3話 変貌
「カエデが死んだ……カエデが死んだ……」
それからの2か月。俺は家から一歩も外に出ずにひたすら家に篭っていた。
何も考えられない。カエデの死ぬ間際の笑顔だけが、俺の脳内に繰り返し流れる。
「カエデが死んだ……」
腹が鳴る。そう言えばもう3日も食事をしていない。
……買いにいかなきゃ。
死ぬのが嫌だと言うより、カエデのことを思い出せなくなるのが嫌だった。
「カエデが死んだ……」
俺は家を出て、最寄りのコンビニへと歩き始めた。
「カエデが死んだ……カエデが死んだ……」
ふらふらとコンビニに向かっていると、前から見覚えのある人間が歩いてきた。
その若者は無表情で俺に近づき、そして口を開く。
「やあ、僕はペスだよ」
――カエデを見つけた。
「……カエデ」
「やあ、僕はペスだよ」
「カエデ! カエデなんだな!?」
この顔、この声、この仕草! 俺がカエデを見間違えるわけがない!
死んだと思ったカエデは生きていたのだ!
「やあ、僕はペスだよ」
「わかってる。辛い思いさせて悪かったな……」
「やあ、僕はペスだよ」
「さあ、一緒に帰ろう。今日は――いや、これからは俺と一緒に暮らそう、カエデ」
「やあ、僕はペスだよ」
俺はカエデの腰に手を回し、一緒にコンビニへと向かった。
すると、再び人影が現れる。
「やあ、僕はペスだよ」
――カエデがこんなところにもいた!
「カエデ! 良く生きていてくれたな!」
「やあ、僕はペスだよ」
「わかってるよ。俺とカエデはずーっと一緒だ」
「やあ、僕はペスだよ」
俺は新たに見つけたカエデも連れてコンビニへと向かう。
結局この日だけで16人のカエデを見つけた。
「ふんふふーふんー」
俺は上機嫌で鼻歌を歌いながら、机を漁る。そして、中からショッキングピンクのノートを取り出した。
「じゃあいって来るね、カエデ」
「やあ、僕はペスだよ」
いってらっしゃいを言う無数のカエデを家に残して、俺は外に出る。
何のためかと聞かれれば、もちろんカエデのためだ。
「今日もカエデを助けるぞー。一杯一杯助けるぞー」
自作の歌を歌いながら昼間の街を練り歩く。
街中には家に入りきらなかったカエデが溢れていた。
「よう。今日も元気?」
「やあ、僕はペスだよ」
「あれ、髪型変えた?」
「やあ、僕はペスだよ」
俺はすれ違うカエデ一人一人と会話を楽しみながら、まだ苦しんでいるカエデを探す。
苦しみの中にいるカエデをはやく救ってやらねばならない。俺の心は正義感で燃え盛っていた。
「なあ、カエデ。今度デート行こうよ。前は動物園だったから、今度は映画館とかどうかな?」
「やあ、僕はペスだよ」
「え? また動物園がいいって? 本当に動物が好きだなカエデは――」
「君!」
カエデとの会話に夢中になっていると、不意に声をかけられる。
振り向くと、サラリーマン風のおじさんが俺を憐れむように見ていた。
「君がどんな目にあったのかはわからない。だがあまり過去に囚われ過ぎず、未来のために生きなさい。私も妻がペス病になったが、今も二人で暮らしている。たとえペス病になったとしても、その人と過ごした時間は消えないのだ。だからそれを胸に抱いて、未来に進みなさい」
「…………ありがとうございます! おじさんのおかげで目が覚めました!」
「そうか、それはよかった! そうだ。今は仕事に行かなきゃいけないけれど、今度どこかで話を聞こう。辛いことは人に話すのが一番だからね」
そう言っておじさんは俺に名刺を渡してくる。
「取締役、渡良周蔵……。おじさん、凄い人なんですね」
「たまたま時流に乗れただけさ。それに、どれだけ凄かろうと妻がいなければ――っと。君に説教した俺が言っていいことじゃないね」
おじさんは悲しそうな顔をした。
「ありがとうございました!」
俺はおじさんに再度礼を言う。おじさんは照れくさそうに小さく手を挙げて応えてくれた。
「渡良周蔵……っと」
俺はおじさんの名前をペスノートに書き込む。
おじさんはあっという間に姿を変え、カエデに戻った。
俺はカエデに近づき、力いっぱい抱きしめる。
「カエデっ! 苦しかったろ? ごめんな、助けに来るのがこんなに遅くなって……!」
「やあ、僕はペスだよ」
また一人カエデを救うことができた。俺の胸は嬉しさで満たされる。
――だが、まだだ。まだ救えていないカエデはたくさんいる。
「俺がカエデを救うんだ……!」
俺は決意を込めて拳を握りしめた。
と、そんな俺の目の前を一台の選挙カーが通り過ぎる。
「この世の中を一緒に変えましょう! 佐伯紀子! 佐伯紀子でございます!」
俺はにたりと笑みを浮かべた。