ある何もない平和な五月十日
【1】
灰、それもつとめて混じりけのないものが延々と。それがどうも自分の前にだだっ広く、のっぺりと続いているようなのだ。
とはいっても、おそらく果てのない話ではない。ここはニフェなのだから。
ここからシマを抜けて、ずっと向こうのシアルのほうまで歩いていけば、そのうち僕は海の色をした海の前に出る。
海を青いというと、僕はオーナーにちょっと寒しい目をされるから、だから僕は、海は海色なのだよと思うことにしている。
オーナーとは僕のバイト先のオーナーだ。彼は飛びぬけて素晴らしい感性の持ち主である。
「君、青と決めたらもう君は、海の色について考えなくなるだろう。それはとても勿体ないことなのだよ」
オーナーはそう言って仙人の目をする。彼は街中に住まいを構えてはいるが、僕にとっては山の中に住んでいる仙人である。
僕がニフェならその周辺はシマで、ずっと向こうはシアル。そう謎の言語を教えてくれたのは、隣の部屋の研人さんだ。
研人さんは今はまだ僕達と同じ人間だが、その内彼もきっと仙人になる。その証拠に、彼はシアルにニフェといった意味のわからない言葉を使う。僕はそう思っていて、時々少し淋しくなる。
僕の前には灰があったが、しかしそれが灰色をしていると教えてくれたのは、研人さんの隣の部屋の晶君だ。
晶君は研人さんの後輩で、そして彼の背中からもまた仙人の香りがする。卓越の、留まってくれない人達の発するあの薫香だ。
「なあおい。もしここに道があったら、迷わず歩くことはできるかい」
広がっている灰に眩暈を起こしながら振り向くと、そこには晶君が立っている。色が白く指の長い、目の中に黒い刃物を持っている晶君だ。
黒と白の間だから、その間は灰になる。僕は晶君を使って、広がる空間をそう認識していた。
晶君はぼんやりと、灰のどこかに白い指を一本向ける。僕は目を凝らす。しかし灰の中にはなにも見いだせない。
晶君は肩を竦める。そうしていると晶君もだんだん黒と白のマーブルで出来た灰色になってくる。一方の僕は僕自身を見ることが出来ないから、僕は自分が灰色かどうか、見当が付けられない。
そんなことより話は変わるが、実際問題、僕は今日食事を摂らなければいけない。それはなにも今日に限った話ではなく、おそらく明日もそうである。
だから僕はのっぺりした灰を頭から追い出して身支度をする。いい大人なのだ。そんなことにかまけている時間はない。
大人。また話は変わるが、大人になれば髭は濃くなるものだと思っていたが、僕の髭はあまり濃くならない。鏡の中の僕がちょっととぼけた顔をして、産毛のような髭に刃を当てている。
それとも僕は、まだ大人じゃないというのだろうか。僕は時々自分の部屋の鏡を覗いては、こうして密かに首を傾げる。
いい加減に朝食を摂らないと、朝の授業に遅刻する。僕は故郷から遠く離れた大学に通う学生であった。
僕が住んでいるのは、みんなで一つの台所を共有する共同アパートなので、部屋を出てすぐのところにある、台所の隣の冷蔵庫を漁る。漁るといっても自分で入れた食材しか使わないが。
冷蔵庫を開けると、鶏卵が一つ、ハムの塊がほんの少し、食パンが二切れ。あと、昨日バイト先でオーナーから、野菜も食べなさいと大きなトマトを一つもらっている。
僕はパンをザクザクに千切って、溶いた卵と混ぜると、そのままゴロゴロに切ったベーコンと一緒に、全部を一息に鉄製フライパンにぶち込んだ。
朝食の極意は、さっさと適当につくったものを、ちゃっちゃとかきこむことにあると、僕は長い一人暮らしで悟っている。
熱いうちに食べれば世の中の八割のものは、なんでも美味しいのだと、研人さんのお墨付きももらっている。ちなみに残りの二割はアイスだ。
皿に盛ると皿の分の後片付けが増えるから、もうフライパンから直接食べる。部屋に戻って机の上に鍋敷きをひいて掻きこむ。大した量でもない。
ベーコンから出た油でパンがサクサクに仕上がって、そこに半熟卵がとろっと滋味を加える。トマトは洗ってそのまま丸かじりだ。
僕はドレッシングを使わない。その前にそもそも持っていない。サラダなら適当に白ゴマでも振って食べればプチプチ香ばしくて、それで十分美味しいと思う。
トマトを半分ぐらいかじったところで、上の部屋の由磨さんが起きだした気配がした。由磨さんは起きるとなによりも先にラジオのスイッチを入れ、それから朝のあれこれを始める。
由磨さんは三十になったばかりの、気のいいお姉さんだ。僕はもちろん朝の由磨さんの部屋にいたことはないが、僕の住むアパートは今時恐ろしく壁が薄く、あらゆる音が筒抜けなのだ。
由磨さんは窓を開けたらしく、ラジオの音が鮮明になる。五月十日、水曜日。天気は快晴、西寄りの風が少し強いでしょう。
僕も立ち上がって少し窓を開ける。僕の部屋の窓はちょっと立て付けが悪くて、なんだかガシャガシャ音がする。硝子が抜け落ちやしないかと、窓の留め具が少し心配になる。
「おはよう結希君。いやあね、今日も暑くなりそう」
僕が留め具をいじっているとそう声をかけられる。窓から顔を少し出して仰ぎ見ると、上の窓からやや上半身を乗り出して由磨さんがこちらに向けて手を振ってくれた。
窓と窓との距離は近く、振られている由磨さんの長い手がひらひら窓枠から見え隠れしている。僕はトマトを飲み込んで、おはようございますと挨拶をする。それから立ちあがって廊下に出て、タワシでざかざかフライパンを洗う。水が冷たくて気分がよくなる。
なにもかも全部合わせても十畳少ししかない部屋だから、部屋から出て洗いものをしていても、由磨さんのところのラジオが聞こえる。
ちなみにそのラジオは由磨さんのお手製で、鉱石ラジオというらしい。僕は実物を見たことがないので、その正体について見当が付けられない。
由磨さんの部屋のおそらく窓際に置かれたラジオ。きりっと透明な水晶みたいなものがどんと鎮座して、それが毎日僕や由磨さんに天気を教えてくれているのだろうか。
フライパンを洗い終わった頃、部屋から研人さんが出て来る。研人さんは眠っていたわけではないらしい。
目の下に隈ができていて、不精髭も生やし放題だ。大学院生の研人さんは頻繁にこんな姿でふらふらアパート内を歩いているのを見る。
「おはようございます。今日は発表ですか? 論文ですか?」
「ああ、おお。おはよう。そうだな。どっちだったか……」
研人さんはそんなとんちんかんな返事を返しながら冷蔵庫を見る。しかしなにも入っていないらしくすぐにドアを閉めて、それから淋しそうに洗ったばかりのフライパンを見た。そんな目で見られたってもう遅い。
そうしていると廊下に晶君が出て来て、僕と研人さんに挨拶をする。初夏らしい薄緑のかっちりしたシャツを着ていて、研人さんと対照的であった。
「先輩、今日のゼミの発表って先輩でしたよね」
「やっぱり俺か……そうか俺か」
研人さんは晶君に薄ぼんやりした返事をしながら、大きな欠伸をひとつする。どうやら研人さんの今日の試練は発表のようだ。
僕はそろそろ登校時間が迫っていたので、その場から一旦部屋を出て支度をする。
くたびれたチェックのシャツ。男子大学生の四人に一人はチェックのシャツだから、これを着れば僕は忍者の如く群れの中に紛れることができる。素晴らしいチェックの効果。少なくとも僕はそう思っている。
鞄を持って廊下に出ると、晶君が研人さんとまだ話していた。
「髭、剃ってきてくださいね。先生が、まただらしがないと小言を」
「君のそれだって既に小言じゃないか」
研人さんが頭を掻きながら、ほら遅刻だよ学部生諸君と、晶君と僕を一緒に玄関まで追いたてる。
薄暗い玄関を出ると、かっと太陽が照りつけていて、僕らはフライパンの色をしたアスファルトの上で、こんがり太陽に焼き色を付けられた。
晶君が暑さに息を詰まらせてうつむく。色素の薄い弱そうな色の肌に光が当たって、血管どころか骨まで透けるんじゃないかと心配になる。
うんざりした顔で晶君は歩き始める。外に出ても由磨さんのところのラジオが聞こえた。
「今日も暑いんだろうな。学校はいいが、バイト先が」
「あの窯の前は辛いだろうね。僕は逆に学校が辛いかな」
晶君や研人さんのいる工学部は新校舎なのでクーラーが効くが、僕がいる教育学部の校舎は古いため、クーラーの効きがすこぶる悪い。しかし反対にバイト先になると逆転する。
おそらく蒸して暑いだろう授業の様子を想像していると、由磨さんのラジオが僕の星座を占ってくれるのが聞こえた。
ふたご座、今日のラッキーカラーは空色。では今日も一日、行ってらっしゃい。
ラジオが僕を見送ってくれる。僕は由磨さんとラジオに行ってきますと言って、立て付けの悪い玄関の扉を閉めた。
広がる空色、じゃあ今日は一日ラッキーに違いない。そう思うことにする。
良いことだけ信じればいいのだ。そうすれば少なくとも、思っている間は良い気分になれる。そう思うことにする。
【2】
午後の授業が終わると、僕はそのままバイト先に向かう。するとゼミが終わったらしい晶君と研人さんがそろってバスを待っていた。
僕達のバイト先は同じ地区にあるため、こんな遭遇は珍しいことではない。
研人さんは発表疲れのためかずいぶんふらふらしていて、バスに乗るや否やいびきをかいて眠ってしまった。バイトは大丈夫なのだろうかと僕まで心配になる。
一方の晶君は本を読みながら僕と話すという器用なことをやってのける。僕が読書中の彼の邪魔をしているわけではなく、彼が僕にあれこれ話しかけてくるのだ。
彼が僕に話すのは主に読んでいる本の内容であることが多かったが、僕は別段本に詳しいわけでもない。こんな返事で大丈夫かと内心で心配しながら、僕は彼の言葉のあれこれに相槌を打った。
「今読んでいるのは、そうだな、人間が死ぬ話だ。正確に言うと、主人公が」
「うん。あれ、この前話してくれたのもそんな話じゃなかったかい」
僕が会話の内容を覚えていたことが嬉しかったようで、晶君は少しゆっくり頷く。
バスは市営病院のロータリーで緩く弧を描き、それに合わせて研人さんが窓に顔をぶつけていた。研人さんは薄く目を開けて場所を確認すると、まだ大丈夫と判断したのか、溜息をつきながら再び目を閉じた。
「そう。どうもそれが最近のトレンドらしい。全く理解が及ばないよ」
「なのに読むんですか。前読んだのがそうなら、今読むのは二回目でしょう」
「ああ、そうだ。全く俺はどうかしている。だが作家だってどうにかしているよ。みんなどうして同じことばかりを」
自分で自分のことを笑った晶君の横で、研人さんが続けて二回頭をぶつけ、観念したように目を開く。それからぼそりと、だいたいそんなもんさ、とわかるようなわからないような適当な相槌を打った。
晶君は鞄の中に本をしまう。晶君は僕が判断するに読書家であったが、栞の類を使ったところを見たことがない。以前使わないのかと聞いたことがあったが、なくしてしまうから邪魔なのだというよくわからない返事が返って来た。
晶君は本をしまってペットボトルを取り出すと、少しだけ飲んでからまたしまい、少しうんざりした様子で小声で言った。
「ああそうだった。作家というのも芸術家だった」
研人さんも僕も返事をしなかった。僕は研人さんがまたよくわからない相槌を打つのを待っていただけだったが、研人さんは口元を小さく開いて閉じるという動作をするだけだった。
バスを降りた目の前の飴細工屋が晶君のバイト先で、それから奥に進んだところにある高い煙突のついた工場が研人さんのバイト先の菓子工場だ。
僕のバイト先はそこからさらに進んで、緩やかな坂を登って下って、そこから急な坂を登った先にある大きな工房棟だ。
雑に塗られた白壁の建物だが、オーナー曰くのデザインらしい。そういったものの理解に必要な芸術センスの類を、僕は爪の先ほども持ち合わせていない。にも関わらず僕が芸術家の集まるような場所でバイトをしているのは、晶君の紹介で割が良かったからだ。
時給千五十円で簡単な事務の仕事と会計、売店と受付を兼ねているので各種グッズの販売だけ。芸術センスの必要がないのもポイントだ。
もともとはオーナーが晶君に持ちかけたバイトであった。詳しいことは聞いていなかったが、オーナーと晶君は血縁者で、僕らが住んでいる共同アパートもオーナーの持っているもののひとつであった。
そしてバイトの話に戻るが、その割のいいバイトを晶君は断固拒否して僕に譲った。正確に言うなら僕が引き受けるつもりでいた時給七百五十円で重労働の飴細工屋のバイトと交換する形で、僕に工房棟のバイトを押し付けた。
「こんにちは、代わりますね」
工房棟のエントランスに入り、正面の受付にいたおばちゃんに声をかける。
おばちゃんは僕が来るまで受け付けに座っているパートのおばちゃんだ。
おばちゃんが立ち去ると僕は机の下から自分のエプロンを取り出す。何の印字もない灰色のエプロン。灰色と言うと一階の絵画工房の人達に怒られる。
ほのかに温かみのある灰色。以前小難しい色名を解説されたことがあるが、微塵も興味が持てなかったので、ねずみ色と呼ぶことで妥協してもらったことがある。
そんな絵画工房の面々は絵画教室もやっているが、主な仕事は美術品全般の修繕の仕事で、温度湿度が細かく調整されたそれぞれの部屋で閉じ籠って仕事をしている。
僕の仕事には客を彼らに取り次ぐことも含まれていた。
「おお、来ていたか結希。今日もごくろうさま」
一階の隅の部屋からオーナーが出て来る。白ひげの七十歳、年齢の割にしゃっきり背筋の伸びた元気のいいおじいさんだ。
おじいさんと言っても彼は絵画の巨匠らしく、それで得た財を彼の持つ建物のあれこれに使っていると僕は晶君に紹介されている。
彼は後進の育成というものに力を入れていて、アパートも工房棟もそのためのものだった。
アパート二階の由磨さん達もその後進の代表で、由磨さんは工房棟二階の硝子工房のスタッフだ。
達と言ったのは、由磨さんの部屋の隣には音大に通う彼女の弟が住んでいて、彼もまた工房棟の一員であった。
彼は工房棟三階のピアノ教室で日々ピアノの腕を磨いては、教師陣に罵倒され、休み時間にしょげた様子でエントランスに休みに降りて来る。
「ここのところ暑いな。二階の連中が可哀相になる」
「硝子工房は閉め切りですしね。声かけに少し部屋に入っただけで僕もむせそうになって」
「由磨なんてここのところ見るたびにやつれて部屋から出て来てなあ」
オーナーは豪快に笑う。暑いと言いながらオーナーはこの暑さを微塵も気にしている様子はない。七十にもなって元気なものだ。
そんなオーナーは売店の売り物の金平糖を頼む。彼は大の甘党で、ここで金平糖を買って行くのはそう珍しいことではない。
この金平糖は晶君のところでつくられたもので、それを二階の硝子工房のスタッフが作った、ひとつひとつデザインの異なる瓶に入れて売っている。
オーナーが取ったのは、その中でも細工が少ない透明なフラスコ型の瓶だ。僕はレジを打ってオーナーの選んだ瓶を渡す。
「晶は元気か。あいつ大学が始まったらますます顔を見せに来なくなった」
「今日も途中まで一緒でしたよ。特に身体を壊したという話はないですが」
オーナーは白い豊かな髭を手櫛を入れるように擦りながら、年相応に溜息をついた。
晶君は工房棟が嫌いと公言してはばからず、最後に来たのは僕を工房棟に案内する時で、その時でさえ工房棟に入ろうとしなかった。
「芸術家を見ると、虫酸が走る心地だというのは、今でも変わりないか」
オーナーの問いに、僕は曖昧に頷くことで答える。
ちょうど一か月前、春の桜が散り始めた頃だろうか。彼は工房棟の前で出迎えたオーナーに、いつもの調子でそう静かに言ったのを僕は覚えている。
虫酸が走るという激しい言葉を言う割に、彼に取り乱す様子もなかった。晶君や研人さんが学科で扱うような小難しい数式を読み上げるような調子だった。
オーナーもオーナーで、すばらしい歌曲に拍手をするような様子で鷹揚に笑って手を叩いていた。
僕には彼らのような仙人達の思考回路がこれっぽっちもわからない。何故彼は芸術が嫌いなのか、何故オーナーは手を叩くのか、何故僕は二人のいる隅のほうでぼんやりしているのか。
オーナーがお気に入りの鼻歌を歌いながら引き上げると入れ替わるように、意気消沈した琢海さんが階段から降りてきた。
彼は楽譜を片手に眉間のしわを揉みほぐしながら僕に百二十円を渡して、サイダーと小さく呟いた。その様子は子供のようであったが、彼は研人さんと同じ年だということを僕は忘れない。
僕は売店の横のボックスからペットボトルのサイダーを出して渡す。彼はそれを受け取って売店脇のベンチに座ると、夏らしくごくごくとそれを飲んだ。
汗をかいているペットボトルから一滴水が垂れて、筋張った琢海さんの腕に跡をつけた。白壁のぼんやりした反射光を受けて、ペットボトルが銀色に光る。
琢海さんは、いつも決まってここに座ると、聞いてくれるかいと前置きをして、僕に話しかけてくれる。僕は首を振る彫刻になる。
晶君は芸術が嫌いと言うが、僕にはそもそも芸術がなんなのかもよくわからない。
僕にとって工房棟を構成する大抵のものが、好きや嫌いの外側にある。だけれども僕は彼の話を聞く。何一つわかることはないのだが。
「最近、というか、最近に始まったことじゃないんだけどさ、はは、駄目なんだよなあ。本当。やってもやってもなあ」
ペットボトルから滴が垂れて、楽譜に落ちる。大丈夫かと気になったが、楽譜はもうカラフルな書き込みでいっぱいで、既に汚かった。
書き込みは水に濡れても滲むことはない。僕は音符の羅列ではなくその滴が楽譜に線を描くのを黙って眺めながら、言葉の続きを待った。
とは言っても琢海さんの言葉は毎日変わり映えしない。毎日同じように煩悶を繰り返してはピアノの前に座り、部屋に帰ってまたピアノを弾き、そして次の日にまた煩悶するのだ。
「これだけ書き込んで弾きこんで。それでも完成には程遠い。やった証としてこうして書き込みは残るのに、俺にはなにも残ってなどいないのだよ」
どうして、どうして。彼は仙人ではなく此方の人間であるのに、しかし彼は僕に背中を向けて、仙人のほうに行こうとする。そこに地面などありもしないのに。
そうしてその内、僕に聞かしていることも忘れて、苦悩に沈みながら階段を登っていくのだ。
僕はここに来る度に、彼の背中ばかりを見る。なにか声をかけてみようかとも思ったが、かける言葉なぞ端から持ちあわせになかった。
「毎日、毎日あんな調子よ。その内私より先に干からびて死んじゃうんじゃないかしら。というか私のほうが気が狂いそう」
いやあね。そう言いながら、今度は二階の硝子工房から汗まみれの由磨さんが降りて来る。そして弟と同じようにサイダーを頼む。
由磨さんは余程暑いらしく、着ていた長袖を脱いでタンクトップ一枚になった。
火の前では肌を出すほうが照り返しで辛いと、以前聞いていた。由磨さんは吹きガラスではなく、机上のバーナーで細かい細工ものを製作しているが、長袖を着ているのは吹きガラスのスタッフも同じである。
由磨さんはサイダーを受け取ると、琢海さんと同じようにベンチに座って、喉を鳴らしてそれを飲んだ。
こうして皆が美味しそうに飲んでいるから僕まで飲みたくなるが、僕は炭酸が飲めない。全く飲めないわけではないが、彼らのように一気に飲んだら、こめかみがぴりぴりしてしまう。
「学校でもピアノ弾いて、駄目で叱られて。ここでも駄目で。何が楽しいのか、私にはさっぱり分からないわね。仮にピアニストになれても、それはもう一生苦しいんでしょう。あの調子なら」
由磨さんはそう言って大きく伸びをする。髪を括った項から汗が垂れて、ラインを流れて胸元まで落ちる。タンクトップのオレンジが少し濃くなる。僕はそれを見ていた。
由磨さんはこれから来る新規の教室の客を待っているらしく、悠長にサイダーを飲み続けていた。
「結希君もごくろうさま。毎日毎日あんなの聞いて、気が滅入るでしょう」
「いいんです。ここでもなきゃ、聞けないでしょう、こういう話は」
僕は我慢できずに紙パックのオレンジジュースを出して、レジに百円を入れる。よく冷えたジュースは甘くて酸っぱくて、腹に流れ落ちる度に、僕は喉に通っている一本の管を意識する。
「これでも毎日言ってはいるのよ。どうしようもないことってあるのよって」
由磨さんは爽やかに笑いながら残酷な話をする。僕はそれを微笑んで聞く。その言葉は僕の中に水のように染み込む。全くそうなのだ。僕は内心で満足する。そう思うことにする。
そして僕は想像する。毎日由磨さんから真理の言葉を贈られている、琢海さんを。
怒られて叱られて、毎日自分の無力さを自覚して帰宅する琢海さん。由磨さんが用意する温かい食事を食べて、そしてデザートに放られる残酷な言葉を、毎日咀嚼するその様を。
僕は自分の口元が少し上がるのを自覚する。不自然にならないように、僕は由磨さんの言葉に添うようにほんの少し首を傾げて頷く。
由磨さんが待っていたのは学生のカップルで、ひどい言葉を吐いた直後とは思えないほど愛想よく、彼女は二人を二階に案内していった。
僕ははにかみながら彼女の後に続く二人の背中に、ごゆっくりと声をかける。それから僕は彼らのすぐ後に工房棟の見学に来た女子大生のグループの対応に追われることになった。