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メビウス・リングによって破壊されたエンゲージ・デバイスのシステム修復を終えると同時、俺は地下室へと近づいてくる足音がするのに気が付いた。
カツ、カツと。階段を下りてきているのだろう足音が、段々と明瞭になってくる。足音は入口の扉の前で止まり、一瞬の静けさが室内にも伝わってきた直後、今度は扉が開く音がした。
俺は特にそちらを見ることもせず、PCのモニターを眺めながら「おかえり、イヴ」とだけ口にした。あとほんの数秒で俺の個人的な作業もきりのいいところまで終わる。これが終わったらすぐにパトリオットと顔を合わせ、今後の行動計画を立てていかなくてはならない。やることは山積している。
考え込むほどに頭は重くなる。
一度伸びをしようと腕を上げた、その時だった。
「――大変なことが起きた」
背後からのイヴ声。俺はそこで初めて首を背後へと回し、イヴを見た。
無事にオリオンを討伐し、メビウス・リングの追跡から生きて帰れたというのに、イヴの顔には緊張が張り付いていた。まるで悪夢から目覚めたばかりかのように顔は青ざめ、体は震えている。
「どうしたんだよ……。何があった?」
「とりあえず外に来て。パトリオットと三人で話したい」
「………………」
ただ事ではない雰囲気。ここで問答しているのも煩わしいと言いたげなイヴの顔を見て、俺は何も言わずに椅子から腰を上げた。
イヴは俺が立ち上がるやいなや踵を返し、俺を先導するように部屋から出て、地上へと続く階段を上がっていく。俺も後ろをついて歩き、イヴに続いて地上へと出る。
外はまだ明るかった。空は俺がこの世界に来た時と何も変わらず、澄み切った青を漂わせ、先ほどまでの濃密な時間が如何に短い間の出来事であったかを伝える。オリオンとの戦いをイヴの視界を通じてモニタリングしていたとは言え、実際に外の景色を見ると、今日がまだまだ長い一日になりそうだという事実にどっと疲れが湧いてきそうなものだったが――
しかし。
地上に出たすぐ先で俺を出迎えたのは――エクス・マキナ。その名は聞くまでもない。
「こいつが……パトリオット……」
オリオン、メビウス・リングを既に見ていたとは言っても、直に目にするのは初めてのエクス・マキナ。
感動で肉体の疲れなど吹き飛んだ。
真紅に染め上げられた美しい金属光沢が陽光を浴びて輝く。走力、跳躍力ともに俊敏性に長けているであろうことが予想される細身のシルエット。くびれた胴部から伸びる二本の腕にはスナイパーライフルと長剣を携え、肩部にはアンテナのような巨大な針状のパーツが顔を覗かせている。頭部はまるで西洋甲冑のフルプレート。まさに――騎士。
俺はその造形に見蕩れ、呆けた顔でビル程もあるパトリオットを見上げていた。
『初めまして、ハック。貴君への非礼、改めて謝罪する。そして、歓迎しよう。我が主、イヴが求めた救世主。革命を共にする、同志よ』
パトリオットは直立の体制から膝を折り、俺の目の前で片膝を着いて頭を垂れた。
……本当に騎士だ、こいつ……。
「――かっこいい! 最高だアンタ! いやパトリオット様! こんな感動に出会えるとは俺の人生は最高だあああああああああああああ!」
なぜだ……涙が出てくる……。
二足歩行ロボットは実現できても走行や跳躍はできないと言われていてあっちの世界なんてただのクソ現実だったんだ。
パトリオットの存在は、人生まで引きこもりモードだった俺の人生に差した一筋の希望。俺の生きる意味だと言ってもいい!
『貴君、その言葉は私を仲間として認めてもらえたと受け取って問題ないか』
「ぜんっぜん問題ないね! これからよろしく頼む!」
『こちらこそ。貴君が望むフランクなコミュニケーションというものには時間がかかるだろうが、そこは大目に見て頂きたい』
「いやいやむしろ今の感じが丁度いいんじゃねえか!? 俺は既に、お前のことを最高に愛してるぜ?」
『そうか。良き仲間になれそうだ、ハック』
「激しく同感だ! イヴ、いい仲間を持った……な……?」
イヴが俺を半眼で睨んでいた。そのような目を向けられる覚えはない。どうしたというのだろうか。俺とパトリオットの魂の共鳴とも呼べる最高の出会いに、イヴも喜んでくれるはずだと思ったのに……。
「ハック、私と出会ったときは、そんなリアクションしなかった」
「……へ?」
「私には話し方変えろって、言った」
「へ?」
「私の時とは、全然テンション違う!」
「……えっと」
どういうこと? 何? もしかして嫉妬? いやいやまさか。でも、確実に怒ってらっしゃるような気がする……。
「なあ、パトリオット。これ、どういうこと?」
『解析不能。私もこのような主は初めてだ』
パトリオットに耳打ちするように語りかけたが、パトリオットの声は俺の遥か頭上から発せられているせいで、全くひそひそ話にならない。イヴに筒抜けだった。
「別にいいけど!」
「……なんかよくわかんねえけど、俺が何を言うまでも無く、お前は今みたいな感じでいいんじゃねえか?」
「――え?」
「人間らしいっていうかさ、それがお前自身なんだろ? お前には感情がある。だから、戦うんだろう?」
一人の、人間として。
イヴは自分のことを、サイボーグだと言った。俺はイヴの戦う姿を見て、本当にそうだと思った。
でも、違う。
イヴは人間だ。
明確な意志と、感情がある。プログラムでも、コマンドでもない。自分の心が、自分を突き動かしているはずなのだ。
「なりふり構うなよ。心を殺すな。俺はお前の心に――意志に賛同した人間だ。今みたいに、らしくいこうぜ」
『我が主、私に心を授けてくださったのはあなたです。あなたの意志に従いて、共に歩みます』
「……ありが、とう」
イヴは目の端に涙を溜めて言う。その心に何を抱いているのかはわからない。だが、わからないから面白い。知りたくなる。もっと――
「大体、何を急に怒り出したんだよ。俺はパトリオットの見目麗しい姿に感動していただけなのに――」
「――いいから! 本題に入るよ!?」
「……お、おう」
頬を赤らめて俺の言葉を制すイヴの気迫に気圧され、俺は口を閉じた。
「パトリオット、さっきの件、お願い」
『了解』
イヴの目配せを受けて、パトリオットは片膝を着いたままの姿勢で右腕を俺に差し出すように腕を伸ばし、その先から俺の足元の地面にある映像を投射した。
その映像の中には、俺が今見ている風景と大差ない、崩壊寸前のビル群や、黒煙が至る所から上がっている、殺伐とした景色があった。こんなものを見せて何のつもりだと思ったが――
「パトリオット、今のところ、巻き戻せ」
映像はきっと、パトリオットの視点が記録されているものだろう。崩れかけのビルの合間を高速で飛び交う視点に、俺は酔いそうになりながらも目を凝らす。
『了解』
映像が巻き戻り、再度、高速で移動するパトリオットが見ている視点が映し出される。その中に一瞬、小さな影が映り込んでいる。
「巻き戻して今のところで止めろ。最大解像度で映し出せ」
映像が再び巻き戻り、影が映り込んだ瞬間の場面で、一時停止する。
「……ハック、どう思う?」
イヴは俺に問いかける。しかし、具体的な解答を出せる訳がない。本当にただの影が映り込んでいるだけなのだ。
「どう思うって、これ、俺たち以外の何かだろう?」
そう。俺たち以外の『何か』。何者かは断定できない。
「私もパトリオットも、この時、エクス・マキナの反応は感知してないの」
「なら……」
「うん。人間の可能性がある」
「人間、か……。人間かどうかは解析できたりしてないのか?」
「もちろん試みた。でも、生体反応も人間とは異なる」
「エクス・マキナでも人間でもない何か……。それはこの世界にあり得る存在なのか?」
「どういう意味?」
イヴは小首を傾げ、きょとんした目で俺を見る。
この疑問をどう説明したらいいものかと、俺は言葉を思うがままに並べ立てた。
「俺からしてみれば、この世界の技術は魔法かよって思うくらいに発達してる。俺がいた世界よりハッキングやらもしやすいし、まるで機械が俺の意思を読み取って動いているかのような不気味さまで感じるくらいだ。パトリオットもいるし、まるでファンタジーだよ、ここは。ファンタジーって言葉の響きが似合わない殺伐した光景にはなっちまってるが、この世界に魔法の類が存在すると言われても俺は信じることができる。だから、人間やエクス・マキナ以外の知的生命体が存在しても驚かない。しかし、そんなものは存在しない、あり得ないというなら話は別。この映像に映り込んだ何者かは、イヴやパトリオット、俺の常識の外にある存在ということになる。……そこで、実際どうなんだ? この世界には、俺たち以外の知的生命体が存在するのか?」
イヴは目を伏せながら思案する。俺の問いの意味を反芻し、何者かの存在の可能性を――
「存在する――かもしれない」
「かもしれない?」
イヴは頷き、そして言う。
「まだ人間がこの世界の統治者であった頃、暴走を始めるエクス・マキナたちに対抗しようとした人類が、新たな生命を作り出そうとしていたって、聞いたことがある」
「新たな……生命?」
「人間を素体とした、生体兵器」
「………………」
人間を素体とした、生体兵器。
――待て。似たような話を見た気がする。
そうだ。オリオン討伐のために仕掛けたオメガ・システムへのハッキングの際、俺はファンファーレ共がやってきた人類への仕打ちの一部を垣間見た。その中に、人間を利用した『生体エクス・マキナ』の実験というものがあったはずだ。
生体兵器という考えは、元は人類から生まれたもの?
なら、ファンファーレ共がやっているのは――
「生体兵器によって生み出された何かが確認された例はない。ただ、噂の域は出ないけど、動物の身体能力を得るためにキメラ化した人間や、超能力を得た人間が存在するというのは聞いたことがある」
「キメラに、超能力……」
本当にあり得るのか?
そうイヴに尋ねようとしたところで、はっとする。
俺の目の前に居る少女は、人の身でありながら、人智を超えた力を持っている。
パトリオットはどうだ?
エクス・マキナという、心を持った機械生命体……。
俺は何を以て、非現実的な可能性を否定する?
「なるほど。イヴ、パトリオット。こんな言葉を知ってるか?」
――百聞は一見に如かず。
不確かな存在についての議論何て意味がない。
「確かめに行こうぜ? 未知は財産。既知として武器とせよ。俺の行動指標の一つだ」
人間を素体とした実験。人類とエクス・マキナの双方が試みた非人道的なその所業の真相、とくとこの目で見させてもらおう。
『貴君、つまり、その未知との接触を図り、ともすれば利用する――と?』
「そうだ。敵なら倒す。敵でないなら味方へつける。物理戦、情報戦共に制するなら、まずは勢力の拡大を図らないといけないだろう?」
「……でも、正体不明のものに接触するのは危険だよ? 準備をしてから――」
「――もうしてある」
俺はイブの言葉を遮り、
「地下室にある全ての機器の機能をエンゲージ・デバイス一つで使えるようにしておいた。つまり、俺はここから離れても、常に最高の環境でお前たちのサポートをすることができるって訳だ。未知との邂逅には俺も同伴する。問題あるか?」
「……問題、ない」
『我が主に同意する』
これでイヴ、パトリオットの了承を得た。
イヴは驚愕と戸惑いに満ちた表情を浮かべていたが、侮ってもらっては困る。元居た世界各国の軍事機密にアクセスしてきた中で、戦争における情報戦の重要性はいやという程に理解している。この映像の中に映り込んだ何者かについて知ることは、ファンファーレ共を出し抜く有力手になり得る情報だ。
そのような情報を得るチャンスが来た時、この地下施設から身動きが取れないようではチーム全体の動きが鈍くなる。それを避けるには、俺がいつでも情報をコントロールできるよう準備をしておく必要があった。
エンゲージ・デバイスのシステム修復と同時に進めていた一仕事。それが、エンゲージ・デバイスの大規模アップデートである。
「三分だけ待っててくれ。地下室で最後の処理をしてくる」
俺はイヴとパトリオットの二人にそう告げて、一人、地下室へと戻った。
メインPCのモニターを見遣り、作業が完了していることを確認する。念のため、エンゲージ・デバイスの動作確認まで試みる。エンゲージ・デバイスの輪っか状の部分をスライドさせ、地下室内の機器にある全ての情報が転送されているか、パイロット・マークを耳に当て、通信機能にも負荷がかかっていないかなど、懸念事項を潰していく。
「……問題ないな」
俺はエンゲージ・デバイスに触れ、手元に浮遊するように現れたホログラフのキーボードを操作する。
――この一手が、後々俺らを助けてくれることを祈って。
地下室を出て、階段を上り、待たせていた二人に「待たせたな」とでも言おうとしたところで、異変に気付く。
「……あれ?」
――――――二人とも、どこ行った?
―異世界でたった一人。
意外に冷静だった。まったく想定していなかった事態でもない。もしもが重なれば、無力な俺がたった一人、この世界に投げ出されることだってあるだろうとは思っていた。
だが、それにしても。
「……突然だな、おい」
冗談にしても笑えないこの状況、どう考えるべきか。
敵の仕業と考えるのが最も無理のない思考だろう。肝心なのは、その『敵』が誰か、である。
ファンファーレ。
存在が断定されていないキメラ。同じく、超能力者。
……でたらめな世界に来てしまったもんだ。機械生命体にキメラ、超能力者という存在があり得るかもしれないという時点で、ただの人間が生存可能な状況を作り出すのは相当に困難だろう。
ただの人間である俺に何ができる?
青と灰色が入り交じる空を見上げて考えた。
俺の武器と言えば、エンゲージ・デバイスと、パイロット・マークのみ。
体力に期待はできない。腕力、脚力も問題外。おまけに寝不足。
――ああ、普段と何も変わらねえじゃねえか。
デバイスさせあれば問題ない。俺は俺にできることをするだけ。
手始めに。
俺はエンゲージ・デバイスとパイロット・マークを起動させ、イヴの五感リンクに接続できるかを試した。
エンゲージ・デバイスから細線状の光が眼前に射出され、長方形のホログラフが浮かび上がる。青白い光を放つウィンドウをタッチで操作し、パイロット・マークにリンク――イヴの視点が映し出せるかどうかを確認する。
しかし、ウィンドウは即座に暗転。
……嫌な予感しかしない。
イヴが俺からの通信を拒絶するのはおかしい。例えイヴの意思で俺からのアクセスを拒絶していようがそんなものは力技でこじ開けることができる。
しかし、それができない。
俺が眺めるウィンドウには、イヴの五感リンクそのものが存在していないというメッセージが表示されている。このメッセージを鵜呑みにするならば、イヴ自身が存在していないということになるのだ。
なら、パトリオットは――と、考えたが、ここで初めて、己の失敗に気付く。
パトリオットとは、イヴの五感リンクのようなプライベートチャンネルを構築をしていなかった。オリオン討伐戦ではパトリオットのビジュアルイメージを俺が勝手に作り上げて使っていただけで、視界共有まではできていない……。音声のみのやり取りはできたが、それもエンゲージ・デバイスによって共有されているネットワークを介してのみだ。
……いや、待て。
エンゲージ・デバイスの管理者権限をイヴから奪えば、俺からパトリオットにチャンネルを開設することができる?
しかし、イヴへのアクセスの全てが遮断されている状況でどうやって?
考えろ。
俺からのアクセスのみが遮断されているのだと仮定すればどうだ?
暗転したホログラフを睨みつけて思案する。
俺以外にイヴへのアクセス権限を持つ者ならば――
――突如として降りかかる、頭上からの不自然な風切り音。
天を仰ぎ見るようにして目線を上げると同時、頭上の『何か』の影が、俺に重なる。
『何か』。
俺には、その正体は少女にしか見えなかった。逆光でその容姿の細部までは見て取れない。シルエットのみが目に映し出される中でただただ異様だったのは――その右腕だった。
振りかぶるように掲げられているその右腕の大きさ、姿形の全てが異様だった。
まるで強化外骨格。エクス・マキナの腕部だけを人間が取ってつけたような――
……人間!?
スロー再生の映像を見せられていたのではないかと錯覚するほどに、人間を思わせるシルエットを視認した瞬間に思考が急加速を始め、体は反射を働かせた。
振り下ろされる飛来者の剛腕。
左方向へと跳んだ俺が倒れながらも目にしたのは、ほんの数瞬前まで立っていた場所にクレーターが出来上がるという光景だった。
クレーターは広さではなく深さを持ち、半径で言えば一メートル程。威力を一点に集中させていることが窺える、無駄の無い破壊。その円内に全ての力が凝縮されていたのだと思うと、俺が避けきれていなかった場合の惨状はスクラップどころでは済まなかったはずだ。
目の前の緊急事態に青ざめながら、受け身を取れるわけもない俺は二転びしてなんとかその場に立ち上がる。
視点が普段の高さに戻り、飛来した襲撃者を捉えようと――したところで既に見当たらない。
上空からの襲撃が失敗した者が次に考えるのは……?
――勘が外れていたら死んでいた。
咄嗟に屈んだ俺の頭のすぐ上を、巨大な鉄塊――武骨な右腕が通過していった。
敵は背後を取るはずだという直感が働かなければ今頃は首と胴が離別してことだろう。この襲撃者、躊躇なく俺を殺しにきている。
だが、なぜここまで接近する必要があった?
エクス・マキナならミサイル一発……。いや、ライフル一発でも俺を仕留められていただろう。
俺にここまで近づいた理由は?
銃撃ができないからだ。
体の大きさは?
人間の、女の子くらいだ。
――瞬間の中。
変に頭は冴えていた。
次の手はどうくる? 屈んだ俺の態勢を見て、常に死角から襲撃しようとしている相手ならどう出る?
距離は取らないはずだ。俺が次の動作に移るための時間を与えることになる……。俺の頭上を掠めていった巨大な拳を、振り下ろす方が早い……はず!
「――――――あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
俺は屈んだ態勢のまま一気に地面を蹴り、後ろへと跳びながら身を捩る。背後にいるはずであろう者に抱き付くようにして――突進。
柔らかい感触が顔に伝わってきた直後、体が地面へと倒れ込む感覚が続く。
目を瞑っていたせいで状況はまるで理解できていないが、生きていることだけは確かだった。
「………………」
恐る恐る、目を開ける。
「……えっと」
俺の下に、女の子が倒れている。女の子の上に、俺が覆いかぶさっている。
女の子は歯噛みした顔を真っ赤に染め上げ、涙目で俺を睨みつけていた。エクス・マキナを連想させる機械仕掛けの右腕は、その自重で地面にめり込んだまま動き出しそうにもない。このまま動かないでいてくれると何よりありがたいのだが、他に物騒なものはないかとその女の子を眺めてみても、巨大な右腕とは対照的に、俺のような貧弱な男にすら抵抗できないであろう華奢な左腕が地面に投げ出されているだけである。
「とりあえず、これ以上攻撃すんな。死ぬから」
「……ふぇ?」
途端に驚愕に目を丸くする少女。おそらく、勘違いしている。
「お前がじゃなくて俺が。俺が死ぬの。マジでこういうの怖いから。やめて」
「……ぇ」
次は俺の言葉が理解できないと言いたげな、不安な顔に表情を歪ませる。しかし、こうして少なからず俺の発した言葉にリアクションがあるということは、意思の疎通ができるということなんじゃないのか?
「会話ができるなら対話を望む。オーケイ?」
「……おーけい」
少女は首肯した。
やっぱり、コミュニケーションを取ることができる……。
しかし、これはどういうことだ。
キメラか超能力者かまでかはわからないが、この女の子が本当に女の子でしたっていうんなら――人類は滅びていない?
――人類は絶滅した。
確かにイヴはそう言った。エクス・マキナによるこの世界の支配が始まってから、人類は滅ぼされたのだと。
なら、俺の目に映るこの少女は何だ? 人類でないと言うのなら、何になる?
「……お前は何者だ」
俺の下になるようにして横たわっている少女に尋ねる。外骨格が武装されている右腕を左手で、女の子らしい細い左腕を右手で抑えながら、俺は尋ねる――少女の正体を。
「こたえる……から……どいて」
俺みたいな奴に抑え込まれているのが余程悔しいのか、少女の顔の赤色は一向に引こうとしない。歯噛みしたままに口元を震わせながら、俺を涙目で睨み続けている。
少女の表情に滲み出る憤怒の赤が紅玉のように映える白い肌。肩までの長さに揃えられた眩い金髪。涙潤む瞳は青。黒のレザー生地のノンスリーブとホットパンツという、漆黒に包まれた容姿の中に散りばめられた色彩に目を惹かれそうになるのを堪え、俺は少女の白眼視と向かい合う。
「さっきまで俺を殴り殺そうとしていた奴の言うことが聞けるかよ。このままで答えろ」
「いや」
「………………」
俺が手を離した瞬間に逃げようって魂胆が見え見えだ。こいつはさっき、瞬きの間で俺の視界から消えて見せた。つまりは、俺の拘束さえなければ簡単に逃げられるってことだ。
……させるかよ。
イヴとパトリオットを探す手がかりはこいつが持っているはずなんだ。
「ちゃんと……はなす。だから、どいて……。じゃないと……ほかのやつら、くる」
「……他の奴ら?」
「どいて」
少女の顔に焦燥の色が現われてくる。『他の奴ら』という何者かの存在のせいか?
「……わかった。一つだけ先に言っておく。俺を殺せばお前に有益な情報が得られなくなる。逃げても同じだ」
「ころさない。にげない。やくそく、する」
俺は少女の目を見つめて頷き、そっと力を込めていた手をほどいた。
少女は俺の下から這うようにして抜け出し、俺の正面に立つ。俺も、少女と向かい合うように立ち上がる。
少女に俺と争う意思は見られない。逃げようとする様子も。
どうやら、交渉は成立したらしい。まあ、ここで裏切られたら俺は即死だった訳だが……ああ、ほんっと心臓に悪い。
「……俺はハック。お前は?」
――ハル。
彼女はただ一言、名を口にするのみ。
「そうか、ハル。俺はお前と情報を交換したい。俺も知っていることは話す。お前も偽りなく、知っていることを話してくれるか」
「……わかった。でも、じかんがない」
「それは俺も同じだ。場所を変えるぞ」
首肯したハルの手――異形の右腕ではなく、人の腕である左手を引き、生き物の気配のしない街の中を進んでいく。
落ち着いて話せる場所が欲しい。『他の奴ら』というのが何を指すのかはわからないが、これ以上の邪魔が入るのは時間が惜しい。
俺は身を隠すのに都合が良さそうな廃墟を目で探しながら、移動中もハルに語り掛ける。
「ハル、まず聞かせてくれ。どうして俺を襲った?」
「めいれいだった……。えくすまきな、たおすのに、じゃまだった」
「命令? エクス・マキナを倒したいって言うなら、俺と目的は同じじゃねえか」
「……え?」
ハルは間の抜けた声と顔を先導する俺に向けた。
……え? 俺、変なこと言ったか?
「詳細を聞く。そこの建物に入るぞ」
俺はハルの手を引いたまま、ビルの構造がしっかりと残っていた建物に潜り込んだ。ビルの一階部分はガラス張りだったのか、壁面はなく、大きな窓枠のみに囲まれた空間になっていた。ガラスがはめ込まれていないせいで吹き抜けになってしまっているが、崩落の恐れはないだろうと思えるくらいには建物の構造が現存している。
何も無い一階のフロアには二階へと続くエスカレーターのような階段が二つ並んでいた。上りと下りのエスカレーターだろうとは見当がつくのだが、この世界の建造物や街並み、その構造を見るに、俺が居た世界とほとんど変わらないように感じる。
かつての人の営みが見て取れるこの状況、人類が滅ぼされたというのもまだ最近の話か……?
「ハル、あそこから地下に行くぞ」
唯一の壁面にエレベーターの搭乗口らしき場所があり、その横に階下へと伸びる階段が見える。俺とハルがその階段を下って建物の地下部分へと辿り着くと、視界に飛び込んできたのは――
「……駐車、場……?」
いよいよわからなくなった。
超技術がありながら、ここにかつてあったであろう街並みは俺が居た世界とほぼ同等……。
「はっく……どうしたの?」
握っていた俺の手を引っ張り、ハルが言う。
「じかん、ない。じょーほーこうかん、する」
幼さの残る無垢な表情に見つめられ、加速していた思考が止められる。
「……そう、だな。悪い。そこで話そう」
俺とハルは目の前にあったコンクリートの支柱にもたれ掛かるように座り、ようやく腰を据えて話せる状況となった。
「さっきの話だが――ハル、お前の目的はエクス・マキナを倒すことで間違いないんだな?」
俺の問いに、こくこくと頷き返すハル。
「……どういうことだ。どうして同じ目的を持つ俺を襲った?」
ハルは困惑した表情を浮かべ、口元に指をあてながら、子供らしい思案顔で言う。
「はっく……あいつらの、なかまじゃ、ないの?」
「……あいつらって誰だよ」
「ゆにおん、ばーす」
「ユニオン・バース? なんだそりゃ」
「ちょーのーりょくぐんだん。わたしたちの、てき」
「………………」
超能力。
軍団。……軍団ってことはもちろん、一人や二人の規模じゃないはずだ。
だとしたら、やっぱり人類は――
「お前は俺を、そいつらの一人だと思って襲ってきたってことか……。なら、」
――イヴとパトリオットもお前らが?
本題に入る。
聞きたいことはたくさんあるが、今は優先すべきことがある。
「……いぶ? ぱとりおっと? ……たぶん、なかまが、つれてった」
「無事なんだろうな?」
返答によっては臨戦態勢に入らせてもらう。
もちろん物理戦闘じゃきついが……。
ちらとハルの右腕を見遣る。……あれで殴られたら死ぬよな。
「ぶじ。えくすまきなをたおすためのじょうほう、ききたかったから」
「――は?」
何だ?
つまりは、情報が欲しかったってことか?
ハルは言う。
「えくすまきな、たおされてるの……えいぞうで、みた。いぶ、ぱとりおっと、うつってた。だから、つれてった」
言葉足らずだが、ハルの説明から察するに――
倒されたエクス・マキナたちの機体を見て、奴らの討伐のための情報を持つであろうイヴとパトリオットに、ハルたちの仲間から接触があったということ……なのだろう。
パトリオットに見せられた映像に映っていた影。
あれがハルの仲間なのだとすると、俺たちの姿もそいつらに確認されていたわけだ。
つまり俺たちが探そうとしていた相手から接触してきてくれたと――そういうことか。
イヴとパトリオットがどのようにして連れ去られたのかは皆目見当はつかないが、あいつらも意せずして目的を果たしていたということだ。
あとは。
俺の隣にいるこの少女とその組織が――敵となるか、味方となるか。
そして。
人類の生存状況の確認。
「……あいつらが無事ならそれでいい。それで、お前の組織はどういう組織なんだ?」
「ハルたち?」
ハルは小首を傾げて、今さら何を聞くのだと言いたげな様子で俺を見る。
何も脈絡から逸れたことは言っていないつもりだが――
「きめら、だよ?」
「……え?」
「れぼらてぃあ。わたしたちは……、かくめいを、こころざすもの」
ユニオン・バースに、レボラティア。
「この世界には、お前たち二つの勢力と、エクス・マキナたちが存在しているってことだよな?」
ハルは頷く。
この世界に三つ巴の構造が存在している事実を、肯定する。
「お前たちはエクス・マキナを倒したいと、そう言ったよな? なら、どうしてユニオン・バースとかいう連中と争ってるんだ?」
「つぎのせかいのしゅどうけん、どっちがとるか。えくす・まきなをたおしても、たたかいはおわらない」
つまりは覇権争いってことか……。くだらねえ。イヴが聞いたら辟易としちまうだろうな、きっと。そんな奴らに攫われたって事実にも腹を立てているかもしれないが、聞いていて気持ちのいい話じゃない。
「お前らが手を組むっていう発想はねえのかよ」
「――ない」
ハルは言い切った。半ば、俺の言葉を遮るようにして断言する。
「わたしたちはやつらにつくられた。やつらはわたしたちにつくられた。おたがいに、にくみあってる……」
「どういうことだ? キメラが超能力者を生み出したのか?」
「うん。さいしょは、オルテガっていうきめらがつくられた。オルテガはつよい。えくす・まきなたちにきづかれないように、こっそりと、たくさんのえくす・まきなをたおした。オルテガのちから、みんながつかえるようにしようって、みんながオルテガのちをつかって、ちからをつけた。オルテガのちからをつけることができたやつと、ちがうちからをつけたやつ、みんな、ちからがわかれた。さいしょに、オルテガいがいのちからをつけたやつ、ファルデリア。ファルデリアたち、ちがうちからをつけたやつらは、そのちからをつかってあたらしいきめらをつくった。きめらと、ちょーのーりょくしゃが、どんどんふえて、それが」
「それがキメラと超能力者の始まりと……」
うん、とハルは消え入るような声で相槌を打つ。同じ目的を持つ者たちが争う闘争に、思うことがないわけではないのだろう。頭では理解しているんだ、きっと……。おかしなことをやってるって。
ハルの目元に、影が差す。だが、俺にその影を晴らしてやることはできないし、晴らしてやろうとも思わない。
――まだ、こいつの意思を聞いていないからだ。
「で? 一体どうしたいんんだよ、お前は」
「え?」
「俺はエクス・マキナたちを倒す手段を知っている。そのオルテガやらファルデリアとかいう連中とはいがみ合いもしていない。お前の言う次の世界の主導権ってのに一番近いかもしれないぜ?」
「……どうしろって、いうの……?」
ハルは警戒心剥き出しの目で俺を見る。だがそれでいい。俺が出すカード次第で、次の交渉段階に入れるってことだ。
「俺に協力しろ。お前が望む世界を見せてやる。お前、本当はユニオン・バースとも争いたくないんだろう? エクス・マキナだけをさっさと倒して、争いの無い世界にしたいんだろう? 違うか?」
「どうして、そんなこと……」
「話を聞いてりゃわかる。俺を襲ったのも命令だったって言ってたよな、お前。抵抗されたとは言え、どうして俺を殺さなかった? 俺なんか簡単に殺すことができたはずなんだ。大事な命令だったんだろう? どうしてお前はそれを破り、今、こうしてここに俺といるんだ?」
「それは……」
ハルが考えていることはきっとこうだ。
人間同士が争うことはおかしい。でも、ユニオン・バースがいる限り、エクス・マキナたちを倒したとしても、人間同士の争いは終わらない。結局、この世界は『支配』を前提にした力が蔓延っているばかりだ――と。
「言えよ。お前の望みを」
「ハルは……」
己の鋼鉄の右腕を見つめながら、ハルは重たい口を開く。
「――――――私はエクス・マキナを倒したい! 人間と争うことなんてしたくない!」
舌足らずの幼い口調ではなく、意志のこもった、力強い言葉。
この世界で最初に出会ったキメラ――いや、イヴ以外の人間がこいつで、本当によかった。
「なら、すぐにイヴとパトリオットの居場所を教えろ。一緒に世界を変えようぜ?」
立ち上がり、ハルに手を差し出す。
俺の手をじっと見つめるハル。ゆっくりと、その小さな左手を、俺の差し出した手に重ねようと伸ばしてくる。
手と手が重なろうとした、その時――
――地が唸りを上げたかのような轟音が空間に鳴り響いた。
正面の壁に大きな穴が開いたいる。しかし、その奥までみることはできない。灰色の土煙が視界を濁らせている。
「――ハルジオン。こんなところで何してんだ?」
灰色の視界の中から、男の声がする。
靴底が生む乾いた足音。その足音から、声の主がこちらに近づいてきていることがわかる。
「……おい、ハル。お前の知り合いか? 随分と派手な登場だが」
「………………」
「おい、ハル?」
隣のハルは――震えていた。
曇り切った視界のただ一点、足音の中心を見据えたまま、ふるふると肩を揺らしている。
「……ん? お前、あの女の仲間か? もしかして、あの女がオリオンを倒すことができたのは、お前の協力があったからか?」
粉塵が舞う中から現れたのは、金色の髪を逆立てた長身の男。
黒いズボンに、白いシャツというシンプルな服装。胸元が開いたシャツの隙間から除く金色のネックレスだけが、男の風貌に合った派手な色彩だった。
いや、赤い瞳というのも十分に派手だな……。
地下駐車場の暗がりの中、獣のような男の赤い瞳が、怪しく揺らめく。
「答えろよ、人間。――殺すぞ?」
……偉そうに。
こんなのがハルの仲間――レボラティアの連中だってのか。底が知れるってもんだ。
「おい。あんまり強い言葉を使うなよ。頭が弱いのがバレバレだぜ?」
「ちょっと、ハック!?」
ハルが俺の手を握り、何を言い出すんだという顔で俺を睨んでくる。ハルのこの反応からするに、この男がそれなりにやばい奴だってことは窺える。だが、そんなことは関係ない。
俺はこっそりとエンゲージ・デバイスのリングをスライドさせ、起動させる。
「……おいお前、キメラかサイキッカーか知らねえが、俺に喧嘩を売るってのがどういう意味かわかってんだろうな?」
男の赤い視線は殺意となって俺に突き立てられる。だが、そんなもので動じるほど俺の性根も小さくない。
虚勢だけの馬鹿はあっちの世界で嫌ってほど相手にしてきた。……もちろん、ネットの中でだが。
「知るか。喧嘩しようってんなら受けて立つぜ? ハルがな」
「ええええええええ!?」
大きな声で動揺を露わにしながら、ハルが俺の手を揺さぶる。涙目になっているし……。
「心配すんなよハル。武力以外の力ってのを見せてやるよ」
まずは――
「ハル、その右腕、俺に見せてみろ」
ハルは小首を傾げながらも、俺に武装した右腕を差し出してくる。この腕自体が何かしらのデバイスを搭載していることは確かだ。ダイレクトにアクセスするコードなんかは無いから、どこかに赤外線通信のような機能があるはずなんだが……。
「何をこそこそやっている!?」
男が苛立たしげな声を上げる。今にも襲い掛かってきそうな姿勢で俺を睨むが、奴も奴で俺を警戒しているらしく、その場で身構えたまま動かない。
……お。やっぱりあった。ハルの右腕の武装の肘部分に、親指ほどの大きさの小さなパネルがある。俺はそこに左腕に装着しているエンゲージ・デバイスをかざし――リンク、完了。
「もういいぞ、ハル。とりあえず目の前の男をぶっ飛ばせ。俺がサポートしてやる」
言いながら、俺はエンゲージ・デバイスからホログラフのキーボードを展開させ、ハルの右腕の武装へのリンク状況を確認する。
どうやら、ハルの右腕の武装には反重力子導体というナノデバイスが搭載されているらしい。なるほど、この反重力子導体というマシンの力で重力の制限から解放され、身体能力以上の動きまで可能にすると、そういうことか。さらには半径三十メートル以内の熱源の動きを感知する索敵機能付きときた。
ハルの意思に呼応して展開されるこのデバイス、俺のサポートも最小限で済みそうだな……。ハルの意思を阻害する要素も盛り込まれているみたいだが、これさえ取り除けば――ハルは自由だ。
「貴様、それは我々に対する宣戦布告と受け取っていいんだな?」
男の鋭い眼光が、戦闘の開始を告げる。
「ああ、いいぜ? 勝利宣言と言ってやってもいい」
ハルが利用しているレボラティアたちのネットワークにも侵入することができた。イヴとパトリオットの居場所もこれで丸わかりだ。
……ん? なんだよ。あいつら、やっぱり俺の助けなんていらなかったんじゃん。
「舐めやがって……ド三流が!」
男が俺に向かって飛び掛かる。
一瞬で距離を詰めてくるその脚力、確かに尋常じゃない。だが――
「ハル、頼む」
俺のその一言の直後、ハルが俺と男の間に割って入り、男が突き出した拳を鋼鉄の右腕で押し止めた。
「あれ……私……」
ハルは男の攻撃を止め、俺の身を守ったというその行為とは裏腹に、顔には驚愕の色を滲ませていた。
「驚いたか? お前は自由だ。存分に戦え。意思の強さってもんを見せつけろ」
ぎりぎりと、まるで鍔迫り合いのように男の拳とハルの拳とがせめぎ合う。
「……ハルジオン、何のつもりだ? これは組織に対する反逆と見て」
「るっせえよ!」
男の言葉を遮るように、俺は男の顔に向けて拳を放った。
男の体は宙を舞い、綺麗な弧を描きながら後方へと飛んでいく。
「そういうのが人の意思をくだらねえ底辺に縛り付けるってのがわかんねえのか! このド三流が! ――ハル!」
「は、はい!」
「ここで決めろ。あいつをこのままぶっ飛ばして俺についてくるか、俺をぶっ飛ばして奴らに従い続けるか。今、お前がここで決めろ」
男が口元の血を拭いながら、ゆるりと立ち上がる。全身が青い光に包まれ、脚――胴――腕――頭部と、光の粒子が男を包み込んでいく。ハルの右腕のような装甲が男の全身を覆い尽くし、出来上がった姿はまるで――狼。二足で立つ獣だ。
「ハル、どうする?」
ハルは変貌した狼男を怯えた目で見据え、困惑した様子を見せる。選択は常に勇気が必要だ。後で間違っていたと歯噛みしても、もう後戻りはできない。
それでも進むという意思があれば、後悔もしないんだがな……。
「決めた。私は戦うよ、ハック」
ハルがそう言い放った直後だった。
狼男の背面から蒸気のような白煙が噴射され、刹那、奴は瞬間で再度、ハルとの距離をゼロにまで詰める。
「マシン・キメラの恥さらしが……。ここで死ね!」
ハルの右腕装甲の反応速度解析――補正。
「やれ、ハル」
ハルは右腕で狼男の首を掴み、横へ一払いして狼男を投げ飛ばす。そのまま右腕を水平に前方に突き出した状態で構え、ワイヤーを二本、射出する。
射出された二本のワイヤーは投げ飛ばされたまま地に着くことができないでいる狼男の脚を絡め取り、ハルはその狼男の脚が絡みついたままのワイヤーを右腕に格納しようと撒き戻す。まるで強力な磁石に引き付けられるかのようにこちらに引っ張られる狼男の顔面に向かって、ハルは高速で俺の隣から飛び出し――飛び膝蹴りをめり込ませた。
狼男を狼男たらしめる頭部の装甲が破壊され、男の口元が現れる。
――敵の次の動きの予測演算結果を、ハルに送信。
「ハル、右に跳べ」
ハルはワイヤーを切り離し、驚くべきことに、宙を蹴って、そのまま右側方へと跳んだ。
その次の瞬間である。
狼男の脇腹装甲が前面から後方へとスライドし、内蔵砲が無数の炸裂音を響かせた。
当然、誰もいない場所を弾丸が通過しただけだった。ここまで動きを読まれてしまえば、攻撃を当てるのは簡単なことじゃない。
そして、動きを予測しているのが俺だとわかったら、先に俺を始末する方が楽だと考えるはず。
狼男は着地すると同時に態勢を立て直し、俺に向き直る――が、それも読めてる。
ハルの右腕からレボラティアのネットワークから、正面の狼男のデータにもアクセスさせてもらった。
狼男――改め、バルトレッド。
対ユニオン・バース殲滅部隊第二分隊長。動物の身体能力を人間の肉体に宿すマシン・キメラ。
人智を超えた身体能力は確かに脅威だが、そこにハルの反重力子導体のデータが紛れ込めば――制御はできないだろう?
バルトレッドの体が不自然に宙に浮く。
「チェックメイトだ。――ハル」
ハルがバルトレッドの左側方から一気に距離を詰め、巨大な右拳を全力で振り抜く。
バルトレッドの体はそのまま地を滑走するように吹き飛ばされ、そのまま――沈黙。
「……お見事!」
俺がハルにそう言って笑いかけると、ハルは肩で息をしながらも、俺に可愛らしい笑みを作って返した。まるで憑き物が落ちたかのような快活な笑み。幼さが残るハルの笑顔の中で、上気した桃色が輝いていた。
「ハック! 私、やったよ! やった!」
俺の元へと駆け寄り、飛びついてくるハル。突然のことで驚いたが、素直に喜びを表現するハルを振り払うこともできず、俺もハルを抱き締めるようにして一緒に笑い合った。
「ハック、すごいよ! 私がバルトレッドに勝てるなんて夢みたい! ねえ、ハックが手助けしてくれたんでしょう!?」
ハルは俺に抱き付いたまま、鼻先が当たるくらいの至近距離で俺の目を見つめてくる。熱の籠もった青い瞳を潤ませ、額を俺の額にくっつける。
……近い。こんな幼い女の子にドキドキしてるって問題じゃねえのか?
ハルを抱いていても、その華奢な体躯以上の重さは感じない。反重力子導体がインストールされている巨大な右腕の重さがあれば、俺はハルを支えきれずに、とっくに倒れ込んでいた事だろう。しかし、いっそのこと倒れ込んでいた方がよかったのではないかと思う。そうすれば、倒れた拍子にハルを引きはがすこともできただろうが、このままだと、ハルは一向に離れてくれそうもない。
「私、ハックについていく……。ずっと、自分の望む世界のために戦いたかった。ハックなら私を力で抑えつけたりしない……。私は私の想いを持って戦うことができる」
俺の肩に顔を埋め、喜びかこれまでの苦悩か、肩を震わせていた。
「……そうか。そりゃあよかった」
ハルはずっと、組織の在り方に疑問を抱いたまま戦い続けてきたのだろう。自分に自信が無く、殻を破ることも憚られ、己の意思を殺し続けてきた。
だが、それも今日で終わりだ。
イヴともきっと話が合うだろう。『革命』を志すというのなら、エクス・マキナとの戦いだけでなく、戦いそのものを終わらせなくてはならない。その目的をハルは理解している。きっと、革命の最後までを共に歩める仲間になってくれる。
「ハル、そろそろここを離れよう。仲間と合流したい」
ぽんぽんとハルの頭をそっと叩くと、ハルは顔を上げて俺を見つめ――キスをした。
……え?
「ハックのこと、好きになっちゃった」
にっと笑ったハルの顔に、心臓が跳ねる。
「何言ってんだよバカ! さっさと行くぞ!?」
俺は半ば強引にハルを引きはがし、元来た道を引き返して地上へと向かう。地下駐車場から地上へと出るまでの間、ハルはずっと俺の服の袖をつまんで付いてきていたが、何を話していいのかもわからず、無言のままで歩み続けた。
――地上に出ても顔が熱かったのは、きっと陽光のせいだけではないだろう。
だが、その熱も一瞬で冷めた。
「……おいおい、こりゃあ何の冗談だ?」
地上へと出た先で俺とハルの二人を出迎えたのは、黒い外套を頭から被った五つの影だった。
廃ビルから出てきた俺たちを瞬時に半円状に取り囲み、包囲する。
「バルトレッドの動点信号がこの建物で途絶えた。我らの同志であるはずのハルジオンと貴様が行動を共にしているこの状況……、ハルジオンの反逆に、貴様が手を貸したものと推測する」
俺たちの正面に立つ一人の――男だろう。低い声で問いかけてくるその男に、俺は駆け引きなしの言葉を返す。
「全くもってその通りだ。ハルは俺たちの仲間になった。だから手を出すなよ?」
「そうはいかないな。我々への明確な敵意を持つ者を放っておくわけはないだろう」
予想通りの解答だ。頭が堅い連中ばかりでうんざりするぜ。
だが、ハルにこれ以上の負担を掛ける必要もない。
――突如として、俺たちの頭上に影が差す。
周囲のビルの屋上には、陽光を遮る五体の巨大な影。その内の一つ――見覚えのある真紅のエクス・マキナの傍らには、銀色の長髪を優雅に風になびかせる女王の姿。
まあ、タイミングのいい登場ではあるな。
「……ったく、手間かけさせやがって」
「それはお互い様でしょう!? でも――ありがと」
イヴにパトリオット、そして、新たな三体の――クイーンズ・パーティ。
俺は正面の男に向かって言い放つ。
「レボラティアにユニオン・バース、全ての元凶であるファンファーレ……俺たちはどの連中にも屈しない。お前らのボスにも伝えておけ。くだらねえ支配者ごっこに巻き込むなってな」
イヴは俺とハルの向かいに立つビルの屋上から金色のガン・キャノンを展開させ、俺たちを取り囲む連中に照準を合わせる。同時に、パトリオットをはじめとする五体のクイーンズ・パーティもそれぞれの武装を展開させ、黒ずくめの者たちに向けて構える。
「……名だけ、聞かせてもらおうか」
後ずさりしながら口惜しげに、正面の男が問うてくる。
「そうだな。この名前を覚えておけ」
俺は静かに自分たちの名を告げた。
――――――クロックワーク・レジスタンス。
意志の力で戦う者たちだ、と。
「覚えておこう」
正面の男がそう言い放った直後。
男の背後の地面が盛り上がり、地中から巨大な蛇のようなロボットが現れた。
まるで魚の骨身のような間接部を器用にくねらせながら地上へと這い出てきた大蛇はビルをも飲み込んでしまいそうなほどに大きい。
鋼鉄の大蛇は天へと向かって地中から飛び出してきた後、今度は木が倒れ込むように接地して轟音を鳴り響かせる。
土煙が舞う中、俺とハルを取り囲んでいた男たちが大蛇の腹部あたりにあるハッチからその体内に入っていくのが見えた。
「おい、ビルの中で寝てる奴も忘れずにつれていけよ?」
俺の言葉が届いたであろうタイミングでハッチが閉まり、大蛇が地面に頭を突っ込んで再び地中へと戻っていく。踏切で通過する電車を眺めている時間よりも長い間をかけて尾の先までを地中に消した。
……さて。
マシン・キメラというのが今の大蛇のようなものまで使えるのだとしたら、正面衝突は少しばかり骨を折る。
しかも相手は人間だ。
単純なプログラム相手ではない。
俺は向かいのビルの屋上に立つ一筋の光――イヴと彼女のもとに舞い戻ってた新たな仲間たちを見上げ、考えた。