『ファランドール公爵家の事件録』~公爵の最愛は彼の溺愛に気付かない~File00.二人の出会い
よろしくお願いします
アレクサンドル・ベルヌイ・ファランドール公爵といえば、王国軍中将であり色事の話題が絶えない人物だった。
文武両道・眉目秀麗。
幼い頃からの優れた資質は周囲の知るところである。
社交の場では色とりどりのドレスをまとった女たちに囲まれ、彼を国王にと願う貴族たちが群れ集う。
このような顔でなかったら違ったのだろうか。
公爵がそう思うのも無理はなかった。
子爵家令嬢だった母は『女神のよう』と謳われた美貌の持ち主で、現国王に見初められ側妃となった。母似の彼は金髪碧眼の、誰もが認める絶世の美男子として成長した。
彼にとって、女性というのは勝手に自分に群がる蝶であり蜂であった。自分から女を口説いたことはないが、女なら常に周囲にいるので、毎夜違う女が寝所にいた。
だが爛れた私生活に満足がいくはずもなく、軍籍を願い、士官として陸軍に身を置き数年後、ソードマスターとして目覚めることとなる。
そのことが彼の人生を一変させた。栄誉あるソードマスターという位を得たせいで、ますます『次期国王に』という声が、軍部寄りの貴族たちの間で高まってしまったのだった。
王太子である異母兄は母の死後、何かと自分を気遣ってくれて、兄弟仲も良好であり、政を行う才があるのは明らかに異母兄のほうである。何よりもその血筋は正統なものなのだから。
そもそもが国王という位に興味などなく、戦に明け暮れるほうがよほど自分に向いている。
国が割れることは避けたい。
考えに考え抜いて、彼は母方親族の反対を押し切り、臣籍降下を願った。
時間こそかかったが、王太子妃が男児を産み自身の王位継承権が序列三位へと下がったことに心から安堵する。この先はもっと下がるだろう。王太子夫妻が仲睦まじいので、戦も終わったことだし国家はこれからも安泰であると考え願い出ることが出来たのだ。
上司でもあり、現国王の年の離れた異母弟でもある元帥閣下からの口添えも追い風となり、念願かなって公爵となった。
臣下となってしまえば、王族の予備としての枷はなくなり、前線への配置移動を申し出る。
そうして、隣国との泥沼化した三年越しの戦争をたちまちのうちに勝利で終わらせ、公爵は帰宅の途についた。
王都に戻ってきてから数日後──
戦勝パレードのあと、その夜王宮での戦勝パーティが行われ、勲章授与と階級昇進で主役と言ってもよい立場だったにもかかわらず、既に公爵はげんなりしていた。戦争とはあまりにも無縁だった宮廷貴族たちとの会話が食傷気味だった。
華やかではあるが中身が伴わないどうでもいい会話に疲れ果て、バルコニーの一つに出て風に当たろうと考える。
あらかじめ先客ありという印であるカーテンを引かせてあるし、係の者に誰も通さないように念を押してあるので、余程のことがない限り邪魔者は来ないだろう。
しばらく風に当たっていると、途切れ途切れに人の声が聞こえてくる。女性の声のようだ。
隣のバルコニーからか?と思い声の主を探すが、自分のいるバルコニー以外に人影はない。夜ともなるとかなり冷えるようになっていたので、わざわざ寒い場所に出てくる者はいないのだろう。
──となるとどこから声が?
「ねえ、ミラ。もうちょっとカンテラをこっちに」
ようやく声がはっきり聞こえるようになったと同時に、バルコニーから見下ろす庭園のほうからガサゴソと草をかき分ける音がする。
庭師によって完璧に手入れされた低木の茂みと、自然に見えるようあえて造られた草木の生えたあたりが、カンテラで照らされた。
"自然のままに"をこよなく愛した、現国王の寵姫だった母の好みでバルコニー側の造園がされたことを公爵は覚えている。庭園である以上、自然であることは不可能だろうに、と思いながら複雑な気持ちになったことを含めてだ。
そこで、振り返っていた思い出が一瞬で中断された。
「きゃああああっ!」
まさかの女性の悲鳴である。
事件が起こったのかと思い、飛び降りて悲鳴の主を助けようと公爵はバルコニーから身を乗り出した。
が。
「すごいすごい!シャルム草が生えてるわ!こんな貴重な薬草が生えてるなんて、さすがは王宮ね!」
公爵は愕然とした。
先程のは悲鳴ではなく、歓喜の雄たけびだったと?
バルコニーから乗り出したままだったが、こちらはニ階ということもあり、庭園にいる女性たちには全く気づかれていない。
相変わらずガサゴソという音がするが、よくよく耳を澄ますとブチっという音も時折聞こえてくる。
「それにしてもここって自然の庭って風情だけれど、ちゃんと人の手が入ってるのね。土が柔らかくて引っこ抜きやすいわ」
一見無造作に、雑草が生えているようにも見える庭園だが、分かる者にはきちんと造園されていることが分かるのだな。公爵はそう思った。
引っこ抜いてそれが分かるのもどうかと思うが……
今度こそ夜会用のドレスを着た令嬢と、カンテラを持っているしかつめらしい服を着た侍女らしき女性が目に入る。
「そうは言いますがお嬢様。パーティなのにかがり火もなくて、暗くて寒くてついでに言うとひもじいです。この庭は自慢の庭園ってわけじゃないんですかねえ?もう戻りましょう。お身体が冷えてしまいます」
控え室に軽食が置かれているので早く戻りたいです。食べ損ねました。
侍女は一切の遠慮がなく、そう呟いた。
「暗くて寒くてひもじい……?どっかできいたような……眠くて寒くてひもじい、じゃなかった?いえ、それは雪山遭難だったわ。かがり火がたかれていないのは戦後でお金がないとか?待って待って。もうちょっと摘ませて?このシャルム草はねえ、上級回復薬を作るのにとても良いのよ。でも難点があってね、ある特定成分に触れると一気に茶色く変質してしまうのだけれど……」
摘む……というよりは、豪快に根ごと引き抜いていないか?
飛び降りる機会を失った公爵は、令嬢のこの先の行動が読めず興味が湧いたため、乗り出していた身体を戻してそのまま彼女たちを観察することにした。
「あっという間の変質はとても面白い現象なのだけれど、そうならないようにシャルム草を扱うときはカンサオキゾ系の植物を直近で取り扱ってはならないのよ。大気中に漂う成分だけでも変質してしまうのだから厄介よねえ」
声が弾んでいて微笑ましい。夢中になると止まらなくなるのか。
侍女は慣れているのか聞き流すのが上手い。表情を全く変えずにウンウンと頷きながら、時折「そうなんですか」「なるほど」など、適切な箇所で相槌を打ってはいるが、明らかに棒読みだ。
二人の温度差が酷くて思わず苦笑してしまいそうになる。
しゃべりながらもチョロチョロと動き回る様は、まるで小動物のようで目が離せない。
かと思えば右に左にと意外な俊敏さで、ごそごそと茂みをかき分け引っこ抜いた草がたちまち両手いっぱいになっている。根のついたまま腕の長さほどもある草を鷲掴みにしている姿は、とても貴族の令嬢とは思えない。
草の始末をどうつけるのかと観察していると、なんとそれを無造作に、ドレスのポケットにわしゃわしゃと詰め込んでいくではないか。
どれだけの数を引っこ抜いたんだ!
見ると、ポケットは一つしかないのか、片側だけ不自然な形にドレスのスカート部分は膨らんでしまっており、ぎゅうぎゅうに詰め込んだのはいいものの、長さがあるため到底全部は入りきらず、緑色の先端がひょっこり顔を覗かせている。
はみ出た草が令嬢の動きに合わせゆらゆらと動くのを見て、公爵は吹き出しそうになった。
動きを止め、首を傾げた令嬢からボソっと声がする。
「あら……これってよく考えたら……もしかして窃盗罪……?」
「そうとも言えますね。ですが薬草とバレなければ、雑草を集める変なご令嬢、というだけですから無罪ワンチャンです」
仕える主だというのに、侍女は表情一つ変えずに言い切った。
ワンチャンとは……
令嬢も令嬢だが、侍女も侍女である。公爵の脳裏に似た者同士、という言葉がよぎった。
「ここは寒すぎます。さあお嬢様、会場に戻りますよ」
「えっ?戻る必要ある?招待して下さった師匠の勲章授与は見終わったし、わたしは何の役にも立たないのだから、このまま帰っちゃいましょうよ」
「何をおっしゃってるんですか。付き添い役になって頂いた伯爵夫人に一言もなく帰るおつもりです?おそらく会場の長椅子から一歩も動かれていないと思いますよ」
「ああっそうだった!しかもお花摘みに行くと言って席を外したのをすっかり忘れていたわ!」
「やっぱり忘れてましたね?急いで戻りますよ~」
「お花摘みっていうのも嘘じゃないわ。シャルム草を摘んでたってことで……まあ今は咲いていないんだけれど……ああん、ミラ待って!」
庭園に暗闇と静寂が訪れる。
こんなに楽しい思いをしたのはいつぶりだろう。その後の公爵の行動は早かった。
バルコニーから会場へと戻り、異母兄を探す。幸いファーストダンスは既に終わっているようで、ダンスを楽しむ貴族たちがホールに彩り豊かな色彩を加えている。
異母兄は他の貴族に捕まっているということもなく、壇上に二つ置かれた主催者用の椅子に座り、隣に座る自らの妃と談笑中のようだった。
「どうしたんだい?アレクサンドル」
「少々防壁になって頂きたく」
「ほう?私を壁として使うとはねえ。まあ今日の主役のうちの一人だから、人が寄って来てしまうのは仕方のないことではある。もちろん構わないよ。愛しい弟の頼みだしね」
そう言って自分と同じ青い目が嬉しそうに細められた。
全くこういうところが異母兄には敵わない。恥ずかしいことをと思うが、至って自然体なのだ。
「王太子妃殿下、談笑中のところどうぞお許し下さい」
公爵が優雅に礼を取ると、遠巻きにこちらを見ている貴族たちの間からほぅ、というため息が漏れる。
「よろしくてよ。わたくしはお二人がこうしていらっしゃるのを好ましく思いますわ」
さすがに王太子夫妻のところまでやって来る大胆な者はいないようで、それも防壁代わりという思惑通りだった。
あの令嬢は会場に戻ってくるらしいから、誰にも邪魔されずちゃんとした灯りの下で顔を見てみたいという欲望が抑えきれなかったし、どのような令嬢なのか知りたくもあった。
名は何と言うのだろう?
これ程までに他人に興味を持つのは初めてのことだった。
「国王陛下の具合はいかがですか?」
気になっていたことを異母兄に尋ねると、眉間に縦線が一本刻まれる。それだけで雄弁に物語っている。
原因不明の病で床に臥せってからそろそろ半年が経とうとしている。ここ最近の王室行事が全て王太子主催であることからも、病状は思わしくないのであろう。
臣籍降下したとはいえ、アレクサンドルにとって肉親であり実父なのである。役に立たない自分が不甲斐なかった。
相応しい場所と時期でもないように思い、話題を変えることにする。
「……そういえば、庭園の警備はどのようになっておりますか?」
異母兄が物憂げに目線をやると、後ろに控えていた護衛騎士の一人が頷いて一歩前に出る。忠実な王太子の懐刀である男である故に、日頃からそれほど主の異母弟に好意的ではなく今日も平常運転だが、公爵は気にも留めなかった。
「一刻刻みで第一・第二騎士団が交代で巡回しておりますが……何か異常でもございましたか、ファランドール公爵閣下」
巡回の間隔は一刻よりも半刻刻みのほうが良さそうではあるが、この場で護衛騎士に物申しても管轄違いだ。
女性の悲鳴に騎士が誰も駆けつけなかったことに、今現在囁かれている王族派と貴族派の対立を考え、様々な疑問が頭をよぎるが考えを飲み込んだ。
それにしても先程の令嬢はよく見つからなかったな、と小動物のような動きを思い出して公爵の口角がつい上がった。
それを見て護衛騎士はひゅっと息を呑み、王太子夫妻は目を見開く。
"氷の、と貴族からも軍内部からも揶揄られているファランドール公爵が笑っている、だと!?"
「いえ。バルコニーに出て気分転換をはかっていましたら小動物を見かけまして。動きもかなり俊敏なようでしたから」
言いながら公爵の目は、今しがた中央扉から入って来た一人の令嬢に釘付けになっていた。
誰が注目したわけでもなく、庭園にいた令嬢は静かに入って来て、まっすぐ会場の壁際に置かれている休憩用の長椅子のほうに歩いていく。
小柄で歩くたびに腰まである茶色の髪がふわりふわりと揺れていて、まるでリスの尻尾のようだと思う。
遠くて瞳の色までは分からなかったが、今すぐに近づいてその瞳を覗き込みたい衝動を抑えなければならなかった。
もう一つ気になったのは、彼女が着ているドレスのポケットに大量に詰め込まれていた草の行方だった。スカート部分に不自然さはなくなっている。
どこにやったのだろう?
彼女が向かう先の長椅子には、白髪をかっちりまとめた厳格そうな夫人が、ひじ掛けに上半身をすっかり預けたままくつろいでいるが、億劫そうにゆっくりと身体を起こした。
一言二言何か言ったようで、令嬢はしきりにペコペコと頭を下げている。
付き添い役と言っていたが、あれは気難しいことで有名なベルマ伯爵夫人じゃないか、と思い観察していると、やがて小言を言うのにも飽きたのか、令嬢の手を借りながら伯爵夫人が立ち上がって共に中央扉のほうに歩いていく。侍者や侍女が控える、軽食などの置かれた控え室へ移動するのだろう。
「ほぉ。我が異母弟はああいう令嬢が好みか」
いなくなってしまった──言い知れぬ焦燥感のようなものがこみあげてきて、それでもどうしたらいいのか分からなくて思考の海に沈んでいたところ、いきなりの言葉に驚いて振り返ると、ニマニマしている異母兄と目が合った。
見れば王太子妃も扇のかげから好奇心の浮かんだ紫色の瞳をキラキラさせて、令嬢が去っていくほうを見つめている。
そこで自分がずっと時も忘れて令嬢を目で追いかけ、不調法にも王太子夫妻に対して正面に身体を向けていなかったことに、初めて気がついたのだった。
しまった、と思いつつ臣下としての姿勢を正した。
興味がない振りを今更しようとしても手遅れだろう。二人のキラキラした瞳が何が起こったのかと語りかけてくる。まさに『目は口程に物を言う』だ。
彼女がどういう素性なのか尋ねることにする。
王族であった時期に名を覚えた記憶がないことから、戦時中で社交界から遠ざかっていた頃に行われた宮廷舞踏会で、社交界デビューしたご令嬢であろうと推測する。
全ての令嬢令息から挨拶を受けた二人なら分かるに違いない、と判断したのは正しかった。
「今年の王室主催舞踏会で社交界デビューしたシュヴァイン子爵令嬢だな」
「ええ。ご令嬢が教えを乞うている薬草学教授が、魔力を付与した回復薬を、戦時下で安定供給したことによる貢献度で叙爵しましたの。ですから一番弟子であるご令嬢は、このパーティに参加したのでしょうね」
「ほら、アレクサンドルと同じ勲章授与の場にいた……彼は軍人ではないから階級昇進ではないが、男爵位を授けることになった」
なるほど。あの時勲章授与の列にいた、唯一軍人ではなかった男が、あのご令嬢の師匠というわけか。
一張羅と思しき礼服もサイズが合っていなくて、いかにも研究肌の男だな、そう思ったことは覚えている。白髪交じりの髪も勲章授与の時には水でなでつけただけだったのか、授与が済んだ頃には寝ぐせのようにあちこちに飛び跳ねていたな。
公爵は何かに突出した才能を持つ人間が、他のこと──例えば身だしなみなど──に気を留めないこともよく分かっていた。
今年社交界デビューということは、王立学園の二学年生か。
貴族令息令嬢のほとんどが、学園在学中に婚約者が決まってしまう。
焦った公爵は、戦場に長い間身を置いていた弊害もあって、宮廷の作法が頭から抜けていた。
「すぐに求婚しなければ。横からかっさらわれるのはごめんです。これにて退出させて頂きたく」
王太子夫妻は非常にあわてた。一般的にこういう王室主催のパーティでは、王族から退場すべしというのが作法の一つだからだ。
今は勲章を授与された者たちの周りに歓談の輪が広がっていて、もう少し時間が経たねば王太子夫妻とて退場は出来ない。
各自自由な時間を過ごしている貴族たちも、王太子夫妻の退場時には全員が中央扉付近に序列順に整列する。
王族よりも先に臣下が退出するなどあってはならないことで、作法としては初歩の初歩なのだが、公爵はどうかしてしまったのだろうか?
異母弟に瑕疵を付けるわけにはいかないと意気込む二人は必死に引き留める。ほんの小さな傷であっても決して付けてはならない。でなければ敵対勢力に一方的な攻撃の口実を与えるだけだ。
「待て待て!相当な変……人……い、いや変わり者だと評判のご令嬢だ。昨日今日で縁談が殺到するはずもないだろう」
いつもならマナーや作法を忘れることなどなかろう。いったいどうなっているのか。王太子は異母弟がいきなりポンコツになってしまったことにびっくりした。
王太子妃も、恋?恋なの?恋する者は盲目になってしまうの?と湧き上がる好奇心を抑えながら、扇をパチンと閉じる。
「そうよ!それにああいうご令嬢の心を掴むには普通の手順ではダメよ!?釣書を送って訪問して花束じゃ蟻並みに心が動かないわ」
「蟻並み……」
まさにしようとしていたままを言い当てられ、しかもその効果は蟻並みだとまで言われ、公爵は落ち込んだ。彼の頭に項垂れた大型犬の耳が視えたと、のちに王太子妃は語ったと言う。
「そ、その通り!それにたとえ話にもあるじゃないか。『人を得んとすればまず馬を得よ』だろう!?ひとまず一旦中座しろ。控え室で休憩を取れ。令嬢の周囲をまず固める方法を考えてこい。な?な?」
威厳も何もあったもんじゃない王太子が、さらに畳みかける。異母弟の行動の早さを誰よりも知っているからに他ならない。
それを聞いて公爵はハッとなった。
「……周囲をまず固める……」
どこかで聞いた方法だな──
!
そうか……
……戦と同じか。
情報を集め、彼女の周囲を掌握し、退路を断つ。
なるほど……自分は──
あの令嬢を手に入れたいのか。
初めて芽生えた執着に驚愕する。
まさか自分が人を欲するようになるなどと。
物心ついた頃から食事や飲み物への毒物混入は日常茶飯事で、戦場ですら刺客が味方陣営に入り込み心休まる暇はなかった。刺客が幾人送り込まれて来ようとも、生き延びているのは優秀な忠臣たちのおかげでもある。
生きたい──ただそれだけのことが酷く困難だった。
人生とは緊張の連続で、隙を見せたら命はなく、欲望を持つ余裕などなかった。
それでも寵姫だった母が生きていた間は、父である国王の目もあり、そう頻繁ではなかったのだ。
だが母が亡くなってからは、ますます生き延びることが難しくなった。
暗殺には『やんごとなきお方』が関与していると言われており、証拠は消え、暗殺者もすぐに処理されてしまう。暗殺未遂は全て未解決のままだ。
加えて母の生家である子爵家にも問題があった。
無駄に野心が大きく、やたらと口出しばかりしてくる母方の親族たちも、中庸派の立ち位置を変えることなく寄親も決めない下級貴族のままで、後ろ盾となるには余りにも貧弱だった。
考え込んだ公爵を見て、どうやら中座してくれる気になったようだ、と王太子夫妻は揃ってほっと安堵のため息を漏らした。
けれど、公爵が求愛さえも、戦馬鹿の一つ覚えで考えていることに気づいていたら、そして恋でポンコツになる人間もいるのだと知っていたら、この先起こる前代未聞の求婚騒動も、もう少しなんとかなったかもしれない──
「それではわたくしたちが退場するときには、また姿を見せて頂戴」
「かしこまりました」
アレクサンドルが王太子夫妻にいったん中座の挨拶を終え中央扉に向かうと、待機していた護衛騎士たちが付き従う。従者であるセオも一緒だった。ここにいる皆が戦場で生死を共にした、公爵にとって唯一ともいえる気の置けない者たちでもある。
「王族でなくなってから初めての夜会で、すっかり作法が抜け落ちていたな」
「王太子殿下に助けられましたか」
「そうだな。王太子妃殿下にも」
「ご兄弟仲がよろしいことこそ、王室安泰に繋がるとご存知でいらっしゃいます。仲を違えさせようと躍起になる『やんごとなきお方』の存在もご承知の上で」
「この場では控えよ。どこに『耳』があるか分からぬ故」
「申し訳ございません」
そうそう、そういえば、とセオがぱっと表情が明るくなる。
周りの者たちは、人生は退屈なことだらけと冷めているこの従者が『愉快な事柄』に飢えていることを思い出した。
「先ほど控え室に先触れを出したのですが、その時に大変面白いものを見ましたよ。侍女を連れたご令嬢が、わっさわっさと雑草をドレスのポケットから大量に引っ張り出して、たまたま通りかかった給仕のトレイに載せていたのです。『あとで回収するからこのまま待っていてちょうだい』と言いながら」
そのまま待て、とかどんな罰ゲームでしょうかねえ。
思い出した状況がよほど面白かったのか、セオは俯いてククッと笑った。
確かに、いちいち行動の予測が出来ない破天荒な令嬢だったな。
バルコニーから覗き見していた令嬢の行動を思い浮かべて、公爵の心臓がトクン、と跳ね上がった。楽し気なセオになぜかモヤモヤしながら、負けじと語りたくなってくる。
「雑草ではなく薬草らしいぞ。シャルム草と言うのだったか」
「ええっ!?」
護衛を含めた皆が一斉に驚いた。
「アレクサンドル様はいつどこでそれをっ!?ああっ!バルコニーに移動なさった時ですか!?くうッ!先触れを出しに行った時にでしょうか!見逃したぁッ!!」
特にセオの興奮が酷い。どうしてそんなことを知った場所に私はいなかったのか!と感情丸出しである。
一行が向かっているのは個室を与えられている控え室で、あらかじめ先触れを出しているため、側仕えたちが今頃は休憩の準備をしているだろう。周辺には王族が使用する部屋もあることから、警備は厳重で廊下には警備兵が一定間隔で配置されている。
と、そこに、まさに今話題となっている、雑草にしか見えない草をこんもりとトレイに載せた給仕係が、周りをキョロキョロと窺いながらやってくるのが目に入った。
給仕係はどうしたものかと困惑の表情を浮かべ、右に左に視線をさまよわせてため息をつきながら途方に暮れている。
(まだ草を持たされているのか)
銀製のトレイはグラスや空いた皿を載せるものであって、草を載せるものではない。だが、貴族令嬢にされてしまったことを断れるはずもない。あとで回収するから待てと言われてしまえば処分することも出来ず、さぞや難儀していることだろう。
「あれは……」
セオの声が小さく聞こえた。
「ご令嬢を捜しているのか?」
護衛騎士たちも声に出ている。
どうやら皆同じことを考えたようだ。
給仕係を気の毒に思ったのだが、公爵はふと違和感を覚えた──
(なぜ王族と上級貴族専用控え室のある場所にいるのか)
(シャルム草は遠目でしかも暗くはあったがあんな色ではなかった……)
「その給仕係を捕らえて下さいませっ!」
女性の声が廊下に響き渡った。
途端、給仕係がトレイを投げ捨てて走り出した。
「ああっ!シャルム草が!」
緊迫感の欠片もない声が聞こえてきて、
(気になるのはそこか?)
そう思ったが、アレクサンドルは反射的に駆け出した。
給仕係を抑え込み確保しようとするが、余りにも暴れるのでうつ伏せに倒し、腕を捩じ上げる。
「う……ぐっ……」
首を掴まれ腕を捩じ上げられた給仕係は、床に突っ伏して声も上げられなくなった。
「捕らえて下さってありがとう存じますー」
この状況で余りにものんびりとしている、この声は……
(あの時のご令嬢)
公爵の鼓動が跳ね上がった。
いきなり令嬢が近づいてきて、給仕係の男のそばにしゃがみ込む。
「あー、ほら見て見て?やっぱり爪の先が紫色に変色してるでしょう?カンサオキゾ系を調合する者特有の特徴なのよ」
言われなければ気付かないが、よくよく見ると、確かにうっすらと爪の先が紫色に変色している。
あとから追いついてきた侍女に説明しているようだが、こんな不審人物を取り押さえているすぐそばでしゃがまないで欲しい。近すぎて清涼感のある香草のようないい匂いがする──
(この令嬢に危機感はないのか?)
周囲の者は皆思った。
あまつさえ、公爵に捩じられ動かせなくなっている男の手をツンツンとつついているではないか。
けれども、緊張感のない様子はそこまで。
キリっと表情を引き締めた令嬢は、公爵を見てニッコリと微笑んだ。
「申し訳ありませんが、もう少し強く腕を捩じ上げていただけますか?」
見つめられ一瞬で真っ赤になった公爵に構わず、トンデモない言葉が飛び出す。
(今度は嗜虐趣味ィ!?)
周囲はどよめいたが、公爵だけは彼女から文字通り目を離せなかった。
(……ああ。若草色だ)
目と目が合い、公爵の心臓はドクドクと脈打ってうるさいくらいだったが、言われた通りに給仕係の腕を更に強く捩じ上げる。
「が…ううっゴぉっ………モゴッ!」
給仕係が痛みに呻いて口を開けたのを幸いと、令嬢は思いもかけぬ速さで、短く千切った緑の草を男の口内にガバっと詰め込んだ。
「なっ!何を……」
奇抜な行動に理解が追い付かず、周囲の者たちが思わず声を上げる。
──と、
給仕係の口内に詰め込まれた大量の草が、見る見るうちに茶色く変色していくではないか──
誰もが呆然とする中、令嬢はポケットからハンカチを取り出すと、くしゃくしゃに丸めて給仕係の口内に詰め込んだ。
引っこ抜いた草が大量に詰め込まれていたポケットに入っていたハンカチは、もうとっくにくしゃくしゃで、何なら根っこと同居していたせいもあり、土まみれなのを公爵は目ざとく観察していた。
よく分からない魔物のような細長くよれよれの緑色が刺繍されていることも見逃さない。
(トレイに載っていたシャルム草も茶色く変色しかかっていた)
同時になぜハンカチを男の口に詰め込んだのかも理解する。
あんぐりしている周囲の様子に気がついて、令嬢はあわてて付け加えた。
「──ほら、犯人が取り押さえられた時って、小説とかだと奥歯に毒が仕込んであったり、舌を噛んだりして自害しちゃうじゃない?あれっていつも『えー』って思っちゃうのよね」
令嬢の行動が余りにも予想外だったもののちゃんとした理由があって、周囲はハッとなった。
驚いていない者が一人だけいる。
侍女の表情は変わらないままだ。しかしこっそり最小限の動作で拍手をしている。
一応主の行動を称賛している……らしい。
「皆さん黙ってしまったわ……。ねぇミラ、何かおかしなことしたかしら」
「いえ、お嬢様。これで窃盗罪に問われなくて済みますから上々です」
「えー……(気にするのそこなの)」
もったいなかったわシャルム草……かわいそうに
そう聞こえた気がするが、空耳だろうか……
このあとすぐ駆けつけた大勢の警備兵によって、給仕係は連行されていく。
「給仕係さんとすれ違ったとき、ポケットに入れていたシャルム草の先端がヘニョヘニョってしおれちゃったので、特定するためにトレイに載せたの。大伯母様のところに行ったあと、待っていてと言った場所にいないし、見つけたと思ったら案の定シャルム草が変色してたから、カンサオキゾ系を扱う者だってすぐ分かったわ」
「カンサオキゾ系とは……」
公爵は尋ねた。
護衛騎士や残った警備兵、騒ぎを聞きつけて残っている騎士たちも聞き耳を立てているのが分かる。
予想はついているが、今ではただ者ではないと分かっているこの年若いご令嬢と、予想を一致させたいのである。
「毒よね。あれだけ指先が紫色になっているのは、日常的に毒を抽出している者に限られるし、となると、あの男は毒殺の請負人ってところかしら」
改めて言葉にされると、周囲は息を呑む。
「毒……」
度重なる公爵の暗殺未遂を知っている周囲は、何とはなしに公爵のほうを見つめた。
おそらく公爵のことを知らない令嬢は、周囲の視線が一斉に公爵に向かったので首を傾げる。どう推理したのか、分かりやすくジト目になった。
「あら……。もしかして貴方があの給仕係に命じた真犯人……?」
(ちが―――う!)
毒といえば公爵。
そう思ってしまった周囲は、視線を勘違いされ気まずくなりながらも心の内で叫んだ。犯人扱いとは不敬すぎる。
「いや……どちらかというと盛ったほうではなく、盛られているほう……だろうか」
言いながら公爵がなぜかポッと顔を赤く染めている。
(首を傾げる様子がまるで小動物だ……ジト目も可愛らしすぎる!)
公爵はそう思って悶えているのだが、周囲からは毒を盛られていることを思い出して悶えているようにしか見えない。
見てはいけないものを見てしまったように、周囲は一斉に公爵から目を逸らした。
「ええっ……それじゃ被害者側ですの?そこまで毒が身近に?」
キョトンとしながら令嬢が問い掛けると、公爵は耳まで真っ赤になった。
この仕草はアレだ。くるみを持って悩んでいるリス……いや、ダメだ。そういうことは今は考えるな。
度重なる暗殺未遂のせいで、毒に耐性を持たざるを得なかった過去を思い返す。
「……そうだな。神経毒はすぐに分かるようになった。舌がピリッとするし……」
令嬢が感心したようにポンっと手を叩く。
「神経毒は銀食器にも反応しないことが多いですから、すぐに分かるだなんて素晴らしいですわ!」
ぜひとも毒を与えて経過を観察したいものですわ、という令嬢の言葉を周囲は聞かなかったことにする。
一方公爵はといえば……周囲の者たちとは全く違う場所にいた。しいていえば脳内お花畑の世界である。
……褒められたのだろうか……素晴らしいですわ!と言われた……
公爵の動悸がますます激しくなっており、今や苦しさを覚えるくらいだった。心臓がキュンキュンバクバクする音が大きく周りにも聞こえてしまいそうで、まっすぐ立っているのがどうにも辛い。何かの病気に蝕まれてしまったのだろうか……
だが、二人だけの会話をやめるという選択肢はない。
苦しいと同時に、もはやフワフワしているのが心地よくすら感じる。
「身体に慣らすため、服毒することは日常だったからな」
「……まぁ。身体に慣らす……毒を……」
うらやましい。
さすがに口には出さなかったが。明らかに目がキラキラしている令嬢の心の声が、皆には聞こえたような気がした。
「わたくし、薬草学を学んでおりますの。薬も毒も人が発見し改良したもの。あらゆる植物は子孫を残すために様々な効用を持つようになったのですわ」
「子孫を……残すため……」
「美味しくいただかれないために毒を持つようになったものもありますし、植物は自らでは動けないでしょう?ですからそういった効用を知らしめ、人に、動物に、自然現象に、自らを摘み取らせ、あるいは種を運ばせて繁殖するんですの!」
「種……繁殖……」
「そうですの!生き残っていくための知恵なのでしょうね」
最初は毒に恍惚としているのかと思っていた周囲も、どうやら公爵は何だか違うようだぞ、と思い始めた。単語を反芻しているだけになっていて、令嬢の言葉にいちいちクラクラしているように見える。令嬢と見つめ合っているが、顔を紅潮させていて、心なしか呼吸も荒く、いつものように姿勢正しく立っていられないようでフラフラしている。
公爵付きの護衛騎士や従者が、あっ、と思ったときにはすでに手遅れだった。
言動も挙動も防ぎようがなかった。
「どうだろう。私の奥方にならないか?毒がそこかしこにあるぞ?」
(ええっ!?傭兵を物で釣るみたいな求婚をっ!?そんな口説き文句で普通の女性がなびくはずが!!)
周囲の者たちはそう思ったのだが、言われた令嬢は普通ではなかった。
「なりますわ!」
即答され、公爵の興奮は頂点に達し、その場に昏倒した。
大の男がいきなりくずおれて、周囲は大混乱に陥った。
「ええっ!!いきなり気絶!?やだ、そういえばこの方のお名前を知らないわ?ああ、しっかりなさって!?」
これがのちに、様々な難事件を解決した、
『ファランドール公爵家の事件録』の(変人)公爵夫妻として、名をはせることになる二人の出会いである。
ありがとうございました。
公爵閣下のポンコツへ至る過程がうまく伝わっていたら嬉しいです。
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次回作
『ファランドール公爵家の事件録』~公爵の最愛は彼の溺愛に気付かない~File01.学園の庭には死体が埋まっている
今作が面白いと思って下さった方は、次回作もよろしくお願い致します。
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