二。
1
翌日、僕は服や本などをバッグに詰め、病院へ向かった。入院費用は両親が後ほど支払うことになっていたため、必要最低限のお金を財布に入れた。
充電しておいた携帯電話でタクシーを呼び、大学病院までお願いした。電源を入れた携帯電話に一斉にたくさんのメールが届いた。もちろん全て妹からだったので、すべて選択し、既読処理とした。
その後、父さんに「悠衣子から聞いてると思うけど、今日から盲腸で入院する。手術あるけど、お見舞いいらない」とだけメールしたが、返信は「頑張れよ! これから母さんとパリをエンジョイしてくる」と、あっさりとしたものだった。まあ、僕の両親は昔からこんな感じなので、逆に心配されても困るんだけど。
「病院に着いたが、さてさて一体僕はどこへ行けばいいのかな」
入院なんかしたこともない僕はとりあえず受付へと向かった。
「あの、すみません」僕は目があった受付の看護師さんに話しかけた。「今日から入院する吉野と申しますけど……」
「吉野さんですね。少々お待ちください」そう言ってパソコンをカタカタと叩いた。「五〇五号室ですね。そこのエレベーターから五階に上がって、右奥の部屋になります。病室は四人部屋ですが、今は吉野さん一人の入室となります。後ほど先生が向かいますので、病室でお待ちください」
僕はその看護師さんにお礼を告げ、エレベーターの五階のボタンを押し、病室へと向かった。
病室の前に名札がかけてあった。どうやら名札の位置がベッドの位置となるようだった。僕のベッドは四人部屋の窓際の一番奥だった。
四人部屋を一人で使えるなんてラッキーだなと思った……が、先客がいるようだった。
僕のベッドの布団がなぜか盛り上がっている。足元から枕の位置まで布団がかかっており、一体誰が寝ているのか、そもそも人間なのか分からなかった。
「幽霊とかはマジ勘弁してくれよな」
僕はバッグを床に置き、そおっと布団をめくってみた。僕はなぜ先に声をかけなかったのか後々後悔することになる。
「…………」
声が出ないとはこのことなんだなと思った。
ベッドには小さく手足を折りたたみ、涎を垂らしながら寝ている女の子がいた。
僕が布団をめくってまぶしかったのか、少し動いた。どうやら生きているようだ。とても長い黒髪が光をきらきらと反射した。薄緑色の入院服を着ているところを見ると、どうやら入院患者のようだ。
「……ん」女の子はゆっくりと目を開けた。「……あれ? 誰?」
あんたが誰だと聞き返したかったが、ここは紳士的に答える。
「僕は吉野だけど、ここは今日から僕のベッドなんだよ。お嬢ちゃん、ベッド間違ってないかな?」
「……お嬢ちゃん?」女の子はゆっくりと身体を起こした。「私? 私のこと?」
「そうだよ。病室でも抜け出してきたの?」
「私は……私は……お嬢ちゃんじゃないよ!」
突然大声で女の子が言ったので、少しびっくりして固まってしまった。少しの沈黙の後、僕は口を開いた。
「……お嬢ちゃんじゃないっていうのはどういうこと?」
「私は、もうすぐ二十歳なの!」ベッドからぴょんと飛び降りて、女の子、彼女は言った。「子ども扱いしないでよね!」
「えっ? 二十歳? ……ってことは年上?」
「そうよ」彼女は身体を大きく見せるように胸を張って言う。「私はもうすぐ大人の女。お酒も飲める大人の女になるのよ」
僕は自分よりはるか下にある彼女の目を見て言った。
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないわや!」
「わや? 噛んだ?」
「噛んでないわよ!」
なんかすごい面白い生き物を見つけた瞬間だった。
僕はポケットからハンカチを取り出して、彼女に差し出しながら言った。
「とりあえず、涎を拭こうか」
2
彼女の名前は川内京。正真正銘の十九歳らしい。その後来た看護師さんに聞いたので本当なのだろう。
「可愛いからって手を出しちゃいけないからね」
看護師さんに釘を刺されたが、あんな小さい年上に手を出すつもりなんか全くなかった。
京は何か重い病気を患っているらしく、長い間この病院に入院しているらしい。今日も点滴が嫌になり病室を抜け出してきたそうだ。もちろん、看護師さんに引っ張って連れていかれた。
「あんな子でも病気と闘っているんですね」
「あら? 吉野君のほうが年下じゃなかったっけ?」
看護師の白沢さんがくすくす笑う。ちなみに受付で部屋を教えてくれた看護師さんだ。京と違って、モデルをやってると言われても納得しそうなプロポーションだった。茶髪のショートカットがとても似合っていた。
「とても年上には見えませんけど」
「まあ、そうですよね。私の身長を分けてあげたいくらいですからね」白沢さんは僕に入院服を渡す。「手は出しちゃダメですけど、仲良くはしてあげてね」
その後、医者がやってきて、手術の日程とどういった手術をやるかを告げて出ていった。
意外と簡単な説明だったなと思いつつ、僕は自販機にお茶を買いに行った。お茶を買って、部屋に戻ると再びベッドの布団が盛り上がっていた。
僕はため息をつき、今度はまず声をかけてみた。
「あのお、そこは僕のベッドなんだけど」
もぞもぞと布団が動いた。
「ここはもともと私のベッドなの」
「今は違うんでしょ? どいてくれる?」
「嫌。このベッドは日当たりが良くてとても暖かいんだよね。だから、嫌」
僕は再びため息をつきながら、布団をめくった。先ほどと同じ体勢で京が目をつむっていた。
ただ、先ほどと違うのは右手に点滴用の注射針が刺さっていた。それまで気づかなかったが、彼女の注射針から伸びたチューブはベッドの脇に置いてある点滴装置まで伸びていた。
「あのさ、何の病気で入院してるの?」僕は向かいのベッドに座った。「まあ、言いたくないならいいけど」
「……知らない」京は布団をかぶりながら言う。「病名長くて忘れた」
「へえ、そんなもんか」
「なんかね、原因不明の難病で、この点滴を毎日やらないと死んじゃうんだって」
「…………」
「こんな病気のせいで、高校は中退、親は離婚……正直、笑っちゃうよね」
僕はなんて言えばいいか一瞬迷った。頑張れ、あきらめるな、大変だな、そんなありきたりなことを僕が言っても彼女には何も響かないってことはすぐに分かる。かと言って無言ってのもおかしな空気になるな。
だから、僕は言った。
「僕はな、こう見えても妹と結婚することになるかもしれないんだ……笑っちゃうだろ」
3
入院初日の夜。僕は明日の午後手術することになっていたため、早めに眠ることにした。
四人部屋に僕以外誰もいないというのは何とも不気味だった。こういうことは考えないようにしなくてはなと思ったが、そういう風に思えば思うほど眠れなくなるものだ。
僕は携帯電話に手を伸ばす。妹からメールが一通だけ届いていた。「今何ばしよると?」とただ一言だけだった。だから、僕は「特に何も。早いけどそろそろ寝る。勉強頑張れよ」と返信した。すぐに「彼女は?」と返信が来た。ああ、そういえばそんな話してたな、と思い出したが、僕は「隣にいるよ。おやすみ」と返信した。
「彼女って?」
僕はびっくりして身体を起こした。
「彼女いたの? 隣に? えっ、私?」
なんでそうなる。
「何言ってんだよ。てか、びっくりさせるなよな。寿命が縮まるだろ」僕はベッドの横にしゃがんでいる京を見て言う。「他人のメールを見るんじゃない」
「へへへ、私気配が消せるの」
京はくすくす笑う。小さい身体をさらに小さくして笑う京は本当に子供のようにしか見えない。
「また、抜け出してきたのか?」
「ううん。お風呂の時間だったから、お風呂に入ってきたとこ。電気消えてたからもう寝ちゃったのかと思ってた」
「だったらなんで入ってくる?」
「涎垂らして寝てるんじゃないかと思ってね」
「残念ながら僕は他人にそんな姿を見せたりはしない」
京は口をむうっとさせて、立ち上がった。
「今、暇?」
京は首を傾げながら言った。
「まあ、何もやることはないし、あとは寝るだけだから、暇かな」
「じゃあ、屋上に行こう!」
「……屋上?」
4
僕が持ってきていたカーディガンを京に着せ、僕は京について屋上に行った。やはりまだまだ肌寒い。新月なのか、月は見えなかった。
「……なんで屋上に誘ったの?」
僕は空を見上げている京に言った。
「星が見たくなったからね。でも、あんまり見えないね」
「街の明かりが結構あるからね」僕も空を見上げる。「山奥とかだともっと見えるよ」
「へえ、見てみたいなあ」
「見に行けばいいんじゃない?」
「ははは」京は無理矢理笑った。「無理だよ。私、外出できないし……」
「……そっか」
僕はあまりにも無感情すぎたと反省した。
僕の隣で空を見上げる女の子、いや、女性はこの大学病院の敷地内から自由に外に出ることもできない。数時間の点滴を毎日打たなければいけない。きっと僕をここに誘ったのも、何かあったときにそばに誰かいないとダメだからなんだろう。
「外……出たい?」
僕は空を見上げたまま言った。
「まあ、ね」京は泣きそうな声で、でもはっきりとした声で言った。「でも、それ以上に……生きたい」
「…………」
「生きたいから、外出しないし、点滴も我慢できる。たまに点滴からは逃げちゃうけどね」
「逃げてもちゃんと点滴打ってるからすごいよな」
「いっつも白沢さんに見つかるんだよね」京はくすくす笑う。「あの人、きっとエスパーだよ」
「ああ、確かにあの人はそんな雰囲気あるよな」僕は続ける。「……なんと言うか、理不尽だよな」
「理不尽?」
「生きるために毎日点滴打たないといけない人がいるのに、死にたい死にたいって言って簡単に命を捨てる人もいる。別に僕が何かできるわけじゃないけど、それってなんか納得いかない。できればそんな世界は変わってほしい」
「……ははは。なんか哲学者みたいなこと言ってる」
「みんな考えそうなことだと思うけどね」
「……ところで、明日は手術?」京はいつの間にか僕の方を向いていた。「盲腸なんだっけ?」
「うん、そうだよ。明日の午後から盲腸手術。はあ、ゴールデンウィークっていうのに、ついてないよ、ホント」
「そう? 私はついてたよ。少なくとも一週間くらいは話し相手ができたし……って、さすがに明日は話せないかな」
僕は何も言わなかった。京の発言に照れたのかもしれないし、悲しくなったからかもしれない。
京と僕はしばらく黙って星空を見て、各々の部屋に戻った。
入院初日、最後に発した言葉は京に向けたものだった。
「……おやすみ」