アポロンの姦計
「今日、放課後、中庭で待ってるから」
「え」
「絶対来いよ」
廊下ですれ違いざま、三年の金沢先輩から何気なくそんなセリフを吐かれて、私はもちろん立ちつくした。
一瞬何を言われたか分からなくなったので、何度かまぶたを開けたり閉じたりして、さっきの言葉を反芻する。
今日、放課後、中庭で待ってるから。
絶対来いよ。
中庭で待ってる……?
絶対来い……?
こういうことに疎い私でも、察せざるを得ない。
「もしかして、……え、うそ」
思わずこの世の終わりのような声が出た。
だっておかしいでしょ。
今日って、だって。
「バレンタイン…だから?」
まさかな、と突っ込むも、それは虚しいだけで事実を茶化したりはできない。
歩きながら白昼夢でも見たんじゃないかと勘繰ったが、耳元近くで吹き込まれた言葉はいつまでたっても頭に居座り続けていた。
「にしたって、男女の立場が逆じゃ……」
金沢先輩が西欧的思考の持ち主だというならなんとなく否定もできなかったので、なおさらきまりの悪い思いだった。
そう、今日は世間でいう女の子の勝負の日、バレンタイン。
だというのに、私ときたら渡す相手がいなければ、意中の人すらもいない。
そんな子は周りの友達にだっていっぱい居るが、まさか「渡される」立場になろうとは……
いや、思いあがりかもしれない、いや、しかし……
とりとめのない懊悩を頭の中でぐちゃぐちゃと浮かべ、私は放課後までをまんじりともせず過ごす羽目になった。
アポロンの姦計
金沢先輩といえば、サッカー部で主将を務めた、自他共に認めるイケメンだった。
私がまだサッカー部を見学に行っていた頃、常に黄色い声を向けられていたのが彼だ。
甘いマスクに洒脱な会話、まるで少女漫画から抜け出したかのようなキャラクターの持ち主だったので、当然のことモテまくっていた。
で、私はといえば、特に目立つ特徴もない、普通の、ごくごく普通~の一般女子高生であり、金沢先輩から気に留められるような何かを持っているとは到底思えない。
ただ一つ、気になっていることはあった。
兄のことだった。
私には、血が繋がっているものの10年近く離れて暮らしていたという、なんとも複雑な背景の兄がいる。
秋良高馬というその人は、養い親の実父が亡くなってからウチで暮らすことになり、時々不審な行動を取ってはいるものの、今のところは問題を起こさず家族の一員として七倉家で生活を送っていた。
兄はサッカーが殊のほか上手く、サッカー部在籍中には雑誌記者が尋ねてくるほどの腕を持っていた。
部を引退した現在はすでにサッカークラブからスカウトがあり、所属も決まっている。あと半年も経たずに家を出る予定の人だった。
とまあ、そんな人並み外れた兄を持っているので、良いにしろ悪いにしろ、私自身への評価とは関係ない部分で目立つ要因があるにはあった。
そういう面から、もしや金沢先輩が変な興味を抱いたのでは、と勘繰った。
…というか、そんな悲しい勘繰りをしなければならないほど、金沢先輩という人は非常に人気のある人だった。
卑下するわけではないが、美人の先輩との浮名を流しているような人が、特にモテたこともないような下級生を相手にするとは、とても思えなかったのだ。
「七倉」
ついにその時がきた、と、肩に力を入れながら立ち上がった放課後の教室で、ふいに名前を呼ばれて振り返った。
そこには、それほど面識のない、隣のクラスの男子生徒が立っていた。
「えっと……」
「サッカー部の山口だけど、七倉さ、今日、金沢先輩に呼びだされてたろ」
「え」
あれを見られていたのかと思うと、かっと燃え上がる様な羞恥が込み上げたが、考えてみれば廊下という公衆の面前での出来事だったため、何も不思議なことではない。
「金沢先輩に頼まれてさ、中庭じゃなくて、体育館裏に来てほしいって。ほら、あのでっかい栗の木あるとこ」
「あ…ああ、そうだったんだ」
「うん。じゃ、伝えたからな」
「分かった、ありがと」
去っていく華奢な背中を見送って、私はなんとなく拍子抜けした気分になって教室を出た。
*
辿りついて見ると、そこにはまだ誰の姿もなかった。
早く来すぎたかな、と余計な心配をしていると、向こうから人影が近づいてくるのに気づいて、慌てて栗の木の陰に隠れた。
人影が一人なら良かったのだが、やってきたのは一組の男女だったのだ。
そしてそれが誰かを特定した時には、思わず出かかった悲鳴をすんでで飲み込んだ。
「で、なんや、話って」
「……そんな言い方。高馬くん、分かってるでしょ、本当は」
独特の関西弁。
必要以上にふてぶてしい態度。
どこもかしこも鋭角的で甘さのない顔。
目立つ八重歯にヤクザみたいなタレ目。
間違いない。
そいつは私の兄の秋良高馬だった。
女子の方は……うわ、陰で人気ある(らしい)地味系の美人、木口優香先輩だ。
「分かってると思うけど…好きです。ずっと前から。付き合って下さい」
木口先輩は直球で言って持っていた小さい袋を兄に差し出した。
「……すまん、受け取れへん」
「誰か好きな人でもいるの?」
「別に。おらんけど、付き合えへん。すまんな」
「……そっか」
私は、いつのまにか心臓をばくばくと高鳴らせながらその光景に見入っていた。
音を立てないように全身に神経を行き渡らせているため、手に汗が出てきて気持ちが悪い。
兄が速攻で断りを入れた時、どこかでほっとした自分も、気持ちが悪くて仕方がなかった。
「いつまでそないしとる気や」
毅然と歩き去っていく木口先輩をぼうっと見ていたら、同じく見送っていたはずの兄の後ろ姿が声をかけてきて、思わず一センチは飛び上がった。
とっくにバレていたらしい。
「さっさと出て来んかい」
「……気づいてたの。タチ悪い」
「のぞき趣味の変態に言われたないわ」
出て行きざま嫌みを言ったら痛烈なお返しをされて、臍を噛む。
兄は腰に手を当てると、気だるそうに顔を斜めにして見下ろしてきた。
「性格悪い癖に、女ったらしって最悪だよね。木口先輩かわいそう、こんな不誠実な男に引っかかっちゃって」
「お前こないなとこで何しとんねん」
たっぷりの皮肉には取り合わず、鋭く核心をつく。
相変わらずの愛想の無さだが、どういうわけか、今日はいつもより取り付く島のない堅さがある気がした。
「べ、別に、兄さんには関係ないでしょ」
「ふん、いっちょまえに呼びだされるとはのー。こないに色気のない女」
「だ、…分かってるならいちいち聞かないでよ!ほんとタチ悪い!」
すべてお見通しな言い方が、とにかく気に食わない。
「お前、めったに声かけられへんからって、誰でも彼でもホイホイついて行っとるんちゃうやろな。少しは鏡見てみぃ。…おちょくられとるんや」
「うるさいな!だとしても、金沢先輩は兄さんみたいにあんな酷い言い方しないよ!放っといてよ」
「ほう、金沢な~。あいつにコナかけられたんか」
「あっ……!!」
誘導尋問……じゃない。
自分で暴露してしまった……私の馬鹿。
「で、付き合うんか」
珍しい。
なんか、ムカつくを通り越して、段々気味悪くなってきた。
私に関することで、兄がこんなに興味を示してくるなんて、滅多にないことだった。
……あの、全てが白日のもとに晒された、雨の日のことを除いては。
「兄さんには、関係ない」
「好きなんか、あいつが。せやけどお前、気ぃつけや。金沢はな、」
そこで兄は不自然に言葉を切ったかと思うと、唐突に顔を近づけてきて、一センチも距離のない近さで、声をひそめて言った。
「処女が好きなだけや」
熱い息が噴きかかって、妙にどきりとしてしまった。
悔しくて、私は反射的に怒鳴りつけていた。
「だからっ、別に私は金沢先輩が好きなわけじゃない!!」
「ふーん……」
ぎ、と睨みつけてやると、兄は満腹になった猫のように目を細めてにぃっと笑った。
するとかがんでいた上体を戻して、私の後方へ向かって言った。
「……っちゅうことや。金沢。残念やったな」
「秋良…」
「!!?」
その声が耳に届いた瞬間、私はざっと血の気が引く音を確かに聞いた。
戸惑った様な声で兄の名字を呼んだのは、その爽やかな声は、間違いなく。
「金沢、先輩」
声がした後ろの方を振り返ると、金沢先輩が困った様な笑顔でこちらを窺っていた。
「や、七倉ちゃん。…なんか、ごめんな、来るタイミング悪くて」
「信じ…られない」
顔は金沢先輩を見ていたが、私の言ったことは兄へ対するものだった。
茫然としながら、あり得ないほど無神経で底意地が悪く、不誠実な兄に、恨みの言葉を吐いた。
「最低。」
兄の去っていく気配がして、私は感情が高ぶり過ぎて涙を流していることに気づいた。
「最低……!」
涙を拭いながら、地を這うように低い声で言った。
別に、金沢先輩を好きなわけではなかったけれど、呼び出されたことで多少舞い上がっていたことは確かだった。
かっこいい先輩にありえない展開、私は完全に浮足立っていた。
それを、兄によって一気に地底へ叩きつけられることになるなんて、予想だにせずに。
「すいませ……金沢、先輩…」
涙声で謝る。
謝ってすむことではない、たとえ告白による呼び出しではなかったとしても、「好きじゃない」なんて誰だって言われたくはないはずだった。
「泣かないでよ、七倉ちゃん。気にしてない……っちゃあ嘘だけど、七倉ちゃんのせいじゃないからさ」
先輩の独特な呼び方は、一年の頃から変わらず軽薄な雰囲気だが、今はその軽さに救われる。
根拠もなくモテているわけじゃない、優しい人なのだ。
そんな優しい人に、私は酷い言葉を投げつけてしまった。
「でさ、さっきの言葉って、やっぱ本当?俺って、七倉ちゃんの彼氏になれない?」
金沢先輩はやはり私に好意を抱いてくれていたようだった。
辛さがいや増した。
「ご、ごめ、なさ、せ、先輩が嫌いなわけじゃ……」
「……でも、好きじゃないんだ」
「すみません……」
つっかえる言葉で、たどたどしく意志を伝える。
本当に申し訳ないが、今は誰とも付き合うという気がないのは事実だった。
けれど、こんなに罪悪感に苛まれながら断るなんて思ってもみなかったのに…
「ま、半分は分かってたことだけど」
「え?」
どういうことだろうと顔を上げると、金沢先輩は少し悲しそうに眉をひそめて見下ろしていた。
「アポロンは嫉妬深くてさ。気に入らないヤツがアルテミスに近づこうもんなら、片っ端から蹴散らしてたんだ。時には悪どい手を使ってでもね」
「……?」
「……いや、気に入ったとしても、君には触れさせないかもしれないなぁ。あんな目をしてるようじゃ…」
私は訴えるように目で説明を求めたが、金沢先輩は「今日はごめんね」と言って去って行ってしまった。
残された私は、訳も分からず取り残され、それからたっぷり5分は立ちつくしていた。
*
ようやく気持ちが落ち着いた頃、鞄を取りに教室へ戻ると、教室のドアに立っていた人物に驚愕してこけそうになった。
「兄さ、ん」
「買い物。してこいっちゅー伝言や、おかんから」
そんなことで兄がわざわざ私に伝えに来たことなど、今までなかった。
そう思っても、それは口に出さず、私は黙って兄と一緒に学校を出た。
「……今日ってさ、バレンタインなんだよ」
「おう。それがなんや」
商店街で目についた華やかなポップやディスプレイにはまるで似合わない気分を味わわせてくれたのは、どこのどいつか。
「最悪のバレンタイン」
「けっ。相手もおらへんで、よう言うわ」
「いるよ、相手くらい」
「はあ?……お前、まさか金沢と」
兄が変な勘繰りを始めたので、私は「ばーか」と罵って鞄から赤い包装紙に包まれた小箱を取り出した。
すると、兄はものすごく嫌そうな顔をして、一言、こう言った。
「………兄貴しか相手してくれへんとは、悲しいやっちゃ」
「いらないんなら返して」
瞬く星のもと、他愛ない会話をして帰る、そんな普通の日常をくれた兄に少しは感謝していたので、取り上げたりはしなかった。
欲を言えば、私は恐らくこの人から告白されたかったのだと分かっていたが、そんなのは天変地異が起こってもあり得ない――あってはならないことだったので、用意していた贈り物はせめてもの慰めだったのだ。
「ねぇ」
「あぁ?」
「金沢先輩が、アポロンが嫉妬深くてアルテミスに近づけさせないとかって話してたんだけど、どういうことか分かる?」
「…………さぁな」
ふと思い出したそれは、おそらく神話の類なのだろうが、世界史を取っていなかった私には、アルテミスが月の神だということ以外は見当もつかなかった。
兄はどうなのだろう、飄々としているいつもの顔つきからは読み取れなかい。
ふいに空を見上げるが、まだ少し明るいせいか、月の姿は見えなかった。
商店街から離れた川べりの道を二人っきりで歩いている、今のシチュエーションはとびっきりにロマンチックなはずなのに、私たちはそうはならない。
ふと思いついた。
今、私が「キスをして」と言ったら、この人はなんと返すのだろう。
今すぐ、キスをしてくれるだろうか。
……そんなはずはない。
私は妄想をすぐにかき消した。
けれど。
『アポロンは嫉妬深くてさ。気に入らないヤツがアルテミスに近づこうもんなら、片っ端から蹴散らしてたんだ。時には悪どい手を使ってでもね』
胸の奥で、金沢先輩の話が何故かよみがえってきて、思いつきを跳ね除けることは案外に難しかった。
『……いや、気に入ったとしても、君には触れさせないかもしれないなぁ。あんな目をしてるようじゃ…』
「ねぇ、兄さん」
「んん?」
「あの、さ」
兄は、なんと返すだろう。
「なんや、改まって」
「あのね、」
未だ月の見えぬ夜に。
『月も待たずに、キスをして』
アポロンに蹴られるオリオンは、実は今までたくさん居たんですよ~というお話でした。
兄は腹黒いのでサソリもいっぱい抱えてます。ウヨウヨ。
手を出さないけど、嫉妬はする!
「月も待たずに、キスをして」という素敵なお題はこちらからお借りしました→ お題屋TV http://lyricalsilent.ame-zaiku.com/