50 采配か、悪戯か※
一行が食事も終えて、さぁ部屋に戻ろうかと旅籠の受付――長く伸びた焦げ茶色の記帳台横にある木の階段を昇ろうとした、そのときだった。
端正な宿の雰囲気にそぐわぬ、騒ぎの気配が耳に届く。
「――だから、言ってるだろう。一晩泊めてくれと。宿代は明日、かならず支払わせるから!」
(? この声……どこかで聞いた……?)
声の主はおそらく少年。凛としてどこか涼やかな、温度を感じさせない声質。ひとにものを命じることに慣れた声音だ。
エウルナリアは、きょろ、と辺りを見渡した。階の半ばまで上がっているため、エントランス全体は容易に見通せる。
やがて探すまでもなく当の現場は目についた。カウンターで受付係と思わしき男性と少年が一人、何事か揉めている。
男性――奥でなにか調理にも携わっていたのかもしれない――は、ため息とともに前掛けで手を拭きつつ、キィ……と蝶番を軋ませ、カウンターのこちら側へ来ると、ぽん! と少年のつやつやとした黒髪に分厚い手のひらを置いた。
とたんに、きっ! と睨みあげた少年の顔が壁際に灯された蜜蝋の明かりを受け、顕になる。
黒髪黒瞳、年の頃は十二~三歳。大人びた眼差しで、身に付けた着物は青紫に染められた絹。銀糸で複雑な紋様を刺繍してあり、上掛けは縁の白い当て布を施された海老茶色の長衣。見るからに上流の子息だった。しかし―――
「!!」
エウルナリアは息を呑んだ。
あの声、あの雰囲気。覚えている。あれは……
「……エルゥ? どうしました」
答える隙はなかった。
ぱっと身を翻したエウルナリアは昇った階段を急ぎ降りる。主の動向に気づいたレインがすかさず後を追った。
トントン……と、もどかしげに段を踏み、人垣を分けて素早く少年の元へと近寄る。
……――いけない。はやく助けないと。
少女の焦りを余所に、男性は訝しげにじろじろと件の少年を眺めみる。まさに値踏みの視線だ。
「どこのいいとこの坊っちゃんか知らないけど。だめだよ、お付きの人は? それともまさか……家出?」
「よ」
『よくわかったな』とでも言いたかったのかも知れない。が、少女の到着のほうが若干早かった。
少年の肩に手を当て、ぐっと引き寄せる。思いきり抱き締めた。
……当たり前だが、腕のなかの身体は驚きに固まっている。ついでに、その表情も。
「……ッ……ぇ??!」
身長はかろうじてエウルナリアのほうが高い。彼女は顎の下あたりの少年の旋毛に視線を落とし、すぅ……と息を吸うと、一世一代のちょっとした小芝居のつもりで震える声を模した。
「もうっ……探したわ、この子ったら! 心配したんだから!!」
「っ! えっ……えぇええ???」
慌てふためく少年は長めの前髪、短い襟足のさらさらの黒髪。整った品のある容貌。涼やかな目尻の睫毛が印象的な夜の色の瞳は大きく、潤んだようにうつくしい。
青色の双眸という違いはあったが、たまたまオルトリハス風の薄紫の衣装を纏っていたエウルナリアと少年は、傍目に姉弟と見えなくもない。
受付係の男性は、目に見えてゆるゆると警戒を解いた。忽ち接客用の人懐こい笑顔となる。
「なんだ、姉さんか。まったく……坊っちゃん、悪ふざけも大概にしてくださいね? えーとお客さん……って、あれ? 記帳したのと人数違いません?」
「えぇと」
しまった、と反射で身構える。
―――が、「失礼」と。
すっと少女の前に立つ人影が現れた。
閃くように光を弾く、艶のある長い栗色の括り髪。広くなりつつある背中。レインだ。
世慣れた風の美少年は、にこりと笑んで目の前の男性に告げた。
「すみませんね、こちらの手違いで。これ、少ないかもしれませんが……足ります? あ、部屋の変更は結構です。あとで軽めの食事を運んでもらえると助かるんですが」
レインがそっと、男性に手渡した“何か”はチャリ……と微かな音を立てた。布にくるまれてはいたが明らかに金子だ。
(レイン……! いつの間に、そんな技を!!)
主の少女は思わず、驚きに目をみはる。
視線を感じ、ちらっと横目で元いた階段の辺りを窺うと人混みの向こう、頭二つは抜きん出た上背のあるロキの顔が見えた。
かれは目を細め、人差し指を口許に添えている。
――なるほど。
文字通りロキの差し金かと納得する。
受付係の男性も、布の中身を確認すると手のひらを返すようなにこにこ顔となった。
あまつさえ「畏まりました! じゃああとで、四人部屋にお夜食をお届けに上がりますね!」と、ご機嫌である。揉み手までしかねない。
なんだなんだ、と集まっていた人垣も三々五々、ばらけていった。
エウルナリアは、安堵の意図を込めてきゅっ……と、少年の肩を抱く腕に力を込める。咄嗟に飛び出してしまったが、これで良かったのだろう。なぜなら―――
ぼそ、と胸元から声が聞こえた。
「あの。まさか、貴女は……レガートのエウルナリアどのか? 春に、サングリードで歌っていた……」
覗き込むと、あどけなさの残る頬と目許が心なし、赤い。
(よかった)
事情はよくわからないが、結果としては偶然、会見の申請をすることなく当人に会えたのは暁幸だった。少女の顔が喜びとともに、ふわ……っと艶やかな笑みで彩られる。
「はい。……よろしければ私達と一緒に来ていただけます? カイザ・ハーン様」
「あぁ。ひとまず……そうだな、匿ってもらえると助かる。恩に着る」
ぷい、と。
横を向いた少年のふて腐れたような微妙な表情に、エウルナリアは眉尻を下げる。
つられて、いま一度笑みを深めた。
絵は、とりあえずのカイザ君のイメージです。