玻璃の道程
オーナーが工房棟に復帰したのは、二月に入ってからのことだった。僕がオーナーと話が出来たのは、どか雪が降った日のことで、僕は駐車場で一日かけて雪かきを行った。水を含んだ雪であったので、とにかく重くて硬くて堪らない。
特に地面近くで押しつぶされて根雪になった雪は硬くて、僕はシャベルで砕かなければいけなかった。本当は屋根の上の雪も降ろさなければいけないのだが、腰が痛くてとても脚立に昇ってバランスが取れそうにない。
とりあえず一度休憩を取ろうと、受付でミルクティーを飲んでいるところに、オーナーがやって来たのだ。
「当たり前だが、もうサイダーはないのだろうな」
はい、と答えようとも思ったが、僕はポケットからいくつかの瓶を取り出した。それらの中には種類別に金平糖が入っている。僕はオーナーに一粒の金平糖を渡す。薄水色で、工房棟で売られている金平糖よりほんの少し大きい。
オーナーはそれを口に入れて咀嚼して、ほんの少し目を細めた。それはただの砂糖の味ではなく、爽やかなラムネの香りを残すものであった。
「僕も初めて知ったのですが、どの道を選んでも、砂糖の味だけとは限らないみたいです」
僕は薄水色の金平糖のコルクを閉めて、二つの瓶の中身をオーナーの手に乗せる。どちらも変わらないような白い色だ。僕は並べた瓶を鞄にしまってオーナーの様子を窺う。
「すごいな。きちんと林檎の味がする。それにこちらは、バナナか」
一見同じ色でも香りも味も違う。だから違う瓶に保存しないと、混ざり合ってしまうのだ。僕はオーナーにそれを説明する。オーナーは全く知らなかった、と何度も頷く。
「科学の進歩らしいです。高温でも味や香りを残す技術が編み出されたのだ、と」
若人らしい答えだ。それからオーナーは目尻の皺を深めて影を落とし、美味いよと呟く。僕はミルクティーを飲みながら、ゆっくりとした声で話すオーナーの言葉を、拾って咀嚼することを繰り返していた。
オーナーは倒れる前と比べると、明らかに体力を落としていて、会話の間に挟まれる呼吸音に、枯れ葉が擦れる侘しい音が混じっていた。芸術と一緒に死んでしまうのだろうという、晶君の言葉はきっと本当のことなのだろう。
疑っていた訳ではないが、実際にこうして顔を合わせて話をすると、それは実感として僕の胸を締め付けてきた。
僕と同じだと言ってくれた、不可思議な老人。挫折があろうが無かろうが、結局人は寒しい、そう断言した人間。彼は果てにいる仙人の中の仙人。
「人生は、お気に入りを探す旅だ。少なくとも、人の人生は」
ある時は、雪の一片がそれかもしれない。しかし次の瞬間にはそれは死神であるかもしれない。失うこともあれば、新たに出会うことも。そうしてあらゆる人生の敵に立ち向かえる糧になるようなお気に入りを見つけるのだ。
オーナーは金平糖の礼だと、そう僕に語りかけてくれた。
「オーナーには、敵はいるんですか?」
オーナーは自らの左胸を枝のようにしなる腕で指して見せる。彼は底冷えのする悪鬼のような目であったのに、口元だけは人のように柔らかである。
「本当に辛いのは、憎み打ち倒すべき敵が消え失せ、いよいよ私一人になった時だ。その時、私の中の悪意が、絶えず私の首を狙うことになるだろう」
オーナーは既にその時であるという面持ちでそんな言葉を口にした。僕は緩く首を回して、フロアのどこかの窓が開いているのではないかと疑った。しかしどこも開いてなどいなかった。ただ僕が、寒いというだけである。
オーナーは寒がる僕を見て、はっきりと一瞬だけ淋しそうに笑った。その顔は流石、晶君と瓜二つである。
「そういえばその金平糖はどこで買ったのだね」
「さあ。僕は知りません。晶君にでも聞いて下さい。たまにはオーナーが行っては」
確か夜の決まった時間はあの部屋でピアノを弾いていたはずだ。僕はオーナーにそう伝えた。オーナーは、それは考えつかなかったと、緩い笑みを浮かべた。
三月の終わりごろ、由磨さんはアパートを出て行った。生憎他の人は予定が合わず、見送りは僕と晶君とでやることになる。琢海さんはその日の早朝に新幹線でコンクールのファイナルに向かった。今日の昼はリハーサルで明後日が本番なのだという。
研人さんは琢海さんにおにぎりを持たせて、そのままアパートを出て研究室に行った。僕達はなにも言えなかった。研人さんは由磨さんにも同じおにぎりを作って、それを渡しておくように僕らに頼んだだけであった。
「ほうじ茶は持たせてやれない。水筒、戻って来ないからな」
研人さんは泣きも笑いもせず、眠そうな顔をしていた。由磨さんは既に荷物の処理を済ませているので、出勤するような身軽な格好である。
由磨さんが成功し続ける限り再会は期待できないようなので、僕は真っすぐ由磨さんの目を見て、さよならを言った。由磨さんも同じように返して、まだまだ寒いわねなんて言いながら、あっさりとアパートを出て行った。
「じゃあ俺も行くか」
晶君は荷物を持ってアパートを出た。晶君もこの冬でアパートを出て、オーナーの家に戻ることにしたという。詳細は全く聞いていない。聞いていないが、晶君が僕に話す必要が無いと判断したのなら、僕には必要のない情報である。
ただ僕は、ピアニストに戻るのかとだけは聞いてみた。もしそういうことがあるのなら、琢海さんの最大にして最強の好敵手になるのだろう。もしかしたら琢海さんは全く歯が立たないのかもしれない。
「分からない。何せまだまだ、人生が長そうだ」
晶君はお前こそどうするのだと聞いてくる。僕も同様の答えを返した。そして晶君もまたあっさりと、アパートを出て行った。僕は部屋に戻ってもうひと眠りする。春休みの早起きはなかなか堪えるし、何よりまだまだ寒いのだ。
短い睡眠の中で、僕は夢を見たような気がする。彷徨う夢であったのだが、よく覚えていなかった。夢とは往々にしてそういうものである。ただ僕は夢の中で、手足を動かしていたかもしれない。みっともなく足掻いたような気もする。何せ夢である。
起きれば結局はベッドの上でどこに辿りついたわけでもなく、それよりも現実での空腹が優先されるのだ。
僕は最近お茶漬けにはまっている。味付け刻み海苔に、醤油を入れてかき混ぜた納豆、それに山葵を少し添える。それに熱いお茶をかけるのだ。寒い朝にはこれが一番だ。冬は丸かじりに向くような食材はないので、今の所僕は人間らしい食生活を送っていた。
バイトの時間になったので、僕はバイトに向かうべく玄関で靴を履く。四月が近づき、近頃の僕のバイトの内容と言えば、値札の交換である。何といっても消費税八%で貧困学生の財布に直撃だ。
この値札の交換は至る所でバイトを募集していて、時々割のいいところを見つけては、湊さんと三上が連れだって行く。工房棟のバイトより割のいいところもよくある。何といっても最近の工房棟のバイトはやるべきことが多すぎる。
扉に手をかけた時、僕は玄関の部屋別のポストに手紙が入っているのに気が付く。切手も差し出し人の住所も名前もきちんと揃っている、ちゃんとした手紙だ。
三笠晶、彼の名だ。僕は何か用事があるのなら直接言ってくれればいいのにと思いながら、手紙をコートのポケットにしまう。白く素気なく、角がぴっと立ったどこまでも几帳面な手紙である。
バスのむせ返りそうな暖房の中、僕は封筒を開く。封筒の糊は簡単に剥がせるようになっていて、素手でも綺麗に開けられる。手紙を開くと真新しい紙の匂いが少しの間だけ漂う。一人で隅に座ってバスに揺られるのが、なんだか新鮮でさえあった。
手紙には几帳面な文字が並ぶ。急がずに書けば、彼は字でさえも背筋を伸ばしているような人であった。僕はバスに揺られながら手紙を読み進める。読み進めるといっても大した量もない。ただ僕が車の中で字を読むのが不慣れであったため、休み休み読んでいたに過ぎない。
……追伸。件の自分探し亜種で、俺はトンネルを超えた。トンネルの向こうは確かにあった。そのことは報告しておく。だが、またすぐにトンネルが連なっていた。更に、開通したばかりの新しい山間道路や、高速へ続くバイパス、様々な道があった。
俺は二度目のトンネルは通らなかった。そのトンネルが車専用だったからだ。残念ながら、俺は車ではなく自転車で旅をすると決めていたから、そのトンネルの向こうについては知らない。
俺は一人であれこれを見た。だが、一番最初に俺は君を誘ったということを覚えているだろうか。あれは切実の気持だった。本当は君と行ってもみたかった。もしかしたら違う景色を俺は見ることになったのかもしれない。だけれども、真にそう思ったのだ。ではさようなら。
僕は晶君の手紙を鞄にしまう。角を折らないように丁寧に、スケジュール帳に挟んだ。バスは件のトンネルの前を通り、何人かを降ろして何人かを乗せた。それから工場街に停車したので僕はそこから歩き始めた。工房棟までの坂道は、本当に寒くて堪らない。
そういえばこの辺で湊さんと三上が、花を見つけたという。こんなに寒い内から咲いているので何だろうと見たら、白梅であったとメールが来たのだ。咲いているというか蕾じゃなかろうか。僕がそんな疑いを込めて返信すると、二人は向きになったのか写真を添付してきた。
湊さんの写真は画像が粗くよくわからず、三上のはデータ量が重過ぎて、僕の携帯では対応できなかった。そんな笑い話があったが、結局僕はちゃんと白梅を見ていないことにふと気が付いた。
ほころぶ白梅。白梅というが、色は白でも桃色でもないという。では何かというと、それはきっと白梅色なのだ。僕はそう思うことにする。
今日は生憎の曇天である。もう朝のラジオは聞こえないので、僕は朝一番にテレビを点ける習慣を身につける必要があった。天気予報を聞いていないので、僕はこれから晴れるのか雨が降るのか、それともこのままなのか分からない。
傘を持って来ていないが、濡れないうちに念のため、工房棟まで走っておこうか。僕は考える。下って昇る緩い坂の向こうに、少し影を帯びた色の白亜が見えてきた。僕は小走りすることにする。
次の日の朝、ラジオなしの僕はほんの少しの寝坊をして部屋の扉を開けた。アパートの中には誰もいないのか、ひどく静かな朝である。朝食用の湯を沸かして部屋に戻ると、僕の部屋のポストにはまたも手紙が入っている。今度の手紙は研人さんで、僕はお湯の入ったポットと手紙とを持って部屋に戻る。
お茶漬けを描き込み茶を飲んだ後、テレビを点けながら手紙の封を開くと、中身は手書きではなく、素っ気ないコピー用紙に印刷されたものだった。
『一緒にどうかと晶に誘われて、一揃いのレターセットが渡されたが、俺は見事に書き損じてしまった。しかし手紙を出すことだけは晶と約束してしまっているので、出すことにする。それにしても二十五にもなって手紙だなんてどうかしている。酷く、感傷のようだと思うのだ。
そもそも俺は、これからもしばらくはお前と顔を突き合わせるのだ。手紙を書く必要はない。すると晶は、手紙でなければ書かないようなことを書けばいいのだと笑う。晶の手紙には、本当に手紙でなければいけないことは書かれていたのか?
時候の挨拶だが、春の彼岸が近いだろう。最近干菓子の製造ラインがどうにも忙しない。俺は母の仏前に何かを手向けるべきなのだろうか? 例えば俺が箱箱詰めをした、甘さがこびりつく寒天菓子なんかを。
母はあれをお墓ゼリーと呼んで、あまり好んではいなかったように思う。俺も好きではない。お前、もし俺が死んだら、墓にはビールとサラミを供えてくれ。どうか頼む。
悼むというのは、結局どういうことなのだろう。半年が経ったところだが、未だに俺には皆目見当が付かない。手を合わせれば祈りだろうか。目を閉じれば哀悼だろうか。
誰が誰のために祈るのだろう。俺にはやはり、わからない。実の所何もかもが、まだよくわからないのだ。母の最後の顔を見ていないから、実感が湧かないのだろうか。
しかし俺は告別式の日にゼミを休まなかったことを、今はそれほど後悔していないのだ。それとも何年か後に、後悔する時が来るのだろうか。来ないのだろうか。やはり見当が付かない。
そのあと結局何日かゼミを休んでしまった時、俺は電車に揺られながら、ゼミを欠席したことを死ぬほど後悔した。停滞した瞬間に、言葉にならない慟哭が、喉頭の頂点の所まで押し寄せてきたのだ。いいか、お前。いなくなるということは、もう会えないということだ。その事実に俺は打ちのめされた。
なんとなくわかっていたのだ。学問で忙殺されている間は、悲しみは襲ってこない。ただ、その手を止めたら事実が容赦なく俺の肩を叩くのだと。
それから俺は数日、死にそうな祖母の隣で、同じように動けなくなった。学問さえ、あっさり手放そうとさえ思ったのだ。
それでもどうにかこうにか学校に戻って来て、すぐにゼミの発表があった。俺は席に座った。背筋に力が入らなかったが、それでも座る努力はした。
所作に厳しい教授が、第一声で俺の格好に注意を入れた。すると不思議なんだが、すっと冷水が通ったように、俺の背筋が伸びたのだ。あれはもはや習慣だ。
下回生が俺を笑う。他の教授も肩を竦める。その中で俺の指先に、不思議と血が通ったような温かさが滲んだ。戻ってきたのだと思えた。
ゼミが進んで討論の時間になる。当然俺も発言をするわけだ。やはり体は重かったが、しかし不思議と頭ばかりは回転する。俺の口から数式の証明手順なんかが、淀むことなく溢れる。皆が俺の発言を聞き、肯定と否定とを一斉にくれる。どの目も光が宿っている。狂信的な、熱の籠った瞳だ。
瞬間。本当に瞬間、俺は、俺も学びたいのだと雷が落ちるように理解した。天啓のようでさえあったかもしれない。しかし俺は親よりも学問という自分の欲望を取った人間だ。そう天啓なぞ易々と落ちるまい。
渇望は身の底から湧きあがった、獣のようであった。親の腸を喰らって腹を膨らました、醜い獣だ。崇高な学問などという装飾などでは、到底隠し切れない腐臭を漂わせているのだ。真っ当に生きる全ての人間に、申し訳が立たない程の、腐臭。
しかし俺は澄ました顔をして論文を読み、討論をする。それはどんなにか恐ろしいことだろう。分かるかい、分かるまい。それでいい。それでいいのだ。悼むなんて、元から出来る訳がなかった。そしてアパートに帰れば、俺はその手でお前達に飯を作って、善人面して食らわせるのだ。
手紙でなければ書けないというのは、こういうことなのだろうか。残してもいいという思いを、信頼と共に相手に託すというのは、何とも博打を打つのに似ている。
ちなみに俺は博打といえば、パチンコぐらいにしか手を付けたことはない。小物なのだ。
後味が悪いことばかりを連ねても味気ない。そうだ、オーナーの個展の話でもしよう。俺は芸術には微塵も興味が持てなかったが、しかし晶といいお前といい、何かと縁のある人であったから、覗いてみようというぐらいのつもりで行った。
辟易するほど人が多くて、立ち止まって見れたものはなかったが、一つだけ、踏ん張ってでも立ち止まりたいと思ったものはあった。
題名は渦中。一面の青のパネルの中心に、何か男のような影が見える。パネルは人が歩いただけで揺れるような、脆弱なものだ。青、青。眩暈がするような青。底なしのような、上昇のような、不思議な青であった。
解説には、揺らぐということについてだけ、書いてあった。詳しくは教えない。そういうのが粋ってやつかと、俺は思っている。ただ俺は、あの影に酷く見覚えがあった。だけれども、お前は違う感想を抱くだろう。どうかそうであってほしい。
では次に会うときは、少し静かになったアパートで』
僕はもう一度だけその手紙をさらって読むと、こたつの上に置きっぱなしにしてあった晶君の手紙と一緒にして、研人さんの手紙を机の中にしまった。お互いに手紙を書きあうのではなく、二人して僕に向けて手紙を書いたということに、僕は少し笑ってしまう。僕には見当もつかないおかしなやり取りが、二人の間にあったのだろう。
部屋を出てバスに乗る。いよいよ春休みも終わり、僕は新しい学年に上がる。新しいことはなにか起こるだろうか。わからないが、とりあえず僕はこれから文房具屋にノートのセットを買いに行くので、とりあえず僕のノートだけは新しくなる。筆記用具はまだまだ使えるから、古いままだ。
僕は物持ちが良いほうだから、なにごともなくこの筆記用具は壊れるまで使われるだろう。きっとそうに違いない。