168 その声に、息など要らない
「あっ……こら! やめなさいレイン君っ!?」
「うるさい! 借りますよ、ガザックさん!」
「おっ?」
松明が揺らめく。
成り行きを呑気に見守っていた先頭の赤鷲は、十歩以上離れていた。ゆえに、視界は全体的に影が濃い。そんななか、レインがガザックの剣を奪い、一直線に走ってくるのが見えた。
あろうことか、縄は手放されている。或いは剣を奪った際、どさくさに紛れて切ったのか。
「下郎っ! エルゥ様から……離れろ!!」
「レイっ……、きゃあぁ!」
「へっ、面白ぇ。来いよ坊主。どうせお前はオマケだし、殺したって構やしねぇんだよ」
「だっ……だめ!! やめて、レイン!」
どんっ、と乱暴に突き飛ばされ、それまで自分をかき抱いていた片目が幅の広い大剣を構えたのがわかった。
鞘から抜かれる音が、ガザックのものとは比較にならないほど重い。空気の密度が増した気がした。
――勝負にならない。
これは、たくさんの命を呆気なく、不当に奪ったケダモノの剣……――!
ぞくり、といやな予感がよぎった。
だめ。
レインが斬られてしまう。
持ちこたえられる? 無理。今は眺めてるだけの赤鷲という男だって、ガザックだっている。
でも、かれが。かれが、このままでは。
ガァン!
焦れる心と相反して、硬質な音が現実を突きつける。
暗くて、何がどうなってるのかまったく掴めない。もどかしさに歯噛みするも、剣戟の音はいっこうに止まなかった。
永遠にも似た長さ。おそらく数分は続いたのだと思う。
カンッ、ガッ…… カンッ
「う、ぐっ……」
「ほら、ほらほらどうした。腕が下がってきたぜ。生っ白い騎士だなぁ、おい」
「だ、れがっ…………!」
――――いけない。いたぶられている。
確信が閃いた刹那、もう、エウルナリアは衝動を止めるのをやめた。
思うと同時。すくっと立ち上がる。
その時にようやく、突き飛ばされ、ずっと床に座り込んでいたのだと気づいた。
「――じゃあな、『お荷物』。ここでお別れだ。即死にはしてやらねぇよ。大事なお姫さんにメソメソ、お別れでも言ってもらうんだな」
酷薄な愉悦を含む、非道な声。
頭が、目の裏側まで沸騰しそうになった。
だめ。絶対にさせない。
カァンッ
「しまっ……!」
レインの手から、とうとう剣が弾き落とされた。カラカラン、ガラン、とけたたましく通路に反響音が谺する。それを、どこか遠いところの出来事のように聞きつつ。
「なっ……?! 危ない! 退け、女!!」
「?!」
無我夢中、ものも言わずにエウルナリアはレインめがけて突進した。
固まる従者の少年を庇いたい。――その心一つで。
* * *
レインは目を疑った。
手の感覚など、とうにない。情けないことに痺れきっている。息も荒い。熱いのか寒いのか、よくわからない汗が額を伝う。指が震えた。
――くやしい。たったこれくらいの立ち回りで、と不甲斐なさに。一まとめにされた両手の戒めを、できれば引き千切りたいほどに。
右目だけ、醒めたまなざしの男が言葉面は嬉々と大剣を振り上げた。
やられる、という避けようのない予測。
なにか特別な思いが去来する暇もない。ぽっかりと空いた空隙だった。
――なのに、奇跡のようなタイミングで目の前に滑り込んだ存在を。ずいぶんと久しぶりに感じる柔らかな肢体を。少女の香りと気配を本能が喜ぶ前に、心は恐怖で満たされた。
(だめだ……あいつ、止まらない。振りきる!)
男の顔は歪んでいた。どうにもならない剣の比重に、自分でも苛立つように。男にとっても斬るわけにはいかない存在だ。迷いが生ずる。
その剣筋の僅かなブレに。タイムロスに、レインは動いた。
丸腰なのだ。これしかない。
すばやく両腕をあげ、括られた手首の内側に彼女を閉じ込めつつ、くるりと身を反転させる。
「えっ」
ちいさく、こんな時にまで愛しさしか呼び起こさない少女の声を、胸元で聴いた。
レインは。
「――――!」
背に、衝撃を受けた。
熱い。肩から斜めにパッと焼けるような痛みのあと、急激に力が抜けて膝からくずおれる。自然と彼女にすがりつくような姿勢になってしまった。
(~~~~っ……!!!!)
痛い。痛い痛い痛いもちろん痛い。
けれど、これを彼女に負わせなくて済んだことに、おそろしく安堵する。
状況は相変わらず芳しくないが、らしくもない勘が告げていた。
――そろそろ。
『かれ』は近くまで来ているはずだ。決まってる。でなきゃ殺す。
思考が物騒な方向に傾きつつあるのは、意識を失わないための無意識の所作か、本心なのか。レインは辛うじて苦く微笑んだ。
彼女を安心させないと。
まだ、何も終わってませんよ、と。
「レ、イ……」
「呼んで……くださいエルゥ。きっと、聴こえます。貴女の声なら届くから。……呼ん、で…………」
かたかたと震えだすエウルナリア。
その華奢な首筋に口許を寄せ、ささやいた。
どうか。
結局、そこまでだった。
どうしようもない眠気に襲われ、ふつり、と意識が途絶えた。
なので、瞬きも息継ぎもせずに発せられた彼女の超弩級の叫びを、大音声を。
もっとも近くにいながら、レインは聴かずに済んだ。