煙たい珈琲
久々だった。他人の淹れてくれた珈琲も、煙草も。
騒がしい店員の声と二人組の女性のお喋りとジャズ。「お手軽なお値段で極上の珈琲タイムを」そんな謳い文句のチェーン店。噛み合ってない。
細長い一本を優しく唇で挟み、その先に火を点ける。緩やかに吸い込むと「苦い」と思った。途端に、少し、脳みそが揺らぐ。アルコールにも、車酔いにも似た感覚。煙を吐き出すと「いい女」になれた気がした。
淹れたての珈琲を口にする。苦味と強い酸味。眉間に皺が寄りそうになるのを抑える。私にはブラックは合っていない。でも、また口にした。また煙を吸い込んだ。
全てに疲れていた。いや、多少は嘘になる。でも、全てに疲れていた。家に戻ればシンクに溜まった洗い物と回したまま放置してきた洗濯物が私を待っている。まだ戻りたくない。戻ったら夕飯の支度もある。まだ、まだ、ここにいたい。
珈琲はあっという間に冷める。
煙草はあっという間に短くなる。揉み消した。また、火を点ける。
冷めた珈琲はより酸味を増し、舌が居心地悪そうにしている。
本当は甘いクリームの乗った、キャラメルソースやチョコのかかった、そんな珈琲もどきの飲み物が好き。でも今日はそんな気分じゃなかった。
特になにかあったわけじゃない。でも「もう無理」と、そう感じたときにはここへ向かっていた。珍しくお化粧をして、余所行きのニットにスカートを身に纏い、ここへ来た。ここに何かあるわけじゃない。でもここが良かった。身なりを整えたのは下心があったわけじゃない。でも、そうした。
珈琲は冷たくなっている。
途切れなく消しては、点けて、消しては、点けて、煙草を何本もくわえた。
ここよりも遠くに行きたいわけじゃない。夫は私を愛していて、私は夫を愛していて、その愛に甘え合う日々は麻薬のようで、やめられるわけがなかった。子供も大きくなり、手がかからない。一般的に求められるいい子だ。今も教室で真剣に机につき、先生の言うことを漏らさず聞いているのだろう。
罰当たり。そう言われても反論は出来ない。今ある幸せを噛み締められない私は駄目な大人で、駄目な妻で、駄目な母親なんだろう。
でも今だけは「いい女」でいたい。
あと一口で、カップは空になる。
胸焼けと鼻にこびりついた煙たさが酷く、もう煙草はくわえられない。
この一口が終わればここにはいられない。でも家には居場所がある。
私は贅沢な女なのか。こんな贅沢は許されるのか。許されてほしい。誰か許して。
最後の一口が、飲めない。