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二階の秘密

作者: たまゆら

ずさっずさっずさっ、今夜も聞こえる。何の音なんだろう。床の上を何か重たい物をひきずっている感じだ。

私は一人の時間を好む。束縛された仕事を終え我が城に帰って来る。ドアを開けた瞬間、こころと体が柔らかく開放される。外では見せた事のない笑みが口もとから始まり、つま先まで来た時私になる。

風呂に入り食事を済ませ頂き物の新茶を楽しむ。室生犀星の詩を読む。誰にも邪魔されない気を使う必要もない至福のひととき。この暮らしを愛している。寂しさは感じない。ある人にそれが問題だ、何かが欠落しているのではと、目を斜めにして言われた事があるが、今その人は家族に苦しめられ、羨望の目で私をみる。

私はかたくなに一人を通そうと思っている訳ではない。自分にとって空気の様な存在の人に出会えたら一緒に暮らす事を考えてもいいかもしれないが。

このマンションに引っ越して来たのは三年前、静かで清潔で大家の人柄も良く、何よりこのマンションは私の勤め先が契約しているので家賃の負担がわずかで済む。最高の住まいだ。勤め先でどんなに嫌な事があってもここに帰って来ると全て忘れる事が出来る。

幸せな毎日だ。二階の不気味な音以外は。ほぼ毎日夜の十時位に始まり二十分程で静かになる。大家に相談してもいいのだが、我慢できない訳でもなく五月蝿い人と思われるのも面倒なのでそのままにしている。

一体何をしているのか、毎晩模様がえでもないだろうし、争う声がするでもなし、第一何人で暮らしているのかも分からない。郵便受けの名前は名字だけしか書いてないので男か女かも分からない。一度二階に上がってその部屋の前を何気ない風をして探ったのだが、部屋に居るのか居ないのかさえ分からなかった。その夜にも行ってみたのだがやはり明かりも点いていず気配がなかった。

この夜はなんの音もしなかった。不思議なものでいつもの音がないとなんだか落ち着かない気分がしてその夜はなかなか寝つけなかった。次の夜は音がした。

この音が始まったのは確か一年前のお盆が過ぎた頃だった。それまでは何の音もしなかった。その時かすかにりんご追分が聞こえたように思う。次の夜からほぼ毎日引きずる音が続いている。りんご追分が聞こえた様に感じたのは初めの時だけだった。なんとかして探りたいと思うのだが、部屋を覗く訳にもいかず、探偵を雇うには理由があやしいし、相談する人もなく今に至る訳だ。

部屋の居ごこちは最高な訳でこの事をずっと思い悩んでいる訳でもなく、平和に毎日が過ぎていた。

ところが、努め先から突然家賃の補助は今月までと言い渡されてしまった。全額自分で払うとなればかなり生活は苦しくなるので引っ越しを考えなければならなくなった。平和な日々が自分から離れていくのを感じた。

それからは、休みの日は部屋探しに費やした。しかし、なかなか今住んでいる所が快適過ぎるせいでどこを見ても気に入る事ができなかった。暫くは蓄えもあるので今の暮らしは続けられるので焦るのはやめようと思った日に、このマンションの大家にでくわした。挨拶だけして部屋に戻ろうとしたのだが、大家の方から話しかけてきた。

住みごごちはどうだと聞かれて、最高ですと答えた。大家は嬉しそうにいつまでも居て欲しいと言った。そこでつい今の事情を話してしまった。すると大家は実は二階の一部屋が空いていてよければ家賃はかなり融通出来るからどうだと言ってきた。あまりに都合のいい話なのでその部屋には何かあるのかと聞くと、正直な人でもう二年も空き家のままで困っていたと言う。

ならば渡りに船ではないか、どちらにとっても嬉しい話なのでとんとんと話は進みとどこうおりなく引っ越しも済んだ。少し気になったのは例の部屋の隣だった事だ。しかしさほど大きな問題には思わなかった。そんな事よりこのマンションで住み続けられると言う事が嬉しすぎて取るに足りない事に思えたからだ。ここで暮らせるという事が私にとって一番大切な事なのだ。ブランドの服やバック、宝石、グルメ、旅行などに興味はない。この部屋でゆったりと静かに暮らす事で自分の心は満たされ安定するのだ。平和な日々が又戻って来た。

隣は何の異常もない。時間の流れと共にあの音の事は忘れていった。

その日は又突然やってきた。忙しい日だった。朝から何となく気ぜわしく勤め先もいつになく来客も多くランチを食べる時間もなかった。くたくたになって帰ってきた。しかしドアを開けた瞬間、しあわせな自分に戻り満ち足りた気持ちになった。そして早めにベットに入ろうとした時あの音がとなりから聞こえて来た。今度は隣なのではっきりと聞こえる何かを引きずる様な音。やはり二十分程で静かになる。忘れていたのでかなり動揺してしまった。その夜は興奮してなかなか寝付けなかった。

次の朝、隣を探る為ゆっくりと歩いて通路の窓から何か見えないかと目を凝らしたのだが防犯の為に加工されたものなのでさっぱりみえない。部屋からの音も気配もない。一体人は住んでいるのか。そんな疑問を持つ位気配がない。今日帰って来たらベランダに出て覗いて見よう。

この日は例の音の事が頭から離れず仕事が手につかなかった。そうそうに仕事を切り上げ家路を急いだ。いつもの様にドアを開ける。いつもの様に満ちたりた自分にはならなかった。私はうろたえた。こんな事は初めてなのだ。こんな事はあってはならないのだ。リズムが狂ってくるのをかんじた。風呂も食事もせずにあわててベランダに向かう。リビングのテーブルにしたたかに脛を打ち付け暫くうずくまってうめき声を上げた。音に対しての怒りが湧き上がってきた。最高の暮らしを邪魔する音。自分を破壊していきそうな音。私の目から冷たい涙がしたたり落ちてきた。ようやく痛みがおさまりベランダにたどりつく。ベランダのしきりのボードの隙間から隣を覗く。きれいに掃除がされていてすっきりしている。嫌な感じはない。しかしベランダの真ん中になんだろう、丸くて黒いボールのようなものが置かれていた。なんとなく違和感を感じた。出来るものならボードを乗り越えてそのボールを手に取りたいと思った。しかしまさかそれは出来ない。いや、そうか?出来ないか?いや出来る。もし今留守だとしたら。

私は玄関に急いだ。そして髪をなでつけ、頬をぱんぱんと叩き隣に向かった。深呼吸をしてチャイムを押す。高らかにチャイムの音が部屋に鳴り響いている。何か部屋の中が空洞のような響き方だ。暫く待つ。なんの反応もない。念の為もう一度鳴らしてみる。やはり反応はない。よし。実行に移そう。再びベランダに向かう。椅子を持ち出して靴を脱ぎ椅子の上に上がる。なんとかよじ登れそうだ。気合を入れよじ登る。うまくいった。さてここからが難問だ。隣には椅子はない。うまく飛び降りる事が出来るか。迷っている時間はない。いつ隣の住民が帰ってくるかもしれない。私は飛び降りた。案外出来る。

問題のボールを、ボール、ボールがない。辺りを見回すがどこにもない。さっきは確かにあった。夢ではない。あったのだ。だけどいまはない。なぜ?私は呆然とした。勇気をふりしぼって行動にうつしたのに。はっとする。もしかして帰って来たのか。血の気が引いてきた。あのわずかの間にベランダのボールを取り込んだと言うのか?いや時間的にありえない。もしそうであるならなんらかの気配を感じる筈だ。あまりに静かすぎる。この隣に動きがかんじられない。ここで考えこんでいる暇はない。早く戻らなければいつこのベランダの窓が開けられるかもしれないのだ。私は焦った。何も足場にするものがない状態でいかにボードによじ登るか。だがやるしかない。ぐずぐずしていてはいけない。さて登るんだ。だがまてよ、こんな機会はもうないかもしれない覗いてからでも遅くはない。そうだ、そのくらいすぐ済む。わたしは窓を覗いて見た。カーテンは閉まっていたがきっちりとは閉まってなく僅かな隙間があった。目を凝らした。部屋の中は暗いのでよくみえない。さらによく見る。我が家と同じリビングのようだ。しかし本当に人が住んでいるのか?何一つ家具がないのだ。もう一つの窓に行ってみる。しかしこちらは何か封印されているかの如く全くなにも見えない。私は諦めて我が部屋に戻る事にした。案外楽によじ登る事が出来無事ベランダに足を着く事が出来た。もう一度隣を覗く。やはり何もない。

私は錯覚したのだろうか。いつもの心の安定がなかったので音に振り回されていたから、頭の中がその事でいっぱいになっていたから。そうだ、だから無いものが見えてしまったんだ。

私は熱いシャワーを浴び簡単な食事をした。今夜はホットミルクにした。ゆっくりと味わう。やっといつもの満ちたりた心が全身を温めてくれた。やはりここは最高。なんの問題もない。僅かの音の事位なんでもない。軽くストレッチして、歯を磨いてベットに入った。今夜はベットで犀星の詩集を読む。スタンドの明かりが心地よく音の事が遠のいていく。うつらうつらして来た。今日は緊張が続いていたのでいつもより早く瞼が重くなった。とその時又してもあの音が。いっぺんに眠気が飛んで行く。なんなのだ。ずさっ、ずさっ、なにかを引きずるような音。やはり人はいるのか。何もないリビング。封印された様な窓気配のない部屋。一体どんな人が、どんな暮らしをしているのだろう。又二十分ほどでしずかになった。

私は自分に言い聞かせた。もういいではないか。我慢できない訳ではない。些細な出来事だ。これ以外なんの問題もないのだから。ここ以外じぶんの安らげる場所などないのだから。何か一つ位は嫌な事はある。そうだ無事ここにこうして暮らせているのだから。自分にとってここでの暮らしが全てなのだ。それ以外は大して意味がない。

朝がた少しまどろんだ。目覚ましが鳴り重い気持ちで目を開ける。見慣れた天井がある。照明器具の横に少し染みがある。朝の光がカーテンを通して入りこんでくる。日に日に朝日が強くなる。夏が近いのだ。のっそりとベットから降りる。カーテンを開ける。目に強い刺激が走る。寝不足に弱い私にとって今朝の太陽は悪魔のようだ。すぐにカーテンをしめた。洗面所に行き冷たい水でじゃぶじゃぶ顔を洗う。少しさわやかな気分になれた。台所に行き冷蔵庫から水を出しグラスに注ぎ飲む。毎朝の行動だ。そしてコーヒーをたてる。良い香りがリビングにまで広がる。マグカップに注ぎ入れミルクを少しだけいれる。これが朝食になる。リビングのソファーに座りゆっくり飲む。ニュースを見ようとリモコンに手を伸ばしたがふと隣を見て見ようと思いベランダに行く。

ボードの隙間から覗く。あっと叫んでしまった。あるのだ。あのボールが。いや正確にはボールのようなもの。隣の住人が出したのだ。と言う事は昨日やはりボールはあったのだ。ならばあの僅かの時間に彼か彼女かは分からないけれど取りいれたのか。だとしたらなんと素早い人なのだ。部屋を覗いた時カーテンは少しも揺れていなかった。そして気配が全く感じられなかった。朝から頭が混乱して来た。勤めに行かなければ。でも仕事にならないかもしれない。私は勤め先に休む事を許してもらった。滅多に休まないので心よく受けてくれた。かえって心配され、お大事にと言ってもらった。

ぬるめのお湯につかりリラックスしようかと思ったが、あのボールの事を解明したいと言う気持ちがはるかに勝った。そこで、着替えを済ませ、玄関に行く、隣のチャイムを鳴らす。高らかに響きわたって行く。だれも出てこない。もう一度鳴らしてみる。反応はない。この時突然気づいた。そうだこうしてる間にここの住人はベランダに行きボールを取り入れたんだ。それならば簡単に出来る。時間もある。なんだ。動転してそんな事に気がまわらなかったんだ。馬鹿みたいだ。笑いそうになる。でもなんで出てこないのか。人嫌いなのか。まあ私もそんなとこがあるから人に言えた義理じゃないが。

昨日のような事をもう一度するのは止めた。部屋にいる可能性が濃厚だからだ。しかしこの静けさはなんだろう。人が生活していたら余程ゆっくりしていてもなんらかの音はするものだ。それが全くない。あるのはあの引きずる音だけだ。それも僅かな時間。私の中で好奇心がぐんぐん膨らんでくる。なんとかしてこの謎を解けないか。

そうだもう一度ベランダを覗いて見よう。そっと覗いて見た。ボールは、そこに無かった。

いる。部屋にいるんだ。遊ばれているような気になってきた。私の動きをどこかから見ていて混乱するようにボールを見せたり隠したりして、そんな私の姿を見て薄笑いしながら

楽しんでいる。そう思うとわらわらしている自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。もうボールの事は忘れよう。平和な日々を取戻そう。ここに住んでいられる事がなにより一番大切なのだから。私は落ち着きを取戻して来た。今日は休みを取ったのだからゆっくりしよう。ぬるめのお湯につかりワインとチーズを楽しもう。そして犀星の詩集を読もう。私は浴槽にお湯を張るため、お湯の蛇口を回す。もあもあと湯気が立ち昇ってきた。

冷蔵庫からワインとチーズを取り出し、リビングのテーブルの上にならべる。グラスばかりを入れたボードからお気に入りのワイングラスを出しワインの横に置く。静かな幸せが自分をつつんで行く。

犀星の詩集を手に取り文字を追う。彼の世界に入って行く。繊細で柔らかくかつ力強い寂しがりのようなその分温かい、彼の詩はつぶやきにも叫びにも思える。

風呂場からお湯はりが完了したという電子音がした。

私はゆっくりと風呂場にむかった。今日はラベンダーの香りの浴剤にする。たっぷりと張ったお湯の中に浴剤を放り込むとシュワシュワと泡をたて小さくなりなくなった。紫色に染まった湯船を見つめた。ラベンダーの香りが風呂場をいっぱいにした。その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

満足感が体のすみずみにいきわたり、隣の事がどうでもいい事のように思えた。シャワーで体のうっすらとかいている汗を流し、湯に浸かった。益々満足感が溢れて来た。

つくづく自分の心の弱さを思った。さっきまで隣の謎に翻弄されていたのに今は満ち足りた心でいる。私は思った。もう隣の事に気持ちをざわざわさせるのはやめよう。自分の生活はかなり満足のいくものだ。なに不自由のない暮らしと言えるだろう。こんなふうに幸せを感じながら気ままに暮らせている人間が果たしてどの位いるだろう。

私は幸せだ。感謝を忘れてはいけない。当たり前ではないんだ。そう、自分は幸せのくじを引いた側の一人なのだ。健康にも恵まれ、両親は私を愛し大切に育ててくれた。一人っ子なのでいずれ親の介護問題に直面する日も覚悟していたが、三年前に父が急死した。母は昨年急死したので悲しい事ではあるけれど、益々気楽な状態になった訳だ。さらにかなりの遺産まで残してくれた。

身に余る程の幸せだと思う。これから先余程の事がない限りこの気楽さは続くだろう。有り難さが全身を包んだ。頬を熱い涙が滴り落ちた。その時かすかにりんご追分が聞こえた。あれっ、と思った瞬間私は風呂場から消えた。ラベンダーの香りは風呂場を満たしていた。

…私は隣の部屋にいた。ほぼ丸いボールとなって。密封された窓の部屋にはいくつもボールが転がっている。その中の一つとなった。私の意識は消えた。



あくる日、大家がその部屋にやって来た。無表情で黙々と部屋の片付けを始めた。女性の一人暮らしの部屋なので全て片付けるのにさほど時間はかからなかった。家具などは専門の業者に後日引き取ってもらう事にしてある。

大家は問題の隣の部屋に入りいくつも並んだボールを見下ろした。そして独り言をつぶやいた。

「有り難いことよ。また一人このマンションの為に命を捧げてくれた。今回は二年も捧げ物が出来なかったから、ちょっと焦ったよ。まっ、でもこうして最高の状態でボールになってくれたので暫くは捧げものがいらないから私も楽が出来る。有り難い、有り難い。さて今日は贅沢をしようか。つるやのステーキでも食いに行くか。」

大家は満足気に笑みを浮かべ、部屋を出ていった。

このマンションがいつ建ったのかはわからない。あの大家で十五代目らしい。このマンションは一度もリフォームしていないらしい。なのに新築同様で地震にも台風にもびくともしない。近所でも謎とされている。そしてもう一つの謎は、度々一人暮らしの人が突然、行方知らずになる事だ。

今日もマンションは生き生きとそびえたっている。こころなしか笑っているようにも見える。暫くは満足気に艶めいているだろう。

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