星の、はるか外側で
授業が再開する日の朝、由磨さんが僕に湊さんのかんざしを渡してきた。僕は鞄の中でかんざしが痛まないように丁寧に包んでしまうと、気合いを入れてバスに乗る。しかし僕が気合いを入れたところでどうしようもないのだと気が付き、祈るような気分でバスを降りることになった。
教室の隅のほうに座っている湊さんに声をかけて、かんざしを渡して隣に座る。ヒーターが遠いのか、少し足元が冷える席だった。湊さんは僕に代金を支払おうとしたが、僕はそれを断る。僕もまだ由磨さんに代金を支払っていないのだ。
湊さんは改めてかんざしを眺めて、綺麗ねと目を細める。硝子は空の色に加工されたらしいが、セキレイの黒と青のラインは残っていた。おそらくそういうふうに加工をしたのだろう。窓からの冬の朝日を受けて、内側から薄く発光しているように僕には見える。
湊さんはかんざしの飾りを揺らしながら、三上君は来るかしらと蚊の鳴くような声で呟いた。入り口を見るとまさに彼が入って来るところだった。湊さんは彼のほうを見なかった。代わりに僕は三上を真っすぐ見て、手を振った。
三上は一瞬立ち止まったが、それでも真っすぐこちらにやって来て、僕を挟んで湊さんの逆に座った。三上は席に座りながら、短く息を吸って吐いた。まだヒーターの効いていない教室なので、息は鋭く白かった。
「それが湊のかんざし? ささないのか?」
湊さんは、一瞬の間に様々な表情を浮かべる。喜怒哀楽の凝縮した、人間らしい表情であった。僕は決死の思いで声をかけたであろう三上が、同じ表情を浮かべているのを見て、息が苦しくなる。
湊さんはかんざしを指の先でくるりと一回転させて、付け方が分からないのだと答えた。回されたかんざしの飾り硝子は、打ち鳴らされて涼しい音がする。僕は以前研人さんがやっていた手つきを思い出し、口にしてみる。
「確かこう最初に、髪の毛をくるくるって巻いて、かんざしを後頭部に付けて」
僕のシャーペンを使った説明に、湊さんが言われた通り付けてみようとする。だが自分では上手くいかないのだろう。巻き上げる段階で髪の束がとけてしまうのだ。三上は焦れたように立ちあがって、湊さんの後ろに回る。
「貸せ。俺がやる。前向いてろ」
三上はそう言って湊さんに正面を向かせる。三上の筋ばった手が震えを押し隠して髪を梳くのを見て、僕まで震えそうになる。湊さんの肩が揺れている隣で、僕は教科書を開きながら、教室の音を聞く。
久しぶりと挨拶を交わす誰かと誰かの声と足音。教室のどこかで誰かがくしゃみをする。乾いて冷たい空気の中で、誰も二人を気にも留めない。僕はそのことを何よりも嬉しく思う。
結局三上は三度失敗して、四度目でようやく成功させた。高く結いあげられた湊さんの髪は結局歪んでいたが、湊さんは髪を解くことはなかった。先生は新年のあいさつをして教室に入って来る。
科学の発展、今日も張り切って行きましょうと、先生は黒板に板書をしていく。僕は板書を見て慌てて鞄から久々に眼鏡を取り出した。
「前回からの続きですね。英欧米発の自然科学の基礎についてです。その昔、地球は大きく三層から成るとされてきました。その三層はそれぞれニフェ、シマ、シアルと呼ばれていましたが、なぜこの名前がついたか分かる人」
僕は初めて自主的にノートを取る。先生は聞いたくせに生徒の挙手を待つことなく、話を進めた。僕は丁寧に文字を書く。先生は以前研人さんが説明してくれた、三つの円を描いた。そして一番外側にシアル、真ん中にシマ、一番内側の円にニフェと書いた。
「皆さんちゃんと起きてくださいね。これは主だった構成元素が由来になっているんです。シアルはケイ素とアルミニウム。シマはケイ素とマグネシウム。ニフェはニッケルと鉄。分かりましたか? では今この三つは何と呼ばれているでしょう。これが今日の出欠です。いつもの通り帰りに出して下さい。次に行きますよ」
僕は先生の言葉を書き写していく。先生は時計と自分の手元の手帳を見比べながら、まだ大丈夫と判断したのか、丁寧に解説を続ける。それにしてもヒーターが効かない。先生は動いたり話したりして体が温まったのか、コートを脱いで教卓に置くが、僕はマフラーを巻いてしまいたいぐらいに寒かった。
「今では観測技術の向上により、これらの用語はほとんど使われなくなりました。海洋地殻、大陸地殻、核という言葉は聞いたことがありますね? 地球内外への観測が進み、今では複雑な惑星系が解明されつつあります」
先生はしばらく微笑んで生徒が書き写すのを待つ。だが僕らはこの先生が微笑んだ時こそトラップがあるということを知っている。
ノートを取って安心した人達はまた惰眠をむさぼったり携帯に構ったりする作業に戻る。先生は悪戯が成功したかのようににこりと笑った。
「はい嘘ですね。前回言いました。観測技術ひいては科学技術の向上によって、ダークマターやニューロンに始まる、解明されていない概念が多々見つかっています。こうしてまた無尽蔵に学問に関する言葉が誕生し、古い言葉は駆逐され、科学は発展していくのです」
先生は残りはビデオ学習です、とスクリーンのセットを始めた。僕はノートに並ぶ三つの滅びた言葉を眺めた。
授業が終わり、僕は二人と別れてバス停に向かう。二人のことが心配ではないというわけではないが、僕はバイトがある。
湊さんは僕に、どうにかなるかなんてわからないけれど、話してみなければ始まらないと思うとかんざしを揺らした。三上は、熱血だなと肩をすくめながらも、対話に付き合う意思を隠そうとはしなかった。
僕はバス停に歩き出しながら、男娼の話を思い出していた。物語はどこで終わるか。それは望む場所でだと僕は思う。そうであって欲しい。
僕は緩い坂を登る。冬の寒さは緩む気配を見せない。以前僕はオーナーに、冬を長くは感じないと話したことがあるが、今この瞬間、冬は永遠だ。僕が変わったのだろうか。だが実の所、僕自身はそう思ってなどいない。周りが変わることと自分が変わることは別の話なのだ。
僕はマフラーに顔を埋める。いつの間にか雪が降り始めている。寒さが厳しい割に、今年の雪は積もらない。風が強いから散ってしまうのだろうか。そういえば秋にあんなに落ち葉が積もっていたのに、あの落ち葉は本当に全て土になってしまったのだろうか。本当に?
僕はそもそも本当に秋があったのかという所から疑う。そうして疑っていくときりがないので、僕は思うことにするという行為が止められない。
僕は工房棟の片付けをする。オーナーは個展の最終日には顔を出せそうなほどには体力が回復していると、由磨さんが教えてくれた。由磨さんはベンチに座って温かいカフェオレを飲んでいる。
冬の柔らかく絹ごしされた夕日が、白いロビーに色を付ける。オレンジというよりは、蜜柑の色であった。僕は雑談のつもりで先程の疑問を口にする。
「由磨さん、落ち葉がどこにも見当たらないんです。僕、秋中掃き掃除をしていたのに」
由磨さんは、大学生にもなって面白いことを言うのね、と両手で抱えていたカフェオレをベンチに置いて立ち上がる。それから少し待っていなさいと硝子工房に戻り、程なくして二つの球果と硝子の器を握って階段を降りてきた。
由磨さんは器をカウンターに置くと、二つの濃い紅の球果を投げ入れた。秋のいつかと同じ、カリンという涼しい音がする。僕は球果を手に取る。軽く堅く艶やかで、すんと鼻を鳴らして嗅ぐと、芳しい朽ち葉の匂いがした。
「忘れたら、思い出せばいいのよ。ものに形があるから、そういうことが出来るのだわ」
由磨さんはそう言って得意げに笑って、それは器とセットであげるわと僕に橡を握らせた。器はロビーにあったほうが映えるだろうとのことだ。春になったら、桜を浮かべて、夏になったら梔子を。由磨さんがそんなことを話していると、入り口から琢海さんが入って来る。
そういえば今日はコンクールのセミファイナルであった。琢海さんは秋からずっと片っ端からコンクールを受けている状態なので、どれぐらい落ちてどれぐらい通過したのか把握していない。
由磨さんは結果はいかにと面白がる顔で、琢海さんを見やる。琢海さんは由磨さんを見下ろす形で、正面から立った。
琢海さんは何かを言いかけるように口を開いたが、何を考えたのか一度口を閉じ、それからもう一度口をぱくりと大きく開いた。
「姉さん、言っておきたいことがある」
由磨さんは、聞きましょうと目を細めて笑う。琢海さんは怒るでも笑うでもなく、真っすぐ由磨さんの目だけを見た。
「俺はピアニストになれるかもしれない、なれないかもしれない」
そうでしょうねと由磨さんは面白そうに相槌を打つ。琢海さんは、二人して立っているのもなんだなと笑って、僕にカフェオレを頼む。僕は保温機から火傷しそうに熱くなっている缶を出した。
琢海さんはぴったり小銭をカウンターに置くと、袖を伸ばしてカフェオレを持ち、由磨さんと並んでベンチに座った。そういえばこの二人が揃ってベンチに座るのを見るのは珍しい気がする。僕は二人の邪魔にならないように受付に入り、帳簿のチェックでもすることにする。
「なあ姉さん。俺、ずっと、怖くて言えなかったことがある」
なあ姉さん。俺は夢の果てにいつか着けると信じていた。胸を張って報告が出来るくらい、何かが得られると信じていたんだ。でも姉さんが言う通り、ずっと頑張るなんて、無理だ。いつか追うことを止める日が来る。
その先に何かがあるのかもしれない。むしろこの先でこそ、俺の夢が叶うかもしれない。でも、遠くて、遠くて、叶わないことより遠いことが俺は怖くて、駄目なんだ。
琢海さんの独白は由磨さん一人に語りかける程度の、とても静かなものであった。しかし工房棟のエントランスは静かで天井が高いので、声はそこかしこで反響して空から降って来るかのようだった。琢海さんは何かの封筒を取り出して、由磨さんの膝に置く。
サブロビーで全員の演奏を聞いていると、俺とは目の色が違う人達が入り混じっていて、世界の果てにいるような気がした。この先に自分の居場所がない気がしたんだ。
姉さん、俺、こんなこと、結果も聞かずに料理を作って待っている馬鹿とか、自分の道を犠牲にしている誰かになんて、ずっと、すっと怖くて言えなかった。
琢海さんは声を震わせた。
由磨さんは言っちゃったねと言いながら、封筒を開く。由磨さんは数秒ほど目を細めてそれを読んでいたが、意味をつかめたのかはっきりと嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「でも本当に頑張って自分が空っぽになった先には、そうなった人にしか見えない本当がある気がするんだ。綺麗事だと思うけれど、でも、世の中の本当だとも思うんだ。どう思う、弟にも言わずにイタリア行きを決意した、現代の職人、戸渡由磨さん」
僕は帳簿から顔を上げて、思わず琢海さんを見てしまう。琢海さんは、雑誌でオーナーの回復の記事の隣に小さく乗っていたぞと顔をしかめた。由磨さんは、ばれてしまっては仕方がないと言わんばかりに開き直った顔をした。
「それはピアニスト戸渡琢海の道の話だもの。私はまだ、分からないわね」
ファイナル進出おめでとう。これで心おきなく挑戦出来る。由磨さんはそう言って琢海さんと、それから僕に笑顔を浮かべた。それにしても琢海さんに言わないということは、本当に誰にも言わなかったのだろう。
僕はふと研人さんの顔を思い浮かべる。いや、研人さんには言っていそうな気もした。研人さんは今日も料理を準備しているのだろうか。僕は朝早くにスーパーに走っていく彼の背中を思った。
その日は全員揃って僕の部屋の炬燵で、琢海さんのお祝いをした。五人もいるから相当炬燵が狭い。お祝いと言ってもまだファイナルを残しているから明日から練習の日々ではある。
晶君は琢海さんに何をどう弾くのかとあれこれ質問をしていた。由磨さんはその中でまるでついでのように、イタリア行きを発表する。秋口からの忙しさは、このことが関係したという。研人さんは僕達と一緒に相槌を打っていた。
僕は気になっていたことを聞いてみる。研人さんはビールをちびちび飲みながら、自分が揚げたコロッケを食べている。
「以前もイタリアで修業をしていたんですよね。今度はどれくらいの期間いるんですか?」
「今度は修行じゃなくて、向こうの職人チームの一員になるの」
だから無期限なのよね。由磨さんはそう言って微笑む。由磨さんが首を傾けてビールを飲むと、由磨さんの髪で硝子細工が揺れて光を散らした。研人さんはそうかとだけ言って、同じように微笑んだ。
結局今回も皿洗いを僕と研人さんがやることになる。とにかく水が冷たくて、僕達は寒いという言葉を念仏のように唱えたり言い合ったりしながら皿を洗う。それからとにかく温かいものを飲んで落ち着こうということで、僕がお湯を沸かして、研人さんがほうじ茶の準備をする。
お湯を沸かす間、僕は自分の部屋の炬燵に蜜柑をセットする。しばらくすると研人さんがほうじ茶を持って入って来る。
僕はそういえばと、晶君のお土産の金平糖を小皿に出す。研人さんも貰って事の顛末を聞いたらしく、僕らは晶君とオーナーの話をする。
研人さんは、晶といえばとあることを思い出したらしい。
「さっき晶にだな、小説を貸そうかと言われた。何を貸してくれるのか聞いたら、恋愛小説だって。噴飯ものだ。あの晶がよりにもよって俺に、恋愛小説だなんて」
僕は晶君がどんな顔でそんなことを言ったのか、少し気になってしまう。晶君なりの心配の形なのだろうか。研人さんは蜜柑を剥きながら、借りなかったと僕に報告する。
「意外に面白い作品を貸してくれますよ。案外司書とかも天職かもしれません」
「俺は小説はいいさ。作者の作為に付き合ってられない」
研人さんはあっさりそう言ってから、案外ぼろぼろ泣くのかもしれないぞ、そんな俺を見たくはないだろうと茶化しにかかった。
僕は話題を変えて、今日の授業でニフェのことを聞いて、やっと意味が分かった気がすると伝えた。研人さんは、壁に寄りかかって蜜柑を口にする。酸っぱいものに当たったらしく、口を窄めて目を閉じた。
「ニフェ、君であり他である。その周りにはその他のシマ、そしてシアルはその外側にある。君はシアルの向こう側を知らない。誰しもがそうだった」
だが人は観測技術を向上させ、外側を知ることになる。そうだ。別の惑星が存在するだなんて、はじめは誰も知らなかった。俺もニフェだし、お前もそうだ。そして俺達の知らないシアルの果てには、知らないニフェがある。そうして宇宙に星があるなんてことは、人類史の中でも割と最近に解明されたのだ。
研人さんは酸っぱい蜜柑を片手に僕にそう解説する。僕は口を窄めたままの研人さんに金平糖を勧めた。
「研人さん、由磨さんが行ってしまうこと、知っていたんですか?」
「はっきりとは言われていないが、一度だけ挑戦の話は口にしていた」
でももっと前から知っていたさ。研人さんはあっさりとそう言って金平糖を奥歯で噛んだ。夜の青さのブルーベリーであった。
「あの人のニフェは最初から遥か遠くにあった。縁があって一瞬輪が重なった、そういうこともある。あの人は気が付かないが、あの人は時々虹色の目をする。俺は知っていた」
高校生の頃のあの人は、よく工場の近くの波止場に立って、海を見ていた。時々失敗作だという硝子の熱帯魚を捨てていた。俺には失敗作には見えていなかった。魚を海に還しているのだと思っていた。そういう時の目は、ずっと虹色だった。
研人さんはそう言って、ほうじ茶を飲む。海辺は冷えるから、ほうじ茶を持っていくのは俺の仕事だったさ。研人さんは自分のコップにほうじ茶を足した。芳しい香りの湯気が、僕の部屋に溶けて行った。
「自分の目の色を、案外人は分かっていなかったりするさ。自分の目と背中だけは、直接見ることが出来ない。指し示してやれるのは、そういうニフェを取り巻く、シマの人なんだと俺は思う。地球だってそうだろう。青いと分かったのは、外側から見た時だ」