フェイズ3:青龍 -Gentle Fencer-
結局オレは歌わなかったけれど、たった1時間のヤヨイライブは華々しかった。
「今日は実に有意義で楽しかったのだよノン君! では、また明日ね!」
暗い夜道のタイテンとヒュウガの分岐路で、ヤヨイは手を大きく振りながら惜しむように何度も振り返りつつ、オレに別れを告げる。あんだけ歌ったのに、喉とか元気だ。
「うん! オレも楽しかったよ。また明日!」
オレも右手を振り、大きな声で応えた。それに満足したのか、ヤヨイはもう一度満面の笑みを浮かべると、前を向いて走り出す。
門限を相当無理してた事に心を痛める間も無く、急に振り向くと猛ダッシュで戻ってきた。オレの前でブレーキをかけたので息を整えるのを待つ。
「…どうしたの?」
「忘れていたね。ノン君、アドレスを交換しておこうではないかっ」
ポケットから端末を取り出し、ヤヨイは頬をやや染めて笑った。そんなもんならお安い御用。
「いいよ。はい」
情報端末にもなる右掌をヤヨイに向けると、やっぱり彼女は知っていたようで端末の液晶画面をタッチさせた。情報交換完了。
生目 夜六夜の個人情報を登録した。
「確認メールを送るね」
「どうぞ」
早速端末画面を操作するヤヨイ。指の動きが手慣れてる。2秒も満たない内に水晶モニターの左下へメールが送られてきた事を知らせる手紙みたいなアイコンが表示されたのでクリックすると、メール送受信フォームが開かれた。受信を見ると、当然相手はヤヨイ。
『届いたかね?』
オレは返信で
『届いたよ』
と返す。ヤヨイの端末が震えた。彼女は画面を見て満足気ににんまりと頬を伸ばす。
「完了だね。電話もメールも、いつでも送ってくれたまえ」
ぐっとサムズアップし、ヤヨイは今度こそ夜の闇に消えていった。
アホウ
「あ、うん。早く帰ろうか」
呆然と見送っていたオレにぴったりの言葉が掛けられる。左肩に乗るシンテンオウはエネルギーが切れかかっており、黒い瞳が2秒に1回くらい点滅して要充電を知らせていた。オレのわがままに付き合ってくれたのだから、オレも労わらないと。
しかし、シンテンオウにはまだ働いて貰わなければならない。
「こっち?」
…アホー
自分の家の場所が分からなかった。昼はシンテンオウが運んでくれたし、内蔵モニターマップはオレが登録しないと反映されないようになっている仕様が仇になったようだ。
何より、オレ専用サポートメカという意味がようやく理解できた。シンテンオウはナビゲート機能が付いており、オレの肩もしくは背中を掴んで表面接続する事でマップ情報を更新・共有する役目を果たしていたらしい。
「うん。オレはアホだ」
頭を震わせるシンテンオウへ素直に肯定。
何度か角を曲がり、信号を渡り、住宅街を通って、ようやくオレは見覚えのある路へ出た。まあ今日の昼に覚えたての拙いメモリーでしかないが。
「…着いたよシンテンオウ」
……アホ
『機械』という表札を見つけ、エネルギー絶え絶えのシンテンオウに知らせたが、マズイ、マジで機能停止しかかってる。
オレの家は、そこそこの一等地に建てられた二階建ての一軒家。どこか整然とした雰囲気が父さんらしい。家の周りは同じような住宅街に囲まれていたけど、道路を挟んだ正面はどこか不自然な空き地になっていた。
勇み足で家の裏手のシンテンオウが格納されていたガレージへ回り込むと、防犯という意味ではちゃんとシャッターが下りてロックが掛かっていた。困った、朝は内側から開けたので問題なかったのだけど。
「どうする?」
……ア
シンテンオウが弱々しく翼を向けた先、ガレージの中央には丸い穴が開いていた。鍵穴かと思っていたが、スキャンするとマシン細胞に反応するセンサーという事が分かり、オレは右掌をそれに押し当てる。
「カノンのマシン細胞が認証されました。ロックを解除します」
皮膚越し確認が取れた女の声が聞こえ、シャッターがゆっくり開いていく。中腰になって素早く中へ入り、暗視モードへ。ダークブルーのエアカーが一台、エアチャリが数台並んでおり、昼間シンテンオウが止まり木のように佇んでいた台、そして充電コードを見つけた。
「あったよシンテンオウっ」
…
やべえ、この闇の中で気付けないほど目から光を失っている。もはや置物と化したシンテンオウを慌てて台へ置き、スキャンして背中に充電穴がある事を確かめるとコードを引っ張って繋いだ。
……………アホウ
数秒後、そこには目から光を放ち元気に鳴くシンテンオウの姿が。
「よかったぁ」
アホウ、アホウと喜び、羽ばたくシンテンオウ。うんうん、本当に良かった。
「じゃあ、またねシンテンオウ。お休み」
頭を撫でてやり、ガレージを出て今度は力づくでシャッターを下げる。シンテンオウも最後に一鳴くと、スリープモードに移行するのがシャッターを閉じる瞬間に見えた。
「…さてと」
再びロックが掛かった事を確認し、気を引き締める。むしろここからが本番だ。生垣に空いた唯一の出入り口の門前に戻ってくると、もう一度家を一望する。オイルのリビドーが速くなったり遅くなったりした。
今からこの家に帰らなければならない。メモリーがないせいで他人の家にしか思えないここに、だ。
一応確認しておこう。モニターのプロフィールを開くと家族構成が記載されているが、両親と兄と弟妹のみの構成となっている。しかし父さん以外は顔も名前も覚えていない。そしてオレは家族と仲良く過ごせるのかがとっても不安だ。容姿もだし、昼に顔合わせもしていないので改造後のオレの姿が認知されていないのもあるし、何より昔のオレが外道だったので家庭内でどういう扱いだったのかも非常に気になる。
…いや、だからこそ行くしかない。それらを清算するのも、今のオレの役目。
それにヤヨイが、オレの言葉を言いなおしてくれたじゃないか。
「オレはオレでしかない」
真理を呟いて門を押し開け、玄関前まで進む。左は小さな庭になっており、ベランダからの光に照らされるように「エゾ」と書かれた大型犬用の犬小屋があったが、中は空。
とにかく。
「た、ただいまっ」
鍵が開いている事を確認し、上擦った声で玄関扉の取っ手を引く。ちりんちりん、と上でドアベルが鳴った。
外観から想像できていたやや広めの間取り。下を見ると一足の靴もなかったが、右の靴置きにはそれなりの数が収納されていた。
奥の台所から料理の匂いと、包丁でまな板をリズムよく叩く音がするので誰かがいる…いや、その人が火を止めてこちらへ来るのがスリッパの足音で分かった。
さあ、如何な者が出てくるっ⁉︎
「おかえりなさぁい」
…すっげえ美少女が出てきた。なんだこの人、なんだこの人っ。
姉? いや、姉なんてプロフィールにはなかったし…
妹? でも、オレよりほんの少し上くらいだし…
母親? え、父さん流石に犯罪じゃねえか?
「メノンよね? グレンさんから記憶がないって聞いてるわ。だから、ちょっと変だけど自己紹介するわね」
エプロン姿の似合うその人は父さんの名前を出しながらオレの前まで来た。ヤヨイの髪より更にきめ細かいブロンドの長髪に目が釘付けになる。あとエプロン越しでも分かる巨胸…ああオレって不純っ。
「私はシオン。あなたの母親よ」
そう言ってぺこりと頭を下げる。やっぱりオレの母さんだった。うっわ緊張する。
「え、えっと、よ、よろしくお願いします母さんっ」
「うん。ご飯ができるまでもう少しかかるから、それまで家の中を見てるといいわ。何か思い出すかもしれないでしょ?」
「は、はいっ」
「ふふ」
カッチカチなオレに笑みを浮かべ、母さんはスリッパを鳴らしながら台所へ戻って行った。姉かと見紛う若い美少女に母さん付けするのはこっぱずかしいが、慣れなきゃな…。
「…あとは、兄と弟妹だっけ」
あんな美麗な家族ばかりだったらどうしよかと不安になりながらとりあえず靴を脱ぎ、靴箱の適当な場所に入れて、代わりにサイズの合う黒いスリッパを履いた。1歩敷居へあがったその場から首を回す。
「オレの家…ね」
右には無骨な鉄の扉、真ん中には母さんが戻って行った台所と階段と廊下。天井を見ると2階の手摺からここを覗けるような作りになってるが…当然記憶はない。
とりあえず廊下を歩いて行くと、左はリビングになっていた。入ってみると左にテーブルとソファーとテレビ、右は食卓、その先の台所は繋がっており、料理に励む母さんがいたので、オレは心を落ち着けながら尋ねた。
「母さん、オレの部屋ってどこ?」
よし、大分気恥ずかしさが減ったぜ。
「2階の奥の部屋よ。ドアに目印があるからすぐに分かるわ。布団は干して床は掃除したけど、それ以外は2ヶ月前のままにしてあるからね」
「ありがとう」
母さんは微笑んで料理を再開した。メニューはカレー、いやビーフシチュー。美味そう、なんだろうな。
「あの、母さん」
「分かってるわ。メノンにはスペシャルメニューを用意してるから、楽しみにしててね!」
「…あ、うん」
包丁で危なっかしく人参やらジャガイモを刻む母さんを尻目に、オレは生返事して台所を去った。一般食材を受け付けない事を言い出せなかったが、仕方ない。あんな笑顔で言われたら。
「…食っても死ぬわけじゃあないし」
言い聞かせるように呟き、階段を登った。
左右へ別れる廊下になっており、それぞれドアが二つ三つずつ。とりあえず右に行ってみようか。
最初のドアには「久音私室 立入禁止」という血の涙を流す髑髏を模したドアアクセサリーが打った釘からぶら下がっていた。それより奥の部屋は分厚い鉄の表面に「書斎」と書かれた簡素なマグネットが貼り付けられており、手前の右の扉はトイレ。反対の方だったようだ。
戻ると、3つ目の部屋は「廻音の部屋」と書かれた雲のアップリケが貼りつけてあった。という事は、この奥がオレの部屋か。
最後の部屋のドアには同じく「歌音の部屋」という前の2つに比べて名前だけの簡素なアップリケが付いている。ここで間違いない。クオンとかネオンはオレの兄か弟か妹だろう。部屋数が1人分足りないが、今は置いておく。
オレは冷たいドアノブを回し、全くメモリーにない部屋へと足を踏み入れた。
「…殺風景だ」
横のスイッチで明かりを付け、中を拝見して思わず出た感想が、それだけだった。
部屋は9畳程の広さで、正面にはベランダ、左の壁には窓がある。入り口のすぐ左にはクローゼットが設置され、窓の下には整えられたベッドと布団があり、天井の隅にはエアコンがあった。ベッドの反対にはちんまりとした学習机が壁に接し、机上には教科書、ノート、プリントが粗雑に置かれ、シャーペンと消しゴムが1セット並んでいた。
驚くべき事に、それ以外は何もなかった。本やテレビなどの一般的な娯楽物もなければ、何かに没頭している物や証もない。飾り棚やティッシュ箱やゴミ箱すらもないので、オレの肌のように無機質で、生きている痕跡がまるでなかった。母さんの掃除とベッドメイキングもこれでは逆効果だ。
とりあえずドアを閉める。他人の部屋、他人の私物にしか思えないが、ここがオレの部屋。オレの…部屋。
色々詰まった紙袋を椅子に置き、白無地のカーテンと青いブラインドで夜を隠す。机の上のプリントはコウキュウ中学でのバザー開催告知プリント。開催日は3月15日。教科書は中学の地理、英語、生物科目のもので、裏にはオレの名前が書いてあった。
ふと思い立ってシャーペンを手に取り、その横に同じように名前を書く。
機械 鳴音 という名前が縦に2つ並んだ、が。
「…汚い」
昔のオレの字はまるで機械で入力したような正確さが出ていたが、なるだけ丁寧に書いた今のオレの字は止め跳ねはしっかりしているものの、乱雑。3年B組だったノートを開いてみると、全ての字が精密機械顔負けの綺麗さで並んでいたが、他人の字にしか見えねえぜ。
引き出しを開けてみる。中には小学校の教科書が詰まっていた。何かないかと漁るが、出てくるのは教科書とノート、プリントだけ。字は全て昔から変わっていなかった。
「…昔のオレは、何だったんだ?」
引き出しを閉め、生活感がまるでなかった自分に問いながらクローゼットに近付く。
開けると、僅かな服、コート、ジーパン、コウキュウ中学の制服一式がハンガーからぶら下がっている。制服は使われた形跡がないのでおそらく予備。どれも今のオレには小さくて着れない無用の長物に成り果てていた。昼着ていった服は父さんが用意していたものだが、ここに並んでいるもののセンスから察するにオレの趣味を反映して準備していたものだろう。全体的に赤っぽいし。
下にプラスチックのタンスがあったのでしゃがんで引く。1番下には下着類と寝間着、2番目にはトランクス、1番上にはダンボールで区切って靴下とハンカチが詰まっていた。ハンカチ以外はもう使えないサイズ。
他にめぼしいものは何も…
「…?」
クローゼットの隅に何かがあったので引っ張り出す。
「なにこれ?」
それはマイクスタンドと、付随しているマイクだった。所々剥げかけている銀メッキの塗装と侵食する錆は年代物である事を示している。スキャンすると内部の精密機械はとっくに寿命だった。
「ギターとかならまだしも、なんでマイク…あ、あった」
更に奥に真っ黒なギターケースを見つけた。引っ張り出すと埃が舞い、表面の汚れを払ってベッドに置く。オレはギターをやってたのか。覚えてねえぜ。
そこそこ頑丈なケースを開けると、中にはやはり年代物とおもしきギターが入っていたが。
「壊れてるね」
ギターの事はよく知らないが、損傷が激しいうえ弦がないのでアンティークにすらならない不良品だった。貴重なものかと思ったが、安っぽいシールで5000円と値段が付けられているので、ますますこんなものを持っている理由が分からない。
ピック発見。赤黒い表面に黒でバンド名が印されていた。THE CLONING。
「クローニング…?」
これがヤヨイの言ってたオレが嵌っていたバンドなのか。それにしたって、多分このバンドモデルのマイクやギター持ってる割にCDとかポスターとかを集めてないのは…?
「…ま、いいか」
昔のオレは人に理解されない趣味を持っていたらしい。ギターケースとマイクスタンドをクローゼットに戻し、オレは部屋をもう一度見回す。
やはり、ただ一つだけ乱れた机が気になった。
「掃除しよう」
制服や体育着をハンガーに掛けてクローゼットに収納し、紙袋に押し込んでいた私服を再度着込んでコートを椅子に掛ける。もう使わないであろう中学の教科書・プリント類を1番下の大きな引き出しに纏めて押し込んでいると、違和感に気付いた。
「…主要教科のがない」
国語や数学といった必須科目の教科書、ノートがどこを探してもなかった。ほぼ毎日授業があるそれらを仕舞う筈はないし、そもそもコウキュウ中学の鞄が部屋にない。シャーペンと消しゴム以外の、予備のシャー芯や赤ペンが入っているであろう筆箱すら見当たらないのはおかしい。
ここにないという事は、例の校舎爆発事件で紛失したのか…? それなら納得も行くが…。
そんな事を考えながら紙袋から教科書・ノートを取り出して本立てに置いていると、ドアが控えめにノックされた。
「はい」
条件反射で声を出す。ゆっくりとドアが開かれ、中学生くらいの少女が姿を現した。
多分オレの妹だ。髪型はボブで丸眼鏡を掛け、それ越しの理知的な瞳がオレを見ていたけど、垂れ目が少し色っぽい。外はまだ寒いからか黒いブレザーの上から蒼色のロングコートを着ている。部屋に戻る前にオレの所へ来たみたい。
ただ、母さんとは異なり髪の色はプラチナブロンド。
「メ、メノン…お兄ちゃんん?」
オレを見て怯えているのか、ドア半分から出てこようとはしない。当たり前か。
椅子ごとドアへ向き直る。
「うん。オレはメノンだよ。母さんから聞いてる?」
「うんん。記憶がなくなってるっていうのも、知ってるよぉ」
「オレの事、怖い?」
「そ、そうじゃないよぉっ」
語気を強めてドアの陰から出てきた。
「お母さんから、かなり性格が変わったって聞いたからぁ…」
「そうだね。だから、オレは昔のオレじゃないんだ。残念だよね」
「いや、その、なんていうかぁ…」
なんとなく次の言葉が分かった。
「昔よりまともな性格になったから、その、違和感がありまくりでぇ…」
…だ、そうだ昔のオレ。ともかく。
立ち上がって妹の前まで行くと、結構な身長差があったので中腰になって目線を合わせる。大体150センチかな。不気味な様相のオレに怖がりながらも視線を外そうとしないのは健気で、親しみが持てる。
「これが今のオレだよ。よろしくね。妹の…」
「あ、ネオン。ネオンだよぉ。これからよろしくね、お兄ちゃんんっ」
「よろしく、ネオン」
お兄ちゃんらしい事をしようとして、握手はなんか違うと思い、そっと頭を撫でてやるとネオンはくすぐったそうに笑った。少しは安心してくれたようだ。
兄として、優しく接しよう。
ネオン来訪から数分後、新しい教科書に名前を書いていると再びノックがあった。さっきより力強い。
「はい」
ゆっくりドアが開かれ、ネオンと同じ年頃の少年が顔だけ出した。こっちは弟だろう。
髪はやはりプラチナブロンド、なのだが前髪が鼻の辺りまでストーンと降りているので瞳が見えない。口もへの字で固定されている。それ以外の髪型や顔パーツはネオンとほぼ同じなので…双子かな?
「…兄貴?」
やや陰気な性格なのか、それとも変わったオレに違和感を感じているからか、ドアの陰から出てこようしない。瞳が判別出来ない分、威圧感が出ていた。
「うん。オレ、メノン。母さんから話は聞いてる?」
「把握済」
「そう。記憶がない事も?」
「勿論」
そのまま問答を続けているが、口数は少なく自分から喋ろうとはしない。どう考えてもオレの事が嫌いな感じだ。
「えっと、オレの弟だよね? 名前は?」
「久音」
「あ、クオンね。オレの事、嫌い?」
「否定!」
急に強く叫ばれ、ドアが勢いよく開かれた。鮮やかな赤い生地に黒い羽があしらわれた派手なロングコートを着たクオンはオレの前まで来ると、表情の読めないまま椅子に座ったオレを見下ろす。
「もしかして、急に変わったオレに違和感があったから?」
「正解」
ネオンと同じだったらしい。立ち上がって目線、が分からないので微調整して前髪を見た。160センチくらい。
「オレはメノン。これからよろしくね、クオン」
「兄貴!」
「おおぅ」
がばっと抱きつかれた。クオンは結構情熱的で、意外と素直だ。
兄として、弟の手本となるような男になろう。
クオンが去ってから数分後、教科書に名前を書いていると3度ノックされた。お、ついに兄ちゃん登場?
「はい」
「お兄ちゃんん」
ネオンだった。暖かそうな私服姿で、どこか嬉しそうに笑っている。
「どうしたの?」
「お母さんが、ご飯できたってぇ」
「あ、うん。分かった」
作業を中断し、オレはネオンと共に一階へ。途中、階段の降り勝手がわからず落ちそうになりネオンに笑われた。
リビングから食卓へ行くと、既に母さんとクオンが席に着いていた。クオンも私服になっているが、白いTシャツに短パンというラフさが凄い。例えるならカッコいい俳優のめっちゃだらしない姿を見てしまった感。オレを先導してきたネオンはクオンの隣に座る。卓上にはビーフシチューや白飯、野菜とフルーツの盛り合わせなどが並んでいるが、エプロンを外した母さんの隣の席に、どう見てもオレ専用の食事が用意されていて驚いた。
「メノン、ここがあなたの席よ」
母さんがぽんぽんと椅子を叩く。素直に席に着き、残りの2人の事を聞いた。
「父さんは?」
「さっき遅くなるって連絡があったわ。先に食べましょう」
「じゃあ、兄さんは?」
3人がとっても不思議そうにオレを見た。なんだよ。
ややあってそれぞれ恐る恐る、
「…うちは5人家族よ?」
「お兄ちゃん、メモリーが消えただけじゃなくて破損してるのぉ?」
「兄貴大丈夫?」
と嘘偽りのない純粋な眼でオレへ説明してくれた。真面目に知らなくて真面目に心配してくれているのが辛すぎる。
「ごめん、ちょっとデータが正確じゃないのかも」
と誤魔化し、一応プロフィールの兄の項にクエスチョンを付けておいた。
「ふふ、しっかりね」
母さんが手を合わせると、クオンとネオンも合わせたのでオレも慌てて手を合わせた。
「いただきます」
「いただきますぅ」
「感謝」
「い、いただきます」
一瞬遅れてオレも生命に感謝した。しかし、オレの前に置かれているのは厳密には生命ではない、物質達。
丼に盛られていたのは、五寸釘とボルト、ナットが入り混じった山。それにドレッシングとして掛けられた油がグツグツ煮だって蒸発し溶け付いた、言わば猫まんまに近いものだった。
もうなんかすっごい美味そう。ていうか絶対美味い。思わず溶熱涎がじゅるり。横の耐熱コップには冷えた工業用アルコールが並々と注がれている。これもやばい。
「ごめんね」
横の母さんが何故かオレに謝ってきた。
「ど、どうしたの?」
「ドレッシングはガソリンが良かったでしょう? でも匂いがキツいから、それで我慢してね」
「何を言うんだよ母さん。こうやって食卓囲んでくれてるだけでも、オレは大満足だよ!」
力強く断言すると、母さんが和かに微笑む。すげえ、聖母みたいだ。
「…? なあに?」
おおっと見惚れてた。照れ隠しに食事にありつこう。
早速、用意されていた鋼鉄製の箸を用いて五寸釘の1本を挟んで口内に入れ、噛み砕いた。じんわりと味が口に染みわたる。
「…うっまい」
思わず感想が漏れた。この歯応え、研磨された鉄の味は正に極上。昼間食った手裏剣も中々だったが、やはり一流品は違う。頬が融解しそうだ。
「お兄ちゃん、美味しそうぅ」
ネオンがビーフシチューを味わいながらオレを見て呟く。しかし、今のオレは食べるのに、噛み締めるのに夢中だった。
「不思議」
「そうだねぇ。以前はああいう感じで食べてなかったよねぇ」
昔のオレは罰当たりだ。こんな美味いものを食べてて美味しさを露わにしないなんて。
「どんどん食べてね!」
母さんもオレの反応に嬉しそうに、おかわりを勧めてきた。
あっという間に、1杯。台所の奥に設置された特性鉱炉からお代わりを注いでこられて2杯、
「ふぅ、ご馳走様」
アルコールを飲み干し、オレは掌を合わせる。昼に手裏剣しか食べてない事もあり、3杯もおかわりしてしまった。眼前ではまだ3人がビーフシチューを食べ終わっていない程の猛スピードで。もしくはオレの食べっぷりにびびっていたのかもしれない。
「もういいの?」
「うん。ありがとう母さん」
合金製の丼に箸を入れて立ち上がろうしたが、母さんはオレの手からひょいっと取った。
「私が持っていくわ。ゆっくりしててね」
「ありがとう。でも母さんこそ、座ってていいよ」
耐熱合金とはいえ、あの丼を素手で持つのは危なっかしくて見ていられなかったので、オレは丼を取り返して台所へ回った。
「ありがとう、メノン」
お安い御用。
鉱炉の前に丼を置き、食卓へ座り直すとネオン達が話しかけてきた。
「食べたねえ、お兄ちゃんん」
「兄貴健啖」
「…再起動直後から何も食べてなかったからね」
そういうのをすっ飛ばして、シンテンオウを叩き起こして、どんだけ高校に行きたかったんだオレは。
「そういえば、どこに行ってたのぉ?」
ようやくビーフシチューを食べ終わったネオンが尋ねる。母さんが戻ってきて食事を再開した。
「高校入学に行ってきたよ。ニュウタ学園に」
「にゅうた?」
「今年4月から新設された学園で、無事入学できたよ」
「え? お兄ちゃん、中学校中退でしょぉ? よく入れたねぇ。お父さんのコネで裏口ぃ?」
「こら」
ブラックジョークを口にしたネオンに、母さんが優しく突っ込んだ。
「いや、なんか能力のある人間なら入れるとこで、オレはマシーンロイドだから1発合格した」
「流石兄貴」
「面白そうなとこだねぇ。私も来年はそこに行こうかなぁ」
「2人共、中3?」
「肯定」
「どこに行こうか決めてないけど、そこでもいいかなぁ」
随分やっつけに決めるんだな。
食後、オレは自室へ戻りベッドに寝転んだ。ふかふかの布団にズシリと沈み込み、喰った金属を栄養に各部のメンテとマシン細胞の成長をモニターで確認しながら天井を眺める。白い。オレの肌よりかは白くないか。腕を顔の前に持ってくると、白さ対決はやっぱりオレの勝ちだった。
室内は静かで冷えていたが、そんな事を考えるくらいオレの心は対照的に熱気で満たされていた。暖かい家族との交流で。
「…皆優しいなあ」
母さんも、ネオンも、クオンも、オレを家族の一員として迎えてくれた。それが息子・兄として見ていたのか躾のできたペット扱いなのか、そんなものは最早どっちでもよかった。
「…ヤヨイも」
彼女の笑顔には、特に胸の内から何かが湧き上がる。それが何なのか、何故かは分からない。
ただ、オレはヤヨイの笑顔を見る事に、達成感にも似た感覚を呼び起こされてる。
「オレも頑張んなきゃっ」
上半身を起こし、奮起する。
この恵まれた環境で、失った記憶の代わりに覚える事、学園生活、家族との触れ合い、全てにおいて堪能し満喫するのだ。
「先ずは明日だ!」
全身に希望を詰め込みながら力強く立ち上がった。
「…明日の時間割りが分からない…」
両手で顔を隠して絶望に座り直した。完全に忘失してたぜぇ…。
「…ヤヨイに聞いてみようかな…?」
モニターの時間は22:23。高校生ならまだ起きてる時間帯だけど…。
とりあえずメールにしておこう。
『起きてる?』
と送る。返信が返ってくるま『起きているとも!』返信早いな! めちゃくちゃびびったわ!
落ち着きを取り戻し、メールを返そう。
『明日の時間割り教えて欲しいんだけど』
『明日は現代、数学、地理、物理、生物、美術だよ』
やっぱすっげえ早い。
『ありがとう。予習と準備しておくよ』
返信しながら机の本立てから教科書を選んで、はたと気付く。適当な鞄がない。母さんに聞いてみるかと思ったその時、かなりいいアイディアが浮かんだ。
『ノン君は熱心だね』
『ヤヨイ、鞄って自由らしいけれど大きさとかも?』
『机の横に掛けておけるなら特に問題はないね』
『ちなみに一番大きな鞄持ってきてる人ってどれくらいの大きさ?』
『ゴルフバッグ背負ってくるのがいるね。当然横になんぞ掛けれないので後ろの棚に置いているが、特に問題はないよ』
『ありがとう。あと購買ってある?』
『勿論あるとも。明日連れて行ってあげるよ』
『ありがとうヤヨイ。また明日ね』
『ホームルームは8時半だ。遅刻しないでくれたまえよ』
ヤヨイとのメールを終え、さっき浮かんだアイディアを実行すべくクローゼットからギターケースを引っ張り出した。
工作を終え、溜息を吐きながら部屋を出る。
「なんでサイフすらないの。母さんに小遣いせびらないと…」
部屋に現金の類がなかった。クローゼットの衣服も漁ってみたが収穫なし。となれば、明日購買で文房具を買う為の資金を母さんから受け取らなくてはならない。しかし辛い。
いや、小遣いをねだる事もだが、多分母さんはなんの躊躇もなくオレに小遣いをくれるのが目に見えて、それに対する罪悪感が半端なかった。しかし、財布すらないとか昔のオレは宵越しの金は持たない主義だったのだろうか。若しくは人に奢らせてばっかの最低野郎だったのか。
リビングに戻ってくると、食卓でスーツ姿のままビーフシチューを食べる父さんがいた。
「おかえり父さん」
「おうメノン。学校は決まったか?」
「うん。明日から早速通う事になったよ」
「そりゃあよかった。起動直後の剣幕から、殺されるんじゃないかと父さん冷や冷やしてたんだぞ」
「流石に父さんをボコボコにするのは気が引けるよ」
許さんけど。
「丁度よかった。母さんには頼み辛かったからね」
「どうした?」
オレは父さんに両手を差し出して頭を下げた。
「父さん、お小遣い下さい」
「おお、そうだな。メノンも高校生になって色々入り用になったことだし」
よっしゃ。
着ているスーツのポケットを漁りながら父さんが嬉しそうに笑うが、多分父さんの高校時代にも相応に楽しい事があったんだな。
「それに、マシーンロイドで中学中退って経歴でこの容姿じゃあ、バイトも碌に見つからないと思うから」
客観的に自分を見ると、どうしようもなかった。あくまで悲観せずに言ったので、父さんはそうだなと素直に肯定しながらこう言う。
「そういえばファイトスキルも忘れているのか?」
ファイトスキル、て昼間以降全然確認してなかった。
「うん。ロケット・フィストだけ覚えたけど、他はまだ覚えてない」
「設計者としてアドバイスしといてやる。基本スキルは一通り覚えておけ。便利だぞ」
「というかこういう物騒な能力付けなくてもよかったんじゃ」
「何を言う。要は使い方次第だ。日常生活も楽に暮らせるぞ」
…確かに昼間はマシーンロイドたる証拠を見せる役に立ったけども。
「じゃあ覚える」
開発者(父さん)の言葉には従っとこう。モニターのファイトスキルへ飛び、基本スキルに表記されている奴を片っ端から覚えていく。
コードV:マックス・ストレイションを習得。
コードN:エビル・スラッシャーを習得。
コードF:ヒート・アディションを習得。
コードP:レッド・インパルスを習得。
……………
「父さん、一応全部覚えたよ」
その中で最も分かりやすいと思われるエビル・スラッシャーを見せる事にする。右手を手刀の型にしてマシン細胞の形質を可変させていくと、指先から肘までが伸びて細く鋭く可変し、人口皮膚も適応して極限まで薄くなり、刃渡り90センチくらいで白銀色のすらりとした両刃の剣が形成された。
「うむ、設計通り」
袈裟懸けにぶんぶん振り回すと、父さんは満足気に頷いた。自分の造ったものが上手くいけば嬉しいだろうな。
「父さん、基本スキルを習得した後に能力向上のスキルが追加されるんだけど、スキルポイントってどうやったら増えるの?」
ファイトスキルに『エビル・スラッシャーの斬れ味、形成速度の向上 80P』というのが追加されたが、既に残ポイントはたったの2しかなかった。
「そりゃあお前、ファイトスキルだから闘って貯めるしかないだろ」
「いや、そりゃあそうだろうけどさ」
闘う機会なんて滅多にないぜ。
しかし父さんは財布をポケットにしまうと、よしっ、と食事を切り上げて立ち上がった。
「父さんについて来い」
玄関入って右にあったのは地下への扉。ガレージや改造部屋の更に下へ連れて行かれたオレは、縦1200メートル、横1500メートルという規格外のトレーニングルームに我が目を疑う。
「ここに来るのも久し振りだな」
「…何の目的で作ったの」
大理石でできた壁天井に幾何学的な模様が描かれており、操作で様々なシミュレートが可能なシステムを組み込んであるのが分かった。これならあらゆるトレーニングに対応できる。
「このトレーニングルームなら幾ら戦ってもOKだ」
確かに。頑丈に作ってあるのがスキャンしなくても分かる。それに。
「ん」
壁を右裏拳で殴りつけると、手首のスナップの分だけ壁が抉れた。あっさりと砕けて形成された黒い穴、しかし手を退けると瞬く間に修復されて元の白い壁に戻り、落ちた破片も床へ溶けるように吸収されていった。やはり高性能な自己修復機能が搭載されている。
「どうだ?」
「凄いけどさ、相手がいないよ父さん」
「うん?」
「オレとまともにかち合える奴はそういないし、もうこんな時間だし」
…昼間一時的にオレをダウンさせたキツは置いておくとして。
父さんは歯を見せて笑った。
「安心しろ、俺が直々に相手してやる」
「へえー、父さんが……えっ!?」
なに? 冗談?
「俺もマシーンロイドをベースに自己改造してあるんだが…その顔は忘れてたな?」
さらっととんでもない事を告げる父さんは右手の関節を鳴らし、大きく息を吐いた。嘘ではないみたいだけど、外見からは全然分からない。
「ほ、本当なの?」
「戦えば分かるだろう」
オレの疑心を払拭すべく、父さんは拳を握ってスタンスを広げる。黒いスーツ姿のままだが、それが異様に似合っていた。
風呂上がりのネオンは自室にて明日の学校への準備をしていた。宿題をぱっぱと済ませた彼女は久しぶりに会った兄のメノンが気になって部屋へ行ったが不在であり、1階のリビングへ降りて来るとソファーでワインを嗜んでいたシオンへ尋ねた。
「お母さん、お兄ちゃん知らないぃ?」
「お父さんが地下のトレーニングルームへ連れてったわよ。鍛えるんですって」
「ふーんん。ちょっと見てくるねぇ」
ネオンは玄関横の地下への扉を開き、ライトに照らされた不自然な程白い壁の通路を進み、改造部屋やガレージを通り過ぎて奥のエレベーターに乗る。階数はB1とB1500とB6666のみであり、真ん中のボタンを押すと高速エレベーターは10秒もしないうちに彼女をトレーニングルームへと誘った。
開かれた扉の前に設置された階段を登った彼女の眼前に現れたトレーニングルームでは、
「いがががぁあががぁぁぁあ‼︎」
「もう終わりかっ? だらしねえなあ!!」
父であるグレンが全身から黒い煙を吹き上げながらも豪快に笑い、兄であるメノンが本気の苦痛に喚き散らすのを気にも止めず、完全に極まったコブラツイストを炸裂させているところだった。
それを見てネオンは、
「楽しそうだなぁ」
ともがき苦しむ兄のけたたましい悲鳴を聞きながら微笑む。
その脳裏には、たった1人で黙々とトレーニングに励む、嘗ての兄の物悲しい姿が刻まれていたのだった。
父さんめっ。
「んぐぐぐ…」
自室にて、内部機構がひん曲がった首の関節をメキャメキャ鳴らしながら自己修復し、ようやくすわりが戻ったのを確かめたオレは用意していた濡れタオルで体を拭き終わると制服に着替える事にした。
時刻は6:30。父さんのファーザーハートフルボッコミュニケーションは5時過ぎまで続いたが、はっきし言って地獄だった。ファイトスキルを駆使したマシーンロイドのオレを、高笑いながら真正面から叩きのめした父さんの性能は半端じゃねえ。
「…ま、いいけど」
自己修復は完了したし、スキルポイントも500くらい溜まったし、それに。
「…あんなにいらなかったんだけどね」
机の上には父さんから貰った革の財布があり、中にはお小遣い10万円が入っている。まあ色々と入り用にもなるから、有り難くいただいておいた。ありがとう父さん。
許さんけど。
着替えよう。サイズの合う服がないので父さんの下着とトランクスを拝借してきた。靴下は伸縮性のあるやつを強引に履く。
「さって、と」
着込んだ予備の制服ポケットに財布とハンカチを入れ、ギターケースを背負って部屋を出た。リビングに着くと、既に母さんが制服を着たネオンとクオンに朝ごはんと味噌汁を振る舞っていた。二人共黒いブレザーなのでコウキュウ中学のものか。昨日着いた席へ当然のように置かれた、赤熱したボルトの山が盛られた丼を見て自然と頬が緩む。
「おはよう」
「おはようメノン」
「おはようお兄ちゃんん」
「御早兄貴」
オレはケースをリビングの出入り口横に立て掛けて、丼の前の椅子に座る。早速母さんが湯気の立つ液体の入った耐熱コップを置いた。この匂いは…
「これ、軽油?」
「当たりっ」
ときめくようなウインクは止めてくれ母さん。顔を丼に逸らしながら、
「本当にありがとう母さんっ」
と赤い顔で言うしかねえじゃん。
「うんうん、いっぱい食べてね」
…この歳で頭を撫でられるのは恥ずい。まあ家族の前だから別にいいか。クオンとネオンも気にしてないみたいだし。
「ごちそうさまぁー」
「御馳走様」
二人は急いでいるのかさっさと食べ終わり、ソファーに掛けていたコートをそれぞれを着ると置いていた鞄を持ってリビングから出て行こうとして、立て掛けたギターケースを見つけて止まった。
「何?」
「お兄ちゃーん、これお兄ちゃんのぉー?」
「うん、オレのだよ。鞄代わりに使おうと思って」
二人は納得したのかしてないのか分からないが頷き、
「行ってきまーすぅ」
「登校」
とオレと母さんに手を振って地下への扉に入って行った。
「行ってらっしゃーい」
「気をつけてね」
という言葉は閉まった扉に受け止められる。
「いただきます」
腹が空いていたのでボルトを指で摘み、ボリボリ齧った。痛みも熱もジュウウウという音も、この皮膚からは感じない。都合のいい感覚だけが通るようになっている。
「なんで地下に行ったの?」
「自転車通学だからよ。コウキュウ中学は遠いから」
そういえばガレージに自転車が数台あったっけ。
「オレも自転車で通ってたの?」
「メノンはシンテンオウに乗って登校してたわよ」
乗って? …成る程。昔のオレはそこそこ小さかったので乗れたらしいが、あんな目立つメカに乗ってたらブラッディアルバトロスなんて名付けられるのもしゃあなしか。
クオン達の食器を片付けた母さんはオレの前の席に着き、カップへティーポットを傾けた。色的に紅茶かな。
「メノンは時間、大丈夫?」
「あ、うん。まだ大丈夫。お代わり」
「はいはい」
オレはゆっくりと軽油を飲み干し、幸せに満ちる朝をメタル骨の髄まで堪能した。
「ごちそうさま。じゃ、行って来ます」
「待ってメノン、お弁当忘れてるわよ」
手を合わせたオレに、母さんが風呂敷に包まれたそれを両手で持ち上げる。あ、手がぷるぷるしてる。
慌てて母さんの手から受け取るが、ずしりと重い。更に水筒も用意してくれていたので、纏めてギターケースに入れた。
「無臭の素材しか使ってないから、味が悪かったらごめんなさい…」
オレの昼食のみならず、学園生活の心配までしてくれるのかこの人は!
「ありがとう母さん!」
満面の笑みを作る。かなり不気味だろうが、これが今の率直な気持ちなので偽りたくなかった。それを汲み取ってくれたのか、母さんは浮かない表情から笑みを浮上させると、オレへ手を振ってくれる。
「行ってらっしゃい」
「うん、行ってきますっ」
母さんに見送られ、オレはギターケースを背負い玄関を出る。
ウォンッ
「うぉ」
清々しい気分が犬らしき生き物の鳴き声で粉砕された。発信源の右を向くと、昨日空っぽだった犬小屋に白くてもふもふで馬鹿でかい犬が窮屈そうに詰め込まれ、こちらを睨んでいる。顔付きや眼は狼みたいだが、3メートルくらいの体長と毛並みで白熊に思えた。雑種だろうか。なんの雑種か分からんけど。
こいつがエゾか。挨拶しとこう。
「や、やあエゾ」
ウォンッ
「うぉ」
低い低音と吠える際に見える牙が怖い。しかもリードが付いていないのがめっちゃ不安。飛びかかってこないよな。
「こら、エゾ。メノンよ?」
母さんが見兼ねて玄関から顔を出してエゾを叱る。おお、エゾが萎縮するように耳を伏せた。母さんやるぅ。
「よ、よしよし、オレはメノンだよ。これからよろしくね」
ウォン
オレが自己紹介すると、エゾはトーンおとなしめに吠え返してくれた。すぐに理解したらしい。結構可愛いじゃねえか。
「じゃ、行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
ウォン
母さんとエゾに見送られ、家を出た。
学園までの路は既にインプットしてあるので1人で登校できるが、昨日の手前、一応シンテンオウの様子を見て挨拶しておこう。
裏のガレージに回り込み、昨日同様にセンサーに掌を当ててシャッターを開く。
「シンテンオウー? あれ?」
陽光で明るいガレージ内の、昨日シンテンオウを置いた台にオレ専用サポートメカの姿はなかった。ついでに自転車も2台ないが、これはクオン達が乗っていったからだろう。
「…オートモードでどこかに行ったのかな」
ま、いいか。今日は使う必要ないし。入り用なら連絡して呼び出せばいいか。
ガレージから出てシャッターを閉め、学園に向かった。
ヤヨイと別れた路の先、昨日通ったアーケードが見えてきたが、別の学校の小中高生が入り乱れる流れが出来ていた。入り口前に7:00〜12:00まで歩行者天国という看板が立っていたので、学生の波が道路を敷き詰めている。
そしてやっぱり、どいつもこいつも遠目にオレを見ては唖然とした表情で通り過ぎていく。しかしギターケースを背負う事でロックバンドのメイクと思わせるプランは成功したらしく、昨日の化け物を見るような目線は今の所ない。多分。
ねえねえ、今の人ってさ
通り過ぎた女グループが早速オレについてコソコソ言い合っているのがイヤセンサーに反応したので、急いで感度を下げて聞こえないようにした。影口とか絶対聞きたくない。オレのメタリックハートは繊細なんだ。
足早にモールを抜け、通学路に出た。時間は7:31。少し早いからか、ニュウタ学園の生徒は疎らにしかいなかったのでやや安堵。
「あ、ハタカセ、おはよう」
「んげっ」
聞き覚えのある女の声が不意打ちしてきた。オレは振り返って昨日会ったばっかのクラスメイト、ショウコに挨拶を返す。
「おはようキリウラさん」
「それ、ギター入ってるの?」
オレの隣に並んで歩き出し、背負ってるギターケースを尋ねてきた。やばい、クラスメイトの女の子と一緒に歩いてるってだけでも結構緊張するぜ。
「ううん、これ鞄だよ」
「え? 鞄?」
ショウコは自分の白いショルダーバッグを下から持ち上げたので、オレは頷いてケースを前に持ってきて蝶番を外した。大きな空箱と化した中には教科書と弁当と水筒が横に入っている。傍目にはただのギターケースだろうが、表面には劣化しない為のメタルコーティングを施し、内部には横向きに重力を発生させる装置を組み込んだのでお弁当の中身が溢れる事はない。他にも色々な改造を加えたので、今では様々な状況に対応できる万能ツールボックスと化していた。これで重さは据え置きなのだからお得である。
「外側だけなんだ」
「うん。これ背負ってれば、この姿でもちょっとは違和感ないかなって」
「あー、それはそうかもねえ。確かに凄いメイクのバンドマンに見える見える」
含み笑うショウコ。ウケてるが、そういうつもりでこれを持ち出したわけでは…まあいいか。
「キリウラさんはいつもこの時間に学園へ?」
ケースを閉じて背中に回しながら尋ね返す。
「うん。私は生物委員だからね、朝は養殖動物達に餌を上げなきゃならないから」
「へえー…ってことは、ヤヨイも?」
「うん。ヤヨイは委員長だからすっごい朝早くから学園に来て色々やってるね」
ほう。ヤヨイ、頑張ってんだなあ。
「ハタカセはなんか入んないの?」
「特に決めてないよ。どこかに入ろうとは思ってるけど」
「マシーンロイドだから、やっぱり機械工学部とか?」
「あ、それいいね。オレにはぴったりかも」
「やっぱりあれ? 機械とお話しできちゃうタイプ?」
「物によるね」
と中々楽しい雑談に花を咲かせながら、オレ達はニュウタ学園へと到達した。
「じゃ、部活棟こっちだから。またね」
「うん」
セキュリティーゲートを通った後、ショウコは西方に位置する部活が集まった敷地へ向かう為にオレと別れる。靴を履き替え、そのまま教室へ行こうとして職員室で担任に挨拶しておこうと思い直した。
「1階、1階」
昨日のヤヨイの言葉を思い出して左右を見ると、左の方に職員室と書かれた教札が見つかった。扉の前に立ち、ノック。
「失礼します」
返事は聞かずに開けると、中は沢山のデスクで空洞の長方形が描かれたよくあるタイプの職員室。既に何人か教師が来ており、オレを見てギョッとした顔をするのがちらほら。
とりあえず、一番近い所にいた女の教師に声を掛ける。
「あの、すいません」
「はい、なんでしょう?」
振り向くと、30代くらいの女の先生だった。ただしオレを見ても特に驚いていないご様子。肝が据わってらっしゃる。
「高等部1-A組の担任はいらっしゃいますか?」
「ああ、あそこの方ですよ。ヤブキ先生ーっ」
離れたデスクにいる、若い男性教諭に声を掛ける。男が反応し、立ち上がって自分を指差した。あの人か。
「あなたのクラスの子が呼んでいますよ」
男が近付いて来る…なぜ白衣を着ているのか。
「ウチのクラスの生徒?」
面倒くさそうに細められた目がオレを疑う。顔半分を隠すマスクと一纏めにされた長髪が、白衣と合わさって藪医者っぽい。
「はい。昨日付けで高等部1-Aに転入しましたハタカセ メノンと言います」
オレが自己紹介すると、ヤブキは何かを思い出すように瞳を右へ動かした。
「ああ、そういえば今朝ビサトから転入生のファイルが届いたっけ。ニイナ先生、ありがとうございます」
「いいえ」
ヤブキはニイナという女の先生に礼を言うと、自分の席へ戻っていくのでオレも後を追った。ヤブキが腰を下ろしたデスクは何故かカルテで溢れかえっており、そこから茶封筒を探り当てると懐から取り出したメスをペーパーナイフ代わりに封を切る。
この人、見かけ通りの医者らしい。
「えーと、ハタカセ メノン。マシーンロイドか」
取り出した書類は、昨日オレが書いてシンに渡したやつのコピー。
「あ、はい」
「オレはヤブキ リョウジ。格好で予想ついたと思うが保健担当だ。顧問は医療部」
「はい。よろしくお願いします」
オレがぺこりと頭を下げるとヤブキは頷いた。つまりこの人が雇っている凄腕の医師。人は見かけによらないな。
「じゃあ朝のホームルームん時に転入生紹介するから。教室では空いてる適当な席に座ってろ」
おお、これは夢の自己紹介のパターン。オレの容姿に気を遣ってくれたと見える。
人は見かけによらないな。
「ありがとうございます」
きちんと礼を述べる。
さて、用事は終わった。教室に行くべきかヤヨイに連絡取って購買紹介してもらうべきか。
回れ右する前に、ガラリとオレが入ってきた扉が開かれる。
「お、ワダツミ」
ヤブキが反応したので、オレは咄嗟にそいつを見た。
群青色の着物と黒い袴を履いた同年代の少年が、扉に手を添えていた。衣服より濃い紺色の髪を耳で切り揃えており、細っそりとした体躯と合わせて古風な感じを漂わせている。ただ、目は細目、というか糸目で、口角が少し釣りあがっているので、のっぺりと微笑んでいる様にも見えた。左上腕に高価そうな白銀の腕輪をしているが、表面に青い鱗のような模様が彫られている。
ワダツミと呼ばれたそいつはヤブキに向かって来た。当然その横にはオレがいたが、
「どうも」
「あ、うん」
こともなげに挨拶してきたのでオレは条件反射で頭を下げて退いた。
よく見たら着物じゃなく、アレンジされた制服だった。とすると、こいつも生徒会役員か。
「遠征から戻ったので報告に来ました」
「ご苦労さん」
ヤブキは全く心のこもってない労りの言葉をかけると、丁度いいとオレを見た。
「ワダツミ、ウチのクラスの転入生ハタカセだ」
「え?」
ワダツミがゆっくりとオレに振り返る。糸目から察する事は出来ないが、オレを見た筈。
「ハタカセ、ウチのクラスの学級委員長のワダツミだ。仲良くしろよ」
ヤブキのお膳立てに乗じるべく、挨拶しておくとことにする。
「ハタカセ メノンといいます。これからよろしくお願いします」
オレは軽く頭を下げてワダツミを見る。呆気に取られていたワダツミは、しかし姿勢を正すと同じ様に頭を下げた。
「僕はワダツミ オボロ。こちらこそよろしくお願いします、ハタカセ君」
うん、丁寧な奴で良かった。
「では先生、僕はこれで」
「おう」
ワダツミはもう一度頭を下げると職員室から出て行った。
「礼儀正しい人ですね」
「折紙付だ」
認知されているらしい。流石学級委員長。
オレはヤブキとニイナに礼を告げて職員室を後にした。
ヤヨイにメールでもするか。それとも先に教室に…
「あ、ハタカセ君」
「お」
扉のすぐ右にワダツミが立っていた。様子からするとオレを待っていたらしい。
「どうしたの?」
「ハタカセ君、昨日四神のヘビガミさんに勝ったんですよね?」
いきなりすっげえ平然と人の心を抉ってきやがった。
「え、あ、うん。オレは彼女に、一応勝利したけれど…」
決して口には出せないえげつない方法でなっ。
ワダツミが小さく頷く。
「ハタカセ君、僕とも戦ってくれませんか?」
うん意味が分からない。
「どうして?」
「僕も同じ四神の一、「青龍」として彼女と何度か戦いましたが、どうしても勝つ事ができませんでした。そんなヘビガミさんを下した君と手合わせしたいと思うのは当然だと思います」
いやあんな化け物と戦って勝てるわけねえだろ。オレの勝利はマシーンロイドの機能を利用した、ただの幸運だっつーの。
「いや、オレは闘いたくないよ」
当然拒否る。なんでまたクラスメイトと闘わなくちゃならんのだ。
ワダツミはやれやれと肩を竦める。
「なら仕方ありません。四神権限を発動する事にしましょう」
げっ! 昨日キツが発動したアレかっ!?
「待って待って!」
右手で左腕のリングをグッと握ろうとした動作を慌てて静止させる。
「はい?」
「い、今は止めて欲しいかな。出来れば放課後で…っ」
命乞いをしてみた。無駄と分かっててもとりあえずやってみるのが一番である。
「放課後ですか? 放課後は部活があるので…では昼休みでどうでしょう?」
……こいつめっちゃいい奴だな。
「う、うん昼休みにしようよ!」
「分かりました」
ワダツミはにっこりと笑う。交戦を避けられてほっとしたぜ。結局闘う事になるわけだがな。
「ではまたクラスで」
ワダツミはそう言って着物制服を翻すと去っていく。闘うのは嫌だが、話の分かる奴で助かった。
「おや」
「おっ」
廊下の角を曲がったワダツミは知り合いと鉢合わせしたらしく、話し声が隅から聞こえてくる。
「おはようボッ君。遠征から帰ったのだね」
あ、ヤヨイの声だ。
「おはようございますイキメさん。誰かお探しですか?」
「察しがいいね。実は、ノン君が既に登校したとショーちゃんから聞いたのでね。彼に購買を紹介する約束を交わしていたのだよ。ああ、ノン君とは、今日から我がクラスに転入するハタカセ家の御長男であり、」
「後心配なく。いつも貴方から聞いていましたから。大切な方でしたよね?」
「無論だ。ノン君はボクにとってこの世で一番好きな異性であり、この生涯において一生幸せにしなくてはならない別格にして最愛の人なのだよ」
…昨日のクラスメイトの会話から察せられたけど…ヤヨイ、お前そんな事人に吹聴しているのか。
「そこまでの覚悟とは…頑張ってくださいね」
「? ありがとう」
やり取りが終わった。廊下の角からワダツミの代わりにヤヨイが現れる。オレを見て、自信満々だった表情を紅桜色へ瞬時に染めた。
「ノノノノノノノノノン君⁉︎ そ、そんな所にいたのかい…」
…反応は分かりやすいけど、リアクションとり辛えよヤヨイ。
メタリックハートを落ち着かせ、平常心で切り返した。
「おはようヤヨイ」
「お、う、うむっ。おはよう!」
オレが微笑むと、ヤヨイはオレに見えない角度で、ふぅ、聞かれてなかったようだね、と呟いて汗を拭った。
何も言うまい。
「丁度良い。購買に案内しようではないかね。ついて来たまえ」
いつも通りの調子で鼻を鳴らし、ヤヨイは手を仰ぐ。素直に彼女の方へ歩いて行くとヤヨイは少し待ってオレの隣に並んで歩き出した。
「それがメールで言っていた鞄かい?」
背中のギターケースを指差された。
「うん。似合う?」
「ノン君らしいよ!」
力強いサムズアップ。
…褒められた、のか?
職員室とは反対の方の廊下の奥、自動ドアをくぐると上から来店音が流れた。
「コンビニだね」
防犯ゲートを通った先は、レジ台がない以外はまるっきりコンビニの内装だった。なんでアイスボックスとかATMもあるんだ。
「品数は遥かに豊富だがね」
買い物カゴを手に取り、ヤヨイは右の通路へ進んだのでついていく。アイスボックスを過ぎて雑誌コーナーに行くと、週刊雑誌の今週号がちゃんと並んでいた。勿論、成年向けコーナーはない。
「分具はこの辺りか。ノン君、選ぶといい」
左の棚を指差すヤヨイ。オレは礼を言ってしゃがみ、豊富な品揃えに感心しつつ必要な分具をカゴに入れていく。
迷彩柄の筆箱、黒いシャーペン、芯、消しゴム、黒ペン、赤ペン、定規、分度器、コンパス…
「他に何かいる?」
「それくらいでいいのではないかね」
必要になったらまた買いにくればいいか。
「ヤヨイは何も買わないの?」
「うむ、お菓子くらい買っていこうかね」
ヤヨイはカゴを提げたままするりと通路を曲がり、その後を追うと駄菓子やスナック菓子が並ぶコーナーだった。恐らくこの学園で作ってるオリジナル菓子類だろう。
「お、新作が出ているではないか」
ニュウタスナックソース味、というスナック菓子をカゴに入れるヤヨイ。オレも並んで見てみる。うーん、美味そうに思えない。食いたいとも思わんけど。
その後もヤヨイは数種類の駄菓子と、裏の惣菜とパンコーナーでも何点か突っ込んだ。チョコバターソーセージマヨネーズパンとか焼き芋のパンとかサンドウィッチとか。
「ヤヨイは結構食べるんだね」
「すぐお腹が空いて、困ったものだよ」
オレの文具が隠れるほど敷き詰められた籠に苦笑するヤヨイ。育ち盛りなんだな。
しかし体型はあまり太っていないので、どうやら栄養は…オレのスケベェめ。
「そろそろ清算しようかね」
「うん」
煩悩をデリートし、オレはヤヨイとレジらしき所へ向かう。そこには清算台と支払い機があり、カゴを乗せると検査機が一瞬でバーコードを読み取り、5620円と値段が表示された。
「オレが払っておくよ」
「えっ!?」
「えっ!?」
めっちゃびっくりしたのにびっくりした。なんだよ。
「ノン君、お金持っていたのかね?」
「うん。父さんから入り用に貰ったよ」
「そ、そうなのか…」
この反応からすると、昔のオレは小遣いを貰わなかったのか、人に奢らせてばっかの最低野郎だったのか、そもそも金銭価値に疎い奴だったのか。
…というかヤヨイ。さりげなくポケットに手を入れたが、まさかサイフを取り出そうとしてたのか? そしてお前が支払う気だったのか?
「ヤヨイ、昔のオレって君に金銭的な迷惑をかけていたの?」
「え? いや、そういう訳ではないが…なんと言うか、ノン君は貨幣に興味がなかったからね」
…昔のオレ、変な奴だな。
色々と疑惑が浮かんだが、とりあえず一万で清算を済ませた。お釣りは4380円。
「ありがとうノン君」
「オレの方こそ」
奥の台で商品のバーコードをぺりぺり剥がした。オレは買った物を詰めた筆箱をギターケースに入れ、ヤヨイはパンパンのビニール袋を持って購買を後にした。
三階の教室へ向かって階段を上がっていると、二階の廊下に受付のような席が設けられ、生徒達が集まっている。昨日はなかったよな。
「あれは?」
「写真部が昨日の四神戦の写真や映像を売っているのだよ」
へー。ちょっと行ってみよう。
会議とかで使う長テーブルの向こうには、マコトと数人の写真部員がパイプ椅子に座り、購買者の生徒相手に写真の売買をしていた。
「お、ハタカセ君にイキメさん、おはよう」
「おはよう」
「おはようマー君。盛況のようだね」
「うん。イキメさんもだけど、ヘビガミさんも華があるからね。ファンも多いし」
「あの忍者装束もポイント高いだろうしね」
談笑する二人を置いといて、テーブルに目をやる。戦闘前に佇むキツの写真が100円、しゃがんで艶かしい左太もものアップを捉えたのが200円、大きく開いた背中の写真が300円、顔と二の腕と脇を写した写真が400円で売り出されていた。どれも撮影技術は被写体と合わせて素晴らしいが。
「アコギだね」
消える瞬間の陽炎のようなキツの写真を手に取って呟くと、マコトは微笑む。
「これも立派な商売だよ。それにヘビガミさんの許可も得てるし、売上の5%を献上する算段なんだ」
本人公認かよ。
しかし、よくよく見ると見事な写真だな。あんな素早いのによくここまで鮮明に捉えられたもんだ。
「ノ、ノン君っ」
キツが天井で逆さになっている写真を見てると、ヤヨイが遠慮がちにこう言ってきた。
「ノン君も、こ、こういう格好が好きなのかね?」
格好? …ああ、キツの露出極まりない忍者衣装の事か。まあオレだって一応性別は男だから嫌いじゃないし、キツも顔は悪くない。体型の趣味もないからスレンダーでも全然いい。
が、それよりもっとやばいたっぷんたっぷんの色気とおっぱい丸出しな変身キツのムービーを保険として持ってるから、この程度じゃとてもとても。
という事を素直に言うのはオレにとってもキツにとっても憚られるので、そこそこ濁しながらもヤヨイに配慮して、
「確かにこういう格好はオレのメタル男性ホルモンがざわつくよ。でも、男だったら魅力的に感じるのは当たり前だから」
とメタルアピールしておいた。
「そ、そうなのかねっ」
ヤヨイはホッとしたような、どこか安心を与えられた子どものように笑う。うーん、可愛い。
などと思っていると、突然マコトが真剣な顔で立ち上がり、
「…というわけでハタカセ君、君の写真も並べていいかな?」
とかふざけた事を抜かしやがった。
「ウツシ君、オレの写真に需要は全くないと思うよ。並べるだけ損、寧ろ人除けになる可能性は大だと思うけど」
誰がこんな不気味な化け物の写真なんぞ買うんだ。
「いやいや、意外とマニアな人は買うよ? それに、四神の朱雀に勝利した人がどういう人なのかみんな気になってるし」
マニア、という言葉は嫌だが、そうか。さっきのオボロみたいにか。
「まあ、並べてもいいけど」
「ほんとに!?」
「うん。じゃあ並べる事によって起きる弊害にオレを巻き込まない、売上の5%をくれるって条件なら」
「よぅし、交渉成立だっ!」
マコトは手を叩き、下の方から早速封筒とケースに入ったDVDの束を取り出した。タイトルは「激闘! 朱雀対マシーンロイド!」。恐らく撮影した映像を焼いたものだろう。
封筒から取り出したるは、当然オレの写真。手裏剣を貪る一コマやロケット・フィストを放つ瞬間、そしてキツにボコボコにされた後立ち上がった白目姿などだ。
「…じゃ、また」
「うん!」
それに値段札を付けていくマコトの姿に耐えられず、そそくさと退散…したのはオレだけだった。
「あ、ノン君。先に行っててくれたまえ」
ヤヨイはオレの背中をポンと押す。なんとなく考えが読めたので追求はしない。
「うん。先に教室に行ってるね」
オレは階段の方へ歩き出す。背後から聞こえたるは売買に勤しむクラスメイト2名の声。
「マー君、ノン君の写真全て3枚ずつ、DVDも3枚売ってくれたまえ」
「毎度。これはどう? 特製ブロマイド。貴重な笑顔だよ」
「3枚、いや4枚くれ」
「毎度」
ヤヨイ、程々にしといてくれ。
マニア共を置いて3階まで上がり、高等部1-A前まで難なくたどり着いた。B、Cクラスの目線はなんのその。
しかし、自分のクラスは流石に緊張する。一応スキャンすると10人くらい教室内にいた。メタリックハートを落ち着かせ、扉に手を掛ける。
よし、行くぞ。
「お、おはようっ」
ちょっと声が上擦った。この癖直さねえとな。
クラスメイトの視線が集まる。
唖然とする者。驚く者。制服を着ているので転校生かと推察する者。
「おはようございます。やあハタカセ君。さっきぶりですね」
フレンドリーに話しかけてくる者…黒板にラーフルを掛けていたワダツミが振り返りオレを見た。多分。
「う、うん」
「イキメさんに購買は紹介してもらえましたか?」
「ちゃんと文房具は揃えられたよ」
「それは良かった」
ラーフルを置き、ワダツミは和かに喋り続ける。クラスメイトの視線が、ワダツミと友達なの? という感じに変化した。
「席はお決まりですか?」
「あ、まだだけど」
「では決めてしまいましょうか」
勝手に決めていいのか。それとも学級委員長の権限か。
「空いてる席は二つ。しかしハタカセ君の身長は高めなので、後ろの席でよろしいですか?」
「オレのメタル視力は3.5だから後ろでもいいよ」
「では」
ワダツミは教壇から降りて机の間を進み始めたので後に続いた。何人かのクラスメイトはオレたちの動向が気になるらしく、ずっと視線を向け続けている。
…ぶっちゃけ、オレを警戒しているんだろうなあ。
「ではこの席をお使い下さい。そのギターケースは後ろの棚にでも」
オレに用意されたのは、6列並んだ内の窓側から2列目、1番後ろの席だった。中々目立たない席で良い。
「ありがとう、ワダツミ君」
「いえいえ。また何かあれば声を掛けてくださいね」
ワダツミはオレに案内を済ますと、その場を後にした。
オレは後ろの棚、体操着の入った袋や体育館シューズが個々別に入れられているその上にギターケースを置き、開いて中から教科書、ノート、新品の筆箱を取り出して自分の机に入れた。
「どうも。ハタカセ メノンです。これからよろしくお願いします」
左、クラスの1番隅の席には既に登校していたクラスメイトがいたので頭を下げる。ブックカバーに包まれた本を読んでいたそいつが、おどおどと顔を上げた。
「ど、どうも」
眼鏡曇ってんな。
「お、おれはアクロウ。よ、よろしく」
喉が詰まってる声。まあ、制服がパンパンになってるくらいの肥満体なので仕方ない。スキャンすると、身長は156で、体重は97キロ。体積やべえ。少しは痩せた方がいい。
「よろしくアクロウ君」
お隣さんに、軽く微笑んでみた。
「ひゃっ」
飛び退かれた。
ちくしょう。
席に着いて教科書を整理していると、ヤヨイが教室へ入ってきた。
「みんな、おはよう!」
明るい笑顔で手を掲げると、クラスメイト達から万遍なく挨拶を交わされていく。人気者なんだなあ。すっげえ分かる。
昨日見たコウキュウ中学の鞄が横にかけられた、窓側の前の席へ向かうヤヨイ。その鞄へ持っていたビニールを大切にしまったが、多分オレの写真とかDVDだな。
「お、ノン君の席はそこになったのかね」
ヤヨイがフレンドリーに近付いて来たので、クラスメイト達がギョッとして振り返る。ヤヨイと親密な間柄に見えるからか、それとも言いふらしていたヤヨイの想い人がこんな奴だからか。
「オレ背高いから」
「仕方ないね」
ヤヨイは後ろの自分の棚にコンビニ袋を押し込み、オレの前の空席に座ると斜め前のアクロウへ手を上げた。
「やあアッ君。おはよう」
「お、おはようイキメさん」
アクロウは吃った声で顔をチラッと上げて返す。ヤヨイは特に気にせずこっちを向いたので、アクロウはいつもこんな感じの奴らしい。
「どうだい? 自分の席は」
両肘をオレの机につき、手の甲を顎の下に持ってきて顔を下から支えるポーズでどうって聞かれても。強いて言うなら、
「うーん。ちょっと小さいかな」
160から170くらいに合わせた設計らしく、膝がすぐ机の裏に着く。まあいいけど。
「窮屈ならサイズを変える事も可能だが」
「いやそこまでは…」
「おっはよう」
メタリックハートが跳ね上がった。
入口を見ると、赤い制服ミニスカの上から毛皮のコートを羽織って爬虫類鱗柄のバッグを肩から提げたキツが立っていた。右太腿にはトレードマークの朱雀の手拭いがばっちり巻いてある。
彼女はヤヨイを、そしてオレを見つけると細い目を楽しそうに歪めた。マジ怖え。獲物を前にした蛇そっくり。
そのままクラスメイトとの挨拶もそこそこにオレの席へつかつか来…あれ? 右脚大丈夫なの?
「おはようヤヨイ、そしてぇハタカセ?」
「うむ、おはようキーちゃん」
「おは、おはよう」
ヤヨイへは朗らかに言ってのけたが、オレに対しては口元は笑いながらもドギツイ視線を刺してきたので、挨拶を返そうとして吃ってしまった。やっべ。
ニンマリと笑い、べろりと舌舐めずるキツ。なにそれ怖っ。
「んー? どうしたのハタカセぇ? 何をそんなに慌てているんだぁい?」
机に手をつき、柄悪く絡んで来やがる。頭を寄せてくると耳元でボソリと囁かれた。
「昨日の事、バラしちゃいないよねえ」
「当たり前だよ。オレは約束は守るよ」
小声で返すと同時に目で訴えてみる。どうだ、不気味だろ。
「相変わらず白いねえ」
え、そこ? てかどんだけ白さを気にしてんだ。
「というか、右脚平気なの?」
「ああ、妖力で治したからさ。もうピンピン」
…ようりょく。妖力?
「…まあなんとなあく察しはついてるけどさ、どっちなの? どっちもなの? ていうか、正体なんなの?」
肩から生やした八つの蛇の首。該当するのは日本最強の蛇神。
恐らく臀部から生やした九つの狐の尾。該当するのは伝説の大妖怪。
その二つの要素両方持ってるってどういうこっちゃと昨日から気になっていた事を聞いてみると、キツは、んー、と思案した後にそっと語った。
「…実はその番の娘だったりする」
「マジですか」
色んな意味でびっくりだわ。
「…もっと驚いてもいいんじゃない? 」
「…いや、オレも人間じゃないからそこまでびっくりはしないよ」
「それもそうか。まあでも、学園をどうこうしようって訳じゃないから安心しな。今のところは」
「…最後の台詞がなければ諸手を上げて歓迎できたのに。でもオレだって君をどうこうしようって訳じゃないから」
特にマシーンロイドのオレにはな。
キツはオレの返答に納得したのか、ヤヨイが座っている左隣の席へバッグを掛けた。お前の席そこだったのかよ。
「キーちゃん、負けたからって逆恨みは良くないぞ」
オレ達の空気を読んだのか、ヤヨイが忠告をキツへ投げかける。しかし、キツの正体を知らないヤヨイは雰囲気で物を言ったので、キツは苦笑った。
「ヤヨイ、別にあたしは負けた事を恨んじゃいないから」
「本当かね? じゃあノン君と仲良くしたまえよ」
「もちろんさ。ねえハタカセ?」
「…うん」
罪悪感が半端なかったが、一応頷いておく。
「キーちゃん。ノン君怖がってるじゃないか」
「なんでかねえ」
分かってるくせにっ、分かってるくせにっ!
「じゃあアレだ、ハタカセ。あたしの事はキツって呼ぼう」
「…なんで?」
「名前で呼べば仲良く見えるじゃん。あたしはメノンて呼ぶから」
そんなもんなのか。まあそれでいいのなら。
「じゃあよろしく、キツ」
「うん。メノン。ほらヤヨイ、これならどう?」
「完っ璧だっ」
ヤヨイはサムズアップし、満足気に頷いた。
それでいいのか。
いいんだろうな。
暫く3人で会話していると、クラスもそれなりに埋まってきた。時間も8:30へ達しようしている。
「うぃーす」
ヤブキが教室へ入ってきた。手にした名簿を教卓に置いて広げ、頭を掻く。ヤヨイとキツは席に戻り、ややあってチャイムが鳴った。
「起立」
ワダツミの号令でみんなが立ち上がり、オレはタイミングが掴めなかったので遅れて立つ。
「礼」
頭を軽く下げて戻す。
「着席」
みんな座った。当然オレも。
「おはよう。出欠確認の前に、今日は転入生の紹介をする。まーもう気付いていると思うが」
ドッキン。
ヤブキは黒板にオレの名前を書いていく。
「じゃあ、ハタカセ。前に出て自己紹介してくれ」
「はっい」
機械 鳴音と縦に書いたヤブキが振り向いてオレを招いたので、意を決して立ち上がる。ぅぅぅうぉおわぁぁあ、自己紹介タイムが来た。
既にオレの存在はクラスへ溶け込んでいると思ったが、それでも尚緊張する。手と足が一緒に出るくらいに。
ぎこちなく教壇へ到達し、クラスメイト達へ振り返る。見慣れた何人かは楽しそうにオレを見ていたが、それ以外はこの容姿に奇特さ奇怪さ不気味さを感じているようだった。怯えられるよりマシ、と思わないと今後はやっていけない。
…よし。気を付けして背筋を伸ばし、腰を90度曲げて頭を下げる!
「ハタカセ メノンと申します! 今日から、よろしくお願いしますっ!」
床に声を叩きつけたが、よしっ。上擦らなかった。
どうだ⁉︎
………拍手が聞こえてきた。顔を上げると、それはめっちゃいい笑顔のヤヨイの仕業だった。それにつられて、マコトやホウコ、ショウコ、キツ、ワダツミも手を叩き出し、遂には全員に伝染した。大多数は形だけだが、くそ、眼から潤滑油がたらり…。
「あ、ありがとうっ」
油を袖で拭い、ヤヨイへ感謝した。
恙無く4時限目が終了し、チャイムが鳴る。授業には問題なくついて行けたが…昼休みが来てしまった。
「ハタカセ君、準備はいいですか?」
教科書を畳んでいるとワダツミがやって来た。にこやかな顔で。
「大丈夫。忘れてないよ」
立ち上がり、右手首をプラプラさせて調子を確かめる。うん、いつも通り。
「どこでやるの?」
「ここで」
え、ここ?
「教室で?」
「はい。楽しくいきましょう」
闘いに楽しいもクソもあるか。
ワダツミはポケットから何かを取り出す。カードの束の詰まったケース。
「トランプ?」
「いいえカルタです」
ケース内の表面にはうねる字体で新田かるたと書かれている。もう片方のポケットから同じようなケースを取り出したが、そっちは読む札か。
「カルタで勝負?」
「はい。これなら場所も取りませんし、楽しくできるでしょう?」
そりゃそうだけど。
「オレはてっきりガチ肉弾戦するのかと思ってたよ」
「最初はそのつもりでした。こう見えても僕は剣道部の部長であり、有段者です。しかし、貴方に勝つのは不可能だと昨日の闘いの記録を閲覧して思い直しました。なので、もう一つの得意種目、文化委員長として此方で勝負といきましょう」
正直に言うと、ワダツミも経緯を丁寧に話してくれた。こいつ、やっぱりいい奴だ。
「いいよ。勝負しよう」
「ありがとうございます。では」
ワダツミは早速教室の真ん中付近へ行き、丁度空いていた机4つを並べて一つの大きな机にすると、そこへカルタの取り札を3枚だけケースに残し、残りのふだを表にして無造作に散らした。表面にはやけにアニメチックなイラストと右上に丸で囲んだひらがな1文字が描かれており、中々クオリティが高い。
弁当を食おうとしていた周囲がオレ達を見て手を止める。
「ノン君、何をする気がね?」
風呂敷を持ったヤヨイが怪訝に尋ねてきた。大きさから恐らく重箱で、多分5段もある。どんだけ食う気なんだ。
「ワダツミ君と勝負する事になったよ。カルタで」
「…な、何故に?」
「え? えっと、成り行き」
クラスの連中もなんだなんだと集まってきた。
「ワダツミー、なんで今度はあんたが?」
ゆで卵の殻を割りながらキツがどうでもよさそうに尋ねると、ワダツミは読み札の束をシャッフルしながら答える。
「貴女が敗北したと聞いて、僕も挑戦してみたくなりまして」
「ふぇー」
ほんの僅かに、ワダツミの表情が変わった気がする。おやおやあ。これはもしや、ワダツミはキツの事が好きなパターンかあ? そしてこれは敵討ちかあ? 下心ありとはいえ、優しいんだなあ。
「では読んで頂くのは…」
「私がやります」
観戦者の一人、ホウコが手を挙げる。表情には出てないけどやる気まんまんだった。昨日の実況具合から、こういうのが好きな奴なんだろう。
「お願いします」
ワダツミも信頼しているらしく、読む束を彼女へ渡すと机を挟んで対面するオレに顔を戻した。
「ではルールを説明します」
横でホウコが再度読み札をシャッフルし直す。
「札は「あ」から「ろ」までの43枚。「わ」「を」「ん」は今回外して奇数枚にします。お手付きは負け。最終的に多くの札を取った方の勝ちです。勿論、暴力行為は禁止」
ふむふむ。
「読む速度は最速でお願いします」
「了解しました」
「最速?」
「インターバルなしで、取った瞬間読んで頂きます」
次から次へと取っていく感じか。
「試しにやってみますか?」
「ううん、大丈夫だよ。じゃあ早速やろうか」
「分かりました。ではホウコさん、お願いします」
「はい。では…」
ホウコが読み札に手を被せ、オレ達の準備を待つ姿勢に入ったので、中腰になって右腕を横に構えた。
ワダツミは左足を前に出して僅かに腰を落とすと、左腕肘をオレに見せるように右腰辺りに回し、右手で左手を掴んだ。刀のない居合のように見えるが、そういえばさっき剣道やってるって言ってたな。左利きらしい。
身に纏う気も少し変化した感じがする。目は相変わらずだが、口元から笑みが消えた。
周りもこの勝負に集中しているようで、飲み食いする音が消えている。一挙一動が注目される中、ホウコは昨日の実況の時のように表情を変えた。
「のれ」
「はいっ」
ホウコが手を退けて口を開いた瞬間、ワダツミの左手がそれを凌駕する速度で動いた。暖簾に拳を叩き込もうとしている格闘家のイラストが描かれた札を左手の親指と人指し指と中指で掴み、左手が右腰に戻ると同時に札を右手に預け、読まれる前と寸分違わぬポーズに戻る。
「んに…」
速度は…492m/s!? は、速えっ! 腕の速度だけならキツより速いじゃねえかこいつ!
間髪いれず、ホウコが次の読み札を捲る。
「身か」
「はいっ」
「ら出…」
超速の居合で再びワダツミの手が、身体から錆を出すブリキロボットの札を取った。記憶力も抜群らしい。さっすが文化委員長だ。
…まずい、いや落ち着け。キツ以上のあの速さにゃ絶対に追いつけない。オレが勝つには、先手を打つしかない。となれば…標的はワダツミじゃない。
オレは淡々だがどこか生き生きと読み上げるホウコの持つ読み札をスキャンしたが、材質・道具の影響か裏から見通す事が出来なかった。なので彼女の目をスキャンし、読み札が映る瞳の表面を解析する。
「急」
「はいっ」
「がば…寝み」
「はいっ」
「みに…灯」
「はいっ」
「台…」
次々と読まれ、取られていくが、今は耐える。ホウコの黒い瞳に反射する文字さえ分かれば、先読みするのは容易い。
「月」
「はいっ」
「とすっ…」
よし! あっという間に14枚も取られたが、反撃開始だ。
ホウコが次を読もうと札を捲り、瞳に文字が映った瞬間、オレは右手を机に叩きつけた。
「はい!」
「ひ…えっ?」
「!?」
ホウコが読んでから、ワダツミが読まれたのを確認してから驚愕する。オレはゆっくりと札を捲り、精気のない顔でシャベルを用いて穴を二つ掘る男のイラストを提示した。
「人を呪わば穴二つ、かな」
左手に取り札を預け、呆然としているホウコに続きを促す。
「ソウショウさん。続きを」
「…あ、はい…」
「はい!」
ホウコが読み札を捲った瞬間、再び取り札を取る。
「ら…」
「………」
ワダツミへ手に取った、大金を持った男が漆黒の闇に堕ちるイラストを見せつけてやる。
「楽あれば苦あり?」
「……………」
ワダツミから発せられる気が渦巻くように変化した。やはり表情は変わらないが、どうやら本気にさせてしまったらしい。
「失礼。今後はどんな事態でも読み続けますので」
オレの先読みに動揺して読むのを途中で止めてしまったホウコが、髪をかきあげながら読み札の束を握り直した。もうここから勝負が決するまで、彼女は読むのを止めないだろう。
「本気出すかい?」
目の前で起きる奇っ怪な手品劇場に凍りついたクラスメイト達の中、なに食わぬ顔で油揚げをくっちゃくっちゃ食っていたキツがワダツミに尋ねると、奴は顔をこっちに向けたまま頷いた。
「よし。ごめーん、カーテン閉めてー」
窓際にいたクラスメイト達へ指示を出すキツ。教室内がほんのりと暗くなった。
「これでいい?」
「ありがとうございますヘビガミさん」
なんの準備か知らんが、今からがノンストップの真剣勝負。
「ノン君、大丈夫かね?」
後ろから、闘いを見守るヤヨイの心配で満ちた声が掛けられた。ゆっくり振り向いて、眼で大丈夫というアイコンタクトをしてみると、ヤヨイは不安気だった表情をいつもの自信に満ちたものへと変えた。うん、やっぱりヤヨイはその顔がいい。
満足し、右手を握り締めて弛緩させ、構えた。
「では、参ります…」
「はい!」
ホウコが読み札を捲ったので、桃と栗と柿の少女の描かれた札を取る。
「も…むし」
ホウコの読むスピードが上がった。
そして、ワダツミの居合の速度も。
「はいっ」
いつの間にか、ワダツミの手が机上にあった。腕の振りが見えない、というレベルではない。マッハ5まで対応できるスピードカウンターも反応しておらず、もう色々とおかしい領域に達していたが、今は勝負事の最中なので置いておく。時間でも止めたような速さだろうが、俄然オレの方が有利に変わりないからだ。
「はい!」
「こ…」
「はい!」
「そ…」
「はい!」
ホウコの読み上げる速度に対応し、次々と札を取っていく。
突然始まったメノンとオボロのカルタ勝負。面白い見世物だと見物していたクラスメイト達は、目の前の異常事態に困惑していた。
「はい!」
「ち…」
「はいっ」
メノンは読み手のホウコが読む前に右腕を振りかざして札を素早く取っていた。完璧に先読みしているので最早勝負になっていない。
対するオボロは構えを崩さず時折掛け声を発したかと思うと、いつの間にか机上に左手が置かれているという、目の錯覚を疑う能力で少しずつ札を取っている。
あっという間に残りは2枚。
「よ…あた」
「はいっ」
厳かな占い師の描かれた、当たるも八卦当たらぬも八卦の「あ」の札が取られると、机の上に残されたのは濡れた手で粟を掴もうとしている「ぬ」の濡れ手で粟だけとなった。
「ストップ」
最後の1枚を前に、ワダツミが左掌をオレへ突き出した。
「僕の取り札は21枚です。当然、ハタカセ君も21枚」
「うん」
あの攻防の中でカウントしていたのか。やっぱ記憶力いいな。
「最後は読み札をシャッフルしてから読んで頂くというのは如何でしょう」
ランダム性を増す訳か。
「いいよ」
「ではホウコさん、お願いします」
ホウコは頷き、束をシャッフルし始めた。これでいつ最後の読み札が読まれるのか分からなくなる。
少し時間が余ったので右手首を回しながらワダツミへ話し掛けてみた。
「中々やるね」
「いえいえあなたこそ」
ここまで来てまだまだ余裕のあるワダツミ。しかし、大きく肩を上下させながら深呼吸し、顔を天井に向けて瞼を押さえるポーズをとったので流石に疲れているらしい。当然か。
「でも、勝つのはオレだよ」
「それは譲れません」
右腕に力を込めて拳を握り締めると、ワダツミは再び居合の構えへ入った。オレは最後の1枚へ向け、開いた右掌を向けて照準をセット。
昨日の闘いを見たというワダツミはロケット・フィストの事を知っている筈。なのでそれを利用する。
オレ達の準備も整った空気を察し、ホウコがカットした束を早速読み出した。
「猫に小判、身から出た錆、論より証拠…」
ぱっぱっと読んで捲っていくホウコを尻目に、オレはモニターでワダツミの表情を隠し見た。恐らく、ワダツミはオレの動作を見てからあの超速居合で取りに来る。そしてオレにはそれに対する対抗策はない。教室でロケット・フィストを最高速度のマッハ2でぶっ放しても、恐らく取れない。
なので。
「急がば回れ、当たるも八卦当たらぬも八卦、鶴の一声…」
「はい!」
「はいっ」
ホウコが読み札を捲ったところで満を持してロケット・フィストを放つ。机に向かって平手で叩きつけた…はずが、右手には机と札の冷たい感触ではなく、人の手の甲の無骨な感触しかなかった。
「一歩遅かったですね」
ワダツミの左手の上に、オレの右手が重なっていた。やはりワダツミはオレの動作を見ており、オレが動いた瞬間に超速居合いで先に手を伸ばしたのだ。こいつのスピードならその芸当も可能だと思ったが、その通りだったらしい。
右手を戻すと、ワダツミは赤い痣の残る左手を浮かせ、下の「ぬ」の札をオレに向けて不敵に笑った。
そう、奴の方がオレより早く札を取った。
オレの目論見通り。
「ソウショウさん、その札を読んで」
一瞬の攻防に呆気にとられていたホウコへそう促すと、彼女は読み札へ視線を落として目を見開きながらこう言った。
「…骨折り損のくたびれもうけ」
「…え?」
口をぽかんと開けるワダツミ。
そう、読み札は濡れ手で粟ではない。オレは適当なタイミングでロケット・フィストを使っただけ。オレが動くのを待っていたワダツミは見事につられたのだ。
ワダツミを指して意趣返しにニヤリと笑ってやった。
「お手付き」
「やられました」
ワダツミは微笑み、肩を竦めて素直に負けを認めた。
「カグラ様。青龍、敗北致しました」
教室の隅に付けられた隠しカメラの映像を見ながら、シンはベッドに眠るカグラの右腕へ点滴を打つ。
カグラは慣れているのか全く気にせずに眠りこけていた。
放課後、オレ達はまたカラオケに来ていた。
ただし部屋は団体用の部屋で、メンツは昨日より2人増えている。
「アクロウ君、何歌う?」
「も、もう入れた」
ステージ上でキレッキレに歌ってポーズするヤヨイとキツを尻目に、お菓子がばら撒かれたテーブルを挟んで会話するオレとアクロウ。
「へえ、なんの歌?」
「あ、アニソン」
「アニメソング? なんのアニメ?」
「だ、ダーク・ジャスティス」
「ふうん。面白いの?」
「う、うん」
アクロウがステージへ目を向けたので、とりあえずユニットみたいに歌う二人を鑑賞することにした。オレの視線を感じたヤヨイはこちらを見てウインクを返す。あー、可愛い。
アクロウへ視線を戻す。こういう所に来るのは初めてなのか、やけに縮こまりおどおどしている。まあ今のオレも来るのは2回目だけど。
「あ、あの、聞いていい?」
「なに?」
「な、なんでおれを、さ、誘ったの?」
アクロウを誘ったのはオレだったが、特に理由なんてない。放課後ヤヨイがキツと親睦を深める為カラオケに行こうと言い出したので、隣の席のアクロウも誘っただけ。
「うーん、クラスメイトだからかな」
「そ、それだけ?」
「それだけじゃあダメ?」
「…」
薄ら笑いを浮かべるアクロウ。ダメっぽい反応だ。
じゃああれか。ごほん。
「と、友達だからってのは、どう?」
照れるぜ。
「…う、うん。ハタカセ君とは友達ってことで」
自信が持てないタイプに卑怯な選択させてしまったかもしれない。まあいいか。
今のオレの、最初の友達だ。
「メノン、でいいよ。オレも、アクロウって呼んでいい?」
「う、うん。メノン」
オレは友達という響きにつられて笑顔を見せたが、ひゃあっ、と顔を背けられた。
ちくしょう。
放課後、部活前にオボロは生徒会室にて昼休みの敗北を報告していた。扉の前で気を付けするオボロと、カグラの机の前に佇むシン。カグラは不在。
「…という次第で負けてしまいました」
「監視カメラで確認済みです」
にこにこと笑いながらオボロは簡潔に述べたが、シンは眼鏡のフレームへ手を付けて眉をひそめる。怒るどころか、呆れていた。
「貴方は四神権限を本日使用していません。その敗北を撤回する事も可能でしたのに」
「ごらんになっていたのなら、お分かりでしょう。あれは真剣勝負でした。それを無効にするなんて、僕にはできませんよ」
「優しいですね。それとも甘いだけでしょうか」
「どうとでも解釈してください」
報告が済み、踵を返そうとしたオボロの背後からシンは告げる。
「ペナルティは受けて頂きますよ」
「…喜んで」
シンはそのお人好しさに再び呆れた。オボロはメノンと闘って勝利し、それを報酬にキツのペナルティを減らす魂胆だと予想していたが、敗北しても彼女と共に罰を受ける二重の策でもあったらしい。
「キツさんへの好意も真剣なのですね」
オボロのキツに対する反応は分かりやすい部類であったので、シンは迷う事なく口にしたが、オボロは頭を掻きながら振り返った。
「…自分でも良く分かりませんが、ヘビガミさんへそういう感情はないんです」
「え? では何故ハタカセさんと勝負を?」
「いえ、彼女が負けたと聞いて悔しくて…でもそれはヘビガミさんへの同情ではなく、彼女に勝った事のない僕自身への憤りだと思います」
キツがメノンに負けた事が気に入らなかった、とオボロは自己解釈していた。
それは半分正解だった。
「…複雑な心境なんですね」
「ええ。僕も不思議です」
それで会話を終わらせたオボロは生徒会室の扉の右の方を押し開けた。
「きゅ」
丁度向こう側に人がいたらしい。気付けなかったオボロは扉で押す形になってしまった。
ギンッ
オボロの、閉じていた瞼を勢いよく開いた。途端、周囲から音が消え失せ、カルタ勝負後半でも発動していた彼の特殊能力が出でる。
周囲の時間が停まった。壁の時計も背後のシンも、動きを止めてしまう。
それは「アマトジ」と呼ばれる、世界の時間を停止させ、その中で自分だけが動く事を許された能力。瞳に神通力を込める事で発動する無敵の力…の筈だった。
瞼に隠されていた彼の瞳は、溶けかけのセメントのような濁った灰色。それに映るのは開きかけている重厚な扉と、その先の空中に固定されている散らばった紙々。今まさに切り崩されようとしている書類の山だった。
(これは失礼)
オボロは心中で謝り、体を横にして開きかけの扉へ背中をくっ付けた。そのまま少しずつ横歩きしながら閉じている扉に鼻の頭を軽く擦ったところでようやく廊下に飛び出し、一息つく事ができた。この間、ずっと目を開きっぱなしだったが、瞼を閉じると自動的に能力が解除されてしまうからだ。
オボロは、装飾過多で乳白色のウェディングドレスそっくりのアレンジ制服を纏う少女へ視線を移す。
(お帰りになられたんですね)
扉に体を密着させて両目を瞑り、驚いた顔をしている少女。左手でノックをしようとしていたようだ。オボロはばら撒かれている紙束へ特に注意を払いながら彼女の後ろに回り込んだ。
アマトジ発動中はオボロの衣服と所有物を除く全ての物質が質量を無視した密度と重量になっているため、静止している書類は剃刀より鋭利な刃物が空中に浮いているのと同じだった。
靴も履けない為、靴下のまま少女の背後へ立ったオボロは、自分の腰よりも低い身長の彼女の後頭部へ右手を寄せ、左手に力を込めながら瞼をゆっくりと閉じる。「アマトジ」の能力が自然と解除された。
紙の擦れる音が聞こえ、一瞬前まで刺々しかった少女の頭が倒れこんで来たので右手で受け止める。
「危ない」
「うっ」
オボロはわざとらしく声を出し、左手を閃かせて空に舞う紙を1枚1枚取り纏めた。何が起こったのか分からない彼女は辺りを見回し、背後のオボロに気付いて笑う。
「ああ、ワダツミくんネハン。ありがトリリオン」
「どういたしまして。イツムナさん」
オボロは纏めた書類を少女へと手渡す。イツムナと呼ばれた少女は両手で受け取ったが、その右手の人差し指には伸縮性抜群の白い合成ゴムで作られた、可愛らしくデフォルメされた虎を模した指輪がちょこんとついていた。