表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
命の芽  作者: 猫刻
3/3

三。

   1

 翌日、僕は手術を受けるために、手術用の服に着替えた。手術室へは歩いてきてくださいと言われた。ただの盲腸の手術なのだが、正直初めての手術なので緊張していた。

その日の午前中、僕はずっと病室にいたのだが、京は来なかった。もしかすると、点滴を受けたくないために逃げ廻っているのかもしれない。どうせ点滴をすることになるなら、初めから逃げなければいいのにとは思うのだけれど、きっと僕には彼女の気持ちを今は理解できないだろう。彼女の生きたいという気持ちは本物なんだ。

僕は手術室に到着し、手術台へと案内された。まずは麻酔の説明を聞いた。麻酔用のマスクをし、呼吸をするだけで十秒もしないうちに寝てしまうらしい。

一、二、三、僕は数を数える。四、五、六……。僕の記憶は六まで数えたところで途絶えた。


   2

僕はふと目を覚ました。初めは手術がいつのまにか終わっていたのかと思った。

しかし、僕の考えは違っていた。ベッドに横になる僕は病室にはいなかった。

真っ白な空間、部屋ではない、何もない。天井もない。床は真っ白。光源がないのに、昼間より明るい。

僕は驚き上半身を起こした。最初はここがどこなのかを知るためにキョロキョロと周りを見回したが、白以外何も見えなかった。色があるのは僕の体と手術服のみであった。不気味な空間を目の当たりにして、僕はベッドから降りることができなかった。

そこで、僕は少し冷静になった。

「そっか、夢か」僕は自分の腹部を見た。「やっぱり。傷跡もないし、夢なんだろうな。全身麻酔ってこんな感じの夢を見るんだなあ」

「変な感じしませんか?」

「うん、大丈夫。いつもの感じかな。痛いところも気持ち悪いところもないし……。えっ?」

 さっきまで誰もいなかった。僕は首がおかしくなるかと思うくらいのスピードで後ろを振り向いた。

そこには、長い真っ白な髪の女性がベッドの横に立っていた。薄い桃色の着物を着て、首を傾げてニコニコしていた。とても子供っぽい顔立ちをしているが、雰囲気は誰もが憧れそうな大人の女性のそれだ。

「驚かしちゃいましたか?」その女性は透き通るような白い手を口に当て、くすくすと笑う。「ごめんなさい。驚かすつもりはなかったんですよ」

 僕はじっとその女性を見たまま何も言えなかった。

「あっ」その女性は今気付いたかのような表情をして、頭を深々と下げ言った。「はじめまして。凛と申します」

「…………」

「……?」その女性、凜はキョトンとした。「あれ? どうかなさいましたか?」

「……あっ、あの」僕は勇気を込めて言う。「ここはどこですか? これは夢なんですよね?」

「ここはそうですね、私が作り上げた空間ですね。夢……というと少し語弊があるかもしれません。正しくは手術中の吉野さんの精神を私のこの空間にお招きした、といったところでしょうか」

 凜は透き通るような声で言った。

空間……? 精神……? 一体何の話だ?

僕はそんなファンタジーを信じれるほどおかしくはなっていないはずだ。いや、もうすでにおかしくなっていたからこそ、こんなファンタジーな世界に来てしまったのか?

「あなたは……凜さんは一体何者なんですか?」

「凜、で結構ですよ。私はいわゆる天使ですね」


   3

 天使とは何だ、と聞かれて、正確に答えられるほどの知識は僕にはない。せいぜい、神様の遣いで、羽が生えている、といった漠然とした誰もが持ってそうなイメージしかない。

「天使……?」

「はい、天使、と称したほうが一番イメージに合うかと思います」

「そんな天使に俺がお招きされたってことは、僕は手術が失敗して、これから死ぬってことなの?」

 凜はびっくりしたような表情をした後、くすくすと笑った。

「いえいえ、そのようなことはしませんよ。いえ、できません。そのようなことをしていたら、死神だと思われてしまいます」

「だったら君が、いや、凜が僕をここに、この空間に連れてきた理由っていったい何?」

「京さんのことです」

 僕は正直驚いた。こんな場所で、こんなタイミングで、自分を天使だと名乗る人が京の名前を出すなんて予想外過ぎた。

「……京のこと?」

「はい、そうです。簡単に言いますと、私は京さん専属の天使なのですよ」凜は真面目な表情で続ける。「そして私はあなたにお願いをしに来ました」

「専属? お願い?」

「ええ。人間一人には天使が一人ついています。つまり、吉野さん、あなたにもあなただけの天使がいます。そして、私たち天使からのアクセスがないと、あなた方人間はそのことに気付くことはまずありません」

「…………」

 僕は黙って凜の話を聞くことにした。情報の信憑性は情報が集まってから判断するのがベストだと感じたからだ。

「ああ、ちなみに、吉野さんの天使の方には詳細を話し、許可を得ています。非常に優しい天使ですので、ご安心を。……話が逸れましたね。戻しましょう。京さんは十六歳の時に病気を患ってしまいました。それもとても重い病気に。」

 僕はうなずく。京が病気のために高校を中退したと知っていた。そのせいで両親が離婚したことも。

「京さんは今日あなたの部屋に来なかったでしょう? どうしてか分かりますか?」

「いいえ」

 僕は首を振った。

「京さんは今朝点滴が終わった後、あなたの部屋に向かっていました。……しかし、あなたの部屋に到着する前に、倒れてしまったんですよ」

「えっ……。じゃあ、今京は?」

「倒れた時に近くを通りかかった看護師さんが見つけてくださり、今は集中治療室で治療を受けています。もう点滴も、治療も不可能な段階に入っています」

「そんな……嘘、でしょう? 昨日まであんなに元気だったのに……」

「いいえ、本当です」凜は首を横に振った。「彼女は頑張りました。十分に。普通の人間なら有り得ないくらいの生命力です。信じられません。私も何度もいろんな人間の担当をしました。ですが、京さんほど生きたいという気持ちが強いのは初めてのことです」

 僕は昨日の京の言葉を思い出した。「……生きたい」彼女は確かにそう言った。消えそうな声で。だけどしっかりとした意志で。

「そこで、私は行動に出ました。つまり、吉野さんをお招きいたしました。本来こういったことは禁忌に値します。あなた方が言うところの神様に怒られてしまいます。私の存在自体なくなってしまうかもしれません。ですが、私はそれ以上に彼女を死なせたくはありません。彼女が生き、十分に人生を全うすれば、私はその後消えてしまってもいいと思います」

 凜は少し寂しげな表情をしたが、とても優しい声で言った。

「ですので、吉野さん、お力をお貸しいただけませんでしょうか? 昨日彼女にお会いしたばかりの吉野さんにお願いするのもおかしいということは、重々承知いたしております」

「力って言われても……」僕は少し戸惑いながら答える。「僕は医者でもなければ、治療できるような知識もない」

「大丈夫です。吉野さんのお力で、彼女の病気はゆっくりですが治り、一生を過ごすことができるでしょう。外出することも星を見に行くことだってできるようになるはずです」

 彼女はゆっくりと続ける。

「……ですので、吉野さん、あなたのお力を、視力をくださいませんでしょうか?」

「えっ? 視力? どういうこと? よく分からない」

「視力です。吉野さんの視力を少しずつ削り、京さんの生命力を少しずつ増やしていきます。本当に申し訳ないと思います。ですが、私の力ではそのくらいのことしかできません。それでしか彼女の命を長引かせる方法がありません」

「そんな、視力って……」僕は彼女を見やる。「全て? 何も見えなくなるの?」

「はい、すみません。しかし、段階的にです。急に暗闇になるということは絶対にしません。どうかお願いいたします」

 凜はまだベッドから動けないでいる僕に頭を深々と下げた。

 僕は思い出す。両親の顔、妹の顔、祖父母の顔、親戚の顔、友人の顔、昔付き合っていた彼女の顔、大家さんの顔、いつも行くコンビニの店員さんの顔、僕が出会った人たちの顔。そして、京の顔。

 もし視力を失ったら、光を僕は二度と認識することはできない。昼も夜もない。本も映画も見ることができない。一人でお風呂に入れるだろうか。一人で買い物することができるだろうか。僕は一人で生きていけるだろうか。

生きたい。僕もそれは同じだ。

いや、視力を失っても生きていくことはできる。

だけど、僕の言う生きたいとは? 今ある五感と五体のまま生きたいということなのでは?

これまであったものがなくなる。これまで見えていたものが見えなくなる。

それはとても怖い。誰だってそうなると言われれば怖くなるはずだ。

だけど、だけれど、僕は。

「凜、頭を上げて。天使に頭を下げられるというのは僕も困る」

 僕は京の笑顔を思い出した。たった一日しか見たことのない彼女の笑顔を僕はしっかりと覚えていた。

よし、大丈夫。

 僕は一つ深呼吸をして、笑顔で言った。

「僕の視力でよければ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ