110 あのひとへの道(前)
いかに、素性を名乗らずに城へと入るか。
いかに警戒心を抱かせず、心の準備すらさせずに目の前に立って見せるか。
エウルナリアはディレイとの再びの会談に向けて、この二点にのみ気を配っていた。
考えてみると因果な相手だなと痛感する。出会ったのはたったの二度なのに。
(どうして、こんなに思い惑わされる羽目になっちゃったかな……)
夜風に靡く砂色の長い髪。その存在感に気圧されるしかなかった初見の露台。
再見の雨のレガートでは、やたらと嬉しそうに微笑まれた。案内役をつとめた、貸し切った劇場の二階席では決定的に危険な目に遭った。
――学んでいる。
用意する手間や時間を与えては、あのひとは結局望むもの全てを手にいれてしまうと直感が告げた。
街の混雑のさ中、自分を見いだし、城へと導いてくれるという黒っぽい短髪の青年の背を追いつつ、唇を噛む。
こうしてありありと思い出せるほど、あざやかに自分を刻み付けてきた相手に、胸のなかがモヤモヤする。止められない。まるで強制的に惹かれるように。
それを、国難を含めて払いたいのだ。
決して、似たような目に合わされに行くためではない。
ちらりと目線を後ろに流し、ちゃんと着いてきてくれる二人の護衛騎士――グランとレインを視認した。かれらの顔にもつよい緊張が溢れている。
まさか、こんなにも早く機会が巡ってくるとは……と。
そもそも、予定より早くウィラーク入り出来たのは、同行してくれた本当の聖職者達のおかげだった。
* * *
かれらは、アルトナで立てる予定だった市を最小限に。仕入れに重きを置いてひたすら最速のウィズル入りを目指してくれた。
元々寄り道さえしなければ三日でアルトナと彼の国の境へ辿り着く。
四日目、船はウィズル手前の水門で足止めされた。
付近の難民キャンプは焼け石に水という雰囲気で、助けの手はアルトナ、サングリード、セフュラから差しのべられていたものの追い付かないようだった。
それでも飢え死ぬものがいない分、ましなのだという。
――誰も、好き好んで物乞いとなるわけではない。
貧民街のない国レガートで生まれ育ったものとして。東への旅でも、真正のスラムには近寄る機会がなかったものとして。
味気ない、防水布を張っただけの三角のキャンプがひしめきあい、それ以上の身一つしか持たぬ人間達の群れ。かれらの空虚なまなざしに晒されたとき。
――エウルナリアは、哀れなはずの人びとを『怖い』と感じてしまった。ウィズルの崩壊は、元はと言えば暴虐の王が数代続けて立ってしまったせいなのに。
『内乱で村丸ごと旧国軍に蹂躙されたり。荒れて蔓延った野盗に家財を滅茶苦茶にされたり。そうして、命からがらここに流れ着くしかなかった民びとです。大丈夫、我々の後ろにいなさい』
と。
同行した聖職者の長をつとめる大柄な男性が前に立ち、マントの白で視界をむりやり遮ってくれるまで。
たしかに自分は立ち尽くしていたのだと思う。背に当てられたレインの手のひらに助けられていた。グランも斜め前に立ち、油断なく護ってくれた。
そのあとも。
聞きしに勝る乾いた大地。さりとて砂漠ではない。土地そのものが痩せているための慢性的な不作や、毎年恒例の干魃のためと教わった。
点々と、名乗り出ぬサングリードの拠点として一家まるごと現地で暮らしているという人びとの家を移動した。一行の道行きには、宿を提供してくれるかれらに見返りとしての物資を補充する側面もあるようだった。
同時に、それぞれの持つ最新の情報を交換してゆく。
そんななか、共通することがあった。
ウィズルに暮らすかれらは皆、一様に『今上陛下は悪くない。期待できる。できれば……』と口を揃えるのだ。
そうして決まってエウルナリアを眺め見る。たいそう、ばつが悪そうに。
(あのひとの私への振る舞い……そっか、もう知れ渡ってるのね。この様子だと)
言外にかかる期待という名の圧力。
大人しく、かれのものとなってはくれないか――? と、はっきりと漏らさぬだけの懇願。
それに何度、ため息をついたろう。
旧東ウィズルには寄らず、西のウィラークに近づくたび、肌でディレイがこの国の民から熱愛されているのだと感じた。
どんなに襤褸をまとったひとでも、かれについて話すときは瞳が輝いている。誇るべき王。英雄なのだと。
――それでも。
貫きたい。失いたくない気持ちがある。
ごくり、と唾を飲む。心細くなりそうな己を叱咤する。
エウルナリアは難しい顔つきで、混雑を極める広場を庭のようにすいすいと歩く、目の前の見知らぬ背中を懸命に追いかけた。