あるピアニストの邂逅
【11】
アパートに戻ると研人さんがいたので、僕達は研人さんにレタスの袋を押しつけて、経緯を説明する。研人さんは探してみるかと言って部屋に引っ込んだ。晶君も、研人さんのレシピ探しは時間がかかると言って、自分の部屋に引っ込んだ。
僕は先にシャワーを浴びることにする。今日は仕事の量が多かったので早く浴びたいと考えていたのだ。夜はなにかしらのレタス料理が出るはずだ。研人さんの料理だからそれ程はずれということもないだろう。
シャワーを浴び終わって風呂場から出ると、台所の窓に張り付くように立っている琢海さんがいた。僕は何事かと琢海さんに声をかける。琢海さんは僕に手招きをして窓を示す。
窓にはいもりが張り付いていて、アパートの明かりに寄って来た羽虫を吸引するように咀嚼していた。僕達はなんとなくその様子をしばらく並んで眺める。
いもりの腹は咀嚼に合わせて上下に揺れ動く。ぴっしりと鱗に覆われたクリーム色の腹は思いの外柔らかそうに見えた。
琢海さんは硝子越しにいもりの腹をトンと人差し指で軽く突く。いもりはややめんどくさそうに、ほんの少し場所を移動した。
「なんだか久しぶりな気がしますね」
「確かに。というより、俺なんか、人と真っ当に話すのが久しぶりだ」
琢海さんはそう言って、今度はいもりの顔の辺りをなぞる。すらりと伸びた長い指は、窓の向こうのざらついたいもりと対照的にのっぺりと見えた。
僕はその様を見て、ピアノなのだろうなと思った。琢海さんは相変わらずいもりに構っているので、僕はポカリを冷蔵庫から取り出してコップに注ぐ。
「調子は、どうですか」
「芳しくない。先生は受験組に付きっきりだし、学校ではコンペ組に練習室を取られるし。ああ、先生は、カリカリしてるな」
そこで晶君が自分の部屋から出て来て、テーブル前の椅子に座る。僕は琢海さんの背中が強張ったのがわかった。晶君はチラリとそれを見たが、頓着することなく俺にもくれと僕にポカリを要求する。
僕がポカリを注ぎながら琢海さんを窺うと、琢海さんは怯えのような憤怒のような謎の表情を浮かべていた。それは浮かべたというより、隠し切れなかったように僕には見えた。
晶君は、そんな顔しなくてもいいじゃないですか、といきなり核心を突きに行く。
「君には俺の、足りていない気持ちなどわかるまい。そんな目で見るな」
「わかりませんね。足りていないというのなら奪えばいい。琢海さんがいる世界は、そういう世界でしょう。上品に躊躇してはいけない」
琢海さんを責めたのは晶君だというのに、晶君はまるで責められた側のように顔を歪めて、ポカリの入ったコップを片手でゆらゆら揺らす。コップの中のポカリはそれに合わせて、危なげに縁の際までふらふら揺れた。
痛み分けのような空気の中、僕は不自然に立ち去るわけにもいかず、ちびちびとポカリをすする。窓の向こうでは未だにいもりが羽虫を口にしていた。
僕の視線に気がついた晶君が窓の傍まで寄って来て、琢海さんと同じようにいもりの腹の辺りをとんとんと突いた。僕はいもりが可哀相になる。
「可哀相だよいもり」
「これ、やもりじゃないのか?」
正直な話、僕はいもりもやもりもよくわからない。だから晶君がやもりというのなら、僕はそれをやもりと認識することしかできない。
僕がいもり改めやもりをじっと見てその場をやり過ごしていると、ようやく研人さんはレシピを見つけたらしく、自信満々な笑みを浮かべて流し台下の収納スペースから鍋を引っ張り出した。研人さんは鍋に水を張りながら、僕を窺う。
「なんだよこの空気は。あ、ていうか味噌が足りねえ」
研人さんは水の入った鍋をコンロにかけたところで、自分の財布を僕に放って来た。味噌を買って来いということらしい。断る理由もない上、ごちそうになる立場であったので頷いて玄関に向かう。
白か赤かと聞くと、あわせの出汁入りという返事が返って来たので覚えておく。僕がスニーカーの紐を結んでいると、晶君が自分も行くと言って、自分の財布を持って僕の隣に並んだ。アイスが食べたくなったのだという。どうも彼は甘党のようだ。
近場のスーパーまでは歩いて十五分で、風呂上がりの僕の髪を夏の青い匂いのする風がぐしゃぐしゃとかき乱した。晶君はされるがままの僕の髪を見て笑った。晶君は良い風だと緩く両手を広げる。それから少し後ろを歩く僕を振り返った。
「味噌なんて、俺のをいくらでもあげるというのに」
晶君は笑っていなかった。眉をひそめることも口の端を歪めることもなく、ただただ表情というものがなかった。僕は僕で、僕らに味噌を買いに行かせた研人さんを思った。
僕らはスーパーに入る。入り口で僕がカートを引き出すと、晶君はかごを乗せた。僕らはセールになっていた合わせ味噌の出汁入りをかごに放りこみ、アイス売り場をうろつく。
色とりどりのパッケージはスーパーの光の下で眩暈がするほど鮮やかだ。晶君はその内の二つを両手に取ってかごに入れようとしたが、躊躇するように元の場所に戻した。
「皆して俺のことを知っていたろう。ひどい話だ」
晶君は僕に笑いかけようとした。しかし笑い損なって晶君のシャツに一点、薄鼠色の染みが出来た。晶君は、ひどい、ひどいと繰り返す。
「ひどい、ひどく、狭い世界だろう。俺はあそこにいたら、俺は、俺があれに食われて死んでしまうだろうと思ったんだ」
「あれ?」
晶君はしゃくりあげることはなく、ただその一点を作っただけであった。それが彼の意地でもあるようだ。
彼はあれという何かについては説明することなく、もう一度、今度は別のカップアイスを手に取った。みぞれと苺である。僕はざくざくしたアイスはあまり好きではない。
「どちらがいいかい。俺はどちらかというと、苺だ」
「僕は最中アイスが食べたい。中に苦いチョコレートの板が入ったやつ」
晶君は二つとも戻して、今度は最中のアイスを両手に取る。
「俺は君に、俺のことを知られたくなかった」
何故だかは、わかるか。晶君は僕の目を見て声を潜める。君と同じさ。晶君は両手のアイスを手放して、僕のカートの傍までやって来る。通路の端には、僅かな影が出来ている。照明を受けて明るい茶色であった晶君の目が、すっと黒くなった。
智慧の光の影のようさ。そう言ったのは、誰で、誰に向けた言葉であったろうか。僕は思い出すことが出来ない。
「君も肝心なことは話さない。そういうことさ。挫折の記憶は、そう誰かと共有したいと思うものじゃあない」
数少ない、俺のことを知らない君、君の無知に俺は救われた気分であった。
晶君の言葉を聞きながら、僕はその関係が終わることを感じた。晶君は、君もアイスを選ぶといい、僕と入れ替わってカートの横に立つ。僕は押し出されるような形でアイスの前に立つ。
ジェラート、シャーベット。アイスには様々な種類がある。僕はその中から苦いチョコレートの板が入った最中アイスと、カップに入った半透明のみぞれアイス。それから一箱に六本の棒アイスが入ったものをかごに入れた。僕達は会計を済まして、帰り道を歩く。
「三笠の家の話は、知っているかい。流石に君も工房棟関係者だからわかるか」
僕は頷く。晶君はアイスの入った袋を揺らしながら少し笑った。
「ああ、三笠、晶君だったね。そういえば」
「それでなくとも、あいつの孫っていうのは知っていただろう」
僕は自分の考えの至らなさに、今更ながら呆れる。だけれども自分の周りをふわふわと漂っている事項がそうきちんと噛みあっていくことなど、想像できるわけがない。
無関係と思っていた外側の、研人さんでいうシアルの物事が自分というニフェに近づいてゆく。
僕は晶君の言葉を待つ。日が沈み切った後に微かに残る光が、僕達の正面で消えようとしている。眩しくなくていい。僕はそんなことを考えた。
「俺の家族はピアニストだった。俺も例外ではない。はは、俺、多分琢海さんよりピアノうまいぜ。なんせ生まれてからずっと英才教育だ」
晶君はそんな軽口を叩く。僕は琢海さんの、百に百をかけたらという言葉の本当の意味を思い知る。琢海さんを見る研人さんの眼差しの意味も。足掻く自分の前にこんな怪物がいて、同じ屋根の下で暮らしているのだ。
「でも前に言ったろう。芸術家は大抵碌な死に方をしない。俺のところは一家心中だ。俺がコンクールから帰ってきたら、クソ爺の家に預けられてな。人伝に聞いた」
一家心中なんて、そんなの小説か新聞記事ぐらいでしか見ないだろう。晶君は淡々と話す。僕の鼻は、陰惨の香りを嗅ぎつけられない。腹の底がむず痒くなるような高揚感が感じられない。
笑ってしまったよ。晶君は本当に笑みを浮かべて見せさえした。
「でも、俺はピアノを弾くしか知らなかった。そうやって生きる以外なら、死ぬんだろうな、と思っていたさ」
研人さんと出会ったのはその頃だ。晶君はそこで意外にも研人さんの名前を出す。僕達は立ち止まって話していたわけではないので、当然アパートが見えてくる。
晶君は躊躇せずに扉を開けて、ずかずか入って冷蔵庫に袋の中のものを入れる。琢海さんは缶ビールを飲んでいて、研人さんはレタスをちぎってボールをいっぱいにしていた。
晶君は研人さんの目の前に味噌を置くと、小さく頭を下げた。研人さんは煮立っている鍋の中で味噌を溶き始め、ボールの中のレタスを入れてしまう。
「何を作るんですか」
「レタスの味噌汁。あ、そんな顔をするな。本当にある料理なんだぞ」
研人さんはそう言って、味噌を溶き終わった鍋に見当もつかない調味料類を投入した。茶色い粉末や、クリーム色の粉末が味噌汁に溶ける。
晶君は冷蔵庫から二本缶ビールを取り出し、琢海さんの正面の席に置く。一本は僕の分らしく、目で合図して来た。僕が彼の隣に座ると晶君はいい音を立ててプルトップを引き上げて、喉を鳴らしてそれを飲んだ。
「挫折、挫折の話をしよう、古賀。俺はな、俺自身の選択を挫折とは思っていない。ピアノを弾かずに生きていく、この先の人生をだ」
僕のほぼ正面で、琢海さんはじっと缶ビールの飲み口の暗黒を見つめていた。晶君は僕に呼び掛けながら、僕だけではなく、この場にいる他の二人、それかもっと広い場所へ呼び掛けていた。
それはニフェからシマを通ってシアルへの呼び掛けであった。
「なあ、俺は生きている。そうだろう。こうしてビールを飲んでいるのだから。だから、生きてさえいれば、それは挫折とは呼べまい。少なくとも俺にとってはそうさ。形は変われど、俺は生きている。ビールを飲んでいる」
晶君はもまた、ビール缶の中の暗黒を見つめていた。僕は自分の缶のプルトップを引き上げて、その中を覗いてみる。僕はまだ一口もビールを飲んではいないので、大粒のビールの泡が白く飲み口から溢れ出ている。
隣の晶君の缶の中をそっと覗いてみると、彼の缶の中にはブラックホールが広がっていた。琢海さんは目を細めてビールを飲む。それから長い長い溜息を吐く。目の周りがくぼんでいる、疲れ切った顔をしていた。
僕は琢海さんの言葉を待つ。琢海さんは僕の腹の底がよじれるぐらいの陰惨の香りを放っていた。僕はビールを飲む。苦いビールであった。
「微妙に違うじゃないか。晶。嘘つきめ」
静かな声で晶君を諌めたのは、鍋をかき混ぜていた研人さんであった。研人さんはコンロの火を止めて、お玉を脇に置いた。それから琢海さんを立たせて、晶君の部屋の扉を開けた。
「いいか晶、全部教えるっていうのは、つまりこういうことだ」
晶君は焦ったように立ちあがる。しかし僕の座っている位置からも、部屋の前に立たされた琢海さんからも、遮るものなく晶君の部屋が見える。
晶君の部屋はとても簡素な部屋であった。窓の下には白いシーツのベッド、その隣に小さな硝子のテーブル。生活必需品や細々したものは押し入れに収納しているのか、僕のいる位置からは見えない。
部屋の大部分を占めているのは、ヘッドホンの付いた大きく立派な黒いピアノであった。それが部屋の真ん中にあるので、細々したものが見えないのかもしれない。
僕の隣で、缶ビールが震える。顔を真っ赤にした晶君から、とてつもない陰惨の匂いが立ち上がった。
「こんな空気だけれども、お前ら、きちんとここに座って飯食えよ。逃げるんじゃねえぞ。逃げたってどうせまた顔を合わせるんだ。困ったことに世の中は大体そういう風に出来ている」
研人さんは凍りついている琢海さんに、由磨を呼んで来てくれと唸るように低い声で言う。それから晶君には飯を全員分盛れと言い、僕には食器棚から皆の分だけ食器を出せと言う。
僕はご飯の椀と汁ものの椀を出しながら、小説やドラマなら、場が凍りついたところで幕が閉じるなり暗転するなりするのになあと思った。残念ながら世の中にはそんな便利な機能が実装されていない。
由磨さんは堅い表情の琢海さんに連れられて降りて来る。この場にはいなかったが、なにかしら察してはいるのだろう。それとも一階の声は存外二階にも響くのかもしれない。
僕達は小さなミニテーブルを囲んで、肩を寄せ合うように夕食を食べた。レタスがたっぷり入った味噌汁は意外にも美味しい。レタスの軽いサクサクした食感は味噌汁の具としてマッチしていた。
僕達はぼそぼそと飯を食い、ぼそぼそと研人さんに美味しいとお礼を言った。それからちびちびとビールを飲む。
研人さんと由磨さんは終始なにかしらの話をして、晶君と琢海さんは時折それに相槌を打ちながら、どんどん空き缶をそれぞれの脇に重ねていった。
「やっぱりね、たけのこよりきのこよ。林檎味出たのは知ってる?」
「そういう限定ものはイロモノだろう。シンプルな標準で勝負をするべきだ」
由磨さんと研人さんは一杯しか飲んでいないのに、酔っ払いより酔っ払いらしい会話をする。僕は林檎が食べたいなら林檎を食べるべきだと適当に受け答えしていたら、両方にわかっていないなと笑われてしまった。
会話は次々と飛んで、今度はアイスの話へと移る。
「この夏はガリガリ君のフレーバーがたくさん並んでいたけれど、私はリッチチョコレートが一番好き」
「ええ? あれ百二十円もするだろう。百円を超えた時点で俺はあれをガリガリ君とは断じて認めない。梨味がいい。でもあれも少し林檎の味がするな」
研人さんの言う林檎の味の話も気になったが、誰もコーンポタージュ味の話をしようとしないので、僕がコーンポタージュ味の話をすることにする。
研人さんも由磨さんも口を揃えて、何故見えているトラップを踏みに行ったのだと僕に追求を始める。
「溶かしてスープにすれば美味しいって僕の友達が言っていたんですよ」
「いや、アイスだろう。溶かしてどうする」
研人さんが大真面目な顔で、至極まともなことを言う。由磨さんはゲテモノ好きだったの? と僕を怪訝な目で見て来る。
「不味いのを、不味いねって言い合って食べるのが好きなんです」
「美味いのを美味いって言い合って食べるのではなくてか?」
研人さんが首を傾げながら、レタスの味噌汁のお代わりを椀に注ぐ。お前ももっと食えと、僕の椀にも無理矢理注ぎ入れて来た。僕はなんだか恥ずかしくなって、酔っ払ってしまえないだろうかとビールを飲んでみる。苦い。
「美味しいのを美味しいって言い合えるのは、それ程親しくない人とでも、割と簡単にできるじゃないですか。でも不味いねって笑い合うのは、なんというか、親しい人とじゃないかって」
「コーンポタージュ味を食べた時も、そうだったの? 学校の友達?」
由磨さんが穏やかな目をして僕にそう聞いて来る。由磨さんの隣で研人さんも似たような顔でビールを飲んでいた。僕は頷いて、いつも一緒に授業を受けている二人の話をする。
そこで僕はアイスを買って来たことを思い出す。僕と晶君は自分のアイスを、研人さん達はいくつかのフレーバーの入った棒付きアイスの桃味を三人で取り合っていた。
食後に皆がそれぞれの部屋に引き上げた後、僕と研人さんは皿を洗っていた。研人さんが濯ぐところまでやって、僕が拭いてしまうところまでだ。
食事の時は気がつかなかったが、研人さんは結構な量の空き缶を自分の脇に積みあげていた。由磨さんも結構な量の酒を買っていたようだ。
「晶君が、僕にピアノの話をしてくれました。研人さんに会ったところまで」
研人さんは最後に鍋を念入りに洗って、僕に渡す。僕は念入りに鍋を拭いて流し台の下にしまう。研人さんは自分の手をハンカチで拭きながら答えてくれた。僕は窓辺に立ちながらそれを聞く。やもりはもういなかった。
「本当に偶然の話だ。琢海に用があって工房棟に行った時に、ピアノの前で一曲弾いてから途方に暮れている晶がいてな。ああ、その時の曲、俺には音楽はさっぱりだが、琢海とは次元が違うっていうのはわかった」
だから拍手したんだが、凄い睨まれた。荒んだ目だった。研人さんはそう説明して何故かくつくつ笑う。だが、所詮は良い育ちの目であったと付け加えた。気位の高い猫といった感じだろうか。
「大体のことは琢海から聞いていたしな。だから俺は小さな世界だと笑った。俺は晶に懇切丁寧に蜂の巣のハニカム構造の有用性から宇宙の果ての話までをしてやった」
意味がわからない。僕がそう眉間に皺を寄せると、さして意味はなかった。何の話でもよかったのだと研人さんは言う。研人さんはもう酒は十分らしく、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いで椅子に座った。
「ピアノを捨てて生きたいのだと言ったから、俺はピアノを知らない俺の話をした。分析機器の前に座り、計算式に苦脳する日々の話だ」
高校生の晶がそれに乗ったから、俺が知っている限りのことを教えて大学に進学させたまでだ。ただそれだけの話だ。研人さんは淡々とそう言った。それから変な情が湧いたのだとも言った。
「どうも他人事だとも思えなかった。俺もこの道の素晴らしさと辛さを知らなければ、同じように途方に暮れていた。そう思ったら五時間、喉が枯れるまでぶっ通しで晶に話をしなかったろう」
「晶君は五時間黙って聞いていたんですか?」
「ああそうさ。ピアノの椅子に座ってじっと聞いていた。俺は立ちっぱなしで二時間辺りで疲れて床に座った。そうしたらあいつもピアノの椅子から降りて床に座った。俺達は残りの二時間は床の上で胡坐で過ごした」
残りの一時間はどうしたのかと聞く。すると研人さんはコップを置いて、するりと床の上に仰向けに寝そべった。
研人さんの顔のすぐ脇にゴキブリホイホイが置いてあったが、研人さんはさしてそのことに頓着することもない。僕は中身が入っていないことを祈った。
「夜中の十一時を回って、星が綺麗でな。だからピアノの横に寝そべって天窓から見える星を適当に指しながら、宇宙や惑星の話をした」
ニフェとシマ、シアルとその向こう側の話はその時に初めてしたのだ。研人さんはゴキブリホイホイと同じ方向に並びながらそう言った。僕はそっとゴキブリホイホイの中身を確認する。なにも入っていなくて安堵した。ここで何か恐ろしいものが入っていたら、正直研人さんの話どころではない。
「僕も研人さんの話、聞いてみたいです。学問の話ではなく、研人さんの話が」
研人さんは身を起して、今度な、と笑った。