十一月、コラーゲンは吸収されない。
十一月に入ると、いよいよ寒さは厳しくなる。そんな中晶君は冬休みに決行する予定らしい旅の準備に余念がない。何せ冬の寒い中に自転車でどこかに行くのだ。
十一月の二週目には、とうとうお金が溜まって自転車を買ったといって僕に見せてくれた。青と黒の細身の自転車だ。
「あれ、でもお金はあるんじゃないの?」
晶君はにやっと笑って、青臭い理由だが冷静になって考えてみたのだと話してくれる。何回かオフロードで乗ったのか、ほんの少し泥が跳ねている。
「恥ずかしいが突き詰めれば結局、これはこれから先にいる自分探しの旅なんじゃないかって。だからピアノ以外で稼いだ金で買うのが、自分探しの正しい在り方かと」
晶君のこの上なく嫌そうな顔に、僕は笑ってしまう。僕はあまり自分探しには詳しくないので、よくわからないよと答えておく。
「純粋な観測だとか言い出すのかと思っていたよ。トンネルの外には本当に外側があるのかってね」
晶君はさすがに恥ずかしくなったのか、もう勘弁してくれ、と言う。僕はフォローすることにする。晶君はいよいよ本格的に恥ずかしいのか、色のない肌が首までうっすら赤くなっている。僕は面白くてしょうがなく、声が震える。
「でも晶君のそれは自分探しとは少し違うんじゃない? 確認に近いかと」
「そうか。まあでも青臭いことには変わりはないさ」
自分探し亜種とでも呼ぼうか。晶君はそう言って自分で茶化しにかかる。そして確認という言葉が気に入ったのか、小さく何度か頷いた。その後土産はどんなものがいいかと聞かれたが、僕は彼がどこに行くのかも分からないので、何か美味しいものでも頼むよと答えて置いた。
その日の夜には、研人さんが鍋をやると言うので、僕は自分の部屋を片付けていた。もう廊下でご飯を食べるには寒い季節になってきた。もう少し寒くなったらこたつを出そうと思いながら、片付けを済ませる。
晶君は研人さんと下ごしらえをしていて、琢海さんはガスコンロの確認をしている。由磨さんは今日は残業で工房棟に籠っているが、今日の分の帳簿を渡す際に、琢海さんにきちんと葱を食べさせるようにと言付かっている。
準備が整ったらしく、それぞれが皿やコンロを持って入って来る。この前のことが堪えているので、僕は酒を控えることにしている。研人さんはというと、あの時のことを覚えているのかいないのか。僕達はあれから込み入った話をしていない。
「何鍋ですか? 僕あまり辛いものは食べられなくて」
僕の自己申告に、晶君と琢海さんが俺も俺もと続く。研人さんはお前らお子様だな、と鍋の蓋を開ける。白いもったりとしたスープだ。豆の匂いがふわりと湯気と共に漂ってくるので、豆乳鍋だと分かる。
研人さんは豆腐や葱や白滝を入れていく。それから、セットになっていたコラーゲンも入れるかと僕達に聞いて来た。
「食べても吸収されませんよね、コラーゲンとしては。脂肪扱いですよ」
晶君はそう言って要らないと主張する。僕も特に肌のハリツヤには困っていない。琢海さんは少し考える素振りを見せる。晶君はそれを見て、重ねて言うが、肌の艶がよくなる訳ではないのだと忠告した。
「琢海さん、スキンケアとか興味あるんですか?」
琢海さんは少しバツが悪そうに言葉を濁す。だが要は、人前で演奏するなら見目が良いに越したことはないという発想だった。でも夜な夜な化粧水を塗る琢海さんなんて、あまり想像したいものではない。
「見目と言えば、後ろ姿だけだったが古賀がすげえ脚長い人と歩いていたな」
晶君がそう言いながら、いち早く鍋から白滝をすくう。僕は白菜が食べたいので、もう少し待つ。研人さんは琢海さんに葱も食べろよと注意をしていた。僕と一緒に歩いているのなら、おそらく彼だろうなと僕は思った。
僕は十月中盤から昨日まで教育実習があったため、彼や湊さんに会っていない。彼らは元気だろうか。研人さんは取ろうとしない僕に焦れたのか、僕の取り皿を引き寄せてあれこれを入れると、有無を言わさずごまだれをかけた。それから僕に、教育実習はどうだったのかと聞いてくる。
「付属高校に行って来たんです。大人しく授業を聞いてくれましたよ。向こうも教育実習生慣れしていましたね」
「エンジニアも悪くないが、俺も教職取ろうかな。俺の学科だと物理とか、理科か。憲法の授業が難しいってクラスの奴らが言っていたけれど」
晶君はそんなことを言いながら、鍋から白菜を引き上げる。僕も白菜に手を伸ばすことにした。さくさくしていて美味しい。僕は物理の先生になった晶君を想像してみる。ピアノも弾ける物理の先生。それも並の音楽教師の腕前ではない。少し可笑しくなってしまう。
僕達は鍋を食べ進める。男四人だから食べ出がいるが、それを見越した研人さんは雑炊の準備をしっかりしていた。研人さんは台所からまだ湯気の出る米を投入し、アサツキや謎の白い粉、茶色い粉を入れて味を調える。卵も三つ程落した。
僕達は残りをすする。研人さんが入れたのは塩と昆布の粉末であると教えてくれた。研人さんが投入した米の量は尋常ではなく、僕達は否応なく満腹になることになった。
「うお、もう食えない。こんなに食ったの久しぶりだ」
琢海さんが幸せそうに寝転がるので、晶君が腹が重いと笑いながら壁に寄りかかる。僕は皆の食器を運ぼうとしたが、研人さんが、急に動くと腹が痛くなると僕を止めた。
僕はベッドに寄りかかり一息吐く。めいめいが食べれるだけ食べた、という感じで幸せそうにだらけているのを見ると、少し笑えてしまう。そんな僕自身も幸せではあるのだが。
動けるようになってから、じゃんけんで負けた僕と研人さんが皿洗いをする。研人さんは結構食べたな、と皿を洗いながらしみじみと言った。
何もあんなに米を入れることもなかったろうにと呟いてみると、研人さんは俺だって色々考えた末だったのだと皿の水を切りながら説明してくれた。
「とりあえず食っておけ食わせておけっていうのが、俺のモットーでな。ほら、満腹になれば幸せだろ。お前も琢海もしなびた人参みたいな顔しやがって」
「晶君は? 目標があって楽しそうですけれど」
研人さんは、飯は皆で食った方が美味いから、と笑う。それにしてもしなびた人参はないだろう。確かにあれこれを考えて、最近の僕は元気がなかったかもしれないが。研人さんは、似たようなものだったと譲らない。
「腐った玉ねぎよりはマシだぞ。お前、玉ねぎ腐らせたことあるか」
ない。僕はスポンジの水を切りながら返事をする。研人さんは、野菜室で玉ねぎが腐っている時の絶望感は凄まじいものがあると、力説してくる。
「古賀が考えている諸々の中のひとつが、俺に対してのあれこれだとしたら、そんなの忘れてくれていい。晶から聞いたのだろう、ゼミの発表の日の話」
晶本人が、言ったからとわざわざ報告してきた。研人さんはわざわざ言いに来る所が晶のかわいいところさ、と皿をしまう。
「それとも気になるか? 残念ながらまだちゃんと実感が持てないから、悲壮感たっぷりには話してやれないぞ」
そんなつもりはないのだ。僕は首を振る。研人さんはそんな僕の反応が面白かったらしく、すまなかったと頭を下げる。
「俺も晶みたいにどこかにパッと行こうかね。ああ、でも休みがないな」
「院生ってやっぱり研究が忙しいんですか?」
「研究室によりけりだろうけれど、なんだろうな、忙しぶっているというか、ああ、少し違うな」
研人さんはしばらくどう説明したものかと考えてくれたようだが、面倒になったのか、また今度な、と言って部屋に引き上げる。ここで適当に忙しいのだと言って流そうとしなかったという所が、やはり研人さんだなと僕は思う。
月末はクリスマスまで一カ月を切ったということで、工房棟の全てのフロアが忙しく、僕もあちこちの雑務に駆り出されていた。ピアノ教室は公会堂を借り切っての演奏会がある。
規模はそれほど大きくないながら、プロ志望が集まるような教室であるので、観客は集まる。
普段ピアノ工房の雑務は琢海さんが手伝っているのだが、今年は琢海さんにとって勝負の年だとのことなので、代わりに僕に出来るような細々した受付での仕事が増えることになった。
硝子工房は各地のクリスマスイベントで使うランプなんかの作成に追われていて、由磨さんはその打ち合わせで各地を飛び回っているらしい。この一カ月、僕は由磨さんを見ていない。
絵画工房はオーナーの個展を控えているので、どことなくピリッとした空気が漂っている。
冬が近づいて来たので、少し前から冬のメニューを新しく用意していた。余白の絵は同じ修繕員さんが雪兎と夜空を描いてくれている。秋に初めて試みたものだが、意外にもお客さんに好評で、帳簿を見ると確かに売り上げが二割程も上がった。
売り上げがどれほど上がろうと僕のバイト代は据え置きだが、やりがいがあるので続けることにしたのだ。修繕員さんは、絵を描くことなんてもう滅多にないとぼやきながら、少し楽しそうに書いてくれる。
今日は飴細工屋の新作を取りに行く。もう風が厳しい季節になったので、僕はコートを着て自転車を漕ぐ。向かい風が頬に吹きつけると、肌が乾燥しているのかひりつく痛みを感じる。冷たい空気を吸い込むと鼻がツンとした。
僕はそろそろ炬燵を出そうか、それとももう少し我慢するべきか考える。坂道の横に植わっている街路樹はもうすっかり葉を落としていて、それを見るともう炬燵を出してもいい気がしてくる。
飴細工屋も掻き入れ時なのか、受付の晶君はひっきりなしになる電話の応対をしたり、客の対応に追われたりしていた。僕は会話もそこそこに段ボールを積んで戻ろうとすると、晶君は僕を引きとめてディスプレイを見てくれと言う。
ディスプレイにはいつものように甘味や色とりどりの飴が並んでいたが、中段に見覚えのない小さな硝子の器に入った飴があった。タグを見ると、硝子工房の器だと説明がなされている。
「俺の提案でさ、由磨さんが自分の弟子を紹介してくれて。コラボなんだ」
晶君は嬉しそうに一つどうだと聞いてくる。しかしなかなか高い。何より僕は財布を持って来ていない。晶君は冗談だ、これを買って行く人は年配の金持ちばかりさと言って、僕を見送ってくれた。
工房棟に戻って新作の飴を見てみると、林檎とみぞれと書かれた二種類の素気ない袋が入っていた。林檎には薄黄色のものと薄緑の二種類が入っている。
みぞれとは何かと思って原材料を見ると、スペアミントエキスと書かれていた。雪の冷たさを、ミントの清涼感で表したということだろう。これはネーミングの妙を楽しむ類のものだ。僕はその飴を売り場に並べる。
そうしていると客が来て声をかけられる。奥でパンフレットの折り込み作業をしていたので、返事をして受付に出て来る。僕は客の姿を見て確かめるように呼び掛ける。見間違いではない。
「三上に湊さんじゃないか。どうしたんだ」
「よお古賀、近くを通ったから寄ったんだ。邪魔して悪いな」
湊さんは硝子細工に興味を持ったらしく、ディスプレイの中を興味深そうに覗いている。それにしても近くを通ったなんて。この辺は工場街で、飴細工屋のような直売店はあるにはあるのだが、デートに向く場所とも思えない。
三上は分かっているってという顔をして話してくれる。
「いやな、俺達が割り振られた小学校が近いんだよ。で、古賀のバイトぶりを見てみようって話しになって。なんかすげえところだな。美術館みたいな」
どうやら彼らのカリキュラムのほうでも教育実習が始まったらしい。僕は一応納得したふりをして見せる。あまり言及するのもスマートではない。ただ一言だけ言わせてもらう。
「付き合うんなら付き合っていいと僕は思うよ。あと変に隠さないでくれ」
高校生でもあるまいし。そう言ってやると三上は曖昧に笑う。僕は気を取り直して工房棟の説明をした。二人は硝子細工を一つずつ買って行く。湊さんは小さなセキレイで、三上はエンゼルフィッシュだ。
二人は邪魔して悪かったと言って、あっさり帰っていった。明日も実習が続くという。どうしてだろう、気が重くなってくる。
帰り道は猛烈に寒い。今年は例年以上に冬の到来が早く、そして厳しいらしい。ならば春の訪れも早いのだろうかと期待したいところであるが、そういうことではないらしい。僕は炬燵を出す決意を固める。今日だ、今日こそ出そう。
バス停では晶君が本を読んでいた。寒いには寒いらしいが、防寒に余念がないそうなので僕よりかはずっと温かそうだ。僕はくしゃみが止まらない。風邪をひいてしまったのかもしれない。
冬の風邪は特に辛くて出来れば避けたいところだ。晶君が身につけているのは防水加工のしてあるダウンジャケットで、高地用のものだという。トンネルの向こうへ行くために準備したものらしいが、この冬の間は有効に使えそうだと得意げだ。
「銀河鉄道の夜を読んでいたんだ」
「宮沢賢治だっけ。それぐらいなら知っているよ」
晶君は栞を挟んで本を鞄にしまう。僕はそれを見て首を傾げた。彼は以前自分で栞を使わないと言っていなかっただろうか。聞いてみると、この作品には抜けがあるから、通して読んでも話が繋がらないのだと説明してくれる。
晶君は本を取り出して、いくつか該当する頁を僕に教えてくれた。確かに、以下白紙などといった文字がある。
「なあ、この白紙の部分って本当にあると思うか? 書かれたかって意味で」
「ええ? あるんじゃないのかなあ。無いと困るし」
晶君はそうだよなあ、と言って本をしまう。晶君の吐いた溜息は白く、それが空気中に拡散して見えなくなるまで僕は眺めていた。もう本当に冬なのだと僕は震えながら思う。
それにしても星が綺麗な季節である。紺色の空に斑に散る点々。僕は星の名前が一つも分からない。
「なんで無いんだろうな。残すために書いたのだろうに」
晶君がそんなことをぼやいていると、バスがやって来る。僕は震えながら温かい風が当たる場所を探して座る。晶君はその隣に座った。バスに乗って来る人は僕と同じように震えていた。
バスが発車すると、星はもう見えなくなる。高校生が肉まんに齧り付きながら入ってきて、今日受けたらしいテストの話を憂鬱だと零しつつも笑いながらしていた。
その様子を眺めていると、バスはトンネルの前に差し掛かる。晶君は、冬休みに入ったらすぐに行くのだ、と意気込んで見せた。僕は風邪をひかないようにと、鼻をすすりながら言う。
それから冬休み直前。世の中がクリスマス商戦の準備を粛々と進めている最中、琢海さんのセミファイナル進出の報が入ってきた。
その年初めての進出で、その一報を受けた研人さんはにやにや笑いながら、今度こそ生ハムメロンを切り、コロッケを揚げた。晶君によると研人さんは発表当日で徹夜明けにも関わらず、既に早朝に買いものに走っていたらしい。
琢海さんは昨夜の遅くに帰宅したので、研人さんの料理は翌日振る舞われることとなる。
「どんなに望みが無いコンクールを受けても、教えるって約束したんだ」
工房棟で話をした時、琢海さんはそう僕に教えてくれた。正直顔ぶれが同年代の有名所ばかりなので、どう考えてもファイナルは難しいらしい。それでも経験を積むことが大切らしい。
由磨さんは残業らしく、休憩時間に僕にビール代を預けながらも、あまりあの二人に飲ませないように言う。
「琢海はいいのよ別に。あの子すぐに酔っ払っちゃって寝るから。研人ね」
「研人さんは、何ていうか、不思議な酔いかたですよね」
由磨さんは目を細めて笑う。我慢してああなってしまうのか、それとも本当に急に酔ってしまうのか。本当に不思議よねと呟く。由磨さんは二人の姉のような気分なのだろう。
研人さんの揚げてくれたコロッケはコーンクリームやカニクリームなどバラエティーに富んでいた。中でも美味しかったのは、細かく切ったアスパラが入った研人さんオリジナルのものだ。琢海さんは、これが俺のハレの日の飯なのだと、感慨深げに呟いた。
研人さんは何個かを別の皿に取り分けて、ラップをして冷蔵庫に入れる。明日の朝ご飯にでもなるのだろうか。琢海さんと晶君はコロッケの行方を知っているのか、特に何も言わない。
その日の研人さんは一滴も酒を飲まなかった。酔った琢海さんの介抱は晶君に任せ、片付けをする僕の隣で、研人さんはキャベツを刻み、ロールパンにソースをかけたコロッケを挟む。それを四つアルミホイルに包むと、ハンカチで包んで巾着に入れる。
それから熱いほうじ茶を水筒に入れると、少し出て来るとマフラーだけを巻いて玄関に向かう。
「どこに行くんですか。もう九時になりますけれど」
「終電には間に合うように帰ってくる。さっと行ってぱっとな」
僕は研人さんがどこに行くのかわかって、コートを着るように勧める。工房棟までの緩く長い坂道は、遮るものがあまりないので風が冷たいのだ。
研人さんは礼を言って、毛羽立ったコートを着て出ていった。それにしてもコロッケパン四つは流石に多くはないだろうかと僕は思う。