コツドン
冬のある寒々とした日曜日の午前四時頃、長月典太郎は居間の定位置に座布団を敷いて陣取り、大学進学を機に買い換えてから二年が過ぎてなお問題なく動作する持ちのよいノートパソコンのキーを叩いていた。動画観賞やオンラインゲームを想定して設計された大きな画面上ではテキストエディターが展開されており、キーの一打ちごとに、魔術に関する覚書が記述されていく。『腐敗大全』、『魂の咆哮』、『魔術教本』など古書店で発見した数冊の稀少な魔術書を中心に据えて学び、築き上げつつある独自の魔術体系――学術的定義に則れば邪術や妖術或いは黒魔術或いは混沌魔術と呼ばれるであろう性質のもの――の知識を彼は己の理解の確認と深化、そしていつの日か書いて遺すであろう最初で最後の一冊のためにまとめているのであった。
怪異の話をすると怪異が集まる。怪異を信じ或いは畏れる者の前に怪異は現れる。魔術を行なう者は怪異を惹き寄せる。長月はこの古来からまことしやかに囁かれる経験則的な感応の教訓がある程度の真実を含むことをよく心得ていたし、超自然の怪異を酷く恐れてもいた。
彼が魔術を探究するのは単なる知的好奇心のためだけではない。始まりこそ確かにそうであったが、今は違う。今の彼にとって魔術は単なる趣味に留まらない実用の技術、軽い気持ちで魔術に手を出した愚か者に吸い寄せられる怪異に対抗するための実際的手段である。独学ではあるが魔術師の端くれとなった彼は、魔術と怪異を幻想ではなく現実――そして己を脅かすもの――として捉えている。だから彼は、こうして得た知識を文章にまとめる際に、余計なものを招き寄せることのないよう、前以て部屋や周囲を追儺して安全を確保する習慣を持った。
既に長月以外の家人は寝静まっている。雑然と一家の物が置かれた九畳ほどの共有空間は、彼の打鍵音とパソコンの放熱音が響くだけで、極めて静かであった。ストーブも停めてあるため、空気は冷たく冴え渡っていた。冬というものを体現するような環境が室内に形成されていた。
時に手を止め、時に画面を睨み、時に横に積んだ参考資料を手に取り、時に浮かんでは消えていく思考を追いかけるように激しく指を動かし、長月は文章を形にしていった。己は一切の危険や代償を負うことなく一方的に敵を害する呪詛についての文章が粗方まとまり、後は推敲するだけというところに漕ぎつけたところで、彼は一息ついた。背筋を反らし、腰を捻り、肩を回し、首を傾げ、凝った筋肉をほぐして体の疲労と倦怠を追い出す。
彼が最後の作業に取りかかるべく気を引き締め直したとき、不意に、耳の奥に微かに引っかかるような小さな音が響いた。彼はそれを気のせいと判断したが、十数える程度の時間が経つと、同じ音がまた鳴った。幻聴ではないことを理解した彼は、二度あることは三度あるだろうと思って耳を澄ました。果たして三度目はあり、軽くて硬いものが壁か窓にぶつかったような音が聞こえた。長月は灯りに惹かれたカナブンか何かが愚かな突撃を繰り返しているのだろうと考えた。真冬にカナブンというのは少し違和感がないでもなかったが、生き物には例外が付き物だと納得した。実際、彼は十一月に蝉の声を耳にしたこともあった。ゆえに音のことはすぐ頭から消え去った。
しかし、数分もしないうちに、その考えが間違っていたことを彼は悟った。音は一向に鳴り止まず、四方八方から不定期に聞こえた。誰かがしつこく壁に悪戯しているか、雹でも降り注いでいるかのようだった。
近隣住民の嫌がらせかとも考えたが、そのようなことをされる理由に彼は思い至らなかった。長月家は隣近所とさして仲が良いわけではないが、決して険悪な間柄でもない。それは彼が不在の間も同じであったろう。何らかの事情で誰かの気分を害するようなことがあったのだとしても、何の前触れもなく攻撃をしかけられるほどのことをしてしまったとは考えられなかった。天気予報も快晴と出ていたから、雹や雪の可能性も考えにくかった。そのような可能性を考えるくらいならば、怪異の仕業を考慮する方が余程蓋然性があった。
そして、怪異という可能性が脳裡に浮かんだ瞬間、彼の頭脳はある怪異にまつわる記憶を蘇らせた。それは「コツドン」と呼ばれる存在の話であった。
コツドンはここ一年ほどの間にインターネット上で知られるようになった怪異の通称である。その怪異の振る舞いを「つまり、コツドンか」と閲覧者が評したことから自然とそう呼ばれるようになった。
書き込まれた数件の報告によれば、それは犠牲者が室内に一人でいるときに現れるのだという。コツコツと壁か窓を叩くような音がその合図である。犠牲者にしか聞こえないというその叩音は、犠牲者が然るべき反応を示すかコツドンがやめるまで続き、まるで入口を探すかのように家のあちらこちらから聞こえる。この間、音が止むまで無視すれば実害はなく、一時間もすれば苛立ちを籠めて壁を蹴りつけるような一際強い音がドンと一度響き、以後耳障りな音は聞こえてこなくなり、怪奇現象は終息する。しかし、もしこの執拗なノックに屈し、音源を探るべく窓へと視線を向けてしまったならば、そのときは恐るべき事態が訪れる。いずれの窓であるとにかかわらず、その向こうにコツドンの姿を見つけてしまうのである。そうすると、姿を見ることが入室の許可を与える霊的手続となってしまうのか、コツドンは窓を擦り抜けて部屋に入り込み、犠牲者を目指して近寄ってくる。そして、コツドンと室内で対峙することになった者がどういった運命を辿ることになるかはわからない。
これに関する書き込みは何件かあり、インターネットの住人達は様々な反応を示した。前提として怪異を信じる者と信じない者が入り乱れる場には、新たな怪異の類型として学術的興味を示す者もいれば、額面通りに受け取って恐怖する者も、閲覧者の気を引くための稚拙な作り話と断じる者もいた。その怪異が既に知られている怪異の亜種か誤認ではないかと考察する者もいた。
また、月単位の間を置いた数件の書き込みそのものが、そもそも話の信憑性を増すために同一人物乃至同一集団が行なった自作自演ではないかと疑う者もいた。「シリーズ」の構成がそれほどまでに出来すぎていたのである。最初に不審な物音としてだけ報告された後、自称霊能者が邪悪な気配云々と言い出す、同様の体験談が投稿されるなどして「シリーズ」が形成されていく中で、単なる音だけの存在に様々な肉付けが施されていった。そして極めつけが、締め括りの様相を呈するこの件に関する最新――おそらく最後の――報告であった。その報告はコツドンの仕業かもしれない物音を耳にしたと称する書き込みから始まった。最初は冗談めかした雰囲気の文章であったが、音が鳴り止まないという報告から次第に切迫感が増し始めた。コツドンの姿を見てしまったという趣旨の報告の後は書き込み内容が支離滅裂なものとなり、「溶けた人の顔で出来た人型の肉の塊」の姿をしたおぞましいコツドンが窓を通り抜けて迫ってくる旨を書き込んだのを最後に唐突に途絶えた。それ以後、目撃体験談の類の投稿は確認されていない。
長月の見解も懐疑派のそれに近いものであった。一人目の報告者はいわゆるラップ現象に遭遇しただけであり、二人目以降の報告者は便乗して新たな怪異をでっち上げようとしただけだ、と彼は考えていた。
しかし、彼は幾人かの報告者達に疑ったことを詫びねばならないかもしれなかった。現在、長月が陥っている状況は、まさに匿名の彼らが報告したものとほぼ同じものであった。
無論、単なるラップ現象である可能性は依然として残っている。だが、長月一家が入居している部屋の周囲は、長月が構築した不可視の魔術的円環によって防御されている上、今も追儺されたばかりである。その保護を無視してこのような干渉をしてのける怪異がつまらない雑霊であるはずがない。それが本当にコツドンであるか否かはともあれ、何か恐ろしいものが長月にちょっかいをかけていることは確かであった。
試しに、後天的に磨いた霊感を研ぎ澄ませて周辺の気配を窺うと、全身に鳥肌が立つような気色の悪い気配が雨戸の向こう側から感じられた。
長月は我知らずのうちに身震いしていた。迫りくる恐怖が呼び水となって、彼が空想や妄想として無意識の倉庫にしまい込んだいくつもの支離滅裂な恐怖を呼び覚ます。恐ろしいものが自分を見張っているのではないか。死角に何かが潜んでいるのではないか。テーブルの下に、棚の陰に、背後の押し入れの中に、何か恐ろしいものが隠れているのではないか。否定することができないことが何よりも恐ろしい妄想が頭と心の中で舞い踊る。目に映る影が亡霊のように揺らめいて見え、家のそこかしこで不気味な気配が蠢動しているかのようにさえ感じられた。
長月典太郎はただ幸運に恵まれ――或いは不運に見舞われ――愚かな好奇心から魔術を齧っただけの青年である。虚勢の表皮を剥いた下に隠れるのは勇敢な精神ではない。音の間隔が狭まっていく中、長月はむしろ自身の心の弱さが原因となって際限なく膨れ上がっていく恐怖に圧し潰されそうになっていた。心臓が暴れ馬のように脈動し、胸の内側に鈍痛が走る。
彼は怪異に対する有効な武器となる魔術にいささかの心得があったが、立ち向かうなど思いも寄らぬことであった。心得があるからこそわかってしまうこともある。武道を学んだ者が格上の敵手の力量に気づいて戦わずして敗れるように、長月も迫りくる怪異の強大さを認識し、戦意を喪失してしまっていた。
彼には、コツドンかもしれない怪異が、その辺りの道路や野原を漂う雑霊や物ノ怪とは格の違う存在であることが痛いほどにわかっていた。おそらくそれは、大宇宙の運行や小宇宙の想念が生み出した理不尽、擬似的な現象や法則ですらある厄介な代物であった。それ自体は真の意味での自発的意志を持たず一定のルールに従って動き、そのルールの範囲内で絶大な力を発揮する。さながら発動された魔術。さながら宇宙が投げかけたまま忘れ去った呪詛。それが彼に迫る怪異の本質であった。世の中にはそういうものが存在することを彼は伝聞や実体験から知っていた。
それを力づくで撃退するのは多大な困難を伴う。決して分の良い勝負ではない。怪異のルールに取り込まれてしまったらしい今、力で立ち向かうのは無謀と言ってよかった。五体満足で切り抜けるために推奨されるのは、力任せに抵抗することではなく、与えられたルールを理解して遵守し、設定された条件の中から上手いこと生還の方策を見つけ出すことである。
懸念されるのは、相手が遭遇することがそのまま破滅を意味する存在であった場合である。そうであれば、分が悪かろうと――或いは勝ち目がなかろうと――力で対抗する以外にない。しかし、もしこれが本当にコツドンなのであればその心配は要らないはずであった。コツドンの話が真実であれば、ただじっと耐えているうちに事態は解決される。
しかし、そうと当たりをつけたところで、確証があってのことではないので恐怖は消えない。それどころか、恐怖は新たに湧き出しさえした。もしこれがコツドンでなかったならば、と。コツドンであれば目を背け、無視していればよい。だが、コツドンでないならば、決然と見据えて立ち向かわなければ、本当に取り殺されてしまいかねない。そうであるならば、こうして相手を見据えることを恐れる態度は破滅に繋がる。
次々に襲いかかる恐怖が彼の精神を蝕んだ。体が竦み、筋肉から力が抜けていく。恐ろしくてまともに座ってなどいられなかった。堂々と全身を晒すことさえ、何かの注意を引いてしまいそうで恐ろしく、耐えられなかった。何かが見えてしまいそうで、目を開けているのも恐ろしかった。彼は外を確かめたい衝動と必死に戦い、窓に尻を向けるようにしてその場に蹲った。身を縮め、頭を抱える。ここが布団であったなら、と彼は思った。そうであれば、頭から布団を被って、子供のように恐怖から逃避できるのだ。
長月は半泣きになっていた。しかし、その心は決して、へし折れ、諦観と言う名の無気力に陥ったわけではなかった。彼は心の底からの断固たる拒絶の意志を籠めて「消えろ、消えろ、消えろ」と呟き続けていた。それは追儺儀式とはお世辞にも呼べない惨めな精神的懇願ではあったが、心の底から願う純粋な意志は立派に魔術の要件を満たす。拒絶の意志は彼の精神から溢れ出て謎の怪異への逆風となり、怪異が僅かにたじろぐ気配が感じられた。その事実は彼の意志が状況に対して決して無力でないことを示し、ともすればどうしようもない恐慌状態に転がり落ちそうになっている彼の精神を危ういところで救った。
静かな部屋の空気を震わすものは、長月の怯えた意志の静かな絶叫と恐るべき叩音だけであった。半紙に垂らされた一滴の墨汁がひどく目立つように、耳の奥を引っ掻くような音は静けさの中でやたらと強調され、部屋全体に響くかのようであった。耳の中に沁み入り、脳髄に絡みつくような音を頭を振って追い払い、彼は一心不乱に恐ろしい化け物の退去を願い続けた。その祈りが自分を救ってくれることを縋るような気持ちで信じて。
一体どれほどの時間が経ったのか、目を瞑って「消えろ、消えろ」と唱え続けていた長月にはわからない。気づくと、いつの間にか音は聞こえなくなっていた。
脅威は去った。断続的な超自然の嫌がらせが止んだことで、彼は反射的に安堵の吐息を漏らした。胸を撫で下ろし、身を起こそうとする。
その時、家全体が震動したかのような衝撃が走ったかと思うと、間近で打ち上げ花火が炸裂したかのような爆音が耳をつんざいた。長月は悲鳴を上げて耳を押さえ、情けなく身を縮めて再び蹲った。
聴覚が一時的に麻痺したような耳鳴りの静寂の中で、彼はなけなしの勇気を振り絞って怪異の気配を探った。
それらしい反応は感じられなかった。コツドンは例の報告通り、大きな音を残して去っていったのであると受け取り、彼は今度こそ安堵に胸を撫で下ろした。
身を起こした長月は卓上に放置していたパソコンに視線をやった。画面上ではテキストエディターが最後の仕上げを待っていた。
しかし、今日はもうそれを仕上げる気力など残っていなかった。データを保存してエディターを閉じ、パソコンの電源も落とした。それから魔術日記として使っているノートを取り出し、怪異の記録を簡単に書き留めた。一々魔術や怪異の記録を取っておくのは億劫だが、それが自身の成長と安全のために欠かすことのできない大事な作業であることは彼もよく承知していた。
記録を終えた彼は魔術に関する全ての作業を終えることにし、周辺を改めて魔術的に追儺した。特に魔術を行使したわけではなく、本来ならば不必要な作業であったが、あのような恐ろしいものと遭遇してしまった後では念のために行なっておいて損はなかった。
すべきことを残らずし終えた長月は、早速寝る支度を始めた。すっかり消耗してしまった精神が安らかな睡眠と夢への逃避を欲していた。手早く歯磨きをし、二階の子供部屋に向かう。そこでは妹の成長を機に長月と部屋を共有することとなったのち、進学を機に兄が家を出たことで個室を手に入れた弟が眠っている。今や長月は住人ではなく間借り人であった。
暗い室内で安らかに寝息を立てる弟を目にしたとき、長月は自分が今の今まで家族のことをすっかり忘れ去っていたことに気づいた。怪異の狙いが本当に彼一人であるのかどうかもわからなかったのに、彼は自分一人の心配しかしていなかった。半ば自覚のある薄情さと利己性を再確認させられ、彼は物憂い気分で布団に潜り込んだ。
彼にはいろいろな意味で眠りが必要であった。
長月が起床したのは昼を大分過ぎてからのことであった。
家族は既に午前中に起き出しており、居間に降りた彼を見ると、呆れたような視線を投げかけた。長月はその視線をものともせず、彼の常態化した夜更かしと朝寝坊に良い顔をしない家族達に問いかけてみた。明け方に変な物音を聞かなかったか、と。家族の答えは揃って否であった。
それを聞いて長月はますます今朝の怪異がコツドンである確信を深めた。ノートパソコンの電源を入れた彼は、パソコンが起動するのを待つ間に、ふと今朝の出来事を掲示板に報告してみようかと思った。しかし、起動が完了したときには、もうその考えは消えていた。
怪異を信じ、時には愛するかのような態度で振る舞いながら、いざ本物を突きつけられると途端に粗探しを始め、鼻息荒く否定して悦に入るような連中や、怪談話に関心はあっても本物の怪異には関心のない連中を相手に、わざわざ時間を割いて命懸けの体験を語ってやるなど、馬鹿馬鹿しく思えたのである。信じてくれる者もいるであろうことは長月も承知しているが、彼はその一握りに楽しみを提供するために罵声を浴びたり黙殺されたりすることをよしとするほど献身的ではない。
怪異とは無縁の幸せな連中のことを思い、長月は小さく鼻を鳴らした。それは退屈かもしれないが、少なくとも危険ではない生き方だ。