79 予感
遮るもののない青天。
灼けた砂の上に、従順な駱駝の列の影がくっきりと落ちる。それが一定の速度で動いている。
カララン……カラ、カラン……と、先頭と最後尾に付けられたベルが交互に、あるいは同時に乾いた音を奏でる。
ざっ、ざっ、と長い脚が斜面を登るたび、駱駝の背は大きく後ろへと傾いた。
が、もう慣れた。体重を前に移動し、鞍を内股で挟むように前傾姿勢をとってやり過ごす。
(本当に我慢強い子達。……砂漠を歩くの、人間にはとっても過酷なんだけど)
ほぅ……と、遮熱素材のフードを目深に被り直し、エウルナリアは嘆息した。
外套の下でチャリ、とロケットペンダントが揺れる。それを、思わず胸元で押さえる。
行けども行けども砂漠。他には何もない。
大きくうねる稜線は青と薄い黄土色の陰影をともなうコントラストで、砂地を反射する陽光に目を焼かれる。
故国――レガートとは明らかに違う。
隆起する砂丘の数々はセフュラの南、翠海の沖で嵐にのたうつ波のようだった。
さながら、砂の海を往く船団のようだと。
遠くにのぼる陽炎にくらくらしつつ、きゅっと鞍の持ち手を握る左手に力を込め、負けじと姿勢を正す。
やがて、エウルナリアを乗せた駱駝は連なる尾根のような砂丘の天辺へと伸び上がった。すると―――
「うわ、ぁ…………!」
深青の瞳が、こぼれんばかりに見開かれる。
ひらけた視界。
一望できる砂群のもと、はるか眼下には大海で育まれた貝に眠る極上の真珠のように、白く統一された街並みが見えた。
何より素晴らしいのは、中央できらきらと光を弾く巨大なオアシス湖だ。
椰子の木が沿岸部を覆い、複雑そうな街路のあちこちで濃い緑葉が揺れている。吹き寄せる風からは甘い水の匂いがした。
居住区とは違う、農耕区画だろうか。はっきりと整備された、湿った土色の部分も見てとれる。そのさなかを縦横に走る細い水路――この、砂漠の只中で!
植物と生命の気配を前に、朦朧としていた意識が忽ちシャキッとする。我ながら現金だ。
ややあって、後方からも息を呑む気配が伝わった。
エウルナリアはくるっと振り向き、斜面を見上げて微笑む。
「すごいですね、サーラ」
「えぇ……ほんと。今すぐあそこに飛び込んで水浴びしたい。あと、椰子の実ジュース飲みたい」
「ふ……ふふっ! やだ、サーラったら!」
いつもどおり我が道をゆく思考の親友に、黒髪の姫君は破顔した。
駱駝の首に架けられた大振りな鐘とは明らかに異なる、音楽的ですずやかな銀鈴の笑い声。
それが空の高い場所へとスゥッと抜け、辺り一面に光をまぶすように響き渡る。
皇女は改めて刮目し、二度ほど瞬いた。耳をくすぐる心地よい声音。彼女独自の歌うような韻律。それが、――……生彩を取り戻しつつあるようで。
どころか、さらに力強くなっているかもしれない。
声量ではない、声質の存在感。聴かずにはいられない、そのたぐいまれな“音”の連なりを。
(はやく聴きたいな……エルゥの、全力の歌)
つい、泣き笑いのような表情となる。
今は歌えぬ歌姫は、それに目敏く気づいた。
「サーラ……? なにか?」
皇女は顔布の下でこっそり唇を噛んだ。悟られぬよう、にこりと笑んで小首を傾げる。
「何も。貴女の笑い声、あかるくて好きだなと思って……それはともかく。随分遠くまで来ちゃったわよね、わたし達」
「? そう、ですね……レガティアからは普通に踏破しても片道一ヶ月近くかかりますし。皇国楽士団も、今上女王の代からは一度も招かれていません」
「代わりに、画家は何度も呼ばれてるわ」
神妙な声のゼノサーラ。
あぁ……と思い当たる節に、エウルナリアは僅かに頷いた。
「キーラ家ですね。ロゼルのお姉様がたが交替で常駐しているとか。絵画がお好きな方なんでしょうか」
「んー……違うわね、多分。ちょっと、純粋な美の擁護者とは違う気がする」
「え?」
怪訝そうな親友の青いまなざしに、皇女はうろんな視線を投げ返す。
「権力者にはありがちだけど、ぜんぶ肖像画なのよ。皇宮に上げられた報告で確認する限り、受注したのは」
「はぁ……」
まだ要領を得ぬらしいエウルナリアに、ゼノサーラは苦笑を浮かべた。
「まぁいいわ。謁見の申請は明日だし。今日のところはさっさと湯浴みして休みたい。上宿、空いてたらいいわね」
「それは……えぇ。同感です」
くすくすくす、と少女は愛らしく笑みをこぼす。
紅い瞳を一瞬だけ和らげた皇女はしかし、次の瞬間、文字どおり上から目線でぽんぽんと思うことを言い放った。
「ほら、ちんたらしてないで前向きなさいよ前。折角だから景色でも堪能してなさい。
あ、言われなくたって小まめに水は飲むのよ。休憩じゃなくても」
「あ。……はいっ」
根が素直な少女は言われた途端にハッ……! と表情を変え、腰のベルトに結わえた皮袋を取り外し、直接口に付けて水を含んだ。ゆっくりと一口分。
その様子にほっと胸を撫で下ろし、自身もまた前方に視線を巡らせる。
砂漠のなかの富の象徴、大オアシスの都ジールへと。
―――本当に、今すぐ欲しいもの。聴きたいものは伸びやかな貴女の歌なのだと。
胸の奥に引っ込めた“一番”は、すみやかに瞼を閉じて切り替え、気づかなかったことにした。
でも。さすがにひょっとしたら。
…………そろそろ、聴けるんじゃあないの? と。
根拠のない高揚に、そわそわと心を波立たせながら。