マスロジカルと橡
十月に入り、いよいよ秋は深まる。紅葉は一気にはじまり、そこここの街路樹が黄色や赤に染まり、ナナカマドが実を付ける。視界が騒がしいと研人さんがバスの中でぼやいた。研人さんは自分の研究室に騒がしい留学生が二人も入るのだと憂鬱を隠さない。留学生は後期入学なのだという。
新学期の最初には、学年ごとに学科全体のガイダンスがある。教育学部の教室は浮足立っている。そんな中で僕は久しぶりにあったいつもの二人に挨拶をしながら、ある噂を耳にしてしまった。彼らが夏休みの間にモールでデートをしていたというのだ。
何人かが事の真相を僕に聞いてくるので、僕はその度に何も聞いていないのだと情けない答えを返した。聞いてみてくれないかという頼みには、そうだねえと曖昧に頷いて、僕は新学期でごった返す人波の中に紛れてしまう。
二人に実際どうなのかと聞く自分自身を想像するだけで、もう僕は居たたまれない気分になる。
そして結論から言うと、限りなくグレーではあったが付き合ってはいなかった。レポートの材料を探していたのだと湊さんの釈明じみた説明を僕は大学内のカフェで聞く。
秋限定のナッツの散ったカプチーノをすすりながら、もしも二人が付き合ったとしても、何も僕に気兼ねしなくてもいいのだということも伝えた。隠されるのが一番辛い。
刺激が不足している学部生の耳に入れば、どうしたって今日のように僕の耳まで届いてしまうのだ。
湊さんはしばらく間を置いてから、あいつに彼女はいるのかと聞いた。僕は引き延ばすこともせずに、多分とクッションを置きつつ首を振る。二人が付き合ったら僕は邪魔なのだろうかと考えたが、二人はそんな人ではないだろうから、授業までは変わらずに一緒に受けてくれるだろうと踏んでいる。
「多分、大丈夫じゃあないのかなあ。湊さんならなんとかなるかと」
しかしそこで僕は彼のバイトについて思い出してしまう。いろいろ問題があり過ぎる。しかし何と言っていいかわからない。彼は湊さんにだけは隠しているということを僕は知っている。
異性だから流石に気を使ったのか、はたまた別の理由があるのだろうか。僕はそう邪推してしまう。彼の言動を鑑みても、まんざらではないのではないのだろうかとも思えた。
「ああ、いいのよ。なんとかする気はないわ。ごめんね。忘れて」
忘れてと口にした湊さんの顔が強張っていたので、僕はそんなに信用がないのかと少し悲しくなってしまう。湊さんはそこで別れてあっさり帰宅したが、今度はまるで計ったようなタイミングで、話題の渦中であった彼がやって来る。
あんまりのタイミングであったので、これはどこかから様子を窺っていたのだろうと僕は内心冷やかに当たりを付ける。
「言っとくけれど付き合ってないからな」
「わかっているよ。同じこと言われた。バイトはいいの?」
僕は自分の声が思ったよりも冷たく響いたことを、虚を突かれたように目を見開いた彼の顔を見て自覚した。彼はウェイターに一番安いマンデリンを注文して、少し悲しそうに肘をついて長い脚を組みかえた。
秋の装いの彼がカフェで物憂げな顔をすると、まるでメロドラマじみている。対面に座っているのが地味極まりない僕であるので、格好こそ付かないのだが。
「やっぱお前、湊狙い?」
「やっぱりってなんだよ。そっちほど執心ではない」
僕はもうなんだか面倒になって、許してやるという気持ちで適当なことを言う。何かしらの答えが返ってきて、それでこの話は笑い話で終わるかと思っていた。しかし彼の返事は、そんなにわかりやすいか、という短くそしてわかりやすいものであった。僕としては薮を突いて蛇が出たといった心境である。
僕はもう二人とも勝手に頑張ってくれと思い、泡にトッピングされたナッツを噛み砕く。歯に挟まった。もう少し細かく砕いてくれないだろうかと思いながら、気にしないことにした。彼は少し微妙な表情を浮かべる。
「まあでも、ないな」
「そんなことはないと思うよ」
「誰がコールボーイと真剣に付き合うって話だよ。意味分かるだろ?」
彼はこの話はこれっきりだというように、赴任して来た新しい先生について語る。僕もそれに乗ることにして、少し肌寒くなって来た、という天候の話題を足し合わせた。
バス停に向かうと、晶君が珍しく本ではなく何かのノートを読んでいた。僕が近づいたのにも気がつかない程熱心で、僕はバスが来るまで声をかけるのを控えておくことにする。
晶君は目を伏せるように本を読んでいて、時折吹く突風に頁がめくられて、心底邪魔そうに押さえていた。僕の髪より多少は柔らかそうな髪が風であおられてくしゃくしゃになっているのだが、それには全く頓着していない。
僕は晶君の観察に飽きたので、空を眺めてみる。雲一つない素晴らしい秋晴れであった。太陽を直接見ているわけでもないのに空は眩しくて、僕は俯いてしまう。風は落ち葉の薫りなのか、なんだか香ばしい匂いがする。
そうして秋を満喫しているとバスがやって来る。そこでようやく晶君は後ろにいた僕に気が付き、声をかけてくれてもよかったのだと眉を寄せた。僕は、あんまり熱心だったものだからと言って、バスに乗り込む。僕達はいつも通りに後ろの端にひっそり座る。
「今読んでいたノートは、今日の授業のものなんだ。テーマは、何故物質は消失しないのか。気になるならかいつまんで説明してみるけれど」
僕は多分難しい話なんだろうなと思いながら、普段晶君と研人さんがどんなことをやっているのか興味があったため、頷いてみる。それにしても僕の学科はとろとろとガイダンスをやっているのに、晶君の学科はノートを取る程度には授業が進んでいるらしい。
「とは言っても概論の授業だから、この授業自体がガイダンスみたいなものだ」
晶君はそう前置きをしながら、閉じていたノートを開いて僕にも見せる。
「神の数式と呼ばれる式がある。この数式を完璧に解明したら、砂漠の砂の流れからオーロラの揺らぎ、台風がどこで出来てどう消えるかまで、あらゆることがわかる」
「全然違うものに思えるけれど、全部同じ式でいいの?」
晶君はとても簡単に言うと、同じでも大丈夫なのだと言いながら、この式だ、とノートを見せてくれる。僕も授業で数学やら物理やらはやっているのだが、そういう次元の式ではない。まず一文字も読めない。読めないから一行たりとも意味がわからない。
この式は現在一番神の数式に近いと言われているものだと、晶君が説明を加えてくれた。晶君の字はなかなかに雑で、僕は意外だなと思ってしまう。余程黒板を消すスピードが速いのか、それともそもそも口頭の説明をメモしているのか、全部の文字が走り書きだ。文字の醸し出す疾走感が並のものではない。僕は式の横に書かれている字を読みあげる。
「電子、二種のクオーク、ニュートリノ。今最も神の数式に近い式の書き出しは、物質の最小単位この四つの基本素粒子から始まる。うーん、なんとなく言っていることはぼんやり分かるんだけれども」
「まあ、俺もお前もこのバスも、どんどん分解していけば、最終的にこの四つの粒になるってぐらいでいい」
おそらく厳密には違うのだろうが、晶君は僕にわかりやすいようにと、説明に関係してこない瑣末な部分は切り捨ててくれたのだろう。僕はノートを読み進めてみる。
余程授業の進みが早いのか、それとも常識だから詳細を割愛したのか、発端はシュレティンガー方程式という走り書きがある。
「このシュレティンガー方程式っていうのは、まあそうだな、電子がどうやって動くかを式で表したものだ。結局不足があったんだが」
「物理法則は、ええと、数学的に美しくなければいけない?」
僕はノートの下に書いてあった文を読む。数学という文字が歪みに歪んで、辛うじて読めるぐらいである。こんな難解な式を扱う学問で、美しさなんて言葉が出て来るのは、少し意外であった。
「ああ。でも芸術みたいに美しさの基準が曖昧ってわけじゃあない。ここで言う美しさっていうのは対称性。つまりそうだな、観測点を変えても、式が変化しないということ。意味はわかるか」
僕は首を振る。晶君は胸ポケットからペンを取り出すと、ノートに円を一つ書いて、隣にXとYの直行する軸を書く。縦がXで横がYだ。
「この式は円の半径に関する式だが、このXとYを円に添って回すことが、観測点の変化、座標軸を回しても、この式は変化しない。今の図は回転対称性の説明だ。なんとなく意味はわかるか」
なんとなくならと僕は頷く。説明は難しいものなんだな、と晶君は苦笑する。僕は説明の難しさを授業で嫌というほど思い知らされているから、諦めずに晶君の解説に耳を傾けることにする。
「見る人の視点を変えても元々の性質が変化しない、この普遍性こそが対称性の美しさだ。ディラックという学者は、行き詰っていたシュレティンガー方程式に、この対称性という概念を付与することで解決しようとした」
次の頁には、ローレンツ対称性、空間と時間は本質的には一緒。という解説が書いてある。ノートを取る時間に余裕が出来たのか、晶君の文字が多少マシなものになる。
「時間イコール空間、ということだ。シュレティンガー方程式には、時間を表す文字が一つなのに空間を表す文字が二つ入っている。この式はローレンツ対称性を持っていない」
神の数式はあらゆる全ての対称性を持っている。回転対称性、並進対称性。だからディラックはこのシュレティンガー方程式に新しい対称性を加えて、新しくディラック方程式というものを開発した。
僕は晶君のノートを読み進める。文章だけなら大体の意味が分かる。その下にはゲージ対称性、非可換ゲージ対称性について読んでおくこと、とまたも走り書きに戻っているメモが書いてある。
「ええと、とりあえず対称性ってすごいってことかな」
「そうだ。でもある日これらの数式を解くと、世の中のあらゆるものには重さがなく、世の中を構成する全ての分子が光の速さで分散する、という答えが出てしまった」
晶君が頁をめくると、次の頁には、無限大と書かれている。僕はそうなるとどうなるのと聞いてみた。
「まあそうだな、簡単に言うと、俺から内臓とか目玉とかがポーンと飛び出して行ったり、バスからタイヤが外れたりする。最終的には、シュワッと、俺の目玉にタイヤ、東京タワーも海もダイヤモンドも、溶けるみたいにして消える」
俺達が見ているのはあくまでも分子のまとまりで、その分子の結びつきが離れてしまえば、見えなくなる。ダイヤモンドはダイヤモンドの性質を失い、海は手を濡らさなくなる。
晶君は、しかしそんなことは現実に起きていないだろう。そう言ってひょうきんな仕草で自分の目を指す。当然の話だが、晶君の目がポンと飛んで行ったりはしない。
ノートの続きには、自発的対称性の破れ、という単語とその解説が書いてある。数式に対称性があっても、その結果には対称性が観測出来なくてもいい。僕にはさっぱり分からない。
授業のレベルが違うというよりは、そもそも言語が違うというレベルだ。朝からこんな授業を聞いていたら、とても午後まで体力は持たないのではないかと心配になる。
しかし晶君の目は珍しく楽しそうだ。研人さんもきっとこんな目をするのだろう。僕はこんな目になれるほどの興味を学問に持ったことはないから、残念ながら気持ちが分からない。本当に残念であった。
彼らほど楽しめるものが見つけられたのなら、僕の生活もなかなか楽しいものになったに違いない。
「最初に説明した基本になる四つの内の二つ、クオークは数式上、重さがないことになっている。しかし実際観測できる事実、君にも俺にも体重が存在するから、クオークは確かに重さを持っている」
完璧な美しさは崩れる運命にある。そして世界に重さが生まれる。先生の締めの一言なのか、打って変わって整った文字でそんな言葉が書いてある。
初回授業にしては濃い授業だな、と感心する。そして僕はあることに気が付いた。何故これほど文字が揺らいでいるのかということがずっと気になっていたのだ。
「もしかして晶君、この授業遅刻した?」
晶君は驚いた顔をして、よくわかったなと笑った。ノートが進むにつれて字が綺麗になっていくのなら、そういうことだろうと言うと、さすが教育学部と言われてしまう。正直これは教育学部だからというよりも、僕の経験から導かれたものだ。
バスはトンネルの前で停車する。予定より早く着いたため、時間まで止まったままだ。バスは停車すると本当に静かである。
「もしかしてブラックホールとかの話も授業でやるの?」
「ああ。そういえばあの時は言わなかったが、ブラックホールは実はほとんど物を吸い込んだりしない。せいぜい周りにあるものの十パーセントぐらいだ」
晶君はノートを鞄にしまいながら、解説してくれる。僕はそのブラックホール発言の時のことを思い出していた。この向こうには何があったのか。思い出せない。故郷のことももうあまり。
「晶君って海外に行ったことあるのに、この向こうがあるかないかを疑うの?」
「飛行機の中も大体寝ていた。それに雲の下は見えない」
晶君はトンネルのほうを見て、少し違うのかもしれない、と続ける。
「正しくは、トンネルの向こうを疑っているのではなく、トンネルの向こうでピアノを弾いていたという自分の過去を疑っている」
僕は自分の顔が強張るのを自覚する。成功していた晶君でさえそうなのだから、ましてリタイアした僕の過去なんて、もしかしたら最初からなかったのかもしれない。
「前にもこのトンネルの前で、変な顔をしていたな」
「何と言うか、僕も少し、このトンネルの向こうが気になっている」
行って見ようか。晶君は気軽にそう言って笑って見せる。簡単に言うが、僕はどこまで行っても満足しない気がしてならない。晶君にそう伝えると、じゃあ俺一人で行ってみようかなとあっさり言ってのける。
晶君は自転車やバックパックが必要だな、なんてことを話していたが、僕は体力なのではないかと考えていた。
工房棟に向かうと、なんだか裏庭が騒がしい。何事かと覗きに行くと、硝子工房や絵画工房の人達が、輪を作って何かをしていた。立っている人もいればしゃがんでいる人もいる。
僕も輪に加えてもらうと、どうやら彼らは焚き火をしているようだった。由磨さんが見当たらないので別の硝子工房員に聞いてみる。気のいい男の人は、太い木の棒で落ち葉をかき分けてアルミホイルの塊を見せてくれた。
オーナーから芋をもらったそうで、焼き芋をすることにしたらしい。焼き上がる頃に取りに来てくれと言ってくれたので、喜んで頂戴することにして、僕は受付に戻る。
今日はいよいよ温かい飲み物のラインナップが増える日だ。業者から注文した缶の入った段ボールを受け取り、売れ筋を予想して保温機に缶を入れていく。
「カフェオレひとつお願い」
「あの、すみません今入れたばかりでして。冷たいものならございますが」
顔を上げると、そこには少し可笑しそうな顔をした由磨さんが立っていた。由磨さんは、じゃあ温まるまで待ちます、と笑って受付脇のベンチに座る。両手でサラダボール程の硝子の器を抱えている。
「由磨さんは裏庭に行かないんですか? 焼き芋、美味しそうですよ」
「私はいいわ。宿題もあるしね」
由磨さんは立ち上がって受付のカウンターに抱えていた器を置く。厚みは多少あるようだが、それ程厚いわけでもなく、上から見ると三日月のように弧を描いた口である。縁は微かにオレンジで底の方は透明なオリーブグリーン、実用品の類ではなく、硝子工房受付のディスプレイ用のものだという。
「春は花を生けて、夏は硝子屑を入れて青い水で満たしたの。秋は何をしようかしら。それが宿題。何かいい案はないかしら」
秋といえば、と僕も考えてみる。秋刀魚にぶどう、鈴虫、夕暮れ。なんだかどれも硝子に入れるのに向かないものばかりだ。僕は駄目元でそれらを口にしてみる。由磨さんは、君意外と面白いことも言うのね、と笑う。僕は真面目に考えたのに心外である。
「こういう細々した宣伝って大切なのよ。ここで売ってるドリンクとか、とろーり濃厚ココアとか、ふんわりミルクティーみたいなポップを付ければ、きっと売り上げも上がるわよ」
「とろーりに、ふんわり、ですか」
僕は思わず苦笑いが隠せない。なんというか、最近どこからともなくぽっと出現した女子力という言葉が脳裏を走る。
「あらこういう言葉を馬鹿にしているでしょ。意外に浅慮ね」
由磨さんの口から浅慮という言葉が飛び出してきて、僕は身を引き締めてしまう。由磨さんはオノマトペの効能というものを僕に解説してくれた。
「店に入ると、こういうオノマトペにイメージを頼る商品が多かったりするのよ。とろふわ卵のオムライスなんてもうメジャーでしょう? 日本人が好きな美味しさを表す表現の五位までは、全部こんな系統のオノマトペよ」
由磨さんは指で硝子の器をトントン叩きながら続けてくれる。
「季節や年ごとに流行るオノマトペっていうものもあってね、それに合致して売り上げが三倍伸びたホットケーキの話もあるのよ。ちなみに去年まではもっちりって言葉が主流だったけれど、今年の秋はふんわりよ」
「随分詳しいですね」
「こういう言葉を小馬鹿にする人は、大体統計の数字とか好きなのよ。それでも、でもでもって言う人はそうね、ちょっと手に負えない」
由磨さんは、どう? と微笑む。僕は降参ですと頭を下げた。ポップの件は真面目に検討してみよう。
「私、硝子工房の広報なのよ。だからこういうのも仕事なのよね」
由磨さんがそう零しながらカフェオレが温まるのを待っている。すると焼き芋が出来たらしく、バックヤードの窓を開けて先程の男の人が僕に声をかけてくれた。
「ねえ、ここで留守番しているから、私の分も取って来てくれない?」
「いいですよ。一つで足りますか?」
そんなに食べないわよという由磨さんの声に追い立てられて、僕は裏庭に移動する。裏庭のそこここでは美味しいという歓声が上がっている。裏庭にいるのは硝子工房のスタッフだけでないので、ちょっとしたパーティーの様相だ。
鮭のホイル焼きや焼き栗を頬張っている人もいるので、思い思いに焼き物をしたのだろう。僕を読んでくれた男の人は焚き火の前に僕を手招きして、炎の中からホイルを漁ってくれる。
僕はそこで、なんだかとても香ばしく甘い匂いを嗅ぎつける。食べ物の匂いとはまた少し違う。
「なんだか甘い匂いがします」
男の人が首を傾げる。僕は焚き火の近くにしゃがんで匂いを嗅いでみた。顔というより目が熱くなる。落ち葉が焦げる匂いの底のほうに、確かにほろ苦く甘い匂いがする。
胸一杯に熱い空気を吸い込むと、むせ返るような灰の匂いの中で清涼感さえ感じられた。男の人は合点がいったらしく、薪の匂いだと教えてくれた。あれこれ焼くのに落ち葉だけでは火力が足りなかったので、薪を混ぜたらしい。
「木が焼けると、こんな匂いがするんですか?」
「ああ。よく乾いたいい薪の証だな。芋しか残っていないが、いくつだ?」
「二つお願いします。一つは由磨さんに」
来ればいいのにと男の人は笑いながら、二つの塊を炎の中から引っ張り出して、新聞紙に包んで渡してくれた。僕はお礼を言って持って帰ることにする。
それにしても秋真っ盛りといった景色である。秋晴れの空に焚き火、流石に誰もビールは飲んでいなくて少しほっとする。
裏庭の雑木林は日陰になっていて、紅葉も早い。よく見てみると地面にはどんぐりまで落ちている。僕は人の群れから離れて雑木林のほうに寄ると、屈んでどんぐりを拾い上げてみた。細長いどんぐりには穴があいている。
よく見るとその近くには栗のような、しかし栗よりもごつごつした不思議な木の実が落ちている。たくさん落ちていて穴も開いていなかったので、面白くなってついつい拾ってしまう。しかし留守番してくれている由磨さんのことを思い出して、受付に戻ることにする。
それにしても賑やかな秋の楽しみ方だ。僕はなんとなく秋は淋しいものだと思っていた。
記憶の中でも、大体秋は淋しい。陸上のシーズンが終わり、今季も勝てなかったと記録を見返していたからだろうか。記憶というものは、こうして至る所にこびりつく厄介な汚れのようだ。
僕は由磨さんに新聞紙に包まれた焼き芋を渡す。由磨さんはあちちと言いながら新聞紙とホイルを開いて、一度軽く閉じてから二つに割る。すると、ぱっとしたさつま芋の黄色が現れて、僕達は揃って歓声を上げた。
僕達はそれぞれ焼き芋を食べる。由磨さんはあまりお腹が空いていなかったのか、半分食べたところで焼き芋を包みなおした。半分といっても蜜がたっぷり詰まって大きな芋であったから、半分でも相当なボリュームだ。
僕は全て食べ切る。熱いうちに食べるのが一番美味しいし、何よりバスの中で頭を酷使したせいか、芋の甘さが五臓六腑に染みて、溜息まで吐いてしまった。
僕が食べ終わった頃、由磨さんはカウンターに置いた妙な木の実を摘み上げた。カウンターの白を背景にすると、その実は栗の茶色よりも断然濃く、黒みがかった赤に近いことが分かる。
栗よりも皮が厚いようで、ひどく堅い。由磨さんは指の腹で柔らかく擦って汚れを落として艶を出すと、その実を硝子の器に無造作に放りこむ。木の実はごく小さな放物線を描く。そして器の底を打ち鳴らして、カリンと涼しい音を立てた。
「これにするわ。ありがとう。とても素敵ね」
由磨さんは安心したように目を細めて、三つ四つと秋の象徴を器に放りこむ。これは何かと聞くと、橡の実なのだと答えてくれた。