だったのだ。
幸せなまどろみは、水面の泡のように消えた。
*
高位の竜はその力が司る領地領域を、生まれながらに持つ。
だから、本来、その領域以外に存在することはないのだ。
月が満ちる夜、清竜の名が世界に再び刻まれた。
三日月山の主――メリュジーヌとして。
柱状節理の岩肌、その独特な乾いた魔術は、彼女を拒んだ。
かつて寄り添い、共に眠り、見守っていた魔術たちは、もうメリュジーヌを異物として扱った。
彼女自身も、引き寄せられる。
三日月山の水が、容赦なくメリュジーヌの身体を引っ張る。
魔術は整合を欲する。
理は乱れを許さない。
身体は強制的に、世界の理に適合させられた。
心だけを、取り残したまま。
どうして――
どうして呼ぶの。
ここでなら、こんなにも、わたしは、わたしでいられたのに。
(まだ……ここ、に――)
願いは、風に攫われた。
空も、地も、水も、メリュジーヌの願いには答えない。
メリィの輪郭はほどけ、足元から鱗ひとつずつに魔術が満ちる。
抵抗など許されない。全身が、魔術に塗り替えられていく。
皮膚の内側を水が暴れて、肉を押し広げるように、竜の骨格が這い上がってくる。
みちりみちりと無理矢理、身体がひろがり、尾、翼、片角。
そして、清らかで力強い大滝のような身体に変貌する。
代わりにほろり、さらりと零れていく。
羊の名。
薪の香り。
叱る声。語る声色。
頭をなでる、やわらかな掌。
心を温めてくれた、すべて。
……痛い。
喜びは、ない。
失っていたものが戻るたびに、身の隙間が裂けて、
そこに無理やり『かつての自分』が詰め込まれていく。
かつて彼女が穿った山は、山頂から麓へ撃ち降りる細くも強い大瀑布の山となっていた。
それは彼女に更なる信仰を付与し、望まぬ力の源となる。
それは、かつて誇りだった名。
いまは、呪いのように彼女を縛る名。
『三日月山の主、メリュジーヌ』
それが、いまのわたし。
その本来の姿に近付くたび、柱山の岩肌は冷たく拒絶し、彼女を突き放していく。
――帰れ。
誰もそうは言わなかった。
でも、誰よりも痛烈に、世界がそれを言っていた。
風が、草の匂いを運んできた。
その中に――たしかにあった。羊の匂い。
鼻をついて、胸に沁みて……涙がこぼれた。
そして、飛んだ。
本能の命じるままに、彼女は夜の空を裂いて飛翔する。
メリィが育てた子は、メリュジーヌに『戻す』ことでしか繋がれなかった。
それはきっと、純粋な願いだった。
けれど、それは
『どうしようもなく、不器用で、ひとりよがり』だった。
それに何もかえすこともなく、竜はその場を後にした。
*
三日月山に主が還る。
途絶えかけた隅々に、水が甦り、岩土は潤み、
草が萌え、滝は歌い、魔術は芽吹く。
命が、音が、匂いが、彩りが――すべてが戻る。
山は、彼女を待っていた。
メリュジーヌは、黙ってその変化を見つめていた。
美しかった。
彼女の存在理由であり、愛すべき山は喜びに生きている。
けれど、
そこに、あの時間だけはなかった。
乾いた薪の匂いも、
とりとめのない笑い声も、
羊くさい人の手も――
どれも、ここにはなかった。
六角岩の羊飼い。
人の、手の、ぬくもり。
共に囲んだ食卓。
遠くからでも、そっと向けられた気配。
魔術よりも確かな、あの信頼。
全部、彼方に置いてきた。
心から何かが落ちた音がした。
でも、どこが壊れ、何を失くしたのか、もう彼女にはわからない。
メリュジーヌは、今日も山頂の滝の縁に立った。
羊季を伝える風が吹く。
届いた微かな楽の音は、どこか懐かしかった。
けれど、その音を聞くたび、なぜか涙がこぼれる――それだけは、忘れていなかった。