晴れた夏休みのコールボーイ
【9】
盆も間近の朝、僕は顔の青い二人に挟まれて集中講義を受けていた。一方の教授は血色も良く、一層二人の顔色は青ざめて見える。
教授は教育学部の授業らしく、学問の崇高さについて説いていた。そんな熱のこもった授業の後の小休憩の際には二人ともぐったりした表情で水分補給をしている。
僕はハーマイオニーこと湊さんが手洗いに席を立った際に、そっと隣の彼にバイトの様子を聞いてみた。
彼は地の底を這いずる声で、コールボーイと低く唸った。僕にはそれがどんな意味かはわからない。しかしなにやら不穏な空気が、確かにその単語から流れ出しているのは感じ取れた。
彼はそのバイトに関してはそれ以上話す気にはなれなかったらしく、小さく首を振るだけに終わった。今朝の彼にはワックスを付ける気力もなかったようで、長めの茶髪がさらさらと流れた。彼は後ろの席にぶつかるぐらい大きく伸びをした。
「学問の崇高さって言うが、俺にはよくわからん」
「わからないのに、心身削ってまで、学費を稼ぐの?」
彼は痛いところを突かれたと撃墜されたポーズをして、僕の言葉を茶化しにかかる。僕は僕で失言だったなと反省をした。
そして僕は彼のこうしたスマートな対応に救われている。しかし彼はにやりと笑って今日は僕に反撃をしかけてきた。
彼は口を歪めて目をほんの少し細めて見せた。切れ長の目である。まつ毛の奥で黒目が蛍光灯の光を受けて、ちかちか明滅した。
「じゃあ古賀は、どうして勉強するんだ」
「教師になるためだよ。で、食べていくためさ。そうだろう?」
「教師じゃなくてもよかったろう。お前、何故この道を選んだ」
彼は暗い顔をして僕の痛いところを突いてくる。痛いどころか急所である。しかし僕には撃たれた人のポーズをとることが出来なかった。
彼はそんな僕を見て、痛み分けだなと笑った。硝子の向こうでは蝉が相変わらず忙しなく鳴いていた。窓に薄く映り込んだ僕のシャツは、やはりチェックであった。
その日のバス停には晶君が居て、彼は日差しを避けて木陰の下のベンチで本を読んでいた。なにやら重そうなハードカバーであったので、彼は膝に乗せて身を多少屈めるような恰好である。
晶君は僕に気がつくとハードカバーを閉じて軽く右手を上げた。彼のシャツはぱりっとしていて、今日も白い。
「今読んでいるのは、魔法使いの話だ。ほら、最近テレビでやっているから」
「それなら僕も読んだよ。小学校の頃かな。流行っていたから」
僕達はそんな話をしながら、来たバスに乗り込む。夏の暑い最中のバスは空調が良く効いて少し肌寒ささえ感じた。
乗客は老人ばかりで、訛りの強い言葉で談笑している。僕達はそっと隠れるように一番後ろの隅の席に陣取った。
バスは僕らが座るのを待って発車する。窓の外を街路樹の緑が斑になって流れていくのを、僕はぼんやり眺めていた。晶君は通路側の席で、何かの小瓶を取り出していた。僕には馴染みの、金平糖の入った瓶であった。
小瓶を取り上げる彼の白く骨ばった手は、夏の正午の光にうっすら溶解する。小瓶もまたさっぱりと透明で、彼の手で握りこんで少し余る程度の大きさだった。
小瓶の中に詰まった金平糖は外からの光を受けて、内側からぼんやりと発光しているように見えた。晶君は瓶を指先で摘みあげると、光に透かすようにカラカラとその小瓶を僕の目の高さで振って見せる。
窓側に座っているのは僕なので外からの光はさほど強いようには思えなかったが、彼の細く筋張った指がその光を受けて、ぞっとするような透明に、透き通ってしまいそうになる。
晶君は僕に、一つどうだい、と勧めてくれた。
その様を見ていると、その金平糖が不思議と魅力的なものに思えた。単なる馴染みのある駄菓子であるのに、彼がそうやってゆっくり小瓶を振るだけで、金平糖が高価な菓子であると錯覚させられる。
しかし気のせいだということは、僕も理解はしているのだ。何故こんなことを考えてしまったのだろうと、僕はぼんやりと思いを巡らせる。
「晶君、手が綺麗なんだね」
「いきなりどうしたんだよ」
晶君は困ったように笑って首を傾げながら、瓶を僕と晶君の間に置いて、手をさすって見せる。白い手はスラリと伸びて僕よりも大きく、滑らかであった。晶君は、お前とさして変わらないだろうと僕の手を覗きこみ、またも首を傾げた。
「意外だ。何かスポーツでもやっていたのか?」
「バスケットをね、少し。あとはずっと陸上かなあ」
一方の僕の手は、お世辞にもあまり美しいとは言えなかった。小学生の頃にバスケットをやっていたのだが、成長期に繰り返した突き指のせいで、僅かに節が変形していた。
僕は置かれた小瓶を取り上げてみる。自分の手の中では金平糖もさして魅惑的に見えなかったので、僕は晶君にそれを返す。
「部に入らなかったのか? うちの大学、どちらもあったろう」
「ああ、そうだね。でも気が向かなかったんだ」
僕は答えになっているような、なっていないようなことを言いながら、注意深く微笑んで見せた。横目で窓を見て、自分の笑みに問題がないかを確認する。しかし窓の外が眩しくて、僕のチェックのシャツばかりが目立っていた。
「はは、お前、いや、やめておくか。俺も人のことを言えた口ではない」
晶君は何かを言いかけて止めた。彼は仙人側の人間であったので、僕には誤魔化す術はなかったということだ。晶君はもう一度僕の前で瓶を振る。僕は金平糖にもう一度思いを馳せる。
金平糖、漢字だとなかなか高価な菓子に見える。しかし一掴み百円の菓子、こんぺいとう。なんだかこちらのほうが、らしさがあると僕はぼんやり彼と小瓶を視界に入れながらそう思った。
「それがいいな。その、綺麗な浅緑」
僕は瓶の中の一つを指す。透明がかった何とも言えない緑色。彼の小瓶の中にはところどころ不思議な色の金平糖が入っていて、僕はその中の一つを遠慮なく選び取ることにした。
「つい選ばせてしまったけれど、味は皆、砂糖の味なのだよ」
そう言いながらも彼は器用に小瓶を揺すって、僕にその浅緑の一粒を取り出してくれた。僕の手のひらにころんと載ったそれは、もう金平糖の風情ではなく、ありふれたこんぺいとうであった。
僕は彼を真似してその一粒を摘み上げて光に透かす。半透明に透けたこんぺいとうは白色の気配を強くしたが、やはりもうこんぺいとうでしかなかった。
「ああ、その色」
晶君は、彼にしかできない曖昧な笑いを浮かべた。ちょっと顔をしかめて困っているような、変な笑いである。僕は、なんだいと彼にその先を促した。彼は少しだけ言葉に詰まってから、ちょっとばかり肩をすくめてやはり何も言わない。
僕はもう一度こんぺいとうを観察する。若草よりなお白く、もはや次元の違う緑であった。さらによくよく見るとその緑には、ほんの少しの青の気配がする。なかなかに不思議な色であった。晶君は、怒らないかいと妙な前置きをした。
「羽化したばかりの、蝉の色だな、と」
聞かねばよかったと、僕は嘆息する。もちろんこれは蝉から生まれ出たわけではなく、砂糖の塊である。そうではあるのだが、やはり気分の問題だ。
晶君は僕がそれを口にするのを躊躇した気配を察したらしく、少し黙ってから、では、と代替案を口にした。
「白碧、これならどうだい。蛋白石の美しい緑の色だ」
「蛋白石?」
「オパールグリーンということだよ。これなら売り文句にも使える。不思議じゃないかい。石も虫も食べ物じゃないのに、こんなに扱いが違う」
僕はこれ以上何かを聞く前に、金平糖を口に含むことにする。それは言われた通りに砂糖の味だけがした。晶君も一粒金平糖を口に含む。そこでバスに夏休みのプール帰りの小学生が乗って来た。
彼らは僕らとは違ってこんがりと美味しそうな色に焼き上がっていたが、ふわりと爽やかな塩素の匂いをさせていた。彼らが座るのを待って、バスは暑そうな緩い坂道を登っていく。
「それ、工房棟で売る金平糖の瓶だよね。いつ来たの?」
「買ったのは高校の時だな。あとはこれにバイト先の余りをもらって詰める」
晶君は金平糖をがりがり噛んで、次の一粒を口に入れた。一方の僕は溶けるのを待っていたので、口の中でさほど大きさが変わっているわけではない。じわじわと甘い。晶君はそうだ、と瓶を手の中で転がしながら言った。
「この小瓶ぐらいの量で五千円もする、高級な金平糖があるらしい」
「へえ。この辺なの?」
晶君は曖昧に首を振って、ちょうど差し掛かったトンネルの方向を指し示した。外にあるということだろう。そこで僕はふと、研人さんのシマやシアルの話を思い出す。僕というニフェ、晶くんというシマ、例えばトンネルの向こうのシアル。
僕は高級な金平糖に、なんの見当も付けられない。
「そういえば、この前はトンネルがブラックホールだという話をしたけれど、正しくはワームホールさ。入り口と出口を繋ぐチューブだな」
その中を通れるか通れないか。晶君はひとしきりそんな話をしたあと、混乱している僕の顔を見て気を良くしたのか、少し笑って、鼻歌を歌った。僕はその鼻歌にとても聞き覚えがあった。
「それ、オーナーと同じ歌だ」
「だろうね。マイフェイバリットシングス」
晶君はしかしぴたりと鼻歌を止めてしまう。僕はその歌の名前を聞いて、ようやっとそれが有名なものだとわかった。晶君はその歌に関してはそれ以上なにも言うことはなく、そうだ、と鞄の中から二冊本を貸してくれた。
「盆の最中は工房棟の受付は暇だろうから、読むといい。約束していたろう? 手持ちの中からなるべく希望に沿うようなものを選んだ」
「工房棟のこと、よく知っているね」
「そりゃあまあ、昔は出入りしていたからなあ。気負わず読むといい」
どうせ嗜好品だ。晶君の言葉を聞きながら、僕は二冊のそこそこ分厚い文庫本を受け取って鞄にしまった。どちらにも書店で掛けられたらしい薄青いざら紙のカバーがあったため、どのような本なのか見当もつかなかった。
【9】
盆にパートのおばさんが実家に帰ると言うので、僕は朝から工房に来ていた。僕は帰らない。飴工場も和菓子工場も掻き入れ時と言わんばかりにフル稼働なので、アパートの住人は誰一人故郷に帰ることがない。
僕は空調の効いたバスにしばらく揺られてすとんと降りて、いよいよじりりと熱い工場街を一人でのっそり歩いた。
朝であるのに既に暑い。最近の天気予報は毎日、暑いかすごく暑いかの二択なので、僕はもう自分から天気予報を見ない。
お盆なので見学者の類はいないが、いつものメンバーは励んでいる。僕は暇になるだろうと、カウンターの下に晶君から借りた本を置いておく。カバーがかかっていて、僕もどんな本なのかは全くわからない。あまり難解な内容ではありませんようにと願った。
バックヤードからジュースを持って来て、ボックスに入れる。金平糖を買う人はいないだろうが、数も心許なかったので、瓶をもらいに行く。
時刻は八時を少し回ったところで、工房棟の白壁に太陽の光が反射して、少し目が痛い。
「すみません、バイトの古賀です。瓶の補充に来ました」
しばらくすると手が離せないのか、入って来てという間延びした由磨さんの声が、分厚い扉越しに聞こえた。奥のほうから叫んだのだろう。
僕は入りますと声をかけて素早くドアを開け閉めする。ドアの目線の高さに、ドアの開け閉めは素早くという標語が張ってあるからだ。ようこそ、歓迎しますの類はない素気なさだ。
「ごめん、ちょっと、待っていて。窓のとこ、少し風が入るからそこで」
中に入ると部屋の奥の大きなテーブルで、由磨さんが作業をしていた。ピンセットの先でなにか鳥のような形の硝子を摘んで、それを卓上のバーナーであぶっている。
僕のいる場所はそうでもないが火の前はやはり暑いのか、由磨さんの額に汗が浮いている。少し暗い室内で、その汗だけがギラリと白く光る。僕は威嚇されている気分になる。
静かな室内で、バーナーから青白い火だけが活発に揺れている。僕は余所者なので、活発なバーナーを眺めながら棒立ちになる。
耳を澄ますと静かだと思っていた室内には意外に音が溢れていた。バーナーの轟々という音、由磨さんが少しでも動くと、彼女が腰かけている木製の椅子が小さく軋む。相当暑いのか、由磨さんの粗めの息遣いがわかる。
それから最後に僕自身の小さな呼吸音。見下ろすとシャツの下で、僕の胸は浅く上下している。
「ありがとう。今持って来るわね」
由磨さんが立ち上がる。青い鳥は卓上に置かれた鈍色のホットプレートの上に留まっている。由磨さんはプレートのつまみをいじりながら立ち上がると、奥から段ボールを持ってきた。
中にはシュッと細長いフォルムの瓶があれこれ入っている。普段の無色透明なものだけではなく、薄く色がついているものや、表面にいつもより細かい細工が施されたものが入っている。
「今みんな出払っちゃっててね。窯番も私だから、私がやったわ」
「窯番?」
「ええ。窯の火が絶えないようにする役。硝子工房は滅多に窯の火を消さないわ。火を点ける時にすごく手間とコストがかかるのよ」
由磨さんが瓶の入った箱を揺らす。鳥と同じ色をした青い小瓶が、かたりと傾く。その青はグラデーションになっていて、底が深い紫に近い色なのに、口の部分は緑がかった空色だ。
一階に降りて来て、僕はどうしても先程の青い小瓶が欲しくなった。鞄から代金を取り出してレジに入れ、先程の瓶に金平糖を入れる。それから晶君のように小瓶を摘み上げ、上の窓から降ってくる光に透かしてみる。
小瓶の中に入った金平糖は全てが寒色に色付いていた。中に入った本当の粒の色はわからないが、ゆっくり小瓶を振って見ると濃い紫や、透明な青、黒に近い緑が斑になって揺れている。
金平糖を入れる瓶としてはあまりよろしくないのだろうと、僕は少し笑って、他の瓶にも金平糖を詰めることにした。
やはり客足は落ちているのだろうが、一階の絵画修繕員は休日返上で仕事をしているようだし、三階のピアノ教室も熱心な生徒が出入りをしていた。僕はそんな様子をしばらく眺めていたが、帳簿を付けることもなかったので、晶君が貸してくれた本を開くことにした。
本は古本らしく、ひんやりした感触のざら紙のカバーを開くと古い紙の少し埃っぽく甘い匂いがした。授業で短いテキストは読むが、ここ数年きちんと読書をした記憶がないので、僕はいささか緊張してしまう。
タイトルは『こころ』。かの有名なあの作品らしかった。そういえば僕は教科書で少し読んだきりだ。あれは物語の真ん中の部分を抜いてきたもの、という解説が教科書の下の隅に付け加えられていたことを思い出す。
あまり熱心な生徒ではなかったから、どうにもうろ覚えだ。
あれは高校生の頃であったか。クラス担任が熱心な国語教師で、こころを最初から最後まで読んでみよう、とクラス内で先生の私物の一冊が貸し出されたことがあった。
任意ではあったが、大抵の生徒はきちんとクラスの中だけの貸し出し名簿に名前を書いて、律義に読んで次の人に回していた。また、何人かは貸し出し名簿に名前を書くこともなく部活に励んでいた。
「古賀君は、どう? もしかしてもう読んだことがあるのかしら」
「ああ、いえ、是非お借りします」
先生に邪険な返事を返すことが出来なくて、僕はそんな返事をして貸し出し簿に名前を連ねた。先生は若い女教師で、いつも小ざっぱりとしたブラウスに灰色のスカートをはくという地味な格好ばかりをしていた。
先生は自分から若さそのもの、また、若さに準ずるものや連なるものを遠ざけていた節があった。その先生は高校入学から卒業まで、僕の担任であった。
結論から言うと、僕は結局こころを読むことなく適当な時間をおいて次の人へ回した。部活で忙しいという言い訳は使えなかったので、読んだということにして、クラスの友人とも適当に話を合わせた。
しばらくして先生は、掃除当番で黒板消しを叩いている僕の隣にやって来て話をした。
「古賀君は、こころって、結局なんだと思う」
高校生の僕は、黒板消しを叩きながら思索に耽る。高校生の僕はその思索の中で、唐突に何故先生がこの作品をクラス、ひいては僕に読んで欲しかったのかに、作品の内容は知らずともある程度の見当を付けることが出来た。
読まなくて良かった、と当時の僕は内心安堵している節もあった。そして僕は心得ていた。こういう際に下手に教師に返答してはならないことを。僕は諦観していたのだ。
「僕には、わかりません」
僕はチョークの粉の向こうに煙る、赤や橙の淋しい木の群れを見ていた。季節は秋で、僕は高校三年生であった。僕は風が教室の中に流れたことを察して、黒板消しを叩く手を休める。
教室の中に吹いて来た風は、香ばしい落ち葉の匂いがした。それは老い急ぐ先生に似合いの香りであると、その時の僕には思えた。
僕は晶君のように金平糖を食べながら読むことにする。青い瓶から転がり落ちてきたのは白色に濁った半透明の粒であった。それを口に含むと、温かくて頭が痛くなるほど甘くて香ばしい、金平糖の匂いが鼻まで漂う。
今頃晶君は、砂糖を煮蕩かす釜の前で、汗を拭いているのだろうか。薄暗い倉の中で彼の綺麗な手から白い腕までを、汗が滴ってゆく様を想像したところで、僕はようやっと本を読み始めることが出来た。




