レタスとこころ
【10】
夏も盛りを過ぎようとしている頃、僕は部屋で世界陸上を見ていた。弱目に効いたクーラーの風の下で、風呂上がりのサイダーを飲みながら。世界陸上を見るということは前々から決めていた。
世界陸上はリアルタイムで日本で見ると真夜中なので、それに合わせて生活リズムを逆転させるまで、僕は徹底していた。待ち時間の間は、いよいよ終盤に差し掛かった『こころ』を読んでいた。
真夜中に、熱の入った実況を聞きながら読書をする自分に、少し笑いたくなる。自分のことではあるがあまりにも滑稽であったので、巻末の解説に目を通し始めたところで、とうとう腹の底が潰れるほど息を殺して笑った。
するとその声が聞こえてしまったのか、研人さんが部屋から出て、僕の部屋のドアをノックした。
「どうした。というか起きているなら入れてくれ。クーラーの調子が悪い」
扉を開けると、そこにはパソコンを持った研人さんがいた。どうも僕が起きているとわかった時点で、僕の部屋に乗り込んでくる気でいたらしい。研人さんがあんまりに汗だくなので、僕は冷蔵庫からポカリを出し、食器棚からコップを二つ出した。
部屋に戻ると研人さんは僕の部屋の小さなテーブルを占領して、我が物顔でパソコンを広げている。僕は研人さんのパソコンの横にコップを置いてポカリを注ぐ。湿気の多い夜であったので、コップはすぐに汗をかいた。研人さんは手を濡らしてコップの半分までポカリを飲むと、僕に聞いた。
「陸上部だったのか。あんまりそんなイメージないのにな」
「よくわかりましたね。やはりこんな夜中に見ているからでしょうか」
うるさくしてすみません。僕がそう謝ると、研人さんは既にキーパンチを始めながら首を振った。テレビの中では黒人が等間隔に並んでいた。百メートルが始まる。
「なんだろう。というか、お前は自分の興味の外で頑張っている人を見て楽しむ趣味はなさそうだから、じゃあ部活かな、と」
研人さんにしてはなんだか遠回しな物言いであったが、はっきり言えと問いただす勇気は僕にはなかった。研人さんはキーパンチの手を少し緩めてから言葉を続ける。
テレビの中では人々の絶叫の中、一歩およそ最低五メートルで超人達がテレビの端から端までを駆けていった。
「それにサッカーとか野球とか、やらない人にもファンが多いって奴は、あれ、団体競技だからな。個人競技好きなヤツは、大抵自分も何かやってるヤツだ」
「どうでしょう。少し偏見のような気もしますが」
カリカリと研人さんのパソコンが処理音を立てる。まるで研人さんの代わりにパソコンが頭を動かしているようであった。テレビは女子障害の準備を少し放送してから、缶チューハイを持った綺麗な女の人の映像に切り替わった。
「障害ってあれだろ、水に入るやつ。あの靴欲しいな」
研人さんはそんなとぼけたコメントをしながら、ポカリを飲み干した。それから、ただ世話になるのもなんだなと、バイト先での余りらしい水饅頭を、皿によそって持って来てくれた。
硝子の透明な器の中で、研人さんの動きに合わせて水饅頭が揺れている。冷えている内に食べろと研人さんが急かすので、僕は器を受け取って、水饅頭を口に運ぶ。
さっぱりと甘く、もちもちした食感だった。中には黒豆が一粒入っている。僕がすくった部分が欠けて、その部分は光を乱反射させていた。おいしいですと言うと、嬉しそうに研人さんは笑った。
CMが明けると、ちょうど障害が一斉にスタートしたところだった。カメラは選手の集団の分布を映すために、遠目から走り始めた一団を撮影する。
「なんというか、あれだな。濃いな」
研人さんがそう零しても仕方がないほど、選手は黒人ばかりだった。彼らは生まれついてのスプリンターである。極限の世界に、黄色人種は見当たらない。
研人さんのパソコンは相変わらずカリカリと音を立て、忙しなくあちこちのランプを明滅させていた。ファンも回りだしたようで、研人さんの座る一角がいろんな音でいっぱいになる。
どうも研人さんはパソコンの処理を待っているようで、手持無沙汰にテレビを眺めていた。
一方のテレビは再び短距離へと切り替わった。今度は決勝で、かのポーズで有名な黒人選手を筆頭に、世界に名を馳せる黒人選手が並んでジャージを脱いでいた。
「なあ正直に答えてくれよ。ここに並ぶことは、黄色人種には無理なんだろう?」
研人さんは一変して、とても静かな声でそう僕に聞いて来た。僕はどんな顔をして研人さんがそんな声を出したのだろうかと、そこで初めてテレビから目を離して研人さんを見た。
研人さんはどんな表情も浮かべずに、ただただ無表情であった。テレビのアナウンサーは有名選手の輝かしい戦績と痛ましいミスを、まくし立てるように説明していた。
「まあ、無理でしょう。骨格的に歩幅の限界域が小さいですから。筋肉の作りも違いますしね。これは根性論ではどうしようもありません」
「お前、黒人と走ったことがあるのか?」
何度かあると答えると、研人さんは黙り込んで、画面から顔を上げて僕を見る。それからぼそりと、お前から挫折の匂いがぷんぷんするのだ。と呟いた。
研人さんは温み始めた自分の水饅頭を一気に食べると、スプーンをカランと音を立てて硝子の器に放りこんだ。
「由磨といい晶といい、お前といい。どうして皆そうなのかい。それとも、シアルを知ると、皆そうなのか?」
「研人さんのやっていることだって、そうじゃないんですか? 優れた研究者、そうでない研究者」
研人さんはああ確かになあ、としみじみ頷き、俺は優秀だからなあと笑って見せた。テレビの中では選手がクラウチングのポーズに入り、ピストルまでの胸の痛くなる静寂が訪れていた。
ライブ映像で見ることの利点は、この静寂にテレビ局が無粋なナレーションを入れないところだと僕は思う。これが明日のニュース番組になると、背筋の痒くなるナレーションと選手の横顔のカットが入れられる。
そしてピストルと共に、選手が地面を蹴り上げる。僕は瞬間的に、ああいつもの展開だなとわかった。そして電子タイマーを止めていつものポーズを決めたのは、やはりあの選手だった。
大抵、瞬発競技は走り出す前に勝負は終わっている。僕は真夜中だというのに笑って拍手をした。
「なら研人さん、見当もつかないでしょう。挫折する人の一人一人のことだなんて。責めているわけではないんです。そういう人こそ、大切ですよ」
研人さんもつられたように僕の隣で拍手をする。そして、こういうめでたい時には酒だろうと、冷蔵庫から冷えたビールを二本持って来た。
僕はつまみになるようなものがないだろうと入れ替わるように冷蔵庫を覗いてみたが、生憎キュウリが数本しかなかったので、味噌にみりんを入れて練って一緒に出した。
「切らないのかよ」
「いいじゃないですか。美味いですよ。丸かじり」
僕はへただけを歯で噛みちぎって吐き捨てると、味噌も付けずにがりがりと咀嚼する。身体が冷える、青い香りがした。研人さんは少し迷う素振りを見せたが、きゅうりを四等分に割ってから味噌を付けてビールを飲んだ。
「俺は目の前のお前達のことさえ、さしてわからないというのに、ましてお前の向こう側にある悲嘆ってやつ、のことなんて。わかれよってその慟哭こそ、傲慢だとは考えないのか。まあ、俺が淋しいって、ことなんだけれど」
研人さんはへたの部分を綺麗に折り取って、硝子の器に放りこむ。少し熱の冷めたテレビはフィールド競技に切り替わっていて、今大会のロゴマークにもなっている棒高跳びの中継をしていた。
今大会ヒロインのロシア人。彼女が準備をして手に滑り止めの黒い液を塗りたくっているのが、アップで放送されている。白人らしい白くて長い手に、黒い液が滴っていく。
研人さんはぽりぽりと小動物のようにきゅうりの端を控えめにかじっては、豪快にビールを飲んだ。アナウンサーは、緊張の面持ちですね、と誰でも見ればわかるような解説をしていた。
画面にはヒロインのアップの顔が映し出されていた。彼女の瞳は縁は緑なのに中心は黄色というグラデーションをしていた。僕は緑なら全部緑で、青ならば全部青だと思っていたので、その事実に驚いた。まさか競技の時にカラーコンタクトはつけまい。
研人さんにそのことを説明すると、何を言っているのだという顔をされた。
「俺らだってそうだろう。黒目が全部まっ黒ってことはないさ。ほら」
研人さんはそう言って僕に向かって目を見開いて見せてくれた。確かに研人さんの瞳も、縁から中心に向かって少しずつ色が変化していた。研人さんの目はテレビの光を受けて、澄んだ薄茶色をしていた。色素が若干薄いらしい。僕はお礼を言う。そして唐突に由磨さんが言っていたことに思い至る。
「由磨さんが、イタリアの人は虹色の目をしている。本当なんだって言っていました。あれはこういうことなんでしょうか」
ロシア人とイタリア人の違いが、僕にはさっぱり分からない。研人さんも曖昧に首を傾げていた。テレビの中で長身のヒロインは棒をしならせて、高く空を飛んでいた。
そのシルエットはまさしくロゴマークのようであった。あんなに高くまで飛んで、高くから背中を向けて落ちるだなんて、息が止まりそうだ。
「俺もイタリアの目はわからないけれど、でも、由磨は、イタリアから帰ってきて、変わったと思う」
だから俺はシアルも、シアルに触れて変わる内側のシマも、少し怖い。研人さんはそう言って、中空にきゅうりをペンにして入れ子構造の丸を三つ描いた。研人さんは酔いが回って来たのか、饒舌になる。テレビは時間の都合なのか、世界陸上までの個人のハイライトを放送していた。
「おう、なあ存外、人間って頑丈さ。絵に描いたみたいな悲劇の前でも、その時は俺の口は動くし、身体も頭もそうだ。そうすべきさ。だって、周りの人は、悲劇的なわけではないからな。口で何を言っても結局置いていくだろう」
僕はハイライトと研人さんの言葉を聞きながら、きゅうりを乱暴に噛み砕いた。皮の厚いきゅうりであった。研人さんは僕の様を見て、全く、獣のようだと笑って僕の後に続いた。
翌日、僕は二日酔い気味の研人さんを部屋から追い出して、大学の講義室で授業を受けた。僕の両隣では相も変わらず二人の男女が、どことなく悲壮の気配を漂わせて授業を受けていた。
それでいて、僕がそれぞれに話を振ると、それぞれは笑顔で話に応じ、また、それぞれも話を振っていた。彼らは研人さんのように、悲嘆に暮れないという選択をしたのだろうか。
一方の先生は、ここはテストに出しますよと前置きをして、黒板の白い文字を、赤いチョークでカツカツ叩いていた。半分聞き流していた僕には、脈絡がわからない。あとで配られたプリントを確認してみようと思いながら、訳もわからずノートを取る。
「学問は心のためにするのです。生き方とは、すなわち心ですから」
その日の授業が終わり、僕達は帰り支度をする。バイト苦の彼は、謎のコールボーイ以外にも昼のバイトも続けていた。
ちなみにコールボーイをしていることは、ハーマイオニーこと湊さんには秘密らしい。僕は相変わらずコールボーイがなにかと調べていなかった。湊さんは自分の取ったノートを注意深く確認していたが、ふいに顔を曇らせた。
「学問が心のためだというのなら、心のために、身体は置き去りなの?」
「僕は、身体を壊したら元も子もないと思うんだ」
「はは、耳が痛え」
そういうつもりじゃなかったのよ、と湊さんは肩をすくめてバイト苦のロンを笑う。彼はしかし意地だというように、耳を塞ぐジェスチャーをしながら、彼女の問いに答えた。
「でも実際問題、学問には金がかかるわけじゃん。皆が皆親からポンと金が出て来る訳じゃねえしな。じゃあ未来の生き方、えーと心? を生かすために今の身体に頑張ってもらうしかないんじゃねえの」
どうよ、と彼が聞いてくるので、僕は良い問題提起のあるレポートが書けるのではないか、と答えた。そこで彼は、語っちゃったなと慌てて茶化しにかかった。そこで僕は、これが教職員養成の授業だと思い出す。
「はは、でもまさか子供にはそう教えられないだろう。そんなことを言ったら、大問題さ。身体を切り売りすることにも取られてしまうだろうね」
二人は同じように肩を竦め、全くそうだと笑った。
その日のバイト先へのバスは誰も知り合いが乗って来なかったので、僕は一人でバスに乗る。一番後ろの席に陣取り、晶君のように読書をしようと思ったが、思いの外バスが揺れるので諦める。僕はあまり乗り物に強い方ではない。
しょうがないのでバスの外の景色を眺める。九月に入り夏休みが終わった小学生が、ランドセルを背負って下校するのが見えた。皆一様に日焼けしているかと思えばそんなことはなく、白い肌のままランドセルを背負う子供も多い。夏休みにプールではなく塾通いをする子供も多いのだろう。
僕が塾に通ったのは、高校三年生の一年間だけだ。それまでは小学校のバスケ部以外は、陸上部一筋であった。スポーツ推薦も狙える程であったが、よくある話で、脚を故障した。
それはなにも僕だけに降って来た悲劇ではなく、日本のあちこちでよくあるありふれた悲劇であることを、僕は知っていた。残念ながら、悲劇はありふれているようで、僕は僕自身を含めて、悲劇の匂いがしない人を見たことがない。
それとも悲劇は悲劇を呼ぶのだろうか。似た性質の人は群れるという事実は、心理の授業ではよく聞く話だ。
アパートの人も、両隣の彼彼女らも。それともこれは僕の思いこみなのだろうか。例えば研人さんの、個人競技を好む人の話のような。
僕の通っていた塾は地元で一番大きな塾であった。一年間だけというのもあるが、幸運なことに僕の両親は僕の教育費を惜しむことがなかった。僕が脚の故障から立ち直って前向きに勉強する、という筋書きに追い風を吹かせたかったという思惑もあったのかもしれない。
とにかく僕はその塾に行くことになった。実際には、僕は走れない僕を二度と見たくはなかったので、逃避の心持ちでいた。大学では、運動とは真逆の生活をしようと思っていた。
僕はあのトラックの赤茶色い地面に崩折れた瞬間、それまでの僕は死んだことを悟った。
そもそも部活での僕のあだ名が、銀であった。つまり万年二位であるということであったが、そのままでは洒落っ気がないと思ったのか、コーチが僕をそう呼んだことに起因する。
そう呼ばれている時点で、僕は既に少しずつ死んでいた。僕のことを銀と呼ぶことで、その瞬間、呼んだ人は僕を万年敗者と見るのだろう。唯一僕を名前で呼んだのが、大会でいつも僕から一位をかっさらう、他校に在学する黒人であった。
彼は高校入学の時点で既に某有名大学への進学が内定していた。そんな環境であったから、僕は察しだけは良かった。
僕のわずかに後ろで三位を争っているたくさんの人から、常に陰惨のほの甘い香りが漂っていることを、僕は常に感じ取っていた。それは僕を脅かすものであったが、同時に優越感を与えてくれる数少ないものであった。
僕は優越を感じ取る自分を自覚していた。よかった、まだマシだ、と。だからだろう。僕は陸上を止めた今でも、挫折や屈服の放つ陰惨の香りに弱い。
僕はバスが目的地についたので、そこから降りて長くて緩い坂を登る。一日の中での暑さのピークは過ぎていたので、時折向かい風が涼しく僕の汗を拭いてくれた。
蝉は相変わらず地面に落ちていたが、時々じわじわ動いているものもあった。途中ですれ違った女子高生達は、甲高い声で気持ち悪がっていた。短いスカートをひるがえして、蝉を避けるための奇怪なステップを踏む。
ステップに合わせて彼女らのローファーは艶々と光る。彼女らは坂の途中で走り出したらしく、不揃いな足音が僕の背中にぶつかった。おそらくバスが来たのだろう。
走る足音の中から、ユウキとかたことに呼ぶ彼の声が聞こえる気がした。時々そういうことがある。僕は聞きたくないはずなのに。
工房棟に着くと盆明けのおばさんが、お土産だと言って僕にお好み焼きせんべいをくれた。大阪の出身らしかった。僕がおばちゃんのつけた帳簿を確認していると、入れ替わるようにオーナーがやって来て、ミネラルウォーターを頼んだ。僕はクーラーボックスからエビアンを出す。
「君まで、憂鬱が滲み出ている」
「暑いですからね。僕の他にもいらっしゃるんですか?」
僕は適当に受け流す。オーナーはキャップを開けて口を湿らせる程度に水を飲むと、どこもかしこもさ、と言った。
「上はピアノのいつものあの子。あの子に引っ張られて由磨も上の空だ。修繕員もミスがあったみたいでの、しばらく頭を冷やせと言って来たところだ」
僕は盆の最中の修繕員の頑張りを見ていたので、何とも言えない気分になる。頑張りというものは、どの分野であってもなかなかどうして実にならない。そういうものなのである。
「まあ、由磨のアレは今に始まったことじゃないがね。イタリアから戻って来て何年か経ったが、ずっと、ああなのだ」
「そうなんですか? 僕の知っている人もそんなことを言っていましたが」
「そうさ、外に出て目が少し暗くなった。智慧の光の、影なのだよ」
もしかしたらオーナーはなにかしらの形で、由磨さんにそう告げたのかもしれない。由磨さんの言っていた虹の瞳の本当の意味は、別の場所にある気がしてならなかった。
オーナーはそこで部屋に何かを取りに行き、スーパーの袋を持って戻って来た。そしてそれを僕に渡す。
「今朝の貰いもののレタスなんだがね、とても一人では食べきれん。由磨や君、アパートの人で食べるといい。ああ、晶にもだな」
僕はレタスの置き場所を少し考えていたが、金平糖を置くバックヤードでいいかという判断を下す。
オーナーはまたも口を湿らす程度だけ水を飲む。そして鼻歌を歌った。マイフェイバリットシングスだ。僕がその題名を告げると、オーナーは目を半月にして笑みを浮かべた。最近はこの曲を知っている若者が少ないのだ、と。
「私は猫アレルギーだから子猫の髭は気に入らないが、アップルパイは好きさ」
「すみません。歌詞はちゃんと知らないのです」
「ほう、それは勿体ない、あれはとても素晴らしい曲だ。晶にでも聞くといい」
オーナーは僕が晶君に聞いたということを察したようだった。
「そのついでで良いから、晶に伝えてくれんかね。親の墓参りぐらい行きなさいと。晶以外は大抵皆顔を出すぐらいはしたというのに」
オーナーはそう言って水のほとんど減っていないボトルを振りながら部屋に戻っていく。どうもオーナーは言付けが目的だったようだ。
僕はレタスをバックヤードにしまうと、再び帳簿に目を通す。盆が過ぎて客足が戻って来たのか、金平糖の瓶が多く売れていた。僕はいくつか補充をすることにする。そして団体客の予定が入っていたので、駐車場を兼ねている裏庭の掃き掃除もすることにした。金平糖の角が取れないように慎重に瓶詰の作業をする。
どうしても形の悪いものは、少しもらって自分の青い小瓶に詰めた。それが終わると、再びバックヤードに行き、虫よけスプレーをかけると、箒を持って裏庭に出る。
裏庭には案の定蝉の死骸がところどころに落ちている。僕はそれをかき集めて林の方に寄せて、土や葉をかぶせた。墓づくりという意識ではなく、単純に死骸を土に還す作業である。
そうして盆明けの作業をしていると、あっという間に閉館時間となる。僕は受付を閉めて各階に持っていく。絵画工房はミスの埋め合わせなのか別の大仕事のためなのか、残業の修繕員が多く居残っていた。
ピアノ教室はいよいよ受験に向けてスパートが始まり、エリート少女がこれからレッスンを受けるのだと、先生の代わりに帳簿の確認をしてくれた琢海さんが教えてくれた。
唯一硝子工房は閑散としていたが、客が一人残っているらしく、応対している由磨さんが、少し待っていてと僕をいつもの椅子に座らせる。
由磨さんは女性客に手鏡を持たせて座らせていて、自分は後ろに回って女性の髪を結いあげていた。よく見るとそれは硝子細工の揺れるかんざしで、由磨さんは女性に髪の結い方を実践しているようである。
なかなか力がいるようで、由磨さんは痛くないですか、と客に聞きながらもぐいぐいと髪を引っ張り上げているように見えた。僕からは手元がよく見えているが、髪はねじられたり巻き上げられたりと忙しなく、お洒落は大変なのだろうなと僕はぼんやりそれを眺めていた。
そうしている内になんとか女性の髪形が完成する。頭頂部よりやや下で纏められた髪の下、かんざしの硝子細工が揺れている。薄桃色や水色のそれは滴の形をしていた。女性客は感嘆の声を上げて、かんざしの細工を指でなぞって揺らす。
由磨さんはポケットから櫛を出して、纏める間に乱れてしまった女性の前髪を、ふわりとした形に整えた。
「素敵な櫛ですね。それもここの工房で作れるのですか?」
「いいえ、私物なんです。でも私の髪が剛毛で、なかなか使う機会がなくて」
由磨さんは女性の前髪を整え、素敵に仕上がりましたと言う。女性は嬉しそうに会計を済ませると、僕にも会釈をして入り口から出ていった。由磨さんは僕から帳簿を受け取ると、サインをする前にレジの確認を始める。
僕は待っている間、由磨さんが置きっぱなしにした櫛を見ていた。それは何の色味もない透明な硝子で出来ている櫛であったが、持ち手の部分に白い魚が泳いでいた。魚は硝子の表面ではなく、中に入っているように見える。
「私が学んだイタリアの工房の人がつくってくれたのよ。俺は日本の櫛の形を知っている。君の長い髪にふさわしいだろうって言ってね」
「折れないんですか? この細いところなんて、折れてしまいそうで」
僕は触れて割ってしまうことが怖かったので、触らずに見ているだけにしておいた。由磨さんはガチャガチャと音を立ててレジを閉める作業に入る。
由磨さんは、粘り強い硝子を使っているけれど、存外簡単に折れてしまうかもしれないわね、と言って、レジの鍵を回す。
「贈答用にでも売り出したらどうです? 目新しくて売れるかもしれません」
「ふふ、知らないの? 櫛は苦と死で不吉だから、別れを意味するんですって」
由磨さんはそう言って帳簿にサインすると、はいと渡してくれた。僕は何とも言えない気分になって、しかし沈黙は沈黙で怖かったので、オーナーのおすそわけのレタスと、晶君への言付けの話をした。
「僕、全然知りませんでした。晶君の実家、遠かったりするんですか?」
「まさか。だって実家はオーナーの家ですもの。ただ単に行かないだけよ」
「由磨さん、なんで晶君が行かないか知っているんですか?」
僕はオーナーと晶君が血縁者ということを失念していた。由磨さんは奥の部屋で吹き硝子をしているらしいスタッフに声をかけて、戸締りを始める。そして由磨さんは一言、有名な話よ。とだけ言った。
僕はそれ以上聞くべきではなかったし、由磨さんは話すべきではなかった。それがわかる程度にはお互いに分別を持ちあわせていた。
「それにしてもレタス料理って、ぱっと思いつきませんね。サラダはそんなに量が食べられませんし。ロール……ああ、キャベツか」
「そうね。まあ、料理なら研人に任せれば、大抵美味しいのが出て来るわ。私、お酒でも買って行くね」
僕は由磨さんとそこで別れて、レタスを抱え一足早いバスに乗ることにする。工房棟からの坂道を降りると、夕日が沈み切っていよいよ暗くなって来た工場街のバス停のベンチに、見知った人影が座っているのが見えた。晶君であった。
僕は気まずさを感じ、坂の途中で歩幅が小さくなる。当然彼は僕とレタスという奇妙な取り合わせになにかしら一言言うだろう。そうしたら僕は当然オーナーとの話をしなくてはならない。
そうして悩んでいる内にバスはバス停にやって来てしまう。晶君は乗り込む時に坂の途中の僕に気がついたらしく、わざわざバスを止めてくれた。僕は坂を駆け下りる羽目になった。
僕は晶君に追いついてお礼を言うと、彼の後ろに付いて、いつもの後ろの隅に座った。彼は僕のレタスについて触れるより先に、本はどちらか読み終わったのかと聞いて来た。
僕は頷いてこころを返す。後の一冊はまだ開いてもいないのだと、正直に話した。晶君は僕から本を受け取ると、鞄にそれをしまった。
「いい暇潰しになったかい」
僕は晶君の言葉にぎくりとする。晶君の声色は、秋の日の先生を彷彿とさせた。僕は一呼吸置いて、割と、と返事をする。晶君は気分を害した風でもなく、読書なんてそんなもんさと鼻で笑った。
「こういう時は、あの作品のここが好きだ、とか、言い合うべきか?」
実は俺はこうして本を人に貸すのは初めてなのだ、と晶君は言う。僕は授業で何度かそういうことをしたことがあるので、着眼点から相槌のタイミングまで心得ているつもりでいた。
晶君はものは試しだというように感想を口にしようとしたようだが、少しの間の後に首を振って見せた。
「今思ったのだが、俺の読書体験と君の読書体験に合致するところがないと、話が進まないのでは」
「違うところばかりでは駄目なの?」
それで良いのなら、と晶君はそこで変な遠慮を見せてから、じゃあ、と話し始める。僕は僕でどんなことを話そうか、と吟味を始めていた。
「腹に刃を突き立てる刹那、というやつと、死のうと決意した瞬間から腹に刃を突き立てる刹那、までの時間は、どちらが苦しかったのだろうか」
晶君が抜粋したのは意外にも作品中ではなく、巻末のあとがきの部分であった。しかもその腹に刃を突き立てたのは、登場人物ではなく、文中に名前だけ登場する実在の将校である。
晶君は自分で自分の言葉に顔をしかめた。僕は虚を突かれた思いで、しかし要は二択なのだと考えてみる。
「そりゃあ突き立てた瞬間じゃあないのかなあ。でもだめだ、わからない」
「そりゃあそうさ、君も俺もまだそんな機会ないしなあ。そうだろう?」
晶君は答えを求めているわけではなく、ただ本当に話の種程度にしか考えていないようだった。僕は授業のような討論を想定していたので、肩透かしを食らった気分になる。
しかし考えれば当たり前のことなのだ。僕にとって小説がハードルの高い教材であっても、晶君にとってはどこまでいっても単なる消費物である。僕がそのことを晶君に話すと、そりゃあそうさとだけ言った。
「俺は登場人物どころか、作者の気持ちだって考えたくもないね」
晶君は僕に貸したもう一冊の本の話をしてくれた。
「君に貸したのは、未完の遺作と呼ばれるものの一つだ。その作者は自殺の直前にその小説を書いた。君、そんな本の作者の気持ちなんて考えたいのか? それに文豪に始まり芸術家っていうのは、いつの時代も碌な死に方をしない」
僕は晶君のあまりにばっさりとした切りかたに笑ってしまった。晶君はもうそれで気が済んでしまったのか、僕に無理に感想を求めることをしなかった。
「まあ、前置きなんだけれど。それで、一体どうしたっていうんだ。古賀」
晶君は刀を納めるふりをして、切っ先を僕に突きつけてきた。僕は押し黙ってしまう。今の会話から両親の墓参りの話に持っていくのは、いささか不穏とも思えてしまう。なんていったって、人の生き死にの話の後だ。
「坂の途中から急に鈍くなって、いつまで経っても来ないものだから」
「知っていたの?」
「ガサガサ音が聞こえたんだ。うるさいなと思ったら君だったのさ」
耳は良い方なのだと、晶君は窓枠の狭いスペースに肘をひっかけながら言う。僕は、オーナーからの差し入れなのだとレタスを見せながら説明した。
晶君は渋い表情をして、墓参りの話かと重く溜息を吐く。そして僕に済まなかったなと謝った。僕は晶君の察しの良さに感謝しながら首を振った。
「まさか今年が古賀だとは思わなかった。最初は城ヶ崎さんで、去年は由磨さん。流石に由磨さんに言わせるのは酷だから、その時だけはあのクソ爺のこと殴ってやったが」
晶君の言う城ヶ崎さんというのはピアノ教室の穏やかな先生で、つまり琢海さんの先生のことらしい。繋がりはよくわからなかったが、工房関係者というところだろう。
「由磨さんのところも、どちらも?」
「元から片親だったらしいけどな」
そこからの僕ということらしい。晶君はそこまで話しておきながら、行かないと短く答えた。
晶君は、君の親の話が聞きたいと言いながら、鞄から金平糖の瓶を取り出し、僕に一粒差し出してくれた。橙のかかった薄桃色の少し角が取れている一粒であった。
僕は考える。両親のこと、と言ってもぱっと思い浮かばない。取り立てた特徴がある両親でもない。中肉中背平平凡凡、父親が薄毛に悩んでいるぐらいだ。
「両親は公務員と銀行員。朝は二人で出勤して、夕方には大体母が先に帰って来る。二人ともラーメンが好きで、よく僕を連れて三人でラーメン屋に」
晶君は目を細めて続きを促す。僕はまた少し考えてから話を続ける。バスはトンネルの前を発車して、緩いカーブに添って曲がる。学校帰りの学生が、はしゃぎながらバスの中で座席を探す。その中で僕は両親のことを思い出す。
「部活は、どちらも応援してくれた。試合の日の弁当には、いつも父が黄色い厚焼き卵を入れてくれる」
「父親の方が? なんだか面白いんだね」
「試合の日だけなんだ。ああ、あと、受験の日も。部活続けられなくなって大学に行くのも、やはり応援してもらって」
晶君は頷きながらさらに続きを促す。しかし僕にはもう言えることはない。晶君は気が済んだのか、ありがとうと言ってまた僕に金平糖をくれた。くれるからついついもらってしまうのだが、僕だって自分の小瓶を持ってはいるのだ。
「そう。別に君は誰にも気がねする必要はないのさ。恵まれているなら、恵まれていることに気後れする必要はない。俺はそう思う」
「でも、満たされている人って、存外多くはない気がするんだ。僕が知っている中でもそうだから、きっと認識の外にはもっといるはず」
晶君はほんの僅かに首を傾げる。白い清潔なシャツがその動きに合わせて、僕にしか聞こえない程度の微かな音を立てた。
一方の僕は安い紺チェックのシャツだ。チェック以外の服だって持っているのだが、ついつい同じような服ばかりに手が伸びてしまう。
「違うところばかりでは駄目なのかって、君が言ったばかりじゃあないか」
晶君はしてやったりという顔でそんなことを言う。