62 露台の葛藤、主従の攻防
草原の東端の街、オルエン。
その一番上等な旅籠といえる宿に、一行は連泊することになった。ほんの少しだが日程が緩んだことに、どことなく皆の顔は、ほっとしている。
各自、早めの夕食を終えたあとは、部屋で寛いだり、酒場で異国の賑わいを楽しんだり。はたまた「ちょっと、兄のところに行ってくる」と、艶やかな銀髪を翻してすたすたと出ていったり。……わりと自由だ。
エウルナリアは部屋に設えられた露台に、そうっと抜け出た。
そのまま、わずか三歩先の手摺に寄り掛かり、眼下の通りを見下ろしつつサラサラ……と夜風にそよぐ椰子の細い葉擦れの音に耳を傾ける。
ゆっくりと湯浴みもできたし、いつもならば寝てしまう午後十時。
が、眠気は訪れなかった。
(考えなきゃいけないこと、多すぎる……)
レガートを発ってからというもの、実は夜になると胸の裡が騒ぐ。喉元を締めつける焦りと、楔のように刻み込まれた言葉や声が、感触が離れない。
昼間はいい。皆と一緒にいられる間は忘れていられる。ーーーなのに。
砂漠に程近い煉瓦造りの旅籠は、サングリードの重厚な迎賓館や、レガートの劇場とは似ても似つかない。建物も季節も、華やぎも空気も何もかも違う。
……なのに、ふとした拍子に思い出し、くるしいほど胸が締め付けられてしまうのだ。
断じて、恋患いなどではないというのに。
「も……やだ。ぜんぶ、……忘れたい……」
勝手に目頭が熱くなる。
一人になりたい。いやだ、なりたくない。
乗り越えたい。ううん、いっそ、呑み込まれてしまおうか……
頭が、身体が熱い。
胸のなかが相反してどろどろと、手のつけられない溶岩や激流みたいに渦巻く。
せめて。せめて歌えたら。
……でもこんな、すさんだ心で。
荒れた自分で。
ーーーー歌えない。向き合える歌声が何処にも見当たらない。
「助けて……レイン……」
夜闇の庭に辛うじて吐き出された言葉。
わななく唇から零れ落ちたのは、本当にかそけき声だった。がーー
「エルゥ様?」
「!」
令嬢は、反射でがばっ! と、身を起こした。勢いでいくつか、涙の粒が庭へと落ちてゆく。頬にも流れる、それ。
灰色の瞳が驚きにみひらかれ、次いで細められた。
……たしか、隣室はシュナーゼン皇子の部屋だった気がするのだが。
いま一番会いたくて、会いたくなかった大好きな従者は、なぜか右隣の露台で晧々と蒼白い月光を浴びつつーーー主の名を呼んだあとは声もなく、佇んでいた。
* * *
誰かに、呼ばれたような気がした。
『ちょっとレイン。兄の部屋で留守番しててよ』と、渋面の兄皇子を伴った皇女から言われ、さしたる疑問も抱くことなく訪れた上客用の一人部屋。
栗色の髪の少年は辺りを窺い、視線を彷徨わせた。
ふと、ひらかれた露台の奥から風と葉擦れの音に紛れ、か細く震える声が聴こえた気がした。
(確か……隣は、エルゥ様とサーラ様の二人部屋のはず)
『……』
音を立てぬよう、すっと足を運んで夜の露台に身を滑り込ませると。
『助けて……レイン……』
(!)
いとしい少女が、泣いていた。
* * *
主従の間に、幾ばくかの沈黙と空間が横たわる。夜風がそよぎ、二人の前髪を少しだけ揺らした。
ふぅ……と。
それまで身じろぎ一つしなかった従者が瞑目し、何か、意を決したように再び見ひらく。しずかな声音を風に乗せた。
「そこ。ちょっと退いてくださいますか」
「? うん……?」
言われたとおり、令嬢は手摺から離れる。
こちらを向いたままのレインが、すすっと後退した。そのままーーー
「? ……れ……っ!!???」
わずかな足音しかしなかった。タタッ……と、軽く床を蹴る音のあと。
ひら、と手摺に左手をかけたレインが勢いよく宙に身体を踊らせ、こちらの露台にスタンッ! と着地するまで僅か四秒。
エウルナリアは固まるしかなかった。
(え? ……ちょ、ここ、三階……? 落ちたらどうするつもりだったの? そもそもなんで? どうしてあそこに居たの??)
疑問符で埋まりそうな主の少女に、レインはつかつかと詰め寄る。
「……ッ!」
狭まる視界。
はっと我に返り、わたわたと距離をとろうとしたエウルナリアは呆気なく従者の少年に腕をとられ、ぼふん! と、そのまま。
……抱き締められた。




