そして平和な五月十一日
【3】
アパートに帰る前に、買い物をする。季節の変わり目には体調を崩しやすい。
栄養を取らなければと、僕は適当にそこそこ安くなっている野菜を買い込む。
春の終わりのさやいんげんは柔らかそうで、横に並ぶ空豆はふかふかのさやに収まっている。さっと塩ゆでして熱い内に酒のおともにしてもいい。
だがきっと茹でている間に研人さんが嗅ぎつけて晶君を呼び、その騒ぎに二階の由磨さんがやってくる。そして琢海さんはやはり一心不乱にピアノを弾く。
僕の取り分なんて大して残らない。枝豆の時はそうだった。だが空豆は時間を置くとてきめん味が落ちるから、みんなにやってもいいだろう。
料理はそれほど好きじゃなくて、時間をかけるのも嫌だが、こうして野菜売り場を眺める時間は悪くない。
駅前のスーパーだが、時々変わり種のユニークな野菜なんかも売っている。
僕は手出しなんてできないが、料理が趣味らしい研人さんなんかが時々買ってきて、僕に味見をさせてくれる。僕はどちらもかごに入れて満足する。
栄養を取らなければいけないということまではわかってはいるが、一体何を摂取してどの栄養素を取りこまなければいけないのかということはわからない。
とりあえず困ったらビタミンを取っておけというのは研人さんの言葉だ。
由磨さんはそんな研人さんに呆れながらもう少し丁寧に、色の濃い野菜だったり果物を取ればいいのよと解説してくれた。
色の濃い野菜というのでかぼちゃが目に入るが、長い間ぐつぐつ煮て下ごしらえというのは手間なので、かぼちゃは買わない。
もう少しかぼちゃの皮が薄くて、あとかぼちゃが軽ければ買っていたかもしれない。
果物は甘くない方が好みだったので、ほんのり青くて堅い桃をひとつ買う。香りが強いのも苦手なので、僕にはこれでちょうどいい。
とりあえずこれを丸かじりしておこう。
丸かじりしていると獣のようだよというのは研人さんを始めとして琢海さんまで含むアパートに住む全員の見解であったが、僕は丸かじりが止められない。
僕にそれほど料理のレパートリーがないのも一因でもあるのだが。
重くなった鞄を抱えて、僕はバスに乗る。
夕方の車内はくたびれたサラリーマンとはしゃぐ中学生、眠る部活帰りの高校生、そして塾へ向かうらしい静かな小学生が入り乱れて、小さな混沌を生み出していた。
僕はチェックの地味な大学生という記号に埋もれて、その中の一構成要素になる。
後ろから二番目の席に収まると、沈む西日が僕の目をぐさりと刺す。
僕は目を閉じるが、つれないなあと残光が瞼の裏側まで回って、ちかちか僕の網膜を刺激する。
放っておいて欲しい、僕は今日も少しばかり疲れているのだ。
太陽はつまらない奴と、しゅっとビルの向こうに沈み、また別の国で昇る。ここではないどこかの話だ。
そのまま目を閉じていると、前の座席に座った高校生達が教科書片手に問題を出し合っているらしく、英単語が飛び交う。
その内片方が酔ってしまったらしく中断し、平気なほうが、慣れだよ慣れと得意げな声を響かせる。
これは僕の瞼のすぐ向こうで起こっている出来事だ。
アパートに帰ると、既に台所は研人さんに占領されていて、その横にある小さな簡易テーブルに教科書を広げて、晶君が何事か勉強しているところだった。
僕は二人に会釈をして部屋に荷物を置き、スーパーで買ったものを冷蔵庫に詰め込む。
詰め込むといっても大した量は買っていないのだ。その作業の最中に、研人さんが目ざとく空豆を見つけていた。
「酒なら提供するぜ。ビールがあるんだ。モルツな」
「アルコール入れる前に、チェックお願いしますよ」
晶君がそう言って、広げている教科書の幾何学模様をとんとん叩く。すると研人さんはそこにそっとプチトマトを一つ置く。
晶君はじっとそれを見てから、摘んで口にして、今度はじっと研人さんに無言の抗議をする。
研人さんは観念したように傍らの赤ペンを取り上げて教科書になにかを直接書き込んでいく。
僕は台所が空いたその隙に下ごしらえをして手早くさやいんげんや空豆を茹でて、軽く火を通したさやいんげんを切って、ジャガイモとベーコンと卵を入れて、オムレツをつくる。
いつの間にか研人さんが空豆の準備を進めていて、どこからか由磨さんもグラス片手にやってくる。
晶君が赤ペンを回しながら、流れのように琢海さんはと聞いた。
「いつも通り、ピアノピアノ。でもあの子空豆好きなのよ。呼んでくるわ」
由磨さんが立ちあがって二階に上がる。
その間に晶君はテーブルの上を片付けて、自分の夕食らしいサンドイッチを部屋から持ってくると、由磨さん達が自分達のご飯と折りたたみの椅子を持って降りてきた。
琢海さんは悪いねと僕に一言かけてくれた。いつもこうして全員で食べることはなく、今日はたまたまだ。
「そういえば、僕、琢海さんのピアノ聞いたことないんです。もしよかったら今度弾いてもらったりできますか?」
「構わないけれど、俺があまり巧くないの君知ってるだろ?」
それでいいならコンクールが終わった後にでも、と琢海さんは泡の減って気の抜けたビールを飲みながら承諾してくれた。
僕が考えている上手下手と、琢海さんの考えているそれは、大きく隔たったところにある。
琢海さんはビールの味には頓着していないらしく、それよりも空豆を美味しそうに食べていた。
「空豆を食べると、夏が来たんだって思うんだ」
「食べなくったって夏ですよ。五月なのにこんなに暑い」
琢海さんの言葉に、晶君がビールを注ぎながら軽口を叩く。
晶君の芸術家嫌いは工房棟の住人である彼も知っているが、年上という自負もあるのか、受け流している節がある。
ピアノが絡むと悲嘆にくれてばかりなのに、その他には割と淡白だ。
こういう点に関してだけは、彼もまごうことなく仙人だった。
僕の周りには、街に住まう仙人ばかりだ。
仙人は大抵いつも遠くてなにかを抱えていて、荷物を運びながら僕のことを少しずつ置き去りにする。
僕はなんともいえない気分であれこれを考えたりして、しかし結局はその背中を見送るしかない。
僕は持たざる身軽なものであった。だけれども、今日は悪くない一日だ。星占いは当たったということにする。そう思うことにする。
【4】
翌日は早くに目が覚めた。廊下ではじめに会ったのは朝風呂に入っていたらしい琢海さんで、すこぶる顔色が悪い。
まさか昨日一杯しか飲まなかったのに悪酔いでもしたのかと思案していると、どうも彼は朝まで練習していたようだった。
彼はこの後早くに学校に行って、学校のピアノを弾かせてもらうと言って二階に引き上げていった。
彼を見送った後、少ししてから由磨さんのラジオが今日もぺらぺら話し始める。五月十一日、一日快晴、微風です。いよいよ夏がやってきました。お便りを紹介します。
僕は窓を開ける。学校に行く前に洗濯ものを干しておくのもいいかもしれない。
「おはようおはよう。いやあね、今日も暑いって」
空に浮いている雲のほうから、由磨さんの声が降ってくる。あまりに空が明るい色をしているので、かえって雲は灰色に見えた。
僕はおはようございますと、空と由磨さんとラジオに挨拶をする。雨が降りませんように。
焼き過ぎたトーストをかじりながら中庭で洗濯ものを干す。スーパーで安売りしていた食パンは、普段買っているものより薄くて、サクサクどころかザクザクに仕上がる。
台所で皿を洗いながら研人さんが窓から顔を出して、メルバトーストだなんて洒落ているじゃないか、と揶揄する調子で言って来たが、僕はそもそもメルバトーストなんて知らない。
今日は研人さんも一緒に家を出て、三人でバスに乗る。
バスは朝から冷房が効いていた。まだ五月なのにこの調子なら、梅雨の季節なんて憂鬱だ。職場に向かうサラリーマン達がそんなことを話しあいながら、高級そうなハンカチで額をおさえていた。
晶君は窓際に陣取って今日は教科書を広げる。僕は研人さんと雑談をしていた。
「朝、琢海が酷い顔をして出てったんだ。あいつ本当にピアノ馬鹿だな」
馬鹿という割に、研人さんが琢海さんを呼ぶ声には親しみがこもっている。聞けば彼らは高校の同級生だという。研人さんの琢海さんに対する温かみのある緩やかな揶揄は、時間が作ったものなのだ。
晶君はいつの間にか教科書を閉じていて、ハードカバーの本を読んでいた。分厚くて重そうだ。
「それだけ時間や労力をかけて芸術が出来ても、実もなく消費は一瞬ですよ。科学は違います。日々積み重ねた技術や発見は、永遠に残ります」
晶君はそう言って自分が読んでいる本を緩く振って見せた。
研人さんは少し考える素振りをしてから、晶君の読んでいた教科書を鞄から抜き取り、ぱらぱらとページをめくり、自分の持っていたマーカーペンでなにか線を引いて、鞄に戻す。
晶君は本を開いてはいるが、読んではいない。僕はなにかの気配を感じて、そっと晶君の揺れる横顔を見る。
バスが緩く右側に曲がり、晶君の長い前髪が同じように揺れた。伏せられた目の下には微かに影がある。
「晶はシアルを知っているだろうに」
研人さんの口から、謎の仙人の言語が出る。
研人さんはまた髭を剃らなかったみたいで、尖った髭が生えている。研人さんは器用にひょいひょい指の間でペンを回す。
あんまりそうやって回していると、インク漏れするのだと伝えたほうがいいのだろうか。透明なケースの中で、青いインクが波立っている。冷たそうな色であった。
「日々積み重ねた技術や発見が、次の日の新しい発見や事件に覆されることはあるさ。芸術は違うらしい。百年、二百年、残るんだろう?」
俺は琢海みたいに関わる気は毛頭ないが。研人さんはそう付け加えて立ち上がる。
バスは大学前に着いていて、ぺっぺと学生を吐きだしていく。淋しそうに少しだけ頬を上げて晶君は僕に笑って見せた。
研人さんは怒る様子もなく、続いて立ち上がった晶君の胸ポケットに回していたペンを差し込んだ。僕はすぐに晶君のシャツに起こった異変に気が付いて、まごまごしてしまう。晶君は自分からは見えないのか、まだ気が付いていない。
研人さんはにやりと目を細めて、悪びれもしない。
「はは、インク漏れちゃった。まあ水性だし」
晶君があわててペンをポケットから出す。キャップから滲んだ青が、晶君の手をブルーのマーブルにしていた。
気持ちよく白い晶君のシャツにも跡がつき、心臓の上一点が青い。白の上の青一点は急所の印ようだ。
一方の僕のシャツは、今日もチェックだ。研人さんはさっさと一人で逃げて、朝の人ごみに紛れこもうとしている。
紛れるのなら僕のほうが容易いだろうと思いながら、僕もその一団に加わった。
振り返ると、晶君は撃たれた人のように胸を押さえてバスを降りている。人ごみに紛れた僕は、狙撃手であった。
授業は教授の暑いですねの一言から始まる。僕の左右には熱心にノートを取る友人や、無気力な顔で眠気と戦う友人がいる。
僕は彼らの真ん中で彼らの中間の顔をしながら、ノートを取ったり取らなかったりした。
教授は教授で僕らではなくなにかもっと遠くのほうに語りかけていた。僕らは僕らで教授の話ではなく、もっと別のあれこれに勤しんでいる。
時間は九時五十分。授業の終わりに宿題が出る時間だ。僕は船を漕ぐ友人を少し揺する。
「またバイト? 最近ずっとじゃあないか」
「ああ。ほらもうじき学費納入やん。今回間にあわん気しかしない」
学費と俺のチキンレース、と彼はわかるような微妙に違うようなタイトルを呟きながら、謎の言語をノートの隅に書いた。彼しか読めない彼の文字だ。
反対側から真面目な友人が眉をひそめて会話に加わる。彼女は真面目で、そして彼より熱心な生徒であった。少なくとも僕はそう思っている。
「最近寝てばっかりね。不真面目よ。問題解説してたのに」
「うるせーハーマイオニー。あ、今日ハリーポッターやるの知ってる?」
彼は気にした風でもなく茶化しながら、授業が終わってざわめく教室で急に元気に立ち上がった。
僕のいるのは教育学部で、カリキュラムは中学校教員のためのものを履修している。専門は理科総合ということにはなっているが、もちろん広く一般教養もあれこれ身につける。
茶化し合いをしている二人はカリキュラム的に教育学部で最もハードと言われている小学校教員向けのものだ。
彼らはマット運動をした後にピアノを弾き、物理の演算をしたあとに作者の気持ちを考え、放課後には義務化されたボランティア活動に勤しむ。
バイト苦の三上に至っては、その後明け方までバイトに入っている。そんな三上だから、僕らも起こすのを躊躇ってしまう。
一方の僕はなんとなくこの学科に入って、未だに自分のやりたいことが見つけられないでいた。
授業科目の幅が広いため、教員はもちろんそれ以外の何にでもなれるが、しかしそれは何にもなれないということでもあると、僕は知っている。そしてこれは僕に限った話ではない。少なくとも僕はそう思う。
二人はいつの間にか片付けを終えて、僕のことを待っていた。移動教室だ。
世界は僕の知らないところに広がっている。行ったことのない研人さんや晶君のいる教室や、研人さんが扱う謎の言語のように多様に。琢海さんが由磨さんから受け取るエールのように、残酷に。
バスを待っていると疲れた顔をした晶君に出会い、発表があったのだと聞かされた。大学前からのバスは、浮足立った学生と疲れている学生に二分されていた。
僕達はいつものように一番後ろの席の隅に、ひっそりと収まる。
晶君は疲れているから眠るのだろうなと思ったが、彼は今日も鞄からなにかを取り出す。
しかしそれは本ではなく、夏休み読書課題紹介の小冊子であった。僕の視線を感じたらしく、晶君は説明してくれた。
「別に小説じゃなくてもいいんだ。なにか字であってくれればそれで」
どうも次に読む小説を選んでいるわけではない。覗きこむとその冊子のラインナップは僕でも読んだことや聞いたことのある小説ばかりだった。
晶君ほど毎日読んでいれば、これらはもう読んでいるのだろう。
「言ってしまえば、読書じゃなくてもいい。そうだな、何でもよかった。読書はほら、簡便だろう。数少ない、時間と場所を選ばない行為さ」
「まあ、そうかもね。でも部屋に邪魔にならないかい? 本はかさ張る」
読んだら売るよ。そう思い入れはないのさと、晶君は欠伸を一つした。売ったそのお金で違う本を買う。古本でいいという。
「新しい本は気後れするんだ。ああ、でも前に推理小説を買ったら、犯人の挙動全部に赤線が引いてあって、笑ってしまった」
でも十円でしばらく楽しめたんだ。彼はそう言って読んでいた冊子を団扇代わりに首元をあおいだ。
僕もなにか休みの間に読んでみようかとも思う。そう告げてみると、晶君は少し不思議そうな顔をした。
「別に読書っていつもそんなに楽しいわけではないさ。それに読書なんて、なんというか、無駄……嗜好品の類、そうだな、煙草なんかと一緒で」
やる必要というのはないよ、と彼は言う。晶君は珍しく少し弱った顔をしていた。僕はまた、あの笑い出したい気分がこみ上げてきて内心困ってしまう。
僕は煙草を吸ったことはないが、僕の父親はヘビースモーカーである。おそらく肺癌で死ぬのだろうと思う。
そういう人にしてみれば、煙草は嗜好品ではなく必需品とも言えるだろう。それなら小説もそういう類のものかもしれない。
「煙草、というと、なんだか紛らわせる、といった感じなの?」
「本を読む人なんて、そうじゃないのかい。まあよくわからないな」
晶君は困った顔のまま言葉を濁す。そして読みたいなら、なにか適当に貸すよと言ってくれた。あまり難しいのが来ませんようにと僕は頼んだ。
それにしても、あんなに本を読んでいて、それでなお自分は本を読まない人と言い切るところが仙人らしい。なら僕は何なのだろうか。
「暇潰しが要らない人、というのはどうだろう」
晶君は真面目な顔で提案してきた。