16 アンサンブル・レッスン(後)
「なんで、兄上が来るんだよ…!」
白銀の髪の青年を伴って研究室に戻ると、開口一番にシュナーゼンが吠えた。眉間に皺が寄っている。綺麗な顔が台無しだが、かれらしい正直な表情でもある。
アルユシッドは末の弟の抗議を聞き流し、隣に立つ黒髪の少女に提案した。
「エルゥ、楽譜を見せてくれる?
……なるほど。グランとシュナのアンサンブルをベースに、レインの即興を乗せて新しい曲にするのか。面白いね」
「聞きなよ! 可愛い弟の話!」
「聞いてるよ、可愛いシュナ。――よかったら、私が全体をみようか。エルゥは、レインの即興を楽譜に落とさないといけないんだろう?」
「え? あっ、はい。助かりますユシッド様。でも……その、宜しいんですか?」
吠え猛る弟殿下に形だけの返答を施したアルユシッドは、にこっと微笑んでエウルナリアの顔を覗き込んだ。そのまま「もちろん」と、染み入るような声音で優しくささやく。
こうなっては断る道理もない――と、少女も腹を括った。少し眉尻を下げて小首を傾げる。無意識に、口許に指を添えた。
「わかりました。では、お言葉に甘えて…
レイン。次の通し演奏は好きに弾いて。グラン、シュナ様。レインは気にせず、楽譜どおりにお願いします」
「…あぁ、了解」
「は~い」
心なしか、トランペット奏者と打楽器奏者の気力の落ち込みが著しい。レインだけはただ一人、表情を変えずに頷いた。
エウルナリアは苦笑を溢す。
(何だかんだ言って、独奏者に求められるのは何があっても動じない胆力なのよね……。シュナ様…は大丈夫として、グランにはまだ早いのかも)
少女にじっと眼差しを注いでいたアルユシッドは、そっと柘榴色の視線を外して指揮棒が置かれた譜面台に歩み寄った。
背凭れのない簡易な丸椅子に浅く腰掛ける。
ぴら…と楽譜を捲り、爽やかな笑顔で告げた。
「じゃあ宜しくね、奏者くん達。最初から通して。止めないから」
す、と指揮棒を軽く握った右手を上げると――臨時の音楽監督は譜面台を叩くことなく、滑らかに正確な指揮を始めた。
* * *
跳ねる、多彩なピアノが変則的な音色を奏でる。
リズムを刻むシュナーゼンに主旋律のグラン。自然とレインは対旋律となるはずなのだが――正直、存在感がつよすぎる。
(あ)
エウルナリアは、ふと気づいた。
合唱の講義で、以前似たようなことがあった。
たまたま添え物に近いフレーズだったにもかかわらず、ソプラノが主旋律のアルトを越えてしまったのだ。
指揮をしていた教諭は、ちょっぴり苦く笑ってこう言った。
『うーん…今の部分、バードさんは休んでてくれる?』
再度歌われた該当箇所を聴くと、確かにバランスは取れていた。
――要は適材適所なのだろう。
先のサングリードでの本番では、たまたま相手が自分だったからレインと対をなす旋律として音楽を構成できたのだと察した。しかし――
(わかってたけど……レインっ! 手数が多すぎる…っ!)
目まぐるしい音の変化。レインの即興は、もはや速記レベルを越える。息すらつけない。
「……」
演奏の問題点はすべてお見通しだろうに、アルユシッドは涼しい顔で何も言わない。黙々と楽譜を目で追っている。
初めての三人によるアンサンブルは、実力者揃いの割には、面白いくらいに惨憺たるものだった。
「…まぁ、初めての音合わせで、初の試みだものね」と、コトリと指揮棒を戻した青年は苦笑とともにグランを見つめる。
「……トランペット。音色はいいんだけど、ピアノに気を使い過ぎかな。監督も“気にせず”って言ってくれてるんだし、もっと思いきって表現すれば? 今のままだと負けてるよ」
「――!」
落ち着いた声音でもたらされる助言には、言葉以上の意味などないはずなのだが――赤髪の青年は一瞬目をみはり、紺色のきつい目許に影を落とすとそのまま俯いた。
「そう、ですね。…考えてみます」
「……グラン? そんなに落ち込まなくても…」
エウルナリアが差し出した手は宙でとまる。
退室を急かすように時を告げる鐘が、研究室の壁越しに遠く鳴り響いた。