129 主従の温度
「ん」
目を閉じて、少し位置をずらす。時おり息が漏れる。
レインの唇は繊細だった。
背だって、背伸びすればこんな風に口づけられるほど近い。
――……誰と、比べてる?
気づき、愕然とした。
無意識にディレイをかさねていた。そのことに、震えるほど怖くなる。
(ごめん)
謝罪は言葉にならず、ストレートな行動に表れた。
踵を降ろす。
唇の角度を変えて、さらに大胆に。甘やかに。
慰めたい、癒したい。取り戻したい。
みずからを突き動かすこの衝動を、何と呼ぶのかわからない。甘くてつらい。満たされないのがくるしい。泣きたくなるほど、もっと、このひとが欲しかった。
「……エルゥ、様」
ふいに、とん、と背中が棚に触れた。
後頭部は引き出しの取っ手に当たってしまうので体重をかけられない。そのぎこちなさが伝わったのか、おもむろに至近距離から名を呼ばれる。
唇は離れたけど身体はぴったりと覆い被されていた。胸が、かれの鳩尾より少し上で潰されるように形を変えている。隙間がない。思わず焦った。
「あ……あの、わたし……」
いけない。積極的すぎた。今更だが大いに慌てる。かれの首筋から両腕をほどき、身を離そうとして――あっけなく失敗した。
「!」
背と、後頭部に当てられる大きな手に抱きすくめられる。
大好きなひとの腕が。意思が動き、ようやく自分を「見て」くれた。
そのことが嬉しい。
同じだけ後ろめたい。
――結果。
エウルナリアは、さらに煽ってしまった。かさねられる吐息の合間に何度も名を呼び、かれの耳やうなじを触れてしまう。こうなるともう、止めようがない。
ぼんやりと薄目をひらくと、物凄くつらそうなレインの顔があった。
どうしたのかな、と蕩けつつ首を傾げると、熱を孕んだ灰色の視線に晒された。どきり、と脈打つ。
「あの……申し訳ありません。うっかり、そこの、診察用の寝台に連れ込んでしまいそうです」
「!!!! ごめん!」
はっ、と目をみひらく。
そうだった。ここはウィズルだ。悠長な滞在先ではない。たまたま、グランが席を外しただけで本来はこんなに気を抜いてはいけないはずだった。
どき、どきと落ち着かない鼓動、熱い頬を持て余し、エウルナリアは視線を逸らせる。その、色づいた白い花弁が匂いたつような色香に。
天井を仰ぎ見て、ぐぐっと何かを堪える仕草をしたレインが次の瞬間、肩を落としてつとめて、いつも通りの声音で話しかけた。
「座りましょうか。……寝台じゃなくて、あっちの椅子に。グランじゃないけど。たしかに、僕達には話し合いが必要です」
* * *
ランプに火を入れる。外が暗くなったのは、曇ったせいもあるらしい。ウィズルで雨は珍しいと言った。グラン達は降られないだろうか。あのひとは、どこまでの視察と言ってたっけ――
ぼんやりと窓に目を遣る姫君の耳に、ふたたびレインの声。
「気になりますか」
「それは……、気になるよ。雨になったら市は大変でしょう? 露店がたくさんあったわ」
「そうじゃなく。ディレイ王です。好きになってしまったのでは?」
「はっきり訊くねぇ」
苦笑。しかも否定できない。
嫌いではないのは明らかだ。――どうしてだろう。レインが好きなのに。
ほろ苦さを通り越した渋い感情を、すでに飲み込んだ少年は「否定なさらないあたり、エルゥ様ですよね」とぼやく。少女はあえてそれを黙殺した。
今、大切なのは。
「私の気持ちより、当面は戦を起こさないことの方が大事でしょう?」
「何を仰るんです? 貴女の気持ちや身柄こそが、僕には何にも代えがたい。
正直、勝てる戦なら起こってもいいと思ってます。決め手に欠けるからこそ、こうして面倒に立ち回ってると、以前も申し上げたでしょう」
「……う」
恋敵からも“口達者”とあだ名された少年は、さすがに弁舌滑らかだ。
説き伏せなければならないのは、なにもディレイだけではない。恋人をこそ一番に籠落せねばならぬようだった。
窓を背に、隣り合う椅子と椅子。
布場りのそれはゼロ距離。なので、間に挟んだ肘置きで互いの指を絡めている。エウルナリアは、こてん、とレインの肩にもたれた。椅子よりもこちらの方が、断然いい。
「っ……」
レインが息を止める。
エウルナリアはお構いなしに考えを述べた。
「あのひと……、たぶん、身内にはすごく甘いの。だから、この国の経済の見通しを立てて、周辺国からも孤立させないようにして。ついでに、その……『女』として以外の私を認めさせれば、攻められないんじゃないかな。国も。私も」
「……おんな、以外で……」
――――無理だと思います。
少女の声と、無意識の誘惑に抗い続ける従者にとって、それは切実な独白だった。
どこかで、雷の音が聞こえた。