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分け合うレタス


 目の前が灰色であったので、僕はまた途方に暮れていた。

 灰色で無くとも途方に暮れてはいるのだが、本当にそれ以外に何もなかったので途方に暮れている自分というものが一層浮き彫りになるのだ。

 果てのない話ではない。おそらくそうだ。僕は目を凝らす。灰色はよく見るとより黒い部分や白い部分、青みがかっている部分や僅かに光沢のある部分がある。均質ではなく斑な空間であるという発見であった。

 僕は右手を少し前に出してみる。感触はない。

 

 ニフェからシマを通ればシアルに出て、海色の海に出る。僕はそう教えられている。特定の誰かではなく、おそらく世間という得体の知れない怪物に。

 きっと世間という怪物の口の中が、こんな斑の灰色なのだ。僕が仙人ではなく矮小な人間の中でも更に愚かしい人間だから、こんなところにいるのだ。僕は知っている。これは他でもない僕の話なのだから。


 僕はそうっと両手で器を作って、灰色をすくってみようとした。

 しかし手を動かしても空をすくうばかりで、僕は自分の両手をじっと見てみる。


「なあおい。その中には本当に何も入っていないのか?」


 隣にはいつの間にか晶君が立っていた。晶君は漂白されたような肌の色をして、目ばかりが黒々と塗りつぶされた玉のように光っていた。

 彼の目にはこの場所はどんな色に映っているのだろう。しかし声が出ない。僕の言葉がこの場所のものではないからだ。

 僕は両手の中を覗いてみる。僕の両手が、灰色で染まっている。僕は色を変える。カメレオンのように。そして、そして消えてしまうのだろうか。

 僕は目を凝らす。灰色が増していく。得体の知れない灰色。ここはどこか。そこでふと僕はまた新しいことに気がつく。僕はまだこの灰色の中を歩いたことがない。




 そんなことより僕は今朝の朝食を買っていない。昨日はいろいろあったからだ。部屋の外に出るのが少し気が重い。

 僕は溜息を吐いて、冷蔵庫を覗いてみる。そこにはレタスがまだいくつか入っていた。味噌汁で消費できる量なんてたかが知れている。


 僕は身支度をしてからレタス一玉を冷蔵庫から取り出して、丁寧に洗った。そうしていると晶君が出てきた。晶君は眠そうにぼそりと僕に挨拶をしてから、僕の洗っているレタスを見た。


「朝から料理でもするのか?」

「ううん。このままでいいよ」


 僕はレタスの水を切って、真ん中から包丁を入れて半分に切る。半分はラップをして冷蔵庫に戻す。僕は台所脇の椅子に座って、レタスにそのまま齧り付く。端の葉っぱは多少しなびているものの、中の方は冷えてぱりぱりと良い食感であった。

 僕は口いっぱいにレタスを頬張る。葉っぱを噛み切った時に立ち昇り鼻を抜ける青臭さ、飲み下す前にはほろ苦さと僅かな甘さが広がる。そして何より腹が膨れる。そんな僕を晶君はあっけに取られた顔で見ていた。


「何も付けないのか? マヨネーズとかドレッシングとか嫌いか?」

「ううん。でもなくてもいいんだ」


 晶君は獣のようだなと僕を揶揄する。でも僕が食べているのは野菜だし、獣が食べるのは肉だろうし、獣というのとも少し違うのではないか。僕はさくさくレタスを食べ進めながら思う。

 そんなことを考えていると晶君が、もう半分はもらうと言って半玉のレタスを冷蔵庫から出して僕のはす向かいに座る。そして少しの躊躇を見せてから、思い切ったようにレタスに齧りついた。

 晶君はしばらく無言でレタスと格闘する。その様子はまるでリスのようであった。僕が食べ終わった少し後に、晶君も食べ終わる。


「意外と、食べられるものだな。目も覚めた」


 晶君はそう言って部屋に戻っていった。今日は授業がないらしい。一方の僕はやはり授業があるので、バスに乗ってバスから降りて校門をくぐる。人が少ないのでいくらチェックを着ていても、僕が人に紛れることはない。




 その日の授業は先生が出張で、代わりにレポートが課された。席を立って帰る人や、レポートをやらずにだらだらと教室で過ごす人、様々いる中で、意外にも隣のお調子者はレポートに取り組む。僕もつられてレポートをやってからバイトに行くことにする。


 教科書を開きながら、解釈の分かれる言葉についてはグーグル検索で大まかな意味を取る。僕はふと思いついて、検索ボックスにコールボーイと入れてみる。今日も偉大なるグーグル先生は無数の検索結果から、単純明快にして残酷な言葉の羅列を僕の前に並べてくれた。


 言葉の意味に始まり、その歴史まで。女を相手にするか、そうではない方か。僕は一度画面を暗転させて、そっと隣の彼を見てみる。彼は目を伏せてノートを読みながら、自分のノートに薄く黒い線を引いていた。抜粋箇所にアタリを付けているのだろうか。

 その向こう側では湊さんが僕の視線に気づき、ノートに抜けている個所でもあったのかと聞いてくる。僕は首を振ってまた画面に戻るしかなかった。


 夜の仕事だろうなとは思っていたのだが、解説のあまりに直接的過ぎる言葉に、僕はコールボーイには実はまだもっと違う意味があるのではないかと考えてしまう。こんな露骨なことではなくて。そうだ、英語だと単なる受付係だ。そうなのかもしれない。

 しかし僕は本当のところを言えば、ああそんなことだろうとは思った、といった心持ちである。正直な話、だからなんだという気分でもある。彼が何のバイトをしていようが、僕が抱かれるわけでも抱くわけでもないのだ。

 大体気も済んだので僕は携帯を閉じる。いい加減少しぐらいレポートをしたほうがいいだろう。僕は僕が書いたはずなのに覚えのない文字の羅列のノートに目を通す。




 バス停でバスを待っていると、晶君がやって来る。授業はなかったが図書館に本を借りていたのだという。


「そういえば、俺が貸した本は読んだか」

「未完って言われたから、読む気が失せた」


 僕はちょうどいいやと晶君にその本を返してしまう。晶君は気を悪くした風でもなく、それどころか、ああ貸したのはそれだったかと言う始末だ。


「それじゃあなくて、セットで売っていた妻の手記のほうを貸せばよかったな。二冊セットで三百円だった」

「やっぱり作家の苦悩とかが書いてあるの? でも僕作家には詳しくないし、手記って難しそうだ」


 晶君は少し笑ってから、俺も他人の苦脳に興味はないさ。勝手に悩めって感じだね。とばっさり切り捨てた。


「書いてあったのは好物さ。若竹汁っていったかな」

「若芽に筍の味噌汁だよね。意外に質素なのが好きなんだね」

「何だっけな。何でも青森の北の生まれで、そこの山で採れる根曲がり竹っていう小さい筍の味噌汁が好きだったらしい。粉山椒を一つまみ入れてさ」


 今度研人さんにつくってもらおうかななんてことを考えていると、バスがやって来る。昼下がりの老人ばかりが乗った車内で、僕達は一番後ろの隅に乗る。僕は話の種にと先程のコールボーイの話をした。

 晶君は知っていた。聞いている晶君の育ちからしたら意外な知識だが、読書をするなら僕より雑学は身につけているのだろう。そんな話をしたら、確かに実生活で聞いたのは初めてだなと苦笑いする。

 育ちの良い彼はもしかしたらこういった話題は好まないかもしれない。僕は自分の話題の選択を後悔する。遠回しに謝って話題を変えようかとも思ったが、彼は意外にも話に乗っかって来る。


「なんだか似たような話を読んだな。有名な作家で、ええと、誰だっけな」


 小説に似た話があるという言葉を聞き、事実は小説より奇なりというのはなかなか面白い言い回しだなと思う。ただ晶君のピアノの話も聞いているので、案外そういうことはどこにでも転がっているのかもしれない。ありふれた悲劇だ。


 僕は隣の席で何食わぬ顔をして授業を受けていた彼を思う。以前かけてきた電話の内容、葛藤。しかし後悔したところで、今の僕が昔より賢く、彼にふさわしい言葉をかけてやれるかというと、決してそんなことはない。晶君は僕の隣でしばらく思い出そうとしていたようだったが、ついに諦める。


「いつも作家の名前が出てこない。どうでもいいからだろうか。ああ、困ったことに題名も覚えていないな。ただ内容は覚えている。三人の女の話だ。その話のキーマンが貧乏な男娼だった」

「少し、読んでみたいな。僕にも読めるかな」

「まあ読めないことはないだろうよ。手元に残していたか覚えていないんだが、まあいいさ。君の部屋のポストにでも入れておこう」


 そこでバスは工場街の入り口に停車して、僕達は別れる。僕は一人で坂を登る。九月に入り、暑さは大分和らいできた。和らいだといっても今年は例年以上の猛暑であったので、少し日差しが柔らかいかなといった程度だ。

 今日の天気予報でオフィスカジュアルスタイルのお姉さんが、もうすぐ台風が来てそれが過ぎれば秋模様になるだろうと言っていた。そしてその後、五六歩移動して、今週のファッションについてのコーナーを受け持っていた。

 坂の途中に植わっている木々は既に少し黄緑に色を変えている。まだまだ夜も暑いと言うのに、植物というのはせっかちである。




 工房棟ではいつも通りに受付に座り、あれこれをしていた。金平糖の瓶の残りを確認して、そろそろ硝子工房と飴細工屋に注文を入れてもいいかもしれないと考える。

 そうして夕方になった辺りで、休憩なのか上から琢海さんが欠伸をしながら降りてきた。よれたシャツに、地味なスラックスでふらついている。ピアノを弾くのはやはり大変なのだろうか。


「なんかあったかい飲み物ないか? 手先がどうにも寒くて」

「ええと、まだ缶コーヒーしかありませんね。ブラック」


 琢海さんは少し考えてから、それを注文してくる。僕はクーラーボックス隣のケースから、今はまだそれほど数を入れていない缶コーヒーを取り出して渡す。もう少し寒くなったら、ここにはコーンスープやミルクティーが入る予定だ。


「砂糖とかミルクってないよな」


 僕は首を振って、だめもとで金平糖の瓶を指してみる。琢海さんは少し笑ってくれたが首を振る。それから教室の応接室にあるというクリープを取りに行った。

 それと入れ替わるように由磨さんがやってくる。階段の前で二人は一瞬立ち止まったが、しかし会話をすることなくすれ違う。喧嘩でもしたのだろうか。変な空気が漂っている。


 こちらにやって来て同じようにコーヒーを注文する由磨さんもまた、疲れ切った顔をしていた。由磨さんは溜息を突きながらベンチに座ると、プルトップを引き上げてそのまま飲んだ。そうしていると由磨さんは三十歳にも四十歳にも見える。そんなことはとても言えないのだが。

 何があったのか聞こうか聞くまいか思案していると、そんな僕を由磨さんは笑った。眉間のしわが少し和らぐ。


「いつものことよ。あの子コンクール控えていてね。私までカリカリして」


 由磨さんは両手で缶を持ち、しばらく温かさを楽しんでいた。硝子工房は暑くないのかと聞いたら、今日は一日中客の相手だったのだという。


「琢海に言ったのよ。例えば百メートルを走る黄色人種。この前の世界陸上見た? そんなの一人もいなかったでしょう。聴覚を失った演奏家は? 作曲家じゃないわ。演奏家。世の中どうしようもないことがあるじゃない」


 知っているでしょう。由磨さんの無言の問いかけに僕は頷く。努力や策略が通じない、遥かな高みがあるということを僕は知っている。それはただの事実である。卑屈になっているとかそういう話なのではなく、単なる事実だ。

 夢が皆叶うなら、世の中はオリンピック選手に溢れ、大学生の何人かに一人はノーベル賞だろう。


「あの夢無しでは生きられないというのは、本当なのかしら。そう言ったらあの子、泣くのよ。大人になったのに」


 僕は由磨さんが泣くのではないかと思ったが、そんなことはない。僕は琢海さんを支える由磨さんや研人さんを思い、支えられている琢海さんを思う。そして夢には続きがあるのだという言葉が頭をよぎった。


「由磨さんは、何か夢があったんですか?」

「そうね。あったかもしれない。ああ、学校の先生になりたかった。でも大学なんて行けるわけないわよ。家には金のかかる夢を持った困った子がいてね」


 由磨さんはそう思っていた頃のことを思い出すかのように微笑んだ。それは過去を思い出す人が浮かべる独特の笑みである。困ったと言いながら、困ったようではない。


「でも私は硝子細工師だから、だからその道で一番に素晴らしい作品を作ろうとも思ったの。イタリアにも行ったわ」


 でもね、駄目だったのよ。所詮私は二流。由磨さんは落ちこんだ顔をすることもなく、笑みを崩さぬままそう言った。


「ねえあの子、夢が潰えたらどうするの。生きてゆけるの? いいじゃない。凡庸に生きて。死んでしまうよりましでしょう」


 由磨さんは缶を捨てて階段を登ってゆく。それから見計らったタイミングで琢海さんがやって来る。受付に置きっぱなしになっていた琢海さんの缶は、とうの昔に冷めている。琢海さんは溶けそうにないクリープのスティックの口を割いて、缶の口からさらさらと注ぐ。


「まあ、姉さんが言っている通りだよ。大体」


 琢海さんは先程まで由磨さんが座っていたところに座る。それからクリープの粉を唇に付けながらコーヒーを飲んだ。クリープがざらざらのコーヒーなんて、僕は飲みたくない。かき混ぜるスプーンも一緒に持ってくればよかったのにと僕は思う。

 琢海さんは聞いていたのだろうか。それとも由磨さんが話すと思ったのだろうか。


「琢海さんは、どうしてピアニストになりたいって思ったんですか? やっぱり音楽の力で皆を助けたいとかってやつですか?」

「小学校に演奏に来てくれたピアノ演奏家がめちゃくちゃカッコ良かったんだよ。それだけ。消防士とかパイロットになりたいってやつと変わらない」


 琢海さんは不味い不味いとぼやきながら、コーヒーを少しずつ飲み進めていく。僕は予想以上に簡単で単純明快な答えに内心で驚く。しかし考えてみればそんなものなのだ。陸上選手になりたかった僕の理由も、走るのが楽しいからという簡単な理由に起因する。

「音楽はわかったんですか? 良さとか、美しさ、とか」

「いや全然これっぽっちも。でもなんだかすごいらしい人が、俺の大好きな戦隊のテーマを弾いてくれたんだってことだけ」


 琢海さんはそれ以上の理由はないのだと言い切る。琢海さんもなんとか不味そうなコーヒーを飲み切って、出来るだけ早くカフェオレを入れてくれと僕に頼んだ。僕は台帳にカフェオレを追加しながら頷く。


「俺は音楽に力があるとは思わない。例えばビルのてっぺんから飛び降りようとしているやつに、地上からピアノを弾いたってわからないだろう。音楽に限らず、芸術にはそういう根底をひっくり返す力はないんだ」


 じゃあどうするのかと聞くと、琢海さんはにやりと口の端を上げた。


「駆け寄って抱きしめてやった時にかける言葉に勝るものはないだろ。実際そうやって一般人が救助した例っていうのは、結構聞くだろ。ピアノ弾いて助けたっていうのはないさ」


 琢海さんは缶をゴミ箱につっこみながら立ち上がる。今度は一階の絵画工房からオーナーがやってくるのが見えた。絵具で汚れたよれよれのエプロンを着ていた。


「ああ、でもさあ、でも、目を閉じた時に静かだったら淋しいだろう? 休息の時も何か聞きたいじゃないか。だったら俺が弾いてやる、せっかくだから聞け、って気持ちではあるな。芸術って、そんなもんじゃないか」


 琢海さんはそう言って、コンクールが近いのだと階段を登っていく。入れ替わって受付の前に立ったオーナーは、そろそろ今年も飲み納めなのかもしれないと、サイダーを頼む。

 若いなあと思い、僕は指先を冷やしながらオーナーにサイダーを渡す。暑さも緩んでいるので瓶はもう汗をかくこともない。

 

 オーナーはビー玉を落としてサイダーを飲み始める。開口一番晶君の様子を聞いてくるので、僕は簡潔に行かないと宣言していたと答えてやる。オーナーはやはりさして気にする様子もなく、そうだろうさと言う。

 僕はレタスを片手にあれこれ気を揉んでいたのを思い出して、なんだか少し理不尽だなと思う。しかし彼は、というより彼こそがまさしく仙人であったので、僕には何も言えることがない。


「マイフェイバリットシングスの歌詞はわかったかね」

「それどころじゃありませんでしたよ」


 僕の不満が声に滲んでいたのか,オーナーは少し驚いた顔をして、僕に金平糖の瓶を差し出してくる。しなびた大根のような手には、絵筆のせいなのかたこが目立つ。

 僕はその青いのがいいです、と瓶の上のほうに見える安っぽく薄青い金平糖を指した。オーナーははいはいと返事をして、まるで孫か何かに分け与えるように優しく、そうっと摘んだ金平糖を僕の左手に落した。


「君は青い金平糖を選ぶ。しかし君、その実どれも砂糖さね」

「まあ、そうですけれど。せっかく色がついていますし」


 僕は正直さして金平糖に執着していなかったが、なんとなく反論してみる。オーナーはきゅっとコルクを閉めて、エプロンのポケットに瓶をしまった。金平糖よりなお鮮やかなエプロンである。

 正直口に入れるものを入れるポケットとしてはどうかとも思ったが、オーナーは気にしない性質なのだろう。毎日パリッと清潔なシャツを着ている晶君のおじいさんとは考えられない。


「何も変わらんさ。そのことに気付くのは大人になってからだ」


 僕はサイダーを飲むオーナーを見ながら、この人は挫折をしたことがあるのだろうか、と考えた。つまり本当に金平糖の味が同じだと気がつく人生であったのか、ということだ。

 オーナーはそんなことを考えている僕の目をじいっと見て、まるで好好爺であるかのように笑った。


「君、少し人間らしくなったのだなあ」


 僕は仙人の言葉の意味が全く分からないので、疑問だらけの顔をして見せる。どういうことですかとはっきり聞いてしまうのも、何だか無粋に思えたからだ。オーナーはサイダーをまた少し飲んで、腹の底のほうから息を吐く。


「今まで出会った中で、君が一番、私に似ている気がしていたのだよ」

「僕、ですか?」


 オーナーの言葉に僕は狼狽が隠せない。オーナーは毎日よくわからないことをしゃべっているが、この工房棟を始めとする様々な資産を持つ大画家である。挫折なんかとは無縁だろう。年寄りの低い声で、オーナーは唸る。


「君同様、私もだな、陰惨の香りにめっぽう弱いのだ」


 疑問は瞬く間に氷解する。僕は騒ぎ出していた心臓が、すっと冷やされていくのを感じた。いつの間にか顔を寄せ合っていた僕達は、秘密めいたものを二人で共有したかのようであった。

 だけれども僕はオーナーの目を見ることが出来ない。しかしオーナーは僕の目の中心だけを見ていた。


「だけれども、君は最近、人間の目をするようになった。温かく生臭い人間の目だ。分かるか? 自分の眼差しについて」


 思い当たるようなこともないので、僕は黙っている。それともオーナーの言葉は表面上ではわからない別の意味があるのか。僕にはわからない。少なくとも今の僕が持ちあわせている知識ではわからない。仙人らしい研人さんならわかるのか、それとも博識な晶君なら。

 しかしここにいて語りかけられているのは、まぎれもない僕である。僕は息が詰まって苦しささえ感じる。そこでオーナーは何を思ったのか少し表情を変えて、今日は君に頼みがあって来たのだと言った。


「私のモデルになってくれないかね。一日あれば良いんだが」


 随分突拍子もない依頼だった。もちろんオーナーは画家だから絵のモデルを依頼するということに何ら不思議はない。しかしその相手が僕ということが不可思議なのである。冗談で言っているのではないのだよとオーナーは低い声で言う。僕は催眠術でもかけられているような気分になる。


「訴えかける力のない君だからいいのだ。君の年齢でそういう人は、実はなかなかいない。無気力というのとは全く別の話なのだよ。押しつけがましくない、そういう目をした……」


 わかるかね。オーナーの言葉に僕は首を振る。何一つオーナーの話で理解が出来ることがない。オーナーが笑うと白い髭が微かに揺れる。やってくれるかね。オーナーは唸る。僕は頷く。僕が絵を描くわけではないのだ、と軽く考えることにした。どの道雇い主からの依頼と考えれば、そうそう断るわけにもいくまい。

 オーナーは満足気に笑い、工房棟の受付を閉めている日にモデルをする日時を設定した。僕はオーナーが去った後、ようやく腹の底のほうから息を吸った。しかしどうにも空気が肺に入っていく感じがしない。少し眩暈さえ感じた。


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