僕の淹れたアイスコーヒー
僕はグラスを磨く。トーションを持つ手を動かしながら、時折窓際に座る女性に目をやる。
彼女はとてもかわいい。特に笑顔が好きだ。年齢は二十歳前後で、僕よりも少し年上だと思う。ショートカットで目がくりくりだ。つんと上を向いた鼻は愛らしく、薄い唇はいつも愛想のいい形を保っている。白いTシャツを着ていて、デニム生地のショートパンツを履いている。すらりと長い足を上品に揃え、文庫本を読む。サンダルの隙間から無防備な足の甲が覗く。
僕は彼女の名前を知らない。彼女についてはほとんど無知だと言っていい。知っていることといえば、たまにこの喫茶店の扉を開けて現れ、いつものように窓際の席を選ぶこと。毎回一人で来て文庫本を読んでいること。季節に関係なくアイスコーヒーを注文すること。必ずシロップを一つ、クリームを二つ入れること。それくらいだ。
彼女のいるテーブルの端に、僕の淹れたアイスコーヒーがある。彼女はまだそれに口をつけていない。氷の角がとれて、表面に透明な層ができている。時間が進み、ストローがわずかに傾いた。文庫本のページをめくった彼女はようやくアイスコーヒーの存在を思い出す。シロップと二つのクリームを入れる。ストローでゆっくりと掻き混ぜる。アイスコーヒーがクリーム色に変化した。彼女はストローを唇で挟み、音を立てないようにして飲んだ。喉の動きが愛おしかった。
ここは僕の父が経営する喫茶店だ。僕は高校生で、学校が休みの日はこうして店に立って父の手伝いをしている。高校に入学してからだから、もう二年はやっている。忙しい店ではないし、小遣いを弾んでくれるので僕としてはこの生活を気に入っている。
そのようにして働いていたら、ときどきこの店に彼女がやってくるようになった。そして僕はすごく単純に彼女に恋をした。上を向いて歩いていたら側溝に落ちるようなものだった。彼女の外見が好みだったし、笑顔がキュートだった。接客したときの印象もよかった。高校生という多感な時期のせいもあるかもしれない。とにかく僕は彼女に夢中になり、四六時中彼女のことを考えてしまうようになった。今日みたいに彼女が来店した日なんかは仕事が手につかなくなる。さっきもグラスを割った。彼女のことが気になって仕方がない。
父は買い出しに行っていて不在だ。つまり僕は一人で店番を任されている。店内には彼女の他に老夫婦と若い男がいる。老夫婦は談笑し、若い男はノートに言葉を書き殴っている。混雑する時間帯でもないから、やることも少ない。
天上のスピーカーからジャズが流れ、コーヒーのいい匂いが店内に漂う。午前中の澄んだ光が窓から射し込む。表の通りを往来する人の影が、時折彼女にかかる。僕は徹底してグラスを磨く。ちらりと彼女を見る。
やがて老夫婦が立ち上がって店をあとにし、若い男もノートを閉じ代金を払って帰って行った。僕と彼女の二人きりになった。
彼女は店内に僕らしかいないことに気がついていない。薄く頬笑み、本に没頭している。彼女が何の本を読んでいるのか、この距離では見えない。
僕は彼女について考える。おそらく彼女は大学生だろう。僕よりも少し年上なはずだ。もしも大学に通っているとしたら、とても人気者なのではないか。あんなにチャーミングな顔立ちをした女の子を、男たちが放っておくはずがない。ちらちらと見られ、噂話の対象にされる。ファンクラブなんかができている可能性だってある。あるいはすでに恋人がいるかもしれない。僕よりも身長が高く、彼女と並んでも引けをとらないハンサムな恋人が。そうだったら嫌だな、と僕は思う。
彼女が本を置いた。グラスからストローを抜き、反対側から垂れてくるアイスコーヒーを軽く吸った。それからグラスに魔法をかけるみたいにして、ストローを回す。グラスの中のアイスコーヒーが回転し始める。まるで洗濯機みたいにぐるぐると回り、か弱い渦が生まれる。クリーム色だった液体の色が徐々に変わっていく。アイスコーヒー本来の色に戻っていく。そして渦の中心から白い球体がせり上がってくる。海面から朝日が登ってくるように、白い球体の六分の一が顔を出す。僕はグラスを拭く手をとめて、その不思議な光景を凝視した。
彼女はストローの先をすい、と上に向けた。すると白い球体がふわふわと空中を漂った。クリームだ、と僕は思った。あの白い球体の正体は、あとから足したクリームなんだ。彼女は楽しそうにストローを動かし、白い球体を鳥の形に変えた。小さな白鳥がグラスの周りで羽ばたく。
彼女と目が合った。彼女ははっとして、慌ててストローを振った。クリームでできた白鳥が勢いよくアイスコーヒーに飛び込んだ。どぷん、と白と黒が混ざる。彼女は怯えているような、困ったような目をして、僕のことを見る。気まずい時間が流れる。今の光景は見てはいけないものだったのだろうか。だけれど奇妙なことを堂々とやっていたのはそっちじゃないか。僕は沈黙に居心地の悪さを感じて、小さく息を吸う。
彼女は一瞬、窓の外に視線を走らせた。それから突如立ち上がり、唇をぎゅっと結んで僕のいるカウンターへ猛然と向かってきた。彼女の燃えるような瞳に見つめられた僕は、ドキリとして体が固まった。彼女が指を鳴らす。喫茶店のすべてのロールカーテンが一斉に閉まる。窓からの光が遮られ、店内がさっと薄暗くなった。彼女はそのかわいい顔を、僕にぐいっと近づける。僕は彼女の大きな目に吸い込まれそうになる感覚を味わう。
「逃げよう。ここは危ない」彼女は切迫した声で切り出した。
「どうして?」
「やつらが来ちゃう。やつらは長い間私を追っているの。君は私の魔法を見てしまったでしょう? 私と一緒に逃げないとやつらに殺されてしまう」
「逃げるってどこへ?」
「北国へよ。ホウキに乗って飛んで逃げるの」
彼女の操作するホウキの後ろのまたがる自分の姿を想像してみる。それも悪くない、と思う。
「誰に追われているの」
「黒のウサギ団に決まっているじゃない。早く出発しましょう」
「店番が終わるまで待ってくれないかな。店を開けたまま出ていくことはできないんだ」
「店番? 君は自分の置かれている状況がわかっていないの? 私たちには一刻の猶予も残されていない。私の言っている言葉の意味、わかるでしょう?」
「だけれど店番を放棄することはできない」
「もういい。わからず屋。私一人で逃げるから」
彼女はそう言うと、急ぎ足で出て行った。あとに残された僕は、一体なんだったのだろう、と首を傾げる。開いた扉から、陽の射した歩道を走り去る彼女の背中が見える。彼女は次の角を曲がり、姿を消した。今のは彼女と仲良くなる絶好のチャンスで、僕はその機会を掴み損ねたのかもしれない。そう思うと惜しいことをしたような気がして、胸がチクチクと痛んだ。
僕は閉じたロールカーテンを一つひとつ開けながら、彼女が言ったことを思い返す。逃亡、魔法、ホウキ、そして黒のウサギ団。どこまでが真に受けていいことで、どこからが冗談なのだろう。少なくとも彼女の魔法は本物だった。あるいはこれは彼女なりの好意の示し方だったのだろうか。そもそも黒のウサギ団とは何だ? 全く怖くないじゃないか。黒いウサギに追われるくらい、そんなに慌てて逃げなくたっていいじゃないか。
仮に彼女と一緒に逃げる道を選んでいたら、僕の人生はどうなったのだろうか。僕と彼女は黒のウサギ団に追われ、北国へ向かって逃亡の旅をすることになる。必然的に親密になり、二人は恋に落ちる。そしてお互いを助け合いながら黒のウサギ団に立ち向かう。黒のウサギ団を滅ぼし、僕たちは結ばれる。それはそれでスリリングで楽しい生活になるかもしれない。
しかし彼女がもう一度この店の扉を開けることは二度とない。残念だけれど僕にはそのことがわかっていた。彼女は北国へ行ったのだ。もう会えないのなら、せめて勇気を出して名前を聞いておけばよかった。彼女は僕の初恋だったのに。
僕は彼女が座っていたテーブルを片づける。半分残ったアイスコーヒーをお盆に載せて、テーブルを拭く。あ、と僕はあることに思い当たる。
コーヒー代をもらうのを忘れていた。