男娼の純情
「いいか。万が一のことがあるかもしれないからな。金は分けて持て。それから、危ないと思ったらすぐに逃げろ。年の瀬だからな」
研人さんがそんな細々した注意をしながら、大きなおにぎりを晶君に持たせる。晶君はナップザックを開いて、いくらなんでも大きすぎませんかねとぼやきながら詰め込んだ。僕の拳と同じぐらいの大きさの爆弾おにぎりには、卵焼きや唐揚げが入っているのを僕は見ている。
僕達が一階のミニテーブルでわいわい騒いでいると、二階から由磨さんが駆け下りて来て、開いたナップザックに何かを詰め込む。見るとそれはラジオであった。これが得体の知れない鉱石ラジオなのだろうか。見た目は普通のラジオに見える。
「旅といえばラジオでしょう? アメリカの冒険映画の少年って、旅の途中でラジオ聞いているじゃない。持って行きなさい」
「由磨さんがはしゃいでどうするんです」
晶君が苦笑いしながら、由磨さんに頭を下げる。冬休み初日の早朝。冷え切った空気の中、晶君の旅立ちの準備は万全である。騒ぎに気が付いたのか最後に二階から琢海さんが降りて来る。
寝ぼけ眼で不思議そうな顔をしている琢海さんに、僕は自分探し亜種の話から説明した。すると琢海さんはふらりと自分の部屋に戻り、何か箱を持って来てナップザックに突っ込んだ。
「レーション。自分探し亜種? なんか過酷そうだからまあ、持ってって」
目が覚めたらしい琢海さんは、可笑しくてたまらないという顔を隠し切れていない。完全に目が覚めていたら大笑いしているに違いない。僕は既に研人さんの唐揚げと一緒に、あるものを忍ばせてあるので改まって渡すものはない。
晶君は自転車に乗って、アパートの全員に少しずつ笑われながら、自分探し亜種の旅に向かった。旅に出た後ろ姿を見送る琢海さんは、そこでやっと、あいつはどこに向かったんだと核心を突いた。
オーナーが倒れたのは、その二日後である。それは僕が窓の結露を取っている時に起こった。白く曇った窓に僕が触れると、透明な筋が何本もかかる。それを放っておくと自重で水滴が垂れて、硝子の世界に雨が降る。
ロビーの硝子は擦り硝子なので、世界はクリアにはならない。僕はその作業を繰り返す。工房棟の硝子は床まであるので、放っておくと水滴で滑ってしまう。外は晴れていて結露を拭いた硝子は薄らと青い。晶君は今どこにいるのだろう。
そんな中、一階の絵画工房がにわかに騒がしくなった。事務の人が慌ただしくオーナーの部屋から出て来て、何人かの個室を叩いて回る。そして出てきた修繕員が右往左往を始めた。
十分後には救急車が到着し、意識を残しているオーナーが担架で運ばれたのだ。僕は晶君に連絡しようかとも思ったが、誰かがしているだろうと、連絡を入れるのは控える。何人から連絡が来ても晶君は戸惑うだろう。
風呂上がりに見たその日の夜のニュースでは、時折オーナーの報道がなされていた。コメンテーターは個展を控えての過労ではないかと発言している。まさか速報なんかで訃報は入らないだろうな、と僕は心配してしまう。
アパートには今は誰もいない。研人さんは研究室に籠っていて、由磨さんは出張、琢海さんはセミファイナルを控えて、スタジオで練習している。僕はニュースを見ていられなくてテレビを消すが、やることもなくてそわそわする。
何か趣味でも持てればよかったのにとベッドに寝転がると、電話が鳴る。画面には三上の名前が示されている。僕は何事だろうかと電話を取る。そういえば今日は二十八日、クリスマスも過ぎて何かしらの報告があるのかもしれない。
そんなことを考えたが、電話から聞こえた三上の声に覇気はない。僕は仰向けになって電話に出る。白熱光の光がまぶしくて、起き上がることにする。三上はもしもしと言った後、少しの間黙りこむ。僕はただならぬ気配を感じた。
「なあ、今出て来られないか。どこでもいい。どこでもいいから」
「三上、今どこにいる? そこに行くから待っていて。外にいるなら手近な所に入って。場所は? 何か必要なものはある?」
雑踏や風音の類は聞こえないので、室内にはいるのだろう。すると電話の向こうで彼がえづいているような咳をした。彼はビジネス街の名前を口にし、その駅に着いたらもう一度電話をしてくれと言って、一方的に通話を切ってしまう。
僕はただならぬ気配に焦って、コートを着ればボタンをかけ間違い、マフラーを巻けばタグが見えてしまう始末であったが、なんとか靴ひもを結んで駅に向かう。電車に乗ったところでやっと、終電を逃した時のことを考え始める。最悪タクシーだと腹を括った。今日は慌ただしい日だ。
酔いどれたビジネスマンの波に逆らいながら、僕は駅を出て三上に電話をかける。三上は場所の名前を告げずに、角を曲がれと行ったり、真っすぐ進めといった指示を出す。
僕は繁華街のキャッチを断りながら進み、一本裏通りに入る。そして彼が何故場所の名前を言わなかったのか合点がいった。有体に言えばラブホテルだったのだ。彼は部屋の番号を口にした。
「ごめん、古賀、ごめん。ここまで来てもらってなんだが、嫌なら帰ってもいい。ごめん。ごめん。でも誰を呼べばいいのか分からなかった」
「僕こんなところ入ったことないんだけれど、別に僕に何かするわけじゃないんだろ? ならいい。あとお金はないよ。どう入ればいいの。寒いから早く」
「そんな体力も気力もねえよ。そのままエレベータで部屋まで来てくれ」
僕は居たたまれなくなって早口になってしまう。三上の様子を見ると、僕が部屋を出る前よりも少しは呼吸が楽そうになっていた。そのことだけが少し安心である。
僕の横を、中年小太りの男と若い茶髪の女の二人が、そそくさとホテルに入っていく。僕は邪魔にならないように小さくなって端に寄る。年末に何をやっているのだろう。
自分の口から洩れた溜息を目で追うと、ビルの間の空にも白い点々がきちんと見えて、妙な感動を覚えてしまう。寒い。僕は腹を括って中に入る。
先程入っていったカップルは無人の受付で支払いを済ませている。女の方は特に僕に頓着しなかったが、中年の方が妙な目で僕を見て来た。年の瀬に何をやっているのだろうと、自分の身の上が悲しくなってくる。
指定された部屋の前で乱暴にノックをしてやると、青ざめた三上がワイシャツにスラックスという至極地味な姿で現れた。僕は三上の後に続き部屋に入る。内装は至って普通で、よくある簡素なビジネスホテルのように見える。
僕は少しほっとしたが、三上は僕の視線と表情に少し笑って、ベッドの上の天井を指す。見なかったことにしたいが、簡単に言うと鏡である。
三上は僕を備え付けの椅子に座らせて、自分は身体を起こすのも億劫なのかベッドに寝転がった。
「何があったの。ええと、ここにいるってことは、バイト……でいいんだよね」
三上は頷く。僕はそこでベッドのシーツが剥がされていることに気が付いた。僕が来るということで剥がしたのだろうか。使用後なのだろうな、と何の感慨も湧かなかったがそう気が付いた。
三上は浅く息を二三度吸って吐くのを繰り返した後、僕に詳細を話してくれる。
「さっき湊に会ったんだ。俺、客と一緒でさ」
「ふーん、駅で? 湊さんは一人だったの?」
「ちげえ、ここの一階。湊がハゲの爺と出て来て、俺は熊系と一緒だ」
熊系というのは熊のように毛深くていかつい男という意味だ、と三上は一生使いたくない無駄知識を僕に教えてくれた。僕はまず何と言えばいいのか途方に暮れてしまい、そうかハゲに熊かととんちんかんなコメントをしてしまう。
「見間違いとかは? 湊さんのことを気にしてて、それで似ている人がって」
「向こうが見てきたから、何だと思って。で、見たらあいつだった」
「そういう偶然ってあるの?」
この界隈ではこのホテルを利用するところは多い。三上はまたも無駄知識を教えてくれる。三上がそう言うならば、その遭遇は間違いなく起こったことなのだろう。
ああ、要するに二人は似たもの同士だったのだ。僕は、何かの間違いが起こったのかもしれない、と口にしてみる。どんな間違いだなんて見当もつかないけれど。
「ああ、無理だな。だってあいつ相当慣れてんなって匂いしてたし。あ、それもしかしたら俺からもしてんのか。古賀、はは、ごめん。マジごめん」
匂いだなんて、僕にはよくわからない。彼が言っているのは本当に匂いの話であるのか、それとも格好や立ち居振る舞いの話をしているのか、僕には見当もつかない。
三上は、ああ、でも少しマシなことがあると呟く。時折身体のどこかが痛んでいるのか、ベッドの上で小さくくの字になった。
「すれ違っていてよかった。流石に」
湊がどこかで抱かれてるって思いながら、抱かれたくなんてない。三上は上ずった声を絞り出す。僕は三上の目が真っ赤になっているのなんて見たくなかった。三上は咳込んでしゃくりあげて、身体を曲げて、忙しそうだった。
僕はもうどうしてよいか分からなくて、席を立ってベッドに腰を降ろして、彼の背中を擦ってやる。
「三上、抱かれる側だったの」
「いや、今日はたまたまそうだっただけで逆もある。女を抱くことの方が多いが、なんせ今日みたいな役のほうが相場的にふんだくってやれる」
手順を説明してやろうか、準備が手間でな。三上は少し楽になったのか、軽口を叩く余裕が出て来る。僕は軽く三上の腰の辺りを叩いてやった。三上は尋常ではない程身体を小さくする。痛いと小さく呻かれ、僕は慌てて腰を擦った。
「あー、いいやいいや。叩け。お前叩いていい。ごめん。本当にごめん。汚いよなあ俺達、こうやって稼いだ金で、何食わぬ顔してお前と同じ授業を受けてそれで」
それで子供たちに、自分のことを大切にしろとか、人間の尊厳はとか、そんな話をしたんだぜ。三上はそう言って、シーツのないむき出しのベッドに、熱い涙を滴らせた。僕はぽんと腰を叩いてみる。それ以上は叩けなかった。
僕は晶君から借りた小説の男娼の嘆きを思い出していた。上昇したい、ここで終わりたくない。足掻くことは罪なのか。僕には三上が責められない。もしかしたらあの小説を読んでいなかったのなら、容赦なく罵倒したのかもしれない。
分からない。ここにいるのは、とある小説という世界を少なからず取りこんだ後の僕だからだ。
三上は叩けと泣く。泣きたいのは僕のほうである。
「なんかさあ、本当は入れられる予定じゃなかったんだけれどなあ、なんかもういいやってなって、そうなった。クソ、マジ痛え。シーツ無いじゃん? 大惨事なんだよ」
「まさかそっちだとは思わなかったけれど、そうなんだろうなって思った。病院行かなくていいの? 僕は詳しくないけれど衛生面的に大丈夫?」
最低限付けてはもらったさ。三上はそう言うが、何が最低限だと僕は思えてしまう。三上は仰向けになる。大の字になった三上が、天井に映った。天井はわずかに湾曲しているのか、三上の姿は微妙に横に歪んでいる。
三上の呼吸は震えていて、本当に大丈夫なのか心配になってしまう。
それにしても人間とは存外、慣れる生き物である。僕はあり得ない環境に置かれても、とんちんかんな受け答えはしてしまうものの、別にショックで死ぬわけでも発狂して飛びまわったりするわけでもない。
目の前にいる三上も、結局は日常の延長線の先にいる三上である。三上は天井を指した。
「天井になあ、自分の顔映るじゃん。はは、脚と脚の間から自分と目が合ってさ。ぞっとした。人間じゃねえよ。アレ。アレっていうか、俺なんだけれど」
三上は僕に枕元に置いてある白い封筒を見るように言う。僕は中身について察したので、首を振って断ったが、それでも見て欲しいと言われたので手にとって覗いてみる。五万円を確認して、僕の気分まで重くなる。
「本当は三万だけれど、おまけだってさ。病院代かよアホ。それが三時間の値段。あいつら金持ってんだよなあ。普段何してんだか」
三上は身体を起こして、湊には何も言わないでくれ、でも何か言われたら、お前はお前の率直な意見を言ってやってくれ。そう言って長い溜息を吐いた。
痛みのためか青ざめている三上の顔は、三十代と言われてもおかしくない老けこみようだった。
「身体とかなかったらいいのに。それかコンタクトみたいに、定期的にリフレッシュ。どうよ」
どうよと言われてもと僕も溜息を吐く。なんだか僕まで具合が悪くなって、少し寒気がした。僕はその後三上と部屋を出て、三上は慣れた手つきで一階の機械に鍵を入れた。三上の背中は呼吸のために上下していて、見ている僕まで一層辛い。
それから僕はふらつく三上を支えながら、繁華街のタクシー乗り場まで出る。途中のしつこいキャッチは、三上が軽くいなす。僕とは場数が違うのだとしみじみ感じた。
アパートの前に着くと、時刻は夜中三時を回っていた。三上は僕の分のタクシー料金をぱっと払ってしまうと、今日は悪かったと言って、早々にタクシーを発車させる。
残された僕はアパートを振り返る。研人さんが帰宅しているらしく、部屋の電気が点いていた。玄関を開けるとその音で研人さんが気付いたのか出て来る。夜中に人がいないなんて珍しいから、誰が帰って来たのか気になったのだろう。
「朝帰りか? いや、なんだお前、その顔色」
研人さんは僕をからかおうとしたらしいが、やめたらしい。僕は酷い寒気と吐き気をこらえながら、自分の部屋に入ろうとする。研人さんは、鍵をかけるんじゃないぞと僕に言い含める。僕は曖昧に頷いてベッドに倒れ込んだ。こめかみの辺りがじんじんと痛い。
そういえばこの寒い中風呂上がりに外に出たな、と自分の暴挙に気が付いてしまう。三上の馬鹿野郎。僕は三上の腰をもう少し強めに叩くのだったと後悔する。
次の日、僕は研人さんに叩き起こされて毛布で素巻きにされると、見知らぬ車に乗せられて近所の内科に連れられた。
季節が季節で時期も時期だからか、病院はどうしようもなく混んでいたが、僕の状態が酷く見えたらしい看護師が僕を別室に通して体温を測った。
インフルエンザを疑ったらしいが、体温を見る限りそうではないそうなので、元通り待合室に戻される。泣きべそをかく子供と、元気そうな老人の間に僕は座り、空いている席のない研人さんが僕のすぐ横にある柱に寄りかかる。
僕は僕を送迎してくれた車の出所について聞いてみる。
「研究室のヤツから借りた。だから吐くなよな。殴られかねん」
僕は善処すると返事をする。そして診察を受けて、まごうことなき風邪という診断をされる。
それから病院の隣にある薬局で、処方箋通りの薬をもらった。細々した説明をされたが、もう具合が悪くてその説明が頭に入っていかない。代わりに研人さんが兄のように、はいはいと隣で聞いてくれていた。
部屋に戻ると研人さんは、車を返してくると部屋を出た。僕は薬を飲もうとしたが、食後という説明は覚えていたので、しょうがなく部屋にあった乾燥した食パンを咥えてみる。
だけれども口中の水分を吸われて、パンが喉を通らず、僕はむせてしまう。しょうがなくベッドサイドに食パンを置こうとするが、手から滑り落ちてしまった。拾うのさえ億劫だ。
僕は、ただの風邪でこれならインフルエンザにかかったら死んでしまうと、ぞっとする。それとも僕が苦しがりなだけだろうか。
思えば陸上をやっていた時代は風邪なんてひいたことが無い。体力が衰えたのだろうか。僕は薬を飲むことを断念して目を閉じた。
目覚めると枕元に研人さんが立っていた。僕に昼食を作ったのに起きなかったから三時になってしまったのだと、不満げにしている。寝るんじゃないぞと研人さんは僕に念をおしてから台所に戻る。
少ししてから小さな土鍋におかゆを入れて持ってきた。僕はありがたくそれを食べることにする。卵を落としたおかゆに葱が散っていて、念のためにといった風情で小鉢に梅干が添えられていた。
鼻が詰まっていて匂いが全く分からないが、スタンダードな優しいおかゆの味がする。おかゆは僕の胃の調子に合わせているのか、随分と緩いおかゆであった。
「スープも飲めよ。お前があんまり起きないから、凝りに凝ってしまった」
そう言って研人さんはカップに入ったスープを差し出してくる。野菜のスープらしく、フードプロセッサーにかけたらしい細かい色とりどりの野菜が入っている。もはや細か過ぎて何が入っているのか見当もつかないが、スープを口に含むとはっきりとしょうがの辛い味がした。
「セロリ、トマト、人参、玉ねぎ、パプリカ、グリンピース、生姜をありったけ。それから蜂蜜を少し」
僕は野菜の効能を聞きながら薬を飲む。研人さんは僕のおでこに冷却シートを張り、枕元にポカリを置いてくれた。それから自分の部屋から羽毛布団を持ってきてくれる。僕はその間に汗をかいた時に着替えるようにあれこれを用意しておいた。
「何かあったら部屋にいるから呼んでいい。壁を叩いてくれ」
こういう時は安アパートでよかったな、と研人さんは笑って部屋を出ていく。それから部屋を出て、僕の食べた食器を洗っているらしい音がした。僕はそれを聞きながら眠りに落ちる。なんだか酷く心細い。




