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12/18

十月の疾走と寒天

 今日は全国的に快晴です。西寄りの風がありますが、絶好のお洗濯日和となるでしょう。では週間天気予報です。水曜日を境に気温が一気に下がります。気象庁の発表によりますと、今年は例年より冬の到来が早いとのことです。早め早めの衣替えを心がけて、体調にご注意ください。次は速報トレンド、今週一週間のトレンドを紹介します。まずは東京表参道。


 少し早めに目が覚めたようで、由磨さんの鉱石ラジオは六時五十分と教えてくれる。何故目が覚めたのかというと、掛け布団が薄くて寒かったからだ。僕は耳の奥に残る冬の到来という言葉から、冬用の布団を出そうと決意する。

 身支度をして窓を開けると、ラジオの音がぱっと鮮明になる。確かに素晴らしい秋晴れの日で、僕はふと秋刀魚が食べたくなる。ただ今年の秋刀魚は馬鹿みたいに高いから、既に半分程食べるのを諦めている節がある。


「あら、今日は早起きね。おはようおはよう」


 上を見ると、由磨さんの白い手がふらふら揺れている。窓を開けているので、冷たい風が吹き込んでくる。思ったより寒さを感じて、もう一枚何か着ようか、でも昼過ぎには暑くなるのではないかと、判断が付けられない。

 暑さと寒さはどちらがマシかと考えると、僕は暑さだと思うので、結局もう一枚羽織る。短期の教育実習が始まるので、体調を崩すわけにもいかない。


 朝食にスクランブルエッグを焼いていると、研人さんが玄関から買い物袋を提げて入って来る。どこかに行って来たのかと聞くと、二十四時間営業のスーパーだという。


「朝は割引シールが多いんだよ。夜売れ残ったやつだろうな」


 研人さんは僕の後ろを通って、冷蔵庫にあれこれを入れる。ちょっと高いものを買う時は、この手を使うのだと教えてくれた。


「今日何かあるんですか?」

「琢海のコンクールの発表日なんだよ」


 それで豪華なものをということなのだろう。研人さんは、秋のビールも買って来たから、一緒に飲もうと誘ってくれた。僕は頷きながら、もし琢海さんが落ちていたらどうするのだろうかと思ったが、さすがにそんなこと聞くに聞けない。僕は朝食を食べて学校に行くことにした。


 教室に着くと、いつもの二人は既にいて、ほっとした顔で僕を見てきた。何事だろうかと思ったが、二人で並んでいると、いろいろ口やかましい人達がいるのだろう。特にバイト苦のほうは見た目がいいから湊さんは苦労しそうだ。

 そんなことを考えながら、教科書を出す。傍から見れば僕は噂のカップルの邪魔ものだなと思い至って、なんだか少し笑えてしまう。


「なんだよ、そんなに面白いかよ。あいつら高校生かって。あと教科書忘れた」

「全然。僕まで居たたまれなくなってくるよ」


 僕は彼に向かってそうぼやきながら教科書を開く。先生がやって来ても、教室はざわついたままで、湊さんが面倒そうに小さく溜息を吐いていたので、僕は気の毒にという視線を送る。


 それでも授業が終わると、二人はレポートを書くのだと図書館に行く。僕は何事か笑い合いながら歩く後ろ姿を見ながら、なんとかなればいいのになと思ってバイトに行く。


 今日は金平糖と新しく工房で取り扱うことになった、秋の葡萄飴と柚子飴も運ばなければいけない。僕は自転車を漕ぎながら、あんまり重くなるようだったら、晶君辺りに手伝ってもらおうかななんて考える。

 そんなことをつらつら考えていたが、ふと気が付いたことがあった。通る道にはもう蝉の影も形もなく、あれらはどこに行ってしまったのだろうと不思議になる。雨で流されたのなら、下水道に溜まるのだろうか。


 久しぶりに飴細工屋の扉を開くと、熱っぽく甘い空気が肺いっぱいに広がった。晶君は若旦那さんと何事か真面目な顔で話していたが、僕に気が付くと二人とも笑みを浮かべた。

 若旦那さんは人の良さそうな笑みで晶君に、あとはよろしくと言って奥に引っ込む。晶君は準備してあった段ボールを僕の荷台に括りつける。春の頃は段ボールを抱えてフラフラしていたのだが、毎日の力仕事でいくらかたくましくなったようだ。

 一方の僕は衰える一方で、少し情けなくなってしまう。段ボールはそれ程大きなものではない。初めて仕入れる品物なので、試し程度の量なのだろう。


「去年まではこの飴仕入れていなかったの? 季節限定って売れそうだけど」

「三代目になってからの試みなんだ。今年の春から始まったばかりでな」


 晶君はどうぞ御贔屓にと茶化す。それから商品開発が難しく、失敗続きなのだと小さな声で教えてくれた。砂糖が溶解する高熱で味や香りを付けるっていうのはなかなか難しいそうだ。


「ああそうだ、俺、靴を買ったんだ。頑丈な靴」


 どうやら晶君は酔狂の類ではなく、真面目にトンネルから外に出ることを計画しているらしい。


 飴細工屋から帰って来て、段ボールからいくつか飴を取り出してみる。淡い黄色の筋が入った柚子飴と、濃い赤紫の葡萄飴が入っている。僕はひとまず金平糖の瓶を作って補充を済ませた後、どうディスプレイしようかと考える。

 二つの飴はシンプルな小袋に入っていてそのままでも売れるので、ひとまず棚の空いているスペースに籠を置いて、その中に並べてみた。なんだか素気ないが、ひとまずこのままにしておく。


 今日は由磨さんに提案されていたポップを書くために、工場街の文具店で紙を買って来ていた。しかしあれこれポップを書く前に、まず簡単にメニューを一枚書いてみることにする。書くといっても自分の文字に自信があるわけでもないので、奥にあるパソコンとプリンターで作る。

 一通りのメニューを打ち込んで印刷してみる。ファーストフード店のメニューよろしく左側に品名、右側に値段、ただそれだけ。素気ないにも程がある。試しに背景の色を変えてみても、どの色がいいのか見当が付けられない。


 そうやって唸っていると受付の表のほうから、バイト君と呼ばれる。出てみるとコーヒーを頂戴という由磨さんがいた。僕はコーヒーを渡しながら、メニューもディスプレイもうまくいかないと話してみる。由磨さんは少し考えてくれる。


「何か飾ってみるっていうのは? 五時になったら手が空くから、何かそれらしいものでも貸すわね」


 メニューのほうは絵でも書いてもらったらどうかしらね、と絵画工房のほうを指している。由磨さんはちょっとした休憩らしく、缶コーヒーを飲むと、ささっと二階に上がって行ってしまった。

 僕は帳簿の受け渡しの時にでも頼んでみることにして、五時までに庭の掃き掃除を済ませておくことにする。バックヤードから箒を持って、裏庭に出る。


 焼き芋の時とは打って変わって、裏庭はしんと静まり返っていた。風が吹くと雑木林の木々が頭上でざわめく。僕は掃き掃除をしながら、どこまで綺麗にすればいいのだろうと手を止めて考える。

 少しずつ葉っぱが降り続けるので、綺麗になりそうでならない。駐車場を兼ねているスペースのコンクリートの灰色に、赤い落ち葉が点々と散っている。風は時々渦巻くのか、葉っぱがくるくると足元で浮き沈みを繰り返す。

 僕はなんだかもういいやとしゃがみこんでしまう。今日はいろいろ新しいことも起きたし、何より早く起きたので疲れている。


 しゃがみこんで地面を見ていると、どこかから、ぱた、ぱた、と断続的に何かが落ちる音がする。雨かと思ったが雨ではなく、それは雑木林のほうからする。僕は立ち上がって林に近づいてみる。虫はいないだろうと踏んで、恐る恐る林に入る。

 胸一杯に息を吸うと落ち葉の湿った芳しい匂いがして、靴の先が地面に沈み込んだ。その感触に戸惑いながら歩を進める間にもぱたぱたと音がする。僕は目を凝らす。するとどんぐりなどの殻のついた球果が地面に落ちていく音なのだと気が付いた。

 雨が落ちるよりも、もう少しだけ軟質な音であった。音がない時よりもこの音がある時のほうが一層静かで、心細さがかきたてられる。




 五時になったので由磨さんに会いに行くと、由磨さんはいくつかの箱を取り出して、好きなものを選んでくれと言った。箱を開けると片手に収まる程度の細工物がしまってある。

 本物同様の大きさの柿、秋刀魚、少し小さい葡萄、石榴、月見団子。バラエティー豊かなラインナップだ。


「これ由磨さんが作ったんですか?」

「私は作ったら売ってしまうから、手元にはないわね。これは彼の習作よ」


 彼というのは以前焼き芋の時にあれこれと世話を焼いてくれた工房スタッフの男の人で、由磨さんが指し示したので呼ばれたと思ったのか、立ち上がってやって来る。


「何か割れでもありました?」

「ああ、ごめんなさいね。あなたが作ったって話をしていたの」

「あっ、はい、すみません。好きなだけ持って行って下さい」


 男の人は小さく頭を下げて自分の作業に戻る。由磨さんよりも年上に見えたが、後輩ということなのか。由磨さんは小さな声で、直属の弟子なのだと説明してくれた。

 弟子がいたのかと驚いたが、よく考えたら由磨さんはイタリアで修業もした職人である。自分の工房こそ持っていないがそれなりに名は知られているのだろう。


「弟子がいるなんてオーナーみたいじゃない。少し恥ずかしいわ」


 由磨さんはそう言いながら、作品の説明をしてくれる。光の通し具合や、下地の色との相性を考えるなら、と興味深い話をたくさんしてくれた。

 僕は無難に葡萄と蜜柑の置物を借りていくことにした。それを売り場のライトが当たる場所に置いてみる。僕にはデザイン能力があるわけではないのでよくは分からないが、なんとなくしっくりきた気がして、少し満足する。


 受付を閉めた後、僕はメニューの絵を頼むべく、少し緊張しながら絵画工房の扉を叩く。いつものようにどうぞ、という声がかかるので入室して、工房の事務の人に帳簿を渡す。そこでメニューの話をしてみた。

 事務員の女性は少し考えていたようだが、適任がいると見たのか修繕員の一人に内線をかけてくれる。修繕員は四十代の男の人で、にこりともせずに僕を自分の部屋に案内してくれた。


 作業室は常に一定の湿度と温度、光度に管理されていて少し薄暗い。中央にある台には得体の知れない褐色や緑色の薬品瓶や絵筆、ピンセット、名前も分からない針やキリのような道具が置かれていた。

 修繕員は部屋の隅にある別の小さな台にメニューを置くように言う。僕はびくつきながら言われた通りメニューを置く。もしかしたら僕は作業の邪魔をしてしまったのかもしれない。部屋全体に漂うアルコールの匂いをかぎ取りながら思う。


「何をどう描けばいいのかね。さっとしたものでいいだろう?」

「ええと、じゃあ柚子と葡萄の飴を新しく仕入れたので、その絵を」


 修繕員は、今描いてしまうからかけて待っていてくれ、と部屋の隅のパイプ椅子の上から何かのボトルをどけた。僕はよろしくお願いしますと頼んで座る。修繕員は小さな台に置いてあった細々したものをどけて、棚からパレットと筆洗い、透明な液体の入った醤油注しのような入れものと、大きな木の箱を取り出す。

 一度隣の部屋に行って水を汲み、戻って椅子に座ると木の箱を開ける。その中には軽く六十色は超える絵具のチューブが並んでいた。プロ用の水彩絵具らしい。修繕員はパレットに、赤、青、黄色、それから白と黒だけを出す。

 修繕員はそれらの色を混ぜて、醤油注しのようなものから液体を垂らして伸ばす。あれは水か、それか水の役割があるものなのだろう。修繕員はそこで手元のライトを少し明るくしたり暗くしたりしながら、僕に声をかけて来る。


「これはエントランスに置くものでいいのか?」

「はい、そうです」


 手元のライトはおそらくエントランスの光度に合わせられたのだろう。僕はそんなに厳密な作業をさせてしまうことに申し訳なさを感じる。なんだか大事になってしまったな、とパレットの上で動く絵筆を眺めた。

 さらっと何かのついでで落書きのような気軽さで描いてくれたらそれでいいのだ。修繕員は納得のいく色が出来たのか、さっと掃くように筆を大きく長く動かした。

 部屋の奥にいるので、僕からはメニューがどうなっているのか見えなかったが、十分程の時間であっさり修繕員さんは立ち上がると、メニューを持って隣の部屋で何事かをして戻ってきた。


 差し出されたメニューはラミネート加工が施してあり、本当に立派なメニューになった。上から垂れる緑の葡萄棚に、たわわに実る紫の葡萄。右下の空いたスペースにはころんとかわいい柚子が描いてあった。僕が恐縮しきりで頭を下げると、修繕員さんは頑張れバイト君、と少しだけ口の端を上げてくれた。




 充足感を感じながらアパートに戻ると、研人さんが料理の下ごしらえをしているらしかった。何を作るのかと聞くと、コロッケに生ハムメロンだという。妙な取り合わせだと思ったが、おそらく琢海さんの好物なのだろう。

 僕は琢海さんが合格しているようにと願いながら、支度を手伝った。しかしあるところまでで研人さんは作業の手を止めてしまう。メロンを切ってジャガイモを一口大に切り分けた辺りだ。研人さんは今何時だと聞いてくる。僕が時計を見ると七時を回ったところである。研人さんは渋い顔をしながら何かを考えていた。


「じゃがいも潰さないんですか?」

「すまんが、頼みがある。急いで糸こんにゃくを買ってきてくれ」


 意味がわからない。あと話を聞いて欲しい。しかし研人さんが財布を渡してくるので、僕は近くのスーパーに走ることとなった。脚は故障しているが、日常軽く走るのには支障も痛みもない。もちろん大したスピードが出るわけでもないが。

 僕は仕事帰りの人の並に混ざって糸こんにゃくを買うと、元来た道を駆け足で戻る。思えば走ること自体が久しぶりで、思わぬ距離で息が上がって、笑い出してしまいそうになる。走る訓練をしないとここまで衰えるのかと、今更ながら実感する。


 秋の夕暮れは空気が冷たい。その冷たさのお陰で僕は自分の頬の紅潮に気が付く。内側は熱いのに、外側は冷たくてたまらない。心臓も痛い。耳の奥から心臓の音がして、僕はわけも分からず笑い出してしまう。

 もしかしたら、苦しくて気持ちが良くてたまらないのかもしれない。よくわからない。


 アパートに帰ると、コンロには二つ鍋が置かれていた。一つでは肉じゃがが煮えていて、もう一つでは何かのどろっとしたジュースが煮えている。研人さんは僕から糸こんにゃくを受け取って水を切ると、肉じゃがの鍋の中に投入する。

 僕はそれを眺めながら、流し台にミキサーがあることに気が付く。ゴミ箱にはメロンの皮が捨てられていて、ジュースの正体がわかった。全てジュースにされたわけではなく、さいの目に切られたものが小皿に取り分けられている。


「コロッケじゃないんですか?」


 僕の質問に研人さんは、そのことは俺とお前だけの秘密にしておいてくれ、と不思議な答えを返した。研人さんはどろりと熱されたジュースを耐熱グラスに注ぐと、さいの目メロンを投入して、ラップをかけて冷蔵庫に入れた。そして忙しそうにアスパラを塩胡椒でソテーして、大分雑な様子で生ハムで巻いて爪楊枝で留めて酒の肴らしきものを作った。

 僕はその間、モッツァレラチーズの水を切り、トマトを輪切りにする。すると二階では由磨さんがドレッシングを作っていたらしく、それをかけてカプレーゼを作った。

 僕は無言で作業する二人の横で皿を洗いながら、琢海さんが失敗したことを悟る。研人さんが慌てて僕に糸こんにゃくを買わせた訳も、理解できたような気がした。


 そうこうしていると琢海さんが降りて来て、僕達は秋のビールを飲みながら、いつも通りのようでそんなことはない夕食を食べた。琢海さんは何でもない顔をしながら、ビールが美味いと笑って見せる。琢海さんも、料理が美味いと言って、美味しそうにビールを飲んだ。

 晶君は若旦那さんと商品開発の話をしているらしく、今日は飴細工屋の人とご飯を食べてくるらしい。


「はは、あいつ飴屋になるんじゃないだろうな」


 琢海さんはそう言って、ハイペースでビールを開ける。研人さんは味が分かるうちに食べてくれよと、グラスに入ったメロンのデザートを出した。琢海さんは口に入れるやいなや、甘いなと苦笑いをした。

 僕も自分に出された分を食べてみる。それはゼリーではなく寒天で、ザクザクした食感の寒天の中で、メロンの部分がとろっとしていた。そもそもゼリーならばこんなに短時間で固まることはないだろう。

 僕は、寒天は用意したのに糸こんにゃくは用意しなかった研人さんを思って、複雑な気分になる。受かって欲しいという期待と、それを悟らせたくないという彼なりの配慮が拮抗した結果、それが僕の糸こんにゃくへの疾走という形で現れたのだ。


 僕達は馬鹿みたいに杯を重ねた。誰も肝心なことは何も言わずに、馬鹿な話ばかりをする。僕達はきのこかたけのこかで大舌戦を繰り広げ、それに飽きると晶君の計画しているらしい旅についての憶測で盛り上がった。

 最初に潰れたのは琢海さんで、由磨さんが琢海さんの部屋の布団を敷きに、こうなると布団もしかないのよとぼやきながら、一旦二階に上がっていく。由磨さんは僕と同じ程度しか飲んでいないので、まだまだ意識ははっきりしている。琢海さんはミニテーブルに突っ伏す。

 研人さんはそんな琢海さんの頭を中指と人差し指で突きながら、まだやめないのかよと笑った。琢海さんは顔を上げて研人さんと見つめ合う。すると二人の口から示し合わせたように、堪え切れなかった笑い声がククッと漏れた。


「今更引くわけにはいかねえじゃん。こうして、こうして応援してくれる人の時間までなかったことになって、それ、俺、なかったことになんじゃんな?」


 研人さんは二本の指で琢海さんのつむじの辺りをぐりぐりえぐる。琢海さんは下から突き上げるようにしてそれに対抗していた。


「結果を出してさあ、さっさか一人立ちして見せないと、姉さんが何時まで経っても自分の夢を追えない。つか結婚もできんだろ。俺ってコブつきじゃ」


 すると準備が出来たらしい由磨さんが二階から降りて来て、馬鹿なことを言ってるんじゃないわよと叩く。

 琢海さんは一言研人さんに、美味かったとだけ言って、階段を上がる。僕は琢海さんが落ちるのではないかと耳を済ませてしまう。しかし琢海さんは無事に上がり切ったらしく、二階の部屋のドアが開いて閉じる音がした。


「ああもう、余計なお世話よ。本当、ふふ、飲みなおし」


 由磨さんは椅子に座って、飲みかけだった琢海さんの缶と自分の缶を空にする。そして悲しそうに頭をかきむしった。由磨さんの結いあがっていた髪型が崩れるが、この顔ぶれだからか由磨さんは頓着しない。

 僕はいつかの硝子を割ってかき混ぜていた時の由磨さんを思い出した。くしゃくしゃになった由磨さんの髪から、一本の銀の棒が落ちる。かんと柔らかい金属の音がして、研人さんがそれを拾い上げる。

 それはシンプルな丸い硝子細工の飾りが付いたかんざしだった。由磨さんはかんざしで髪を留めていたらしい。僕は全く気が付かなかった。もしかしたら毎日そうだったのかもしれない。研人さんは指揮棒のように飾りの部分を振る。しゃりっと金属質な音がした。


「久しぶりに結ってよ研ちゃん」


 由磨さんは眠そうな半開きの目で研人さんにそう呼びかける。子供の頃からの知り合いらしいので、由磨さんが研人さんのことをそう呼んでも何ら不思議はない。

 そうだとは分かっているのだが、このアパートの中で一番仙人然としている研人さんがそう呼ばれていることが、どうしてだかむず痒く感じてしまう。単純に面白いだけかもしれない。それとも僕は存外酔っ払っていて、もうすぐ箸が転んでも笑うのだろうか。


 研人さんは、はいはいと静かに笑って立ち上がる。櫛がないのにどうするのだろうかと思ったが、研人さんは手櫛で丁寧に由磨さんの髪を梳いた。それは普段の茶化した言動とは打って変わった、非常に静謐な動作であった。

 研人さんは立ち上がって目を伏せて由磨さんの髪を確認する。廊下の照明が真上にあるので、研人さんのまつ毛の影が、目の下に灰色に落ちた。


「もうどうしようもないぐらい痛んでいるから、引っかかる。ぎっしぎし」

「しょうがないじゃない。火の前だもの。あ、痛い。優しくしてよ」


 研人さんの骨ばった指が、由磨さんの赤味がかった髪の間を浮き沈みする。研人さんは痛いという声に、恐る恐るといった感じで梳くと、高い位置で一つにまとめて、ねじり上げた。


「怖いのよ。本当に駄目だったらどうするの。もう一度向こうに行って、駄目だったらどうするのよ。どう生きていくの。簡単に言わないでよ」

「あの馬鹿が本当にピアニストになったらどうするんだ。あいつのために稼ぐっていう意義がなくなるってことだぞ」


 それから器用にまとめ上げると、かんざしがしなるほど力を入れてもう一ねじりして手を離した。うまく留まっている。こうして結えたことはおそらく一度や二度ではないのだろう。そういう時はいつでもこうして話をしていたのだろうか。


「研ちゃんはあれよね。本当は、絶対なるって思ってるくせに」


 由磨さんはふらりと席を立って階段を登っていく。研人さんは自分の席に戻って、僕の前に缶ビールを置く。あんまり飲んでいないことがばれていたらしい。

 僕は残っているカプレーゼを食べながら、それを飲む。秋のビールの香ばしくてこっくりした味が口いっぱいに広がる。


「かんざし結ぶの、随分上手でしたね。いつから結んでました?」

「いつだったか、多分俺が小学生の時だったはず。京都の土産屋でかんざし買ってきて、でも結べなかったらしい。半泣きになって。琢海と二人で留守番してたところで泣いたもんだから琢海まで泣いて」


 それで俺の家まで泣きながら琢海が来て、かんざしがかんざしがって。もう俺まで泣きそうになりながら、家のネットでかんざしの結び方調べてさ。琢海の家まで行ってかんざし結えてやった。

 研人さんは目を細めて美味そうにビールを飲む。僕も研人さんのペースに釣られないように気を付けながらビールを口にした。


「研人さんの話を聞かせて下さいよ」


 僕は前に約束したでしょうと、多少酒の勢いを借りてせがんでみる。研人さんはあんまり面白いことなんてないぞ、と言いながら、何を話せばいいのかと戸惑う様子を見せた。

 僕は以前晶君に親の話しをしてくれと言われたことを思い出して、家族の話をして下さいと頼んでみた。研人さんは、酒の肴には向かない話かもしれないぞ、と念を押す。


「俺の家は共働きだった。父が単身赴任で旅館付きの板前。新幹線で三十分、その後バスで三時間の山奥に住み込みで働いている」

「板前だったんですか。だから研人さん料理上手なんですね」

「あんまり料理を教えてもらった訳じゃあないんだ」


 ただ家には料理関係の本がたくさんあったから、それでいろいろ興味を持ったのかもしれない。研人さんはそう言って、アスパラのハム巻きを食べて、更にビールを飲んだ。


「父は、本当はフランス料理のシェフになりたかったみたいでな。高卒なのにフランス語のレシピが読める。多分俺よりよっぽど出来がいい」


 何故板前を続けているかと言うと、それは俺の学費のためだ。そして金食い虫ですと自虐を口にする。研人さんの仙人の皮は、存外簡単に外れるかもしれないな、と僕は底意地の悪いことを考えた。


「父は子供の頃から優秀らしくてな。親戚中の期待を背負っていた。ああ、今でもそうだ。親戚中で俺の評判は、鷹から生まれた鳶だ」


 父の家系は東大に早稲田、官僚に医者なんかがゴロゴロしている。晶の所みたいなものなのだ。研人さんは、それで晶に目をかけたという面も否めないとはっきり口にする。


「母は至極平凡だ。でも、俺の成長に合わせて仕事を変えて見せる程度には器用だった。そういう意味では万能だったとも言える。最後の仕事は保険会社の勧誘員だった」


 僕は研人さんの口ぶりに妙な違和感を覚える。まさかとは思うが、聞くに聞けない。研人さんは少し考える素振りを見せてから、話を続けてくれる。


「俺が実家に帰省しても、大体母の仕事が終わってなくてな、俺が帰省する日は決まって母親が慌てた顔でハンバーガーとポテトを買ってくるんだ。俺と母は夜にしわしわポテトを食いながら、近況報告をする」


 研人さんはこれ以上は特に話すことが思いつかないと、お手上げポーズをする。僕は研人さんにお礼を言って、二人で後片付けをすることにした。研人さんは皿を洗い、僕は散らばった缶を捨ててミニテーブルを綺麗にする。

 研人さんは、おかしな話題だったがどうしたのだと聞いてくる。あれだけ飲んだというのに、研人さんの頭はまだしっかり動いている。彼はざるなのだろうか。以前晶君に聞かれたのだと答えると、俺も晶に聞かれたことがあるのだと話してくれる。


「人は死んだらどうなるのかって聞かれた。割と最近の話だな。春頃だった」

「何て答えたんですか?」

「火葬、言葉は酷いが焼却処分されたのなら大部分は水蒸気になる。残りの固形物は焼却されたということはつまり酸化するということだから、酸化物XやYの混合物になるだろうと答えた」


 あまりにも研人さんらしい明快な答えは、強制的に納得させる力を持っている。持ってはいるのだが、どうしても苦笑いになってしまう。研人さんに情緒のある答えを求めるような晶君ではないとは思うのだが、そういうことではない気がする。研人さんも振り返って、分かっているさと苦笑を浮かべる。僕だってそんな顔だ。


「そういうことではないのかもしれないが、生憎俺はまだ死んだことがないから、それ以上は何とも言えない」


 僕は晶君がブラックホールのトンネルの話をした時に口にしていた、未観測の事項に関しての結果は不確定であるという説明を思い出す。研人さんの答えは彼らの学問の原則に倣っているようだ。

 研人さんは、それよりも生きているという状態にある自分達のことを問題にするべきだという。研人さんは皿を洗いながら、つらつらと喋り続ける。


「存外、人は頑丈だ。肉親が死んでも俺の口は動くし、身体も頭もそうだ。人の死なんかで人は留まらない。死なぞ悼めない。俺は目の前のお前のことさえわからぬというのに、ましてお前の向こうなんて、シアルの」


 そこで研人さんは、ぴたりと話すことを止めてしまう。皿を置いて、ふらりと椅子に座る。酔っていないと思われたが、真面目に考えたら、あれだけ飲んで少しも酔わない人間なんていない。

 僕は止めればよかったと思いながら、皿を拭きながら研人さんの頭がふらふら揺れる。今日のピッチが速かった理由を考えてみるが、やはり琢海さんの落選が悔しかったのだろうか。

 僕は研人さんからやんわりと皿を取り上げる。取り上げるといっても最後の一枚だったらしく、僕はその皿の水滴をふき取り、食器棚に入れようとする。すると、ふらふらしながらも研人さんは、そのカプレーゼの皿を由磨さんに返すように僕に頼む。

 僕はここに入れておきますから明日返して置いて下さいと言って、今にも倒れてしまいそうな研人さんを支える。


「はは、お前、人が人の悲しさを理解するなんて、絶対に出来る訳がない。同じ経験があっても、その差は埋まらない。違う器具で測定しているからさ」

「それは観測された事実なんですかね」


 僕は研人さんを支えながら、研人さんの部屋のドアを開く。部屋のあちこちに無造作に教科書や論文が積み上がっている荒れた部屋で、僕は床に転がっているあれこれを踏まないようにして、研人さんをベッドに運んだ。

 研人さんは大きないびきをかいて大の字に寝転がったので、僕も明日は二日酔いかもしれないと、部屋を退散することにした。


 予想通り翌日の僕は、二日酔いの鈍い頭の痛みで目を覚ますことになった。気分をさっぱりさせようと窓を開けると、由磨さんのラジオが、双子座はお酒の飲み過ぎに注意と教えてくれる。もう遅い。

 僕は水を飲んで落ち着くことにする。台所では晶君がカップスープにお湯を注いでいて、ひどい顔だと言いながら、僕にも一杯スープを作ってくれた。


 それから僕は晶君に心配されながらバスに乗る。頭が痛いだけであって気持ちが悪いわけではない。僕達はいつも通りにバスの一番後ろの席に座る。晶君は、金平糖をあげたいところだが、今はバイト先の若旦那に貸しているのだという。僕は自分のものがあると言い、逆に一粒晶君にあげる。


「綺麗な青だな。色付きっていうのもなかなか素敵かもしれない」


 新商品の飴の袋が素気ないというのは、飴細工屋の中でも話題になったらしい。晶君は参考にどうぞ、と金平糖の瓶を渡したのだそうだ。僕は、晶君がそんなことをしている間にアパートであった出来事を話す。


「研人さんはな、あの人いきなり酔うよなあ。セーブして欲しい」


 それから、そこまで聞いたのならと、晶君が知っていることを教えてくれた。誰にも言うなよと前置きせずとも、古賀は誰にも言えまいと晶君は僕を笑う。


「ゼミの発表の時だった。その日の当番は研人さんだったんだけれど、発表の直前に携帯電話が鳴って、部屋から出てったんだ。ああ、でも五分ぐらいで戻って来て、発表は普通に始まった」


 だから俺は、バイト先か宅配便かと思ったんだ。晶君はそう言って、しかし違ったと溜息を吐いた。それから、もう一粒くれと言うので、僕は瓶を振って二、三粒ぐらい晶君の手に金平糖を出してやった。晶君は一粒それを口に含み、かりっと奥歯で噛む。


「まとめに入って少しした辺りだったかな。研人さんが、唐突に黙ったんだ。一分ぐらいだったか、それぐらい」

「発表内容忘れたとか?」


 突き詰めればそうなのかもしれない。晶君はそう言って、その発表が終わった後の話をしてくれる。なんとかその後も発表を続けて、彼は席に着いて、他の人の発表に耳を傾けたのだという。

 その次の発表の議論が盛り上がる中、研人さんが何も発言しないので、そこで晶君はやっと何かが起こったのだと分かったそうだ。


「母が。それだけを言って、後は察しろと。そう言われたら、俺は察するしかない。なにせ俺もそうだからだ」


 研人さんは次の日が学会での発表だったから、その日の発表は、リハーサルを兼ねていた。俺は明日の学会は休むのだろうな、と思った。でも研人さん、出たらしい。仲間の院生が説得して、ようやくそれから何日か後に帰省したと聞いている。


「なるほど確かに、僕は誰にもこれを言えない」


 なにせ僕と研人さんの共通の知り合いなんて、誰も彼もに親がいない。それにそれ程の話なら、誰でも知っていそうに思えた。しかし晶君は首を振る。


「アパートの人達はどうも知らないみたいなんだ。多分俺も聞かなきゃ教えてもらえなかった。言ってどうなると逆に聞き返されて、答えられなかった」


 研人さんはどこまで行っても研人さんであった。ここでバスは学校に到着し、晶君は今日も背筋を伸ばして品よく校門を潜っていく。僕は秋物のチェックで、人ごみの中に紛れながら溜息を吐いた。

 薄皮一枚剥いでみれば、誰からでも陰惨の香りがするという事実に、僕は少し辟易する。


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