鏡は左右を入れ替えない
これは、両親と弟との4人家族の、ある男子高校生の話。
その男子高校生は両親と弟の4人家族。
両親の夫婦仲は良く、子供との仲も悪くない。
父親の仕事は忙しいが、その分稼ぎは良く、
富豪とは言えないまでも、
一軒家に住んでいる程度には金銭的にも恵まれている。
何の問題も無さそうな、理想的な家族。
しかし、そんな順調な家族にも悩み事はあるもの。
その一家の悩み事はというと、
もうすぐ高校受験を控えた下の子の成績についてだった。
その男子高校生は読書家で、学校の成績も良い方。
一方、弟の方はというと、
学校の成績は下から数えた方が早いくらい。
もうすぐ高校受験を迎えるとあって、心配する両親に詰られる毎日。
事あるごとに兄と比較されては両親にどやされていた。
「お兄ちゃんを見習って、お前も勉強しなさい。」
「夜遅くまで出歩いてないで、
もっと早く家に帰って来て勉強しなさい。」
両親が口うるさく言えば言うほど、弟は家に居辛くなる。
そんな両親に反抗するように、弟が帰宅する時間は遅くなっていった。
ある日の朝。
一家が揃って朝食を取っていると、新聞を読んでいた父親が口を開いた。
「おい、この広告を見てくれ。
どっかの教会の広告なんだが、うちの子に良いんじゃないか。」
父親が新聞を広げて指差したのは、ある新聞広告。
食卓の端に広げられた新聞を、その男子高校生の一家4人が覗き込む。
そこには、このように書かれていた。
御鏡教団。
当教団は、神の力を持つ御鏡様を信奉しています。
御鏡様の御祈祷を受ければ、心が入れ替わります。
家族円満、学業成就、開運招福。
お困りの方は是非、当教団に御相談下さい。
新聞広告を読み終えて、4人の頭が新聞を囲むのを解いた。
その男子高校生が父親に確認する。
「つまり父さんは、この御鏡様っていうのにお参りしたら、
弟が心を入れ替えて勉強するって、そう言いたいの?」
父親が新聞を畳みながら応える。
「ああ、そうだ。
もうすぐ受験生なんだから、できることは何でもした方が良い。」
「でも、あなた。
お仕事お忙しいのではなくて?」
心配そうに口を挟む母親に、父親が胸を叩いて言う。
「家族のためだったら、父さんも仕事の休みくらい取るぞ。」
しかし、当人の弟はというと、
面倒くさそうな表情で朝食のパンを齧っているだけだった。
果たして話を聞いているのかいないのか。
痺れを切らした父親が、新聞を乱暴に畳みながら言った。
「とにかく、今度の休みに家族みんなで行くからな。」
そうしてその男子高校生の一家は、
父親の仕事の休みが取れるのを待って、
その御鏡教団という教会へ行くことになった。
御鏡教団と名乗る教会は、都会から離れた郊外に建っていた。
教会とは言うものの、その建物はボロボロで、
築30年ほどは経っていそうな木造平屋建ての小屋。
外壁は真っ黒に塗装されていて、一種異様な佇まい。
何かの間違いかとは思ったが、しかし傾いた看板には確かに、
御鏡教団 総本部、と書かれていたのだった。
父親を先頭に、その男子高校生の一家はおっかなびっくり、
その黒い小屋の出入り口のドアを引いて中に入った。
すると黒い小屋の中では、全身が黒尽くめの人物が待ち構えていた。
「お待ちしてたよ・・・。
あんたたち、御祈祷の予約をしていた人達だね・・・。」
その人物の声色は男のもので、年の頃は中年くらいだろうか。
甲高い濁声で、どこか人を食ったような物言い。
全身をすっぽりと覆い隠す黒い布のようなものを被っていて、
人相はよくわからない。
そんな訝しい人物の出迎えに面食らいながらも、
一家を代表して父親が応えた。
「え、ええ。
今日、こちらでご祈祷を予約していた者です。
うちの下の子のご祈祷をお願いしたくて。」
父親の返事を聞いて、黒尽くめの男はゆっくりと頷いてみせる。
「はいよ。
準備は出来てるから、こっちに来てくれるかな・・・。
御祈祷を受ける人は、ここに名前を書いてね・・・。」
「お世話になります。
ほら、お前がご祈祷してもらうんだから、
ここに名前を書きなさい。」
「ちぇっ、わかったよ。」
父親に肩を小突かれるようにして、弟が黒尽くめの男の前に立つ。
差し出されたペンを受け取って、右手で用紙に名前を記帳する。
そうしてその男子高校生の一家は、
御鏡教団の教会で祈祷を受けるために、
真っ黒に塗装された教会の奥へと案内されていった。
御鏡教団の教会の奥は、畳敷きの広い部屋になっていた。
部屋の奥に向かって座布団が並べられ、
奥の壁には古めかしい和鏡が祀られている。
周囲には御神酒だの供物だのが並べられ、ちょっとした祭壇の様相。
どうやらあの和鏡が、この御鏡教団の御神体である御鏡様なのだろう。
黒尽くめの男が先頭に立って部屋の中を進み、
祀られている和鏡の脇に立つと、振り返って言った。
「これが、うちの教団の御神体の御鏡様だよ。
御鏡様に姿を映して御祈祷すると、
映ったものの性質を逆にする御利益があるんだよ・・・。
それじゃあ、御祈祷を受ける人は、
この一番前の座布団に座ってくれるかな。
他の人達は、後ろの座布団に座っていてくれよ・・・。」
黒尽くめの男の指示に従って、その男子高校生の一家がそれぞれ座る。
祈祷を受ける弟は、和鏡の目の前の座布団に。
残ったその男子高校生と両親は、後ろの座布団に。
全員が腰を下ろしたのを確認して、黒尽くめの男が口を開いた。
「はい。
じゃあ早速、御祈祷を始めるよ・・・。
あんたはそこに腰を下ろしたまま、御鏡様を見つめていてくれ。
わたしがいいと言うまで続けるんだよ。」
「鏡を見つめるだけで良いの?
目を瞑って手を合わせたりとかは?」
作法を知らない弟が首を傾げている。
黒尽くめの男は和鏡を手で仰いで説明する。
「ああ。見つめるだけで良いんだよ・・・。
御鏡様はね、鏡の力を司る神様なんだよ。
だから、目を開けたままで見ていた方が御利益がある。
目を瞑ったり、言葉を発したりする必要は無いんだ。」
そこで父親が横から口を挟む。
「あのぅ、うちの子が勉強できるようにご利益を賜りたいのですが、
頭の回転が良くなったり、そういうことはお願いできるんでしょうか。」
父親の質問に、黒尽くめの男はゆっくりと首を横に振る。
「いいや、それはちょっと難しいね。
さっきも言ったけど、御鏡様は鏡の神様なんだ。
だから、鏡にできることしかできないよ・・・。
映った者の心を逆にして入れ替えるとか、そういう御利益だね・・・。
仲違いを逆にして仲良くしたり、不幸を逆にして幸福にしたり、
そのくらいが精一杯だよ。
鏡の性質を神通力で拡張したものとでも考えてくれ。
でも、今この子が勉強しないのなら、
それを逆にしたら、心を入れ替えて勉強してくれるかもしれないよ・・・。」
つまり、黒尽くめの男の説明に拠れば、
この御鏡様の御利益は、鏡の性質の制限を受けるようだ。
神通力など存在するのか疑わしいが、それはともかく。
その男子高校生がそんなことを考えていると、御鏡様の祈祷が始まった。
弟が御鏡様と呼ばれる和鏡の前に座り、
黒尽くめの男がその周囲を、長い草のようなものを振りながら、
ゆっくりと円を描いて周っている。
その光景はまるで、座禅を組んでいるようでもあった。
しかし今は事前の説明通り、弟は目をしっかりと開けて和鏡を見ている。
その男子高校生が和鏡越しに弟の姿を見ると、一瞬目が合う。
和鏡に映るその姿は若干緑がかって見えた。
その姿が揺らいで見えたような気がして、その男子高校生は目を擦った。
もう一度和鏡を見ようとした時、
黒尽くめの男が一際大きく草を振りかざしてから口を開いた。
「・・・はい。
これで御祈祷は終わりだよ・・・。
御鏡様に映っていたあんたの心が、これでくるっと入れ替わったはずだよ。」
祈祷が終わって、弟が肩で一息ついてみせた。
両親が後ろから声をかける。
「どうだ?
ご利益はありそうか?」
「身体は大丈夫?なんともない?」
目の前で座布団に座って背中を向けていた弟が、
肩越しに振り返って返事をする。
「うん、なんともないよ。
変わりがなさすぎて、ご利益があるのかもわからないくらい。」
「これ、失礼でしょう!」
母親の一喝に、黒尽くめの男が愉快そうに肩を揺らして言う。
「御利益はこれからだよ・・・。
よかったら、ここに確認の記帳をしてくれ。」
差し出されたペンを受け取って、弟は左手でペンを持って記帳する。
その様子を見て、その男子高校生は僅かに首を傾げていた。
その男子高校生の弟が、御鏡様の祈祷を受けてから数週間が経って。
弟の成績は、すぐに上がるようなことは無かった。
しかし、悪くなるということはなく、
僅かずつにだが成績は確実に良くなっていった。
それを知らされた両親は、御祈祷の効果だと大喜び。
しかし、喜ぶ両親に弟は複雑そうな表情で、
その男子高校生は、弟のそんな変化が気がかりだった。
「あいつ、こないだのご祈祷から、どうも様子が変なんだよな。
それに、もっとおかしなこともある。」
不審に思ったその男子高校生は、弟に内緒で両親に相談することにした。
「父さんと母さんに相談なんだけど。
あのご祈祷から、弟の様子がおかしいんだよ。
成績はちょっとずつ良くなってるけど、あんまり嬉しそうじゃないし。」
深刻な顔のその男子高校生に、両親はのんびりした顔で応える。
「そうか?
父さんは気が付かなかったけどな。」
「きっと、思ったよりも成績が上がらなくてがっかりしてるのよ。
御鏡様の御利益で、これからもっと良くなるはずよ。」
危機感の無い反応に、その男子高校生は頭を横に振る。
「それだけじゃないんだ。
あいつ、ここのところぼーっとしてることが多いし。
飯の時も、何だか余所余所しい感じがする。
それに、ご祈祷が終わってから利き腕が変わったみたいなんだよ。
元々は右利きだったはずなのに、最近は左手で箸を持ってるんだ。
父さんと母さんも、飯の時に見てるだろう?」
「そうだったか?
父さんは見てなかったから分からなかったな。」
「私も、気が付かなかったわねぇ。
御鏡様は鏡の神様だから、
きっと心がけと一緒に利き腕も左右入れ替わったのよ。」
その男子高校生の心配もどこ吹く風。
両親はすっかり御鏡様の御利益に頼り切っているようで、
心配ない心配ないと繰り返すだけだった。
それから数日後の夜遅く。
自室のベッドで寝ていたその男子高校生は、
部屋の外の廊下に人の気配を感じて目を覚ました。
「・・・?
誰かいるのかな。」
その男子高校生の両親は早寝早起きで、家の中が寝静まるのも早い。
家の中の気配から、今夜も両親はもう眠ってしまったようだ。
寝静まった家の中、
その男子高校生はベッドを出て、抜き足差し足。
足音を立てずに部屋の中を歩くと、ドアを薄く開けて外の様子を伺った。
すると、部屋の外、常夜灯に薄く照らされた廊下に、
誰かが立っているのが確認できた。
深夜の家の廊下、常夜灯の薄暗がりの中、
誰かが黙ってじっと立っている。
不意にそれを目撃して、危うく声をあげそうになる。
必死に口を抑えて廊下の様子を確認すると、
廊下に立っていたのは、その男子高校生の弟だった。
その男子高校生の部屋の斜め向かい、
両親の部屋の前に、弟がじっと立ち尽くしていたのだった。
薄暗がりでよく見えないが、手には長細い何かを握りしめているようだ。
その男子高校生が顔を顰める。
「・・・あいつ、父さんと母さんの部屋の前で何してるんだ?」
声をかけるのもためらわれて、
その男子高校生は、弟の様子をそっと伺い続けた。
暗がりの廊下で立ち尽くす弟は、切羽づまった様子で、
すぐにでも何かをしでかしてしまいそうな、そんな危うさを感じさせる。
両親の部屋のドアを開けようと手を伸ばしては思い留まり、
手にした何かを振り上げようとしては、その手を下ろす。
そんなことを数回繰り返した後、やがて弟は大人しく自室へ戻っていった。
その間、その男子高校生は声をかけることもできなかった。
何か恐ろしいことが起こるところだったのかも知れない。
その男子高校生は弟に声をかけることも出来ず、
弟が自室に戻ったのを確認すると、
自分も大急ぎでベッドへ戻ったのだった。
それから朝になって。
その男子高校生は、昨夜のことを両親にも弟にも話すことができなかった。
夜遅く、寝静まった両親の部屋の前で、弟は何をしようとしていたのか。
考えたくもなかった。
誰にも相談することができず、悶々とするその男子高校生。
「もしかして、
御鏡様のせいで、あいつはおかしくなったのか?」
じっとしていられず、かといって人に相談することもできず、
その男子高校生は出来る範囲で調べてみることにした。
まずは、御鏡教団なるものについて。
学校の図書室で、新聞のバックナンバーなどを確認する。
「えーっと、なになに。
御鏡教団は、御鏡様という鏡をご神体にしている。
御鏡様の祈祷は、映っているものを逆にする効果があると言われている。
その効果は、
病気や怪我をしている部位が、逆に元以上に健康になったり、
性格が反対になったり、か。
これって、うちの弟の様子に似てるな。
弟は祈祷を受けてから成績は上がりつつあるけど、
僕や父さんと母さんには余所余所しくなったものな。
まるで、祈祷を受ける前と後で性格が逆になったみたいだ。」
御鏡教団は比較的最近にできた教団のようで、
新聞から得られる情報はその程度だった。
次は鏡自体について調べてみる。
「次は、御鏡様それ自体について調べてみよう。
とは言っても、御神体の紹介なんて、
新聞には大して載ってるわけもないな。」
そこでその男子高校生は、黒尽くめの男が言っていたことを思い返してみる。
「確か祈祷の時、教団の人が説明してくれたっけ。
御鏡様の神通力は、鏡の性質を拡張したものだって。
じゃあ、鏡の性質を調べたら参考になるかな。」
駄目元で図書室の本を漁る。
そして、科学の本に鏡の解説が載っているのを見つけた。
「おっ、ここに鏡のことが書いてある。
えーっと、なになに。
鏡とは、古くは人が水面に映る自分の姿を見たことから始まった。
実は鏡は左右を入れ替えるものではない。
鏡が左右を入れ替えているように感じるのは、
鏡に映った自分を観測者にしようとした場合の錯覚である。
実際には鏡の中の世界は無いのだから、そこに観測者を置くことはできない。
鏡の裏に観測者を置いて透かして見た場合、
鏡に映ったものと元のものの左右は入れ替わってはいない。
入れ替わっているのは奥行き、垂直方向の符号だけである。
・・・なんだか、難しそうな話だな。」
その本に拠れば、鏡が映ったものの左右を入れ替えることは無いという。
その事実に何か思うところがあるのか、
その男子高校生は眉間に指を当てて考え込んでいた。
その日の夜遅く。
その男子高校生は、自室のベッドの中で息を潜めて、
その時が来るのをじっと待っていた。
やがて、寝静まった家の中で、部屋のドアが開けられる気配がした。
間違いない。
またしても、抜き足差し足、
その男子高校生は部屋のドアを薄く開けて、廊下の様子を確認する。
すると、常夜灯の薄暗がりの中、
またしても両親の部屋の前に立ち尽くす人影があった。
顔を確認するまでもない。
その人影は弟のものだった。
昨夜と同じように、深夜の廊下で弟がじっと立ち尽くしていた。
手には長細い何かを持って、
両親の部屋のドアを開けようか迷っているようだった。
その男子高校生は、静かに部屋のドアを開けて弟の背後に忍び寄る。
そして、無防備な弟の背後からそっと囁きかけた。
「・・・止めとけ。
父さんと母さんを起こすな。
話の続きは、お前の部屋でしよう。」
深夜の薄暗がりの廊下で突然背後から話しかけられて、
驚いた弟は声も出ない。
それ幸いと、その男子高校生は弟の首根っこを掴んで、
弟の部屋へと連れ込んだ。
弟を引きずるようにして弟の部屋に入ると、
その男子高校生はドアを閉めて一息ついた。
「ふう。
これで大声でも出さない限りは、
父さんと母さんを起こすことは無いだろう。
・・・お前、父さんと母さんの部屋の前で何してたんだ。」
腕組みをして口を尖らせるその男子高校生に、
弟は不貞腐れたようにそっぽを向いて応えた。
「何でも良いだろ。」
「お前が言わないなら、僕が当ててやるよ。
良いから、座って聞けって。」
その男子高校生に促されて、弟は学習机の椅子に腰を掛けた。
学習机には明かりが点けっぱなしで、
教科書やノート、使い込まれた参考書などが開かれていた。
机の様子を見て、その男子高校生はますます確信する。
弟が深夜に両親の部屋を訪ねて、何をしようとしていたのか。
組んだ腕を指でとんとんしながら、その男子高校生は説明を始める。
「僕、あれから調べたんだよ。
御鏡様が何なのかって。
お前の身に何が起こったのか、理解するために。
これからする話は、
御鏡様のご利益が鏡に由来するって前提で話すぞ。
もしも、御鏡様が超常現象の塊で、
何の由来もなく魔法のように効果があるものだとしたら、
僕にはもうお手上げだからな。
その前提で、だ。
お前、御鏡様の祈祷で利き腕が替わったのって、嘘なんだろう?
祈祷が効いたと思わせるために、芝居をしてたんだよな。」
「・・・どうしてそう思うんだ。」
その男子高校生の指摘に、弟は否定も肯定もしなかった。
それはもう肯定しているのに近い。
その男子高校生は頷いて説明を続ける。
「鏡っていうのはな、左右を入れ替えるものじゃないんだ。
お前、知らなかっただろう?
鏡で左右が入れ替わったように見えるのは、
鏡に映った人が、鏡の中の世界にいる自分を観測者とした場合なんだ。
でも、実際には鏡の中世界なんて存在しない。
観測者を空想の世界には配置できない。
実際に鏡の裏側に入ったら、鏡を透かしてこちら側が見えるだけ。
鏡の向こうにあるものも、鏡に映るものも、
鏡を透かして反対側から見ても左右は同じ。
違っているのは、奥行きだけ。
原点から測った距離が、プラスとマイナスで入れ替わっているだけなんだ。」
鏡の性質の説明を聞いて、弟は目を白黒させている。
通じたのはどこまでだろう。
その男子高校生は頭を掻いて言い直す。
「えーっと、つまり、
鏡は左右を入れ替えるものじゃないから、
御鏡様には左右を入れ替えるご利益なんか無いはずなんだ。
あの教会での説明を覚えてるか?
御鏡様のご利益は、鏡の効果と同じ。
鏡にできることしかできないんだ。
だから、利き腕が入れ替わるわけがない。
お前、どうしてそんな嘘をついたんだ?」
「う、嘘じゃないよ。
現に成績だって上がってるだろ。」
泡を吹く弟に、その男子高校生はやさしく微笑む。
「それは、お前が前からコツコツ勉強していたからだよな。
また御鏡様の話だけど、鏡にはプラスとマイナスを入れ替える効果しかない。
学校の勉強にプラスはあってもマイナスは無いんだ。
一度覚えた記憶を消すなんて、脳に何か起こらない限りありえないからな。
せいぜい、思い出し難くなるくらいだろう。
御鏡様には、心がけを逆にするご利益はあっても、
勉強してもいないのに頭を良くするご利益なんて無かったのさ。
何より、お前の部屋の机にある勉強道具が、その証拠さ。
参考書もノートも随分と使い込まれていて、
とてもここ最近だけ使ったものには見えないもの。
きっと、父さんと母さんに内緒で前から勉強してたんだろう。
ぼーっとしてることが多かったのは、夜遅くまで勉強しすぎたか。
ちゃんと勉強してるって、どうして素直に言わなかったんだ?」
その男子高校生の推測は、おおよそ当たっていたようだ。
弟は観念したようで、手を足で挟んでもじもじと話し始めた。
「・・・父さんと母さんを、心配させたくなかったからだよ。
勉強してなくて成績が上がらないなら、勉強をすればいい。
でも、勉強をしてるのに成績が上がらないなんて、絶望的だよ。
自分の限界はここですって、言うようなものだ。
そうしたらきっと、父さんと母さんは悲しむだろう。
だから、内緒で夜中に勉強してたんだ。
でも、一人じゃどうしても分からないことがでてきて、困ってたんだ。
それで、父さんに質問しようと思ったんだけど、
父さんは日中は仕事で家にいないし、
夜は家に帰ってきてもすぐ寝ちゃうし。
いっそ夜中に質問しようかと思って。
でも、仕事で疲れて寝ているのを起こすのもどうかと思って、
それで最近ずっと迷ってたんだ。」
弟が夜中に両親の部屋の前にいたのは、
勉強を教えてもらうために両親を起こすべきか迷っていたからのようだ。
手にしていた長細いものは、きっとペンか丸めた紙だったのだろう。
なんと人騒がせな。
そう怒りたくもなったが、その男子高校生は頭を振った。
それよりももっと有意義なことを言おう。
その男子高校生は弟の肩に手を置くと、俯いている弟の顔を覗き込んだ。
「お前、そういう時は他に聞く相手がいるだろう?
父さんと母さんを起こすのが気が引けるなら、
そっちに聞いたら良かったのに。」
「他に質問できる相手って、誰?」
顔を上げた弟に、その男子高校生は歯を見せて笑顔になる。
「・・・僕だよ。
僕はお前の兄貴だぞ。
年上だし、勉強だって少しは教えられる。」
「でも、兄貴の勉強の邪魔にならない?
出来の悪い弟が、出来の良い兄貴の足を引っ張るなんてできないよ。」
「邪魔になんてならないさ。
人に勉強を教えるってことは、
人に伝えられるように勉強内容を整理するってことだ。
それもまた勉強。
それに、勉強の成果がいつ出るかなんて、そんなのは人によって違うんだ。
少しくらい遅くなったからって、引け目を感じることはないよ。
でも、学校の試験はそれを待ってくれないからな。
だから、少しでも多く成果を出せるように、
今から準備していこう。
僕も手伝うから。
そうすればきっと、父さんと母さんも神頼みなんてしなくなるさ。」
その男子高校生の顔を見て、弟もまた歯を見せて笑顔になった。
それから、その男子高校生と弟は、
両親に内緒で夜一緒に勉強するようになった。
それが御鏡様のご利益によるものか、はたまた別の効果か。
弟の成績は着実に上がり、兄の勉強の邪魔になるようなこともなかった。
両親は、弟の成績が上がった本当の理由を知らず、
それを御鏡様のご利益によるものとして褒め称え、
御鏡様の評判は広まっていったのだった。
終わり。
鏡は左右を入れ替えるものでは無いということで、
それをトリックにした話を書くことにしました。
劇中で御鏡様が入れ替えたのは何か、
いくつかの場合を考えていたのですが、
今回は何も入れ替えていない場合を書きました。
お読み頂きありがとうございました。