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ネオンテトラにフロマージュ

 オーナーが指定した日であったが、その日は生憎の雨どころか、台風の直撃で記録的豪雨のテロップが常にニュースで踊っていた。

 念のため晶君に頼んでオーナーの自宅に電話をかけてもらい、本当にやるのかと聞いた。すると夕方に迎えを寄こすということで、あっさり決着がついてしまう。


 僕は借りていた電話を晶君に返す。僕は今晶君の部屋のベッドに腰掛けて電話をしていて、晶君はピアノの椅子に座っていた。応接用の椅子などはないのだ、と部屋に迎えてくれた晶君は言った。

 僕は晶君があっさりと僕を部屋に通したのが意外であった。晶君は、もうあまり気にしないことにした、と言う。それに少し報告があるのだと言った。僕は晶君の報告を待つ。晶君は溜めることなく、あっさり話をする。


「実はこのピアノ、琢海さんに貸すことにした」

「二階の床抜けないかな」


 僕の言葉に晶君は、心配するところはそこなのかと笑う。それによく見ると、晶君は部屋の壁一面に防音のシートを張っているようだった。


「琢海さんが来た時に、この部屋のピアノを貸すことにした」


 僕がいない時に二人で話し合ったのだという。話し合いというよりは罵り合いに近かったかもしれないと、晶君は顔をしかめる。


「勝つためなら何でも使えばいい。俺もそうして来た。それだけの話だ」


 ずっと貸しているわけでもないのだ、と晶君は立ちあがって続ける。どこに行くのかと思ったら、机の上に積みあがった本の中から何かを探し始める。本には全てカバーがかけられている。

 カバーの色は青だったり黒だったりして、カバーの材質も異なっていた。本屋でかけられるような素気ない紙のカバーから、自前のものらしい革のカバー、書店の店頭でおまけで配っている、アイドルの顔写真のついたプラスチックカバー。


「夜の九時から一時間は、俺が使う。それ以外の二十三時間は好きなだけ使えと合鍵も渡した」

「時間を決めて練習しているの?」


 なんだ未練たらたらじゃあないかと、僕は内心不思議に思う。一日一時間の練習時間はおそらく少ないのだろうが、それでも時間を決めて練習するということは、なかなか出来ることではない。晶君は少し違うかもしれない、と僕に背を向けて探し物を続けながら答えた。


「その一時間、何をしていればいいのかわからなくて。練習と言うよりは、なんというか、居たたまれなくなって弾いている感じだろうか」


 本を読めばいいのではないかと提案しているが、晶君は首を振る。読んでいても八時半を過ぎた辺りから、なんだかそわそわするのだという。僕はそわそわしている晶君が想像出来なくて、少し可笑しくなる。晶君は目当ての本を見つけたらしく、一冊の本のカバーを外していた。


「俺が現役、あちこちのコンテストに出ていた頃、そのぐらいの時間にいつも弾いていた。父や母に練習を見てもらうこともあった。もっと遅い時間になると、住み込みで習っていた、琢海さんみたいな人達が弾いていた」


 防音室だったけれど、時々俺は部屋の隅の椅子に座ってそれを聞いていた。晶君はそんなことを教えてくれる。ピアノに防音室で複数の住み込み、彼は本当に音楽一家の人だったのかと、僕は今更ながら実感する。住み込んでいた一人が琢海さんの先生だという。


「皆が音楽で頭がいっぱいさ。今思うと、宗教じみていたようにも思う。夢中な人達が発する独特の熱っぽさが、あの家のあちこちに染みていた」


 晶君はなにやらカバーの付け替え作業を行っているようだった。焦げ茶色の革のカバーは付け辛いらしく、晶君は本を折り曲げないように慎重に本の端を差し込んでいく。


「両親が死んでから、一人また一人とあの家のピアノを弾く人はいなくなった。俺は研人さんに会うまでピアノを弾くことしか知らなかったし、本も読まなかったから、最後の一人になるまでピアノを弾いていたさ」


 人食いピアノの話、覚えているか。僕は頷く。ピアノは人を喰らう。僕にとっては荒唐無稽な話であっても、晶君にとっては本当の話であった。

 弾くといっても、コンクールはもうなくて、だから居なくなった人達が弾いていた曲を覚えている限り弾いたのだ。晶君はそう言って僕に向き直り、立派なカバーの付いた本を僕に渡す。


「この前約束した本だ。三島由紀夫の肉体の学校。ブックオフでシミあり二百円。君、別に文字が読めればいいだろう? 俺はそうさ」

「このカバーは? なんだか高そうなんだけれど」

「俺のだけど、一緒に貸す。その題名、なかなか外で読めるものじゃない」


 確かにと僕は頷く。題名だけ聞くと、何だかやましい本にも思える。いや、男娼の出るような話ならば、やはりやましかったりするのかもしれない。僕は晶君の妙な心遣いに感謝する。

 

 僕達はいよいよ強くなって来た嵐の音を聞きながら、だらだら話をする。テレビを付けてもテレビの向こうも大抵嵐であったので、お手上げと言った感じだ。僕はそこでふとオーナーと晶君の鼻歌について思い出す。

 僕はせっかくだからと晶君にマイフェイバリットシングスの歌詞の意味について聞いてみた。晶君は少し間をおいてからぽつぽつと話す。話すというよりは、呟いている感じだ。


「薔薇に落ちた雨、子猫の髭、綺麗な銅のケトル、温かいウールのミトン」


 ええと後はなんだっけなと晶君はそこで何度か小さく同じ部分を繰り返し歌った。恥ずかしがっているようにも思える程、小さな声であった。英語でぶつぶつ呟いた後、そうだと頷いて解説を続けてくれた。

 元音楽家が歌を恥ずかしがるというのも変な話なので、もしかしたら英語の発音が気になっているのかもしれない。


「紐でくくられた茶色の小包、これらが私のお気に入り」


 大体の訳だから、厳密なところは自分で頼むよと晶君は言う。晶君は訳を続けてくれながら、ピアノの蓋をあけて少しの間何かの調節をした。

 それから訳の少し後を追うように、即興でピアノを弾いてくれた。大体の訳らしく、音楽にあった歌詞とは言えない。


「クリーム色のポニー、サクサクのアップルパイ、ドアベルにそりのベル、カツレツと麺の付け合わせ、月夜に羽ばたく雁の群れ」


 電子ピアノから、電子ピアノの音がする。とはいっても僕にとってはそれはピアノだ。クラシックというよりは、テレビで聞くようなジャズのリズムで弾いてくれるので、多少親しみを感じることが出来た。

 晶君の呟くような翻訳もピアノの音も、防音で緩和された嵐の音も、全てが控えめであった。一番大きな音はテレビから流れ始めるジャパネットのテーマソングである。だけれども僕も晶君もテレビを消そうとはしない。テレビの音の中で聞くピアノは、変に気だるくて、不思議と耳になじむ。


「女の子が白いドレスに青いサテンのリボンをつけている。鼻とまつ毛に残った雪の欠片、溶けて春になる白銀の冬、これらが私のお気に入り」


 テレビの中では甲高い声で電子辞書が投げ売りのように売られていて、晶君の口元は少し笑っている。外は相変わらずの嵐で、この部屋に付いている唯一の窓からは、大きな葉が何枚も飛んでいくのが見えた。何もこんな嵐の日に迎えを寄こしてまで絵を描くこともないのに、と僕はオーナーを思う。


「犬に噛まれ、蜂に刺され、悲しい気分になった時、ただこのお気に入りのものを思い出す。そうすれば、少しはマシな気分になる」


 晶君は、これで終いだというようにダイナミックにすごいスピードで鍵盤を弾く。叩くという荒々しさはなく、あくまでも遊びの延長であるかのように、滑らかに撫でているように見えた。

 その様はミュージシャンのようであり、僕は晶君が本当にピアノを弾く人なのだと今更ながら実感した。




 それからアパートに迎えに来たのは、オーナーの内弟子らしい若い男の人であった。彼は一緒に廊下に出てきた晶君に小さく会釈をして、僕を軽自動車に乗せた。晶君は、こんな天気に馬鹿みたいだと笑って僕を送り出す。

 オーナーの自宅は工房棟から少し離れた高台住宅地にある。大画家らしい屋敷に住んでいて、外から見る限り三階建てである。男の人は大きな車庫に車を入れ、僕を玄関に案内する。チャイムを押して僕が到着した旨を伝えると、僕を連れて屋敷の扉を開ける。


「おお来たか二人とも。御苦労だ。寒かったろう。君、工房に戻る前に、茶の一杯でも飲んでいくといい。あと修繕組と一緒に食べるといい。クッキーだ」


 僕は三階までの吹き抜けになっている玄関に圧倒され、通された居間で紅茶をちびちび飲んだ。居間には大きな水槽があって、ネオンテトラがたくさん泳いでいる。ネオンテトラの他には水草が入っているばかりだ。ネオンテトラの美しい光彩を持った筋は、照明を受けて赤や紫に光った。

 オーナーが生き物を飼うだなんてなんだか意外で、どうしても目が行ってしまう。だがオーナーが生き物を飼うなら、犬や猫より魚のほうが、確かにしっくりくる気がする。餌を変えたり水を変えたりと世話を焼いているのだろうか。僕はどうしてもその様子が想像できない。


 弟子の男の人はささっと茶を飲むと、嵐がひどくなる前には切り上げて下さいとオーナーに言った。帰りも僕を送るといって引き上げていった。弟子は大変だなと思いながら、僕はクッキーの缶を持った弟子さんを見送る。


 一心地ついたところで、僕はオーナーに連れられて三階にあるアトリエに通される。アトリエは角部屋らしく、外に面する部分が全面硝子張りになっている。天気の良い時はこの時間は夕日が見えるのだとオーナーは言うが、生憎の天気である。

 三階という高い位置にあるので、一階から見ているよりもさらに風が強く見える。庭に植わっているらしい木が、大きく風の吹く方向にしなっている。

 僕はカーテンを閉めましょうかと聞いてみる。しかしオーナーはわざわざ開けたのだと言って、キャンパスの前に座った。僕は嵐の灰色を背景に棒立ちになってオーナーを見下ろす形になる。


「あの、僕何かポーズとか取ったほうがいいんですか?」

「いや、私が見える範囲で好きにしていてくれればいい。椅子はそこにあるのに座ってくれていいし、お茶はそこの魔法瓶に温かいものを用意した。菓子もあるぞ。この前デパートの九州物産展に行って来たんだ。甘夏フロマージュ。なかなかこれが美味い」


 オーナーはそう言ってさっさとキャンパスに向かってしまう。僕は戸惑いながらもとりあえず椅子に座ってお茶を入れてみる。先程一階で出されたものと同じ紅茶で、少し冷たい三階の空気の中では一層美味しく感じられる。

 高い紅茶なのかなと思いながら、皿に乗った白い塊のようなフロマージュを食べてみる。爽やかな酸味と甘いチーズの味がする。紅茶にもあっていてとても美味しかったが、まだいくらか緊張が抜けないのと、どれぐらい時間がかかるのだろうかと、色々なことが気になってしまう。


「喋ってもいいのだよ。そうさねえ、君、歌詞の意味は聞いたか?」

「はい。さっき晶君に」


 僕はお茶を一口飲む。そういえばこのお茶はどうしたのだろう。奥さんらしき人の影はこの屋敷にはない。身の回りの世話をしてもらう程オーナーはもうろくしている訳でもないから、いないとしても特に不自由はしていないのだろう。何よりも彼には弟子がいるのだった。


「いい歌だろう。私は一等これが好きでねえ。よく息子がこれを弾いていた」

 オーナーの息子ということはつまり、晶君の父だ。僕はどうして二人がこの歌を歌うのか、少しだけ納得した気分になれた。


「妻は息子を産んで死んでしまってな、忘れ形見だというのに」


 なにも死んでしまうことはなかったろうと、オーナーは絵筆を動かしながら口にする。僕は油絵具の少し薬品臭くもったりした匂いを嗅ぎながら、また少し茶を飲んだ。


「私は、雪の一片と、それが溶けて春になるというところが、一等好きさ。私もそう思う。夜に降る雪の白さは染みいるようだ」


 僕はただ座っているのもつまらないので、フラフラと部屋をさ迷ってみる。あんまり動くとさすがに諌められるかもしれないとも思ったが、オーナーはさして気にする様子もなく、僕を見たり見なかったりしながら絵筆を動かしている。

 僕が立っているところからはキャンパスが見えないので、僕はどういう風に描かれているのか見当が付けらない。オーナーの後ろに回りこむのはさすがに気が引けた。


「晶君が、芸術家は碌な死に方をしないって」


 僕の話にオーナーは、概ね正しいなと鷹揚に笑う。僕はオーナーの笑い声を背中に聞きながら、風の吹き荒れる窓の外を見る。高台の中でもひと際高い位置にあるこの屋敷の最上階であるので、本当に見晴らしが良い。

 高台の緩い坂道が放射状に広がり、その先端が工場街や駅に繋がっている。空は相変わらず不穏な色をしていて、夜が近づくにつれて暗さを増していく。


「晶も音楽家になるとばかり思っていたさ。でもあいつ、芸術家にだけはならんと言ってな、自分の賞状からメダルにトロフィー、写真。全部庭に埋めてしまった。根こそぎ残らずだ」


 本当はゴミの日に出したかったようだが、ゴミの分別がわからなかったみたいでな。オーナーはそう言って笑った。それまでの入賞賞金を大学の学費に充てたという。あまりの思い切りの良さに、僕まで笑いそうになる。

 だが晶君は、きっとそれらを見ていられなかったに違いない。だからあらゆるものを捨てたのだ。しまいには自分のピアニストとしての未来まで粗大ごみのように扱ってしまった。


「あいつはある意味正しいのだよ。この道はなかなかどうして、過酷だ」


 絵筆が動く音は嵐の音で聞こえない。僕の目の前には灰色が広がり、僕は背中でオーナーの声を聞く。灰色は均一に広がっていて、この灰色は一体空のどこにいたのだろうと不思議な気分になる。鳥は飛んでいない。この風では吹き飛ばされることは、流石の鳥も知っているのだろうか。


「いつからか夢をだな、見るのだよ。私の歩く道の路傍には累々重なっている死体がある、そんな夢だ」


 老人らしいといえばらしいという夢である。僕は話を聞きながら、もしかしたら僕はオーナーと会おうともしない晶君の代わりであったのかもしれないと思った。

 少しがっかりする。僕を選んでくれたかもしれないと思ったのに、彼が欲しているのは、僕ではない。


「私は生者を探す。しかしどこにも、誰もいない。私には神というものはいないようでな、祈ろうとしても祈りの言葉も出ん」


 その前に私は南無阿弥陀仏とアーメンしか知らん。オーナーはひょうきんにそう言ってのけた。依頼で仏の絵を描いたこともあったというのに。オーナーの言葉に、僕まで少し笑ってしまう。


「そして私は死体の顔に見覚えがあることに気がつく。若い私の作品を馬鹿にして、時代と共に消えていった先輩画家、売れない私を罵倒したというのに、賞を取った瞬間に掌を返した画商、私の画法を否定した数々のライバル」


 皆、私が大家と呼ばれるようになってから葬った者たちだ。オーナーの底冷えするような声が、キャンパスに遮られてくぐもる。僕はそんな声を聞きながら嵐なぞ見ていられなくなって、オーナーに向き直る。しかしオーナーこそが嵐の渦中にいる目をしていて、僕は血も凍る思いであった。


「握り潰す瞬間の、彼らの陰惨の香りを嗅ぎ取ってようやく私は快楽を感じる。爪先の中指から始まって膝裏を通り、こめかみまでを突き抜ける快楽だ」


 この悦楽は君にしか分かるまい。孫には言えん。サラブレッドに駄馬の物思いなど。

 オーナーの目は僕を見ている。僕の目ではなく心臓の辺りをだ。僕は雪のような灰のようなものが胃の辺りに積もっていく感覚であった。とにかく身体が重く、僕は窓辺から離れて椅子に座った。

 窓の外もオーナーも見ることが出来ず、僕は鞄に入れていた晶君が貸してくれた小説を取り出す。しかし開くことも出来ずに、膝に乗せて重いカバーを撫でるしかない。


「夢の最後に、私の歩いている道が、永劫終わらないことに気がつくのだ」


 日常で永劫なんて言葉を聞かないので、その響きは得体の知れない恐ろしさを持って僕に届く。僕は革のカバーを両手で温める。妙に寒い。僕はテーブルに本を置いて魔法瓶の茶を注ぐ。柔らかく湯気が立ちあがる。それを見て僕は多少安心する。よかった、この部屋は本当に寒いのだ。


「君が少し私に似ていると思った。だから書きたいのだと思った。君が生温かい人間の温もりを得てしまう前に」

「人間、ですか」


 紅茶を口にして、少し寒さが落ち着いた。オーナーは淋しそうな顔をして、こちらを見た。やはり絵筆は離していない。オーナーのほうを向くと油絵具の匂いが押し寄せて来る。特に不快ではないが、好きだと思える匂いでもない。

 オーナーは僕に、その本は読まないのかね、と聞いてくる。僕は本を開く。何かを零したみたいで、茶色い染みがところどころの頁に散っている。そして何より、小説の言葉は僕には難解であった。

 僕はフロマージュに齧りつく。香りは甘いが、なかなか酸味は強い。


「君は、最後には陰惨の匂いを遠ざける。皆そうさ。生温かさを発し始めた人は、そうして私を置いて人間の幸福な生活に浸る」

「そうですか? たくさんいる気がしますけれど。人の闇が大好きって人」


 本を読むことに集中することで、僕の口は多少滑らかに動く。するとオーナーの低い笑い声とかたんという音が届く。僕はそこではじめてオーナーが絵筆を置く微かな音を聞いた。

 風の音があるのに聞こえるということは、僕の想像より絵筆というものは重いものなのかもしれない。


「闇は本当に闇なのかね。そもそも闇の何が悪い。それは目的を遂げるために這いずりまわる光と何が違う。そうではないのだよ」


 オーナーは立ちあがってカーテンを閉めて回る。そこで僕はこれほど荒れ模様の外から、微かにでも光が入っていたことを知る。部屋の中は一層薄暗くなる。手元が見えないので、僕は本を読むのを止めてぼんやりと白いフロマージュに齧りつく。

 僕は今日が嵐でよかったと、ぼんやりしたフロマージュの輪郭を突きながら思う。無音であったなら、僕は茶も喉を通らない程に憔悴していただろう。オーナーはしばらく無言で僕を観察していたが、邪魔をして済まなかったなとカーテンを開けて薄く電気を付けると、キャンパスの前に戻った。


 オーナーはそれきり僕に話しかけることはなく、作業に集中する。僕は巻末に付いている難解な言葉の解説を、その都度照らし合わせながら読んだ。

 僕は小説のために用語解説を読んでいるのか、用語解説のために小説を読むのかわからなくなる。しまいには解説のほうが面白くなってしまい、用語解説ばかりを読み進めてしまうが、結局作者の年表まで辿りついてしまうので物語に戻ることにした。

 小説を読むのに、もしかしたら僕は必要なだけの集中力が足りていないのかもしれない。




 モデルの時間が終わったのは、夜中の一時を少し回ったところであった。アトリエには時計がなかったので、もうそんな時間なのかと内心驚く。モデルの時間が終わっても、オーナーは絵筆を置かずにその場で携帯電話をかけて迎えの人を呼んだ。

 オーナーは一階で待っていてくれとキャンパスから目を離さずに言う。僕は本当に終わったのか不思議に思いながら、オーナーの言いつけ通りに一階に降りて、迎えの人を待った。

 

 迎えの人は程なくしてやって来て、その時になってオーナーはようやく三階から降りてきた。てっきり巨匠らしくもう今日は顔を合わせないと思ったのだ。

 オーナーは冷蔵庫から例のフロマージュの箱を出して、僕に持たせてくれた。僕はお辞儀をして弟子さんの車に乗ると弟子さんは素気なく、謝礼は工房のバイト代に上乗せしてありますと教えてくれた。


 僕は静かにアパートのドアを開ける。するとその音を聞きつけてか、晶君の部屋のドアが開き、晶君が顔を出した。晶君は手招きして僕を部屋に招く。声の通る廊下で立ち話をするには遅すぎる時間だ。

 僕はフロマージュを冷蔵庫に入れて、晶君の部屋に入る。こんな時間であるのにも関わらず、晶君の部屋のピアノにはスウェット姿の琢海さんが座っている。だからこんな時間であるのに晶君は起きていたのだろう。

 琢海さんはヘッドホンを外して僕に弱々しい笑みを浮かべる。僕は晶君にベッドに座ってくれと言われ、晶君は机の前の堅そうな椅子に座った。


「毎日こんな時間までやっているんですか?」

「いや、いつもは日付が変わる前には帰る。明日がコンクールの予選なんだ」


 琢海さんは弱々しい声でそう教えてくれた。明日というのが今日なのか本当に明日なのかを聞いたら、本当に明日で、ひと眠りしたら電車に乗って都内のホテルに向かうという。前日にはリハーサルがあるのだという。

 晶君はよくやるよ、とぼやく。流石に夜中だからか晶君もいつものパリッとしたシャツは身につけていなくて、ごくシンプルな紺のパジャマを身につけていた。


「琢海さんが出るのは応募者が三百人規模の、割と大きな国際コンクールでな。明日あるのは予備予選で、東京以外にもニューヨーク、ベルリンなんかの都市で、予選までに四十人ぐらいに絞られる。で、セミファイナル、ファイナルだ。上位には賞金や奨励金なんかも出る」

「すごいね。やっぱりベテランのおじさんみたいな人が勝つの?」


 晶君は少し考える。琢海さんは再び練習を始めてしまっているため、ヘッドホンを付けている。流石に邪魔をする気はないらしく、晶君は自力で思い出す。


「いや、あの大会は二十七か八以下だったはずだ」


 有名な大会なのか、晶君はその大会の規模や会場についてを具体的に話してくれる。僕には想像も出来ない、海外との戦いなのだという。


「エントリーはほとんど日本人だが、本当の脅威は海外勢だ。事実歴代の優勝者のほとんどは海外勢だからな」

「もしかして晶君、その大会に出たことがあるの?」

「確か三位だった。賞金は五十万円。国内のコンクールでは破格の賞金だ」


 それは入学費に充てたと、晶君はあっさり言ってのける。僕は唖然として言葉が出ない。目の前にこんな人がいたら、琢海さんも追い詰められても仕方がないだろうと気の毒だ。

 僕は話題を変えて、フロマージュをもらって来たのだと教える。おそらくこのアパートの皆の分あるのだろう。晶君は一心不乱に身体を揺らして演奏する琢海さんを眺めて、食べよう、と言った。おそらくまだまだ終わらないと踏んだのだろう。

 晶君は紅茶も用意しようと、僕と一緒に部屋を出て台所に立った。彼は慣れた手つきでカップを温めたり、砂糖を用意したりしている。


「でも練習している人の横で飲み食いして大丈夫かな」

「そんなもの気にしていたら身が持つまい。俺は夕食、琢海さんの隣でカップラーメンをすすってやった」


 僕は冷蔵庫に、フロマージュどうぞと張り紙をしておく。僕は紅茶だけもらうことにして、晶君の分の皿を用意して、先に部屋に入る。晶君も大きなティーポットに何か頭巾のようなものをかぶせて部屋に持ってきた。


「何その頭巾」

「何ていう名前だっけな。確かティーなんとかだったはずだが、要は保温用だ。それにしても君、頭巾ってことはないだろう」


 中には綿が詰まっていると、晶君は頭巾をぽすぽす叩く。紅茶のための道具は大抵ティーなんとかだということは、言わないでおくことにする。僕は借りていた本を読み切ったことを伝える。

 晶君はオーナーの手法は大体心得ているらしく、まああれだけ暇だったら本の一冊も読めるかと笑った。


 晶君はカップに紅茶を注ぐ。時間が長すぎたのか少し色が濃い。砂糖かミルクか蜂蜜かと聞かれたので、僕は試しに蜂蜜と言ってみる。すると晶君は台所に行って、チューブ蜂蜜を持ってきた。特別な蜂蜜ということはなく、パンに入れたりデザートにかけたり出来る、よく見るタイプのものだ。


「これがなかなか美味しい。ああ、入れ過ぎるなよ。少しで十分だ」


 僕は言われた通りに蜂蜜を入れる。さらさらとした蜂蜜で、思ったよりもたくさん入ってしまう。口に含んで、僕はオーナーの家と同じ紅茶であることに気がつく。ただオーナーの紅茶より多少渋くはあったのだが。

 晶君はフロマージュをスプーンで口に運び、甘夏かと言い当てた。好物なのだという。


「ああそうだ、あれはどうだった。肉体の学校」

「うーん、なかなか胃もたれするというか、やっぱり僕には難しい」


 僕は晶君に本を返すことにする。やはり小説は難しい。大筋はわかっても、本当は何が言いたいかということに、さっぱり見当が付けられなくてモヤモヤする。晶君は少し考えてから紅茶をすする。育ちのせいか顔立ちのせいか、パジャマでも様になる。


「全てを理解したいと思うことは傲慢だと思うし、理解していると思うことも傲慢だ。世の中広い。小説も大体、そんな寒しいものだと思う」


 晶君は、小説に限らず芸術の敷居の高さの一因はこれだと独自の持論を展開する。持論と言っても欠伸交じりに紅茶をすすりながらという、熱の気配のない呟きじみたものである。時計を見ると二時を回るところである。僕も緊張のためか、流石に少し眠い。


「理解のためのメゾットがいつも自分の手の中にあるとは限るまい。それでわからないとブツクサ言うのも、ああ、そのブツクサを他人と共感して喜ぶというのもある意味では、傲慢か」


 眠いのか、晶君の論調は少し厳しい。晶君は自分の論調の厳しさを自覚したのか、いつか理解のためのメゾットが自分の中に整う日も来るのかもしれないと、自分に言い聞かせるように呟いた。

 僕は止まらずにゆらゆら動く琢海さんの背中を見ていた。琢海さんのスウェットは薄手で、肩甲骨の盛り上がる様子が見える。存外たくましい背中である。ピアノの鍵盤を軽々叩くにも、それなりの筋肉が必要ということだろう。晶君もそうなのかと見遣るが、体つきは細く見えた。


「小説、男娼が這い上がる邪魔をしないでくれと希うところがあったろう。俺はあの場面を一番覚えていたから、その小説を君に貸したのだ」


 晶君はどんよりと眠たげな目で紅茶のお代わりを僕のカップに注ぐ。頭巾もどきは仕事をしているようで、未だに注がれた紅茶は温かい。晶君は自分のカップにも紅茶を注ぐ。僕は零すのではないかと心配になった。


「這い上がる為に研鑽する人間を、君は浅ましいと思うかい。生憎俺は研鑽した自覚を得る前に結果がついてきてしまった人間でね」


 晶君はにやりと口の端を歪める。僕は目の前で一心不乱にピアノを弾く琢海さんを見ながら、とても頷くことなど出来ない。


「生粋のサラブレッド様は、発言もふるってらっしゃる」


 僕の皮肉に晶君は腹を抱えて笑う。あんまり腹を抱えて笑うものだから、とうとう琢海さんがヘッドホンを外して僕に事情を聞いてくる。僕はかいつまんで説明する。馬鹿馬鹿しさに怒られるかとも思ったが、琢海さんは純粋な興味で聞いただけのようだった。

 琢海さんは不敵に笑う。昔研人が言っていたのだが、と前置きをして話し始めてくれた。


「あいつはまさしく名実共にサラブレットさ。俺達なんて初めから研鑽の運命にあるって決まっているものだからなあ」


 わかるか? そう聞かれて、僕は首を振るしかない。琢海さんは説明してくれるものだと僕は解説を待ったが、琢海さんは説明するのは興が削がれると言って、またヘッドホンを付けた。晶君はまだやるのかという顔を隠そうともせず、紅茶をすする。


 僕は琢海さんの言葉を考えてみる。晶君はその意味についてわかったみたいで、このアパートでは君だけが毛色が違うという謎のヒントをくれた。

 僕は琢海さんの言う俺達というものは研人さんと琢海さんの二人だけだと思っていたので、由磨さんまで含まれてしまうといよいよ見当が付けられなくなる。初めとはどのはじまりなのだろう。


「寝ないの? あ、僕がここにいるから?」


 僕は晶君の顔を見て、腰を上げながら聞いてみる。しかし晶君は元々眠れそうにないと言う。電気が点いている部屋では眠れない性質らしい。晶君の選択肢には琢海さんを追い出すというものは含まれていないらしい。


「ピアノを弾いていると簡単に夜が明ける。だから分からないでもないんだ」

「本を読んでいて、そんなことにはならないの?」

「ないな。眠さには勝てない。そもそもそれ程続きを知りたいとも思わない」


 晶君は考える素振りも見せずにあっさりと断言する。ピアノを弾くことは結局運動だからだろうか。琢海さんの浮き上がる肩甲骨を眺めながらそんなことを考える。僕達はとうとうポットを空にする。


 結局その日晶君は僕の部屋で寝た。とはいっても僕の部屋のベッドはどう詰めても二人寝られるとは思えなかったので、晶君に布団を持って来てもらって、床で寝てもらう。

 晶くんはさして嫌がる様子もなく、ようやく眠れると気持ち良さそうに目を閉じる。僕は晶君を踏まないように電気を消して布団に潜りこむ。ずしんとパンチの利いた眠気に襲われて、読書で目を酷使したことを今更に自覚する。


「何かを待つと、夜は存外長いのだなあ」


 晶君のまどろんだ声を聞きながら、僕も眠ることにする。長い一日である。


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