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陰鬱が降る六月

【6】

 六月に入ると例年通り梅雨に入った。雨が降ると僕も由磨さんも窓を開けないので、鉱石ラジオの音は聞こえない。

 そして六月に入ってもやはり僕は、鉱石ラジオの正体がわからないままである。なんとなくの僕の想像の中だと鬱々とした雨続きで、でんと窓辺に鎮座した水晶のようなそれがしょんぼり曇っている。


 テレビをつけると、並ぶ傘マーク。僕は身支度をしてトーストを焼く。

 トーストがジリジリ焼かれている間に、手早く卵とベーコンを焼いて、焼き上がったトーストに乗せて塩コショウを振る。

 テレビの中でカッパ姿の女子アナが、暑さと湿気のダブルパンチというフリップを示しながら、気象予報図の解説をしている。

 梅雨が明けたらいよいよ快晴続き。今年の夏は例年以上に気温が上昇するでしょう。

 僕はベーコンを前歯で引きずり出して噛みながら、ここ二、三年は、毎年例年以上という言葉を聞いていることに気がつく。

 ボジョレーの宣伝のようだ。僕はワインなんて飲んだことはないのだが。

 

 傘を開く。豪雨の一歩手前ぐらいに力強く振っているので、並んで歩く研人さんと碌に話も出来ない。

 研人さんは骨の多い頑丈な紺の傘をさしている。一方の僕は骨が一本折れている小さなビニール傘だ。

 研人さんは不精髭を生やして、隣でバスを待っている。


「また発表ですか?」

「もうずっと発表だな」

 やはり院生は大変なのだろうか。研人さんは傘を持ちながら既に寝てしまいそうである。

「結果がなあ……やはりすこぶる芳しくない……調整がどうもなあ」

 研人さんがあまり唇を動かさずに、ぼそぼそ呟く。

 それはひとりごとというよりも寝言の類であるようだった。

 ここに晶君がいたら、うまく相槌を打つのだろうか。


 そういえば僕は彼らがどんな勉強をしているのか全く知らない。

 なにか物々しい機械を操作したり、ねるねるねるねの魔女みたいに奇妙な薬物を混ぜ合わせたりするのだろうか。

 僕にはわからないことばかりだ。

 

 バスがやってくる直前、後ろから走って来たのは琢海さんであった。

 琢海さんの傘は僕のより一回り大きな青いビニール傘で、向かい風でひっくり返りそうになっている。

 彼は僕の隣に並んで、やって来たバスに滑りこむ。走って来たせいか、琢海さんの水色のワイシャツは雨で濡れて濃い斑模様になっている。

 彼は自分のなかなか整わない息に苦笑して、寝坊をしたのだと言った。

 僕は目の下に隈をつくった二人に挟まれる。

 彼らぐらいの年になったら、僕も隈をつくって生きていかねばならないのだろうか。


 琢海さんは片方の耳にイヤホンを当てながら呟いた。

「雨垂れ石をも穿つとはいうが、どうなのだ本当のところは。なあ物理馬鹿」

「石にもよるが、ざっと百年ぐらいか。なに、あっという間だピアノ馬鹿」

 ピアノが出来て百年ぐらいはもう経っているだろう? 研人さんは真顔でそう言った。一方の琢海さんはもう一方の耳にもイヤホンを詰め込んだ。

「雨だって休み休みだっていうのに、あいつときたら」

 研人さんは湿気で膨らんだ天然パーマを振る。膨らんで二割増だった。

 



 教室の中は湿気で空気が重いまま、クーラーだけが効いていた。密度のある空気が沈殿していくようだった。

 僕の隣では今日も熱心なハーマイオニーとバイト苦のロンがそれぞれの態度と温度で授業を受けている。

 ハーマイオニーが教科書に熱心に線を引く横で、僕は中途半端にノートを取る。ロンは机の下で長い脚を窮屈に組む。

 彼が脚を組みかえる度に、三人で腰かけている講義室の長机が少し揺れる。


「そうだな、この教室にも様々な土地から来た人もいる。君は?」

 指されたのはハーマイオニーで、彼女は僕の隣でひっそりとノートをとることを止めた。妙な間があった。

 聞いていないようで聞いているロンが、僕の背中のほうから手を伸ばして、彼女の肩の辺りをペンで突いた。本当に些細な間の後に、島根ですという小さな声がした。

 わあ遠いところからわざわざ。そんな声がする。僕は自分のノートを覗きこむ。名産品と気候というキーワード。

 だからなんだという部分までを、数分前の僕は書き留めていない。詰めの甘いノートである。


 授業が終わると教室移動がある。大学ホールまでの道のりは遠いのに、相変わらず雨は止まない。風も朝より強くなっている。

 僕の傘が吹き飛んでしまわないか心配だった。二百十円の傘、かれこれ半年は僕を守ってくれている、歴戦の覇者。


「あっ、畜生。盗られた」

 私もみたい。小さな声が僕の後ろで上がる。バイト苦のロンが項垂れて、あれしか傘ないんだぜとぼやく。

 一方僕のは傘立ての隅で、まるでずっと前からそこに収まっていたという顔で僕を待っていた。あまりのくたびれ具合に盗人も手を出さなかったらしい。

 僕は折れた傘の骨の位置を微調整しながら傘を開く。ぱっと開くのではなく、しょうがない開いてやるかといった横柄な態度で傘が開いてくれる。


「まあちょっと狭いけれど……無いよりマシかな、と」

 二人は遠慮無しに入って、中で僕を交えて三人でおしくらまんじゅうを繰りひろげる。結局僕らは三人揃って傘を差さないも同然に濡れてしまった。

「無くても一緒だったんじゃねえの、これ」

「まあ、そうね。ああ、でも鞄は無事よ」

 彼女はシャツの端を絞りながら笑って、その後小さくくしゃみを一つした。


 授業後、停留所では晶君が一人本を読んでいた。

 僕に気がつくと、晶君は手を上げて、ほんの少しだけ目を通し続けてから本を閉じた。

「今読んでいるのは、そうだな。旅の話さ。最近流行っているんだろう」

 自分探しの旅。晶君は停留所のベンチから立ち上がる。バスはちょうど彼の前で留まる。

 

 雨で混んでいるバスの中で、僕らは縮こまって奥の隅の席に収まる。それにしても、流行りものに飛び付く晶君なんて、なんだか想像がつかない。僕の中で彼は仙人の弟子だからだ。

 どこに行く話かと聞くと、伊豆さと彼は短く答えた。

「探さないと見つからない自分というのは、どうなのだろうか。本当にそれは自分なのかい。日々の暮らしで霧散するんじゃなかろうか。旅をしたことは?」

「ほとんどないよ。修学旅行とか、部活の遠征とかぐらいかな」


 彼は目を細めてしばらく黙りこむ。窓に頬をつけているから、彼の顔には雨影の斑がうっすら映る。すらりと薄青い雨の筋が、晶君の右目の下に跡を付ける。

 今日一日は晴れそうにないなと僕は思った。洗濯物が溜まる一方だ。

 そうしていると、とうとう晶君は目を閉じてしまう。しかし寝ているわけではないようだ。


「こうして乗り物に乗って、外の景色が恐ろしい早さで流れるのを見るとだな、どうしても目を閉じずにはいられない」

 するとだな、いつの間にか違う場所にいるのだ。晶君はそんなことを言って首を動かすと、今度は目を開いて僕の胸の辺りを見た。

 窓に背を向けたので、晶君から水の影が逃げていく。

 酔うということなのか、それとも眠くなるということなのか。そう聞くと晶君はどちらにも首を曖昧に振った。


「高校の頃までは、時々あちこちに出かけてはいた。でも目を閉じているといつの間にか眠っていて、するともう、違うどこかにいる」

「今はどこかに行かないの?」

 彼は短く溜息をついて、もう必要がなくなったのだと言った。

 

 バスは隣町や幹線道路に続く大きなトンネルの前の停車場に留まる。何人かが降りて、何人かが乗った。

 この街からどこかに行く時は、大抵の場合このトンネルを通る。空港も新幹線が留まる駅も、皆この向こうにあるからだ。

 僕もこのトンネルを通ってこの街に来た。晶君はトンネルを指しながら言う。

「実はこのトンネルはブラックホール。かつてここにはもうひとつの星があり、地球は大気の中に小さな星を持っていた。それは実はトンネルではなくて無だ」


 僕は欠伸を噛み殺しながら彼の話を聞く。僕のシャツはまだ乾いていないので、効きすぎたクーラーで寒い。

 晶君は特に言葉に熱を入れる様子もなく、事実を読み上げるように淡々と続ける。

「ここを通ると星の重力に押しつぶされて、俺達人間は分子レベルに破壊される。でもこのトンネルの向こう、目的地にはホワイトホールが開いていて、僕達人間がそこで再構築される、というのはどうだろう」


 実は少し前にそんな本を読んだのだ、と晶君は解説を付けくわえてくれる。

 文字で気が紛れれば、本当にどんな内容であろうと頓着しないのだろう。

 彼なら例え僕の隣であろうと朝の爽やかな喧騒の中で、カバー一枚かけてすました顔で官能小説なんかも読んでしまえるだろう。いや、カバーをかけるかどうかさえ怪しいものだ。


「僕もここに来るまでの間、眠っていたけど、まあそういうのはないだろ」

「ああ、冗談だと思って。物理学の原則、知らないか君は」

 観測が成されていない事象の場合、結果は定まっていない。つまりは憶測で判断するべからず。観測至上主義。観測された事実こそが全て。


 晶君は今度こそ教科書に載っているらしいことをそらんじて見せた。

「僕らは観測していないなら、トンネルがブラックホールという仮定を否定できない。そういうこと?」

 そうだと晶君は半笑いで頷いた。自分で話したくせに、微塵も信じていない口ぶりだった。

 彼はどこまで信じていないのだろうか。ブラックホール、ホワイトホール、トンネルの中身、その向こう。目を閉じている僕らの話。

 トンネルを抜けて、僕は星の重力を受ける。僕は一点の点に凝縮される。

 凝縮された僕はホワイトホールから出て、どこかに行く。


 だけれどもそのどこかとは、どこなのだろう。このトンネルの向こうにあるものは、本当にあったのだろうか。

 僕はトンネルの向こうで生きてきたはずなのに、簡単に晶君の言葉に揺らされてしまう。

「はは、おいなんだ。随分な顔をして……古賀」

 晶君は僕を覗きこむ。その目元は、オーナーのそれである。彼とは本当に血縁者なのだなと、僕はしみじみそう思った。

 しかし声が違う。彼の声はまだ仙人のそれではなく、人である。

 僕はそのことに少し安心して息をする。冷たく湿って重い、六月の空気が腹の底に沈殿する。




 今日は一階の絵画工房に大型の修復絵画の搬入があるため、慌ただしかった。大型といってもそれは絵の大きさではなく、価値の話であるらしい。

 厳重な包みが揺らされぬように細心の注意で運び込まれ、空調の確認をスタッフ総出で行った後、ようやく絵はベテラン修復者の部屋に収まった。

 バイトの僕には特にこれといって出番はなく、受付前の掃除に勤しむ程度である。


 風は大分弱まり、今はもう感じられない。

 僕はバックヤードに行き、搬入で汚れた受付前を掃くことにする。すると暗いバックヤードに光を取り入れている窓から、裏庭に佇む琢海さんが見えた。

 僕は窓を少し開けて、その隙間から呼びかける。温い風が外から入って来る。

 さしていたのは朝に持っていた半透明の傘で、だからこちらに背を向けていても、僕には琢海さんだとわかった。


「待ち時間さ。この前来た子の指導の時間が長引いていて、練習部屋も一杯」

 琢海さんは傘をさすのが下手なのか、どうしてか襟足のあたりが濡れている。風邪をひくのではないかと聞いたら、どういう意味を持っていたのか定かではないが、彼は緩慢に首を傾げた。

「馬鹿は風邪ひかないんだろう。ほら、俺、ピアノ馬鹿だから」

 琢海さんは珍しく僕に軽口を叩く。彼の軽口の相手はいつも決まって研人さんであったから、内心僕は意外であった。

 しかし彼が傘をさしていない方の腕を伸ばして風で散ったらしいなにかの葉を拾い上げたところで、すとんと僕はあることを理解した。


「落ちこむなら、もう少しわかりやすくお願いしますよ」

「雨の中項垂れるって結構だと思うんだが。傘が邪魔かい? しかし打たれると流石に馬鹿も風邪をひく。練習に差し支えがあってはいけないからね」

 落ちこむと口で言いながら次の練習について考えている辺り、彼は相当に恐ろしい思考の持ち主だった。

 彼は僕が覗いている窓に寄って、軒下に入り傘を閉じた。壁に寄りかかって、窓の隣で溜息をひとつ落す。


「先生が時間を守らずに指導に熱を入れるのを、俺は、はじめて見たのだよ。わかるかい、わかるまい。その時の俺の顔。きっと面白い顔だ」

 軒先にリズムを刻む雨垂れと同じ調子で、琢海さんは言った。それが琢海さんのリズムであった。

 雨垂れは百年。おそらく彼も僕も死んでしまうだろう。

 琢海さんは、遠い遠い話なんだなあと呟いてから、くしゃみをひとつして、しくじったという顔で窓の中にいる僕を見た。




 アパートに戻るとなにか煮物を作っている鍋の横で、研人さんが一人ビールを飲んでいる。研人さんは僕と一緒に帰って来た琢海さんのそれぞれに、一本ずつ放る。

 研人さんは既に酔っ払っているらしい。しかし鍋の横でキッチンタイマーは半周にさしかかったところで、料理にはぬかりない。

 琢海さんはいつもの練習練習を唱えることなく、立ちながらプルトップに手をかけ粗野な様子で飲んだ。

 口の端に付けた泡を拭うことなく、ああ苦いと笑って流し台の脇の床に直に座った。


「お前やっぱりピアノじゃなくて、缶ビールのが似合う。そういう育ちだ」

 ピアノだなんて、笑ってしまうな。研人さんの言葉に琢海さんは、全くそうだと吠えるように言って、床に缶を置いた。

 研人さんは自分も座っている椅子から立ち上がり彼の正面に座る。そして晶君の部屋の扉に寄りかかった。

「そういえば、今朝の雨垂れの話だが。百年も待っていられないと人は気付くわけだ。なぜかというと」

 人間そんな、長生きじゃない。完全に酔ったのか研人さんは自分の言葉に自分で笑った。

 琢海さんが、実はこいつは安酒一杯で酔ってしまう下戸さと鼻で笑った。


 僕は量ではなく、飲んだスピードが問題なのではないかと思ったが、言わないでおく。その様子はお上品なピアノの前ではなく、確かに流し台横の地べたのほうが似合う。

 琢海さんは缶の残りの中身もぐいぐい飲み干して立ち上がると、缶をそっと机の上に立て、研人さんが座っていた椅子に背筋を正して座った。それがおそらくピアノの椅子に座る姿勢なのだろう。


 彼は椅子の下に手をやり、なにかを探していたが、なにかに気付いてははと笑って、それから両手を座りの悪い小さな机の上に載せ、指先を素早く動かした。

 指は二、三分ほど安い机の上で小さくリズムを刻んだ。研人さんは目を細めてそれを見ていた。

 途中一度晶君が部屋から出ようとドアをがたがたさせたが、研人さんはそこから頑なにどこうとしなかった。


「雨垂れ石をも穿つが、精密ドリルだってそうさ。要はお前、百に一をかけるか、一に百をかけるかの違いだ。科学の進歩ってやつだな」

「百に百がかかったら。どうするんだよ。どうも出来ないのか」

 琢海さんは背筋を伸ばしたまま、夢の無い話をする。一方の研人さんはぐだぐだと、知ったことではないと言った。


「知らないよ。俺は知らない。世界陸上を走る短距離の日本人選手の気持ちを、俺は知らない。プールの無い国から出る水泳選手の気持ちを、俺は知らない。だから俺はお前のことなんて、知らないね」

 その点科学は万能さ。誰にだって微笑んでくれる。ひらめきに長ける者にも、データを蓄積する者にも。

 研人さんはふらりと立ち上がって自分が空にした缶を、琢海さんが置いた缶の上に置いた。僕はまだ缶の半分も飲み切っていない。


「晶君と同じこと言ってるじゃないですか。あと支離滅裂では?」

「そうだけど、違うんだよお、ばあか」

 俺のほうが、数段卑しいね。研人さんは一人で楽しそうだった。

 晶君が部屋の内側からもう一度、控えめに抗議した。黙って聞いていた琢海さんは、やはり小さくくしゃみをした。

 同じタイミングでキッチンタイマーがカラカラ鳴った。すると目が覚めたように研人さんは立ち上がり、火を止めて作業を始めた。

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