ドアの先
目の前に、ドアがある。
倉木雄一は、辺りを見廻す。
もっとも心掛けていることは、人目につかないということだ。
しかし、ここは閑静な住宅街だった。
安堵ともため息ともわからないような息を吐く。
雄一は、もう一度インターホンを鳴らした。
先ほどから幾度となく行っている行為だ。
閑静な住宅街は、さらに静けさを増していた。
それはまるでゴーストタウンに取り残されているような衝動にかられる。
まるでどこに向かっているか分からなくなる迷路のような感覚に陥る。
雄一は確信していた。
この家に、人はいないようだ。
時刻は14時を指していた。
2週間張り込みをしていた成果だと雄一は思った。
この家のサイクルは頭の中に入っている。
16時には母親と小さな娘が戻ってくるはずだ。
だから雄一には時間がなかった。
雄一は、もう一度やるべきことを反芻していた。
まず、ポケットに入っている針金で鍵をこじ開ける。
そして、金目のものを奪う。
いつもと同じだ。
ただそれだけなのに、なぜだか分からない。
狙った獲物を得る度に、足取りは重くなる一方だった。
ポケットに突っ込んだ手は針金をしっかりと握っている。
淀んでいた目に自分の命を吹き込むように強く、強く光らせる。
だんだんと汗ばんできていた手を鍵穴へ刺しこもうとしたそのとき、それは起こった。
ドアが開いたのだ。
内側から、ゆっくりとドアが開く。
雄一はただただ、見つめていた。
それは雪崩の中、動けずに見つめている熊のようでもあった。
白髪の丸い顔をした老人が目を見開く。
「まぁ、こうちゃん。こうちゃんじゃないの。ばぁちゃんを驚かせないでおくれよ」
雄一の、喉はすでに渇ききり、声を発することを忘れているように動かなかった。
「どうしたのこんなところに突っ立てないでお上がりなさいよ。外は寒いのよ。もう冬になるんだからねぇ」老人はその体から想像もつかないような力で強く雄一を家に招き入れた。
もはや雄一の体は雄一のものではなかった。
まるで操り人形のように老人に言われるがままコタツに座る術しかなかった。
「ばぁちゃん・・・・・・」
雄一は思い切ったようで、だけど実は小心者であるかのような小さな声を出した。
どろりとした唾を飲み込む。
人違いだということを伝えて、さっさと退散しようと雄一は思った。
幸いにもこの家に老人しかいないはずなのだ。
しかし、雄一はなかなか声を発せられなかった。
今までにこんな失敗をしたことなどなかったのだ。
動揺が手のひらに伝わり、それは汗となりやがて指は震えを覚える。
「こうちゃん、どうしたんだい?顔色が悪いようだね。さ、みかんを食べなさい。落ち着くよ。
このみかんね、どこだっけかな、愛媛のウワジマ?ミヤジマ?マジマ?
まぁ、どこでもいいさね、甘くておいしいみかんなんだよ。
こうちゃん、みかん好きだったねぇ」
よく喋る老人だと雄一は思う。雄一が俯いていたからか、
老人は雄一にみかんの皮を剝いて差し出した。
差し出されたみかんを雄一は見つめるしかなかった。
目線を腕時計に落とす。
時刻は15時を指そうとしていた。
とたんに、雄一の脳に、体に力が湧く。
「ばぁちゃん。俺、そろそろ行かないといけないんだ」
意を決して伝える雄一。逃げるしかもう道はないのだ。
「こうちゃん。幸せに、なりなさいね。どんなことがあってもくすんじゃあ、いけないよ」
コタツから足を出そうとしていた雄一の体が、確かに感じていた。
電流が体を走り抜けるような感覚。
今までに、誰にも言われなかったことをこの老人はさらりと言ってのけたのだ。
「ばぁちゃん。俺は、俺は幸せなんて考えたこともないよ」
「それならこれから考えればいいんだよ。幸せになることも人を愛することも、
もちろん人に愛されることも、みいんな努力が必要なんだよ」
努力をしたことがあっただろうかと雄一は考えた。
高校は中退をし、親と上手くいかないからという理由で家を飛び出した。
その勢いには勝つことなく、仕事をしては逃げ出しての繰り返しで、
気がつけば空き巣を繰り返してきていたのだ。
「逃げるってぇねぇ」
老人が言う。
胸がうずくような言葉だった。
雄一は自分が逃げてばかりの人生しか送っていなかったと思ったばかりだったのだ。
「逃げるってぇ、時には必要なことなんだよ。生きてる中、ばぁちゃんにもあったんだよ。
だけどね、人はいつも選択できるんだ。いろいろなドアがあるんだよ。
いろいろなドアを開ける可能性を持っているんだ。だからその努力をしなくちゃいけない。
たまには、逃げないってドアを開けてもいいんだと、ばぁちゃん思うよ」
雄一は、返せる言葉が見つからなかった。ただただ、聞いていた。
「こうちゃん。幸せになりなさいね。
ばぁちゃんはいつでもこうちゃんの味方だからね。
たとえどんなドアを開けようとも応援してるからね」
みかん食べなさい。ともう一度言う老人の言葉が合図のごとく、雄一の手がみかんに伸びた。
みかんは、老人が言ったとおり甘かった。
その甘さは、雄一の体の隅から隅まで浸透していくようだった。
また一口食べる。手に、肩に、腕に、足に、甘さが浸透していく。
その浸透はいつしか滴となり、頬を伝う涙となっていた。
雄一は、泣いていた。涙が出たのはいつぶりだろうと、冷静に考えることもできた。
「あれあれあれ、こうちゃん泣き虫は変わらないねぇ」
ばぁちゃんが差し出したティッシュで思いっきり鼻をかむ。
雄一は自分の限界を感じていたのだ。
人と、世間と上手く調和できない自分を人のせいにして生きてきた。
だからこそ空き巣を選んでいた。
もう人の気持ちを考えることすら億劫だったのだ。
それなのに、と雄一は思う。
老人は言ったのだ。こうちゃんの、いや老人の孫と思っている雄一に言ったのだ。
幸せになりなさいと。味方だと、そう言ったのだ。
その言葉は、儚いようで、芯があり、雄一が諦めていた希望だった。
自首をしよう、そう雄一は思い立った。
「ばぁちゃん。俺、行くね。やり直す機会を与えてくれてありがとう。俺は、もう逃げない」
老人は微笑んでいた。
雄一の顔に張りが出ていた。
「俺は、今度こそどんなドアも逃げない」
「頑張りなさいね」老人はくしゃくしゃなシワをさらにくしゃくしゃにして微笑んでいた。
目の前に、ドアがある。
雄一の向かうべきところは、もう見つかっていた。
納得がいかない。
その部分がどこかも理解している。
だからこそ、悔しい。
もう少し温めてから書けばよかったかな。
納得する一文が出てきたら編集します。