174 王の帰城(前)
最終的には額にも唇を落としたところで、ひらいたままの扉から「失礼いたします、姫君。レイン殿が目を覚ましたと――」と、中途半端なところで台詞を途切らせた治療師が現れた。
そう若くもない女性だが、仕草が愛らしい。小首を傾げながら「ええと」と、呟いている。
「……」
「…………あっ。そうか、ノックを忘れてましたね」
徐にコンコン、と扉を叩かれた。いや、遅いから。
いわくありげに微笑む姿に(見られたな……)と思わなくもなかったが、エウルナリアはさらりと流す。
「お待ちしていました。どうぞ、こちらの椅子をお使いください」
「ありがとうございます」
悪びれず、しれっとしている。遠慮じみたところは何もない。――なぜ、こうもサングリードの薬師達は曲者ぞろいなのか。諦めに似た微苦笑の真意は、はたして彼女に届くのだろうか。(そもそも我関せずなのかもしれないが)
めずらしい金縁の片眼鏡。赤茶の髪。
ウィズルまでの道中、特に会話はなかったが見覚えはある。痩身のその女性は、さっと部屋を横切ると手早くレインの診察を始めた。
検温、瞳孔、咥内を視認。脈拍……と。ここまで来て、今度は背中の傷にちらりと視線を馳せる。
「姫君、まだ司祭様の治療からそう時間が経っておりませんので、今は包帯はほどきません。明日の朝一番、お願いできますか? 新しい包帯と消毒薬、軟膏は調薬して届けてもらいますから」
「あ。はい」
てきぱきと手筈を整えられ、あっという間に彼女は立ち上がった。絶妙に気配を絶った女官が扉を開けて待機する出入り口に向かい、去ってゆく。
礼を述べるため、慌てて見送りに付き添った少女に、治療師は微笑んだ。
「大丈夫。熱が出るのは仕方ありませんが、命に別状はありません。処置が速くて、本当に良かった……一晩、貴女が付いていて差し上げれば、回復も劇的に早いかと存じますよ」
片眼鏡の奥、藁色の瞳が器用にウィンクをした。
* * *
「王の、ご帰還ですっ……!」
最初の侍女が興奮ぎみに駆け込んできたのは、治療師と入れ替わりだった。そのあとを、しずしずとゼノサーラの部屋に向かわせた侍女が続く。
「陛下は先ほどお召し替えをなさってから、レガートの皇女殿下のもとにいらっしゃいました。兄君のアルユシッド殿下もお戻りです」
「! そう。良かった……」
ユシッドも。ディレイも。皆が無事に帰ったなら言うことはない。散々な視察だったが、結果よしとするべきだろうか。
そっと胸に手を当てて安堵の吐息を漏らしたエウルナリアに、レインは伏せながらも、遠慮がちに声をかけた。
「あの。ガザックさんは、どうなりましたか? ……その、僕は気を失ってしまったので。詳しくお話は聞けるんでしょうか」
はた、と全員の視線が寝台の怪我人へと集まる。
(――そうだったわ。あの方、やっぱりディレイを裏切ってたのかしら。それとも……?)
「…………」
黙りこくり、眉間を寄せた美姫を気遣うように、淑やかなほうの侍女が言を次ぐ。
「はい。陛下は、皇女殿下にご説明差し上げたあと、こちらにもいらっしゃると。『従者殿の意識が戻ったなら幸い。姫ともども、体を労って休みつつ待て』とのお達しにございます」
「そうですか……」
わかりました、と。
それだけ告げると、レインは再び枕に頭を預け、脱力した。瞳を閉じている。薬が切れて、じくじくと痛みが戻ったのかもしれない。とにかく、これ以上の無理はさせられなかった。
(どうしよう。もう一度痛み止めを……? でも、常用しては難のあるお薬のようだった。駄目かな)
あれやこれやと考えを巡らせる主をよそに、不揃いな髪になってしまった従者の少年はぽつん、と呟いた。
「『口達者』から……一応、扱いは良くなったと見ていいんでしょうかね」
「っ!」
ぐ、と吹き出すのを我慢するエウルナリア。
なるほど、そのようにも揶揄されていたな、と。
* * *
『え? 俺はもう、名前で呼ばれたぜ? あの、いけ好かないおっさんに!!』と、どこか優越感たっぷりに赤髪の騎士が現れるまで、あと少し。
相愛の二人のおかげで、にわかに和んだ空気に当てられたウィラークの女性達は、困ったように顔を見合わせた。
きつい顔立ちの女官は頬に手をあて、おそろしく長々とため息をつく。
――――レガートの主従はしばし、ほのぼのと互いを見つめ合う。