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家畜とヨモギ饅頭

【5】

 僕は自転車を漕いで、緩い坂を越える。正面には信号機のような赤い夕日があり、ちょっと美味しそうだ。僕はお腹が空いている。

 夕方の工場街はトラックや帰りの車でごった返している。

 週に何度か、僕は晶君の働く飴工場に行き、金平糖や砂糖細工を受け取る。これも工房棟のバイトの一環で、僕は売店で売るものを受け取りに行くのだ。

 だから僕は週に何度か自転車をぎこぎこ唸らせる。それにしてもお腹が空いた。 今日は何を食べようか。そんなことを考えながら、代金を持って無人の受付で叫ぶ。


「アトリエ真木の古賀です。商品の受け取りに伺いました!」

 しばらく待つと奥の扉を開けて汗まみれの晶君が、なにか重そうな麻袋を持って現れた。着ているのは急所の印のついたシャツではなく、工場の名前が印字された紺のシャツだ。

 首からタオルがかかっており、汗が滝のように流れている。扉を開けた瞬間に奥から流れてきた熱気が、カウンター台を越えて僕のほうまでやってくる。


「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 晶君は几帳面にそう返事をすると、再び奥に引っ込む。開けた扉の向こうから、ざあああと豪雨によく似た轟音がした。

 大きな釜の中で、金平糖が出来る音だというのを、以前晶君が目を輝かせて教えてくれた。

 

 晶君は汗まみれで重労働なここでのバイトを気に入っているらしく、金平糖が出来る過程を僕に丁寧に教えてくれた。

 ここの金平糖は昔堅気に芥子の核に糖液をかけて、少しずつ丁寧に金平糖のとげを育てているらしい。

 その時に一緒に、何故とげが出来るかということを科学的に説明されたが、その点に関しては僕は微塵も覚えていない。糖液が核から噴き出して熱されてどうのこうのと、晶君は言っていた気がする。

 僕にわかることは、金平糖が綺麗で甘いということぐらいだ。


「どうぞ。ご確認ください。問題はありませんか」

 再び現れた晶君は、金平糖が詰まったいくつかの透明な袋をカウンター台に丁寧に置いた。

 僕は注文書の控えと見比べて数量を確認すると、丁寧に持参した段ボールの中に入れた。

 菓子店のように本格的に売るわけではないから、金平糖は僕が自転車で運べる程度の数しかない。しかし箱いっぱいに詰められた色とりどりのそれは、小さな世界の星であった。


 僕が箱に封をかけたのを確認すると、晶君がカウンターの下から金平糖の小袋を出して、一粒僕にくれた。

 薄い綺麗な緑で、テレビで見る南海の浅瀬の色だと僕は嬉しくなった。

 口に含むと、ひんやりと甘い。当然潮の香りがするわけでもなく、淡白な甘さである。

 鼻に抜ける砂糖の香りは熱さえ感じる濃厚さだが、舌に残る甘さは、なんだかひんやりしているのだ。僕は知らず頬が緩むのを感じた。


 荷台に箱を積んで坂を下る。夕日はもうどこかに沈んでしまったようだが、名残のように空はサーモンピンクであった。この分だと明日も晴れだろう。

 今朝の天気予報は微風であったが、坂を下れば頬が風を切って涼しい。僕のチェックのシャツも機嫌が良さそうに揺れている。もちろん荷台を揺らし過ぎないように気をつけはするのだが。

 

 工房に着いて裏庭に自転車を置く。工房の裏手は小さな林になっていて、橡や栗なんかが無造作に植わっている。

 今は濃い緑の葉が揺れているが、秋が始まると赤い赤い葉がそこここに落ち始める。

「御苦労。いやあもう夏だなあ」

 なにかの木の陰から、枯れた老木のようなオーナーが現れた。

 オーナーはシュッとしたシルエットで上背があり、木漏れ日を受けた豊かな髪が柔らかな銀に揺れる。

 

 ここまでオーナーがふさふさなら、血縁者の晶君はハゲの心配はなさそうだ。

 逆に僕のほうは父方も母方も絶望的だ。僕は将来、ハゲになる。

 父も僕が高校生の頃に、育毛剤を買うか買うまいか悩んでいた。毛があるかないかは死活問題らしい。


「本格的に夏になったら、君は海に行くのかね。私は行くよ」

「いえ。夏の予定は特に。趣味もありませんしね」

「ここのバイトをしているのに、なにもないというのも、面白い」


 結構結構とオーナーは手を叩いて笑う。詰まらないとでも言われるかとも思ったが、彼は仙人の中の仙人であったので、思考が僕の範疇に収まったためしがない。


 オーナーは木に寄りかかりながら僕の顔をたっぷり時間をかけて眺める。木は僕の胴周りと同じぐらいの太さで、何の木かはわからない。秋になって堅くつやつやした球果を実らせる。

 その時に何が実ったかで、この木は何の木かと判断される。そして冬にまた忘れ去られるのだ。


「君が晶の代わりにここに来た時は、そうだなあ、少し、がっかりした」

 僕は、でしょうねと軽く笑ってみる。しかし僕のそれは所詮は仙人のそれではない。僕は淋しい心持ちで笑みを深めてみた。

「だがどうだろう、最近は君もいい顔をする。気に入っているのだよ」

「そうなんですか?」

「本当だとも、君が短く静かに思索に耽る様は、なかなかどうして悪くない」


 オーナーはそう言って目を細めて、目尻に皺を寄せる。皺ばかりは年相応であることに、僕は密かに驚いた。

 オーナーは柔らかく葉を踏んで僕の横までやってくる。オーナーの靴は高そうな皮靴で、暗い緑の葉に映える。

「そうだ、君本当になにか趣味はないのかね。好きなことは」

「ぱっと出てこないんです。どこまで好きなら、好きと言えるのでしょうかね」


 僕はきっと就職活動なんかで困る人間だ。時々学校で行われるセミナーに参加しながらそう思う。

 たまに実践形式で行うようなセミナーの時は、僕は趣味をとっかえひっかえしてその場を凌いでいる。

 ある時僕は読書家で、朝のバスで晶君が話していたことを右から左に受け流すように話すし、またある時僕の趣味は散歩で、歩くだけで幸せを見いだせる省エネ人間にもなる。

 嘘八百も甚だしいと、ハーマイオニー達によく言われる。


 オーナーは僕の正面に回り、ぼそりと呟いた。歳以上にしゃがれた声であった。

「そう、その顔だ」

 オーナーは常の陽気な表情のまま、しかし陰鬱な声を出す。そこで僕はようやく、彼が巨匠と呼ばれる仙人界の重鎮であることを理解する。

 僕は動くことも出来ずに、ぼんやりとオーナーの恐ろしい声が出た喉元を見る。


 木が枯れた風合である。僕は頭の中で、彼女がハーマイオニーならバイト苦の彼はロンだなあとふと思った。今度そう呼んでみようか。そんなことを考える。

 オーナーはひっそりした声で、僕に内緒話を打ち明けるように自分の右手を口元に当てた。


「実は私も未だにわからないのだよ。自分が本当に絵を好きかということが」

「まさかそんな、御冗談を。なのに描かれるんですよね」

「わからないから続けるということは、あると思うかい?」

 オーナーは質問に質問で返す。僕は何とも言えずに肩をすくめて見せるしかなかった。

 からかわれているのかどうか、僕には判断が付けられない。そこで僕は荷物の存在を思い出して、アトリエに戻ることにした。

 そんな僕の背中を見送ってくれたのは、いつものオーナーの鼻歌だ。毎度毎度同じ歌なので、すっかり覚えてしまった。


 あると思うかい。耳の奥のほうにこびりつくような声色であった。

 大切なことを僕に聞かれても、わからない。

 オーナーの描き続けた年月なんて、僕の知ったことでもない。ただ少し、腹の奥のほうがむずむずする。少しだけ笑ってしまいたくなる。

 何故だろう。苦悩の気配に、僕は弱い。

 

 アトリエに戻って金平糖の片付けをする。この金平糖は出来上がって硝子工房から出てきた瓶に入れられるのだ。

「すみません、見学の予約をしていたんですが」

 ジュースや細々した物品の補充や記帳をしていると、大人しそうな高校生が恐々と扉を潜って来た。

 膝丈のスカートに白いソックス、傷のないローファー。まだまだバイトを始めてそれほど経ってはいないが、それぞれの工房の色は把握しているつもりだ。僕は念のため記帳を取り出して確認しながら聞く。


「三階の音楽教室でよろしいでしょうか」

「はい。よろしくお願いします」

 記帳も正しく来訪時刻が書いてある。礼儀正しく頭を下げて戻すその一連の流れに、独特の雰囲気を感じる。

 三階に通う多くの人が持っている雰囲気だ。琢海さんも三階の住人ではあるが、しかし彼にはこの雰囲気がない。

 いつも項垂れているところばかり見ているということもあるのかもしれないが。


 僕は受付カウンターから出て見学者の先導をする。見学者はコトンと行儀よくローファーの踵を控えめに響かせて、僕についてくる。

 三階にたどり着き、分厚い擦り硝子の扉を二回ノックする。どうぞという優しそうな柔らかいトーンの男の人声が迎えてくれる。

 ドアを開くと、待っていたというように背の高い痩身の先生が招き入れる。一見優男で僕もあまり話したことはないが、彼が毎日琢海さんを意気消沈させているらしい。


 そして奥の部屋には、研人さん曰くのめげないピアノ馬鹿、琢海さんがスタンバイしていた。

 見学者は扉の近くの椅子に座る。僕は会釈をして部屋を出て受付に戻る。

 そういえば琢海さんは、毎日どんな風に先生から注意を受けているのだろう。

 あの優しそうな人が声を荒げて罵倒する様が、僕にはうまく想像ができない。見学者がいる前でも、先生は琢海さんを消沈させるのだろうか。


 一階に戻ると、由磨さんがカウンターの前で僕が戻ってくるのを待っていた。僕はボックスの中を確認してから、商品を紹介する。

「サイダーはさっき入れたばかりで、お勧めはオレンジジュースです」

「じゃあそれで。一番冷たいのお願いね」

僕はボックスの奥のほうからペットボトルを取り出して、今日も汗まみれの由磨さんに渡す。

 僕を待っている間に握りこんでいたらしい百円は、少ししっとりしていた。硝子工房は本当に暑いらしい。


「本当は朝の涼しい内からやるんだけれどね、うちの工房、夏場は吹き硝子組に譲っているのよ。私達も一階みたいに自分の部屋が欲しいわ」

 由磨さんは絵画工房の一室を見ながらそうぼやく。僕は金平糖の残りをチェックする。

 明日辺りに瓶をいくつか用意しておいて欲しい旨を伝えると、由磨さんは、またお仕事ねえと肩をすくめた。


「そういえば、由磨さんって最初から上の工房にいたわけではないですよね」

「そうね。高校を卒業して、窯元に弟子入りして……しばらくイタリアに武者修行したのよ。これでも」

 ほら、ベネチアングラスとか、まあその辺ね。

 由磨さんは美味しそうに喉を鳴らしてオレンジジュースを一気にボトルの半分まで飲んだ。今の工房には、イタリアから帰って来てスカウトされたという。


「本当の専門は吹き硝子なんだけれどね。クラフトも好きよ」

 細々した細工物、目が疲れるっていうのはあるんだけれど。

 由磨さんはそう言って豪快に飲み切ってペットボトルを空にした。休憩時間がまだあるのか、珍しく由磨さんは話を続けてくれる。

「石畳の街だったわ。イタリア語は早口で、私はあまり好きになれなかった。何よりあの町の人って、私には少し恐ろしかった」

 僕は黙って注意深く由磨さんの話の続きを待つ。しかし由磨さんは僕を見てほんの少し笑った。


「ねえ知っている? あの街の人、虹色の目をしているのよ。本当よ」

 由磨さんは色素の薄い明るい茶色の目で、そう言った。人間の目が虹色であるならば、それは確かに恐ろしいことである。

 明らかに冗談である内容なのに、しかし由磨さんは真面目な顔をして、そう僕に話しかける。そしてもう一度、本当よ、と子供のように呟いて持ち場の工房に戻っていった。




 その日はアパートに帰ると、由磨さんと研人さんがお茶を飲みながらまんじゅうを食べていた。なんでも研人さんの工場の余りだという。

 僕もその輪に入ると、研人さんがコップにガラガラ氷を入れて熱い茶を注ぎ、即席のアイスティーを淹れてくれた。

 口に含むときりっと冷たくて、少し喉の奥が痛いぐらいだ。

 まんじゅうは生地によもぎが混ぜられているらしくて、口に含むとお茶とよもぎで、野の香りのようなものが鼻に抜ける。中に詰まっているのはさらりとしたこしあんだ。


「私、粒あんのほうが好きなのよね。でもこれもなかなか美味しいじゃない」

「出た、粒あん一派。こしあんの宿敵め」

 由磨さんと研人さんがこしあんと粒あんの、仁義なき不毛な戦いを始めている間に僕はもう一つまんじゅうを食べる。甘いものは久々に食べるととても美味しい。

 僕が二つ目を少し食べ進めたところで二人は、きのことたけのこの話を始める。どこまで行っても二人は平行線であった。

 二人は僕に意見を求めながら、同じタイミングでふたつ目に手を伸ばす。

 研人さんが僕らに二杯目のお茶を注いでいる間に、僕はきのことたけのこについて考えてみた。


「チョコレートが食べたいなら板チョコを食べればいいし、ビスケット食べたいなら、ビスケット……じゃあ駄目ですかね」

 僕の答えに二人は、わかってないなあと口を揃えて言う。

 僕にとっては粒あんでもきのこでも心底どうでもよかったが、それは議論している二人にとってさえも、その実どうでもよさそうであった。

 そんな話を繰り返していると玄関が開いて、今日もよれよれに疲れ切った琢海さんが入ってくるのが見えた。見学者がいたのに叱り飛ばされたのだろうか。

 由磨さんがまんじゅうを勧め、琢海さんが輪に加わる。


「今日も大変そうですね。見学者はどうでした?」

「ああ、入ったよ。音大付属の子だね。エリートの匂いがぷんぷんしたよ」

 大人しそうな人であったのに、琢海さんがしごかれる様を見ても入会を決めたというのも意外だった。僕がそれを伝えると、琢海さんは、先生は声を荒げたりはしないさと言う。


「穏やかな人さ、演奏も人柄も。先生は静かに諭す。だから一層辛いのだよ」

 琢海さんはまんじゅうを食べながら言った。そういうこともあるのだなと僕は薄ぼんやりした頭でそう思った。

 研人さんが自分のお茶を注ぐついでに琢海さんのコップにも注ぎ、茶化しにかかった。


「エリートの匂いだなんてお前、じゃあなにか、ここは家畜の匂いか?」

「家畜というか、獣だろう。柵もない獣さ」

 琢海さんは意外にもそんな軽口を軽くいなして笑う。そしてまんじゅう一つでお腹が膨れてしまったようだ。

「やだ、もう。ご飯の前に食べ過ぎちゃ駄目でしょう」

 由磨さんがそう言って、母のような笑みを浮かべた。





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