第五節 -15- 【秘匿】
《そっちはどうだ、サヤ?》
突然の通信魔法に、サヤは驚きながらも、「えっと、大丈夫です」
《具体的に》
「あっ、すみません」サヤは身体を縮こませる。うう。やっぱり私、ダメだ。そんなことを思いながらも、彼女は必死に説明をする。「『第八』、『第九』ともに倒せました。怪我した人はけっこういますけれど、死んだ人はいません」
《そりゃ上々。で、お前の存在は?》
「バレてません」
《ってことは、お前の助けなしに倒したってことか? あいつら、予想以上にやるじゃねぇか》
「いえ、あの……言い難いんですけど、シェーラ様は、ちょっと手助けしました」
《それでも、お前の存在がバレていない程度、なのだろう? ならば十分にも過ぎるよ。そんだけの力があれば、有効な戦力だ》
「……勇者様の、方は?」
《俺にそれを訊くか? ……死人はゼロだ。が、軽傷者は多い。戦闘不能なほどの重傷者はいない。できれば、無傷のまま挑みたかったんだが、さすがにそれは無理だったか》
「良かったですね」
《何が?》
「誰も死んでいないことが、ですよ」
サヤは微笑みを浮かべながら言った。勇者が息を呑む音が聞こえる。勇者の驚く顔が目に見えるようで、サヤは微笑みをさらに深くした。
《ああ。今のところは、そうだな》
「今のところは、ですか?」
《ああ。今のところは、だ。お前も、無用な希望は抱くな。いずれ、死人は出る》
「でも、まだ、出ていません」
《それはそうだが……》
「なら、出ないかもしれません。誰も死なないなんてことが、ありえるかもしれません。その可能性が潰えるまでは、私は、そんな希望を抱きたいです」
《……そう、だな》
ふっ、と勇者が苦笑しているような音が聞こえた。
「そうですよ」
サヤが教師のような調子で言う。
《なんだそれ》それが面白かったのか、勇者は笑みを交えて、訊ねる。
「物分りの悪い勇者様への呆れを込めて、ですよ」
《物分りの悪い……初めて言われたかもしれんな》
「やだ。私ったら、勇者様の初めて奪っちゃいました?」
《そういうことになるな。俺の初めてを奪ったんだから、責任を取ってくれ》
「よろこんで」
《よろこぶなよ。罪悪感ってもんが足りないんじゃないか?》
「いいえ。そんなことはありませんよ。それに、勇者様に言われたくないですよ」
《失敬な。俺ほど罪悪感に溢れる人間も数奇なものだぞ》
「あなたとなんて、誰も比べられませんよ」
《それはどっちの?》
「もちろん、あなたほど罪悪感を持っている人間はいない、という意味ですが?」
《それでこそ、だ。まあ、お前もけっこう持っているがな》
「私なんて、まだまだですよ」
《謙遜するな。謙虚と寛大は人間の美徳だが同時に悪徳でもある。悪徳であるが美徳でもある尊大を常に心に抱いておけ》
「私、けっこう尊大だと思うんですけれど」
《どこがだよ》
「私、勇者様の一番弟子だって思ってます」
《ただの事実だ。そんなものは尊大には入らない》
「私、勇者様に大切にされてる、って思っちゃってます」
《それも事実だな。はっきり言うが、お前は俺にとって……まあ、大切だ》
「今の間はなんですか」
《いや、それは、その……な》
サヤが唇を尖らせ、「気になります。教えて下さい。じゃないと、私、怒っちゃいます」
《そりゃあこわい》勇者はわざとらしく言い、すぐに恥ずかしそうに、《だが、その……これは、俺の性格には合わないっつーか……》
「それこそ勇者様の性格に合いませんよ。勇者様は常に判然として尊大ですもん」
《いや、それもそうだが……》
「ほら、言って下さい」
《……バカにするなよ?》
「するわけないじゃないですか。たぶん」
《たぶん、ってなんだよ。気になるな》
「気にしないで下さい」
《わかった。なら、仕返しだ。俺も恥ず……率先して言いたいとは思わないが、言ってやろう》
「ばっちこーい」
サヤがふざけてそんなことを言うと、勇者ははっきりと言った。
《お前は俺にとって、世界で一番大切な人間だ》
「……え?」
サヤは思わず聞き返してしまった。勇者は、「誰がもう一度言うかよ」と笑っていたが、その笑いは、サヤの現在の状況が目に浮かんでいるからだろう。
そのサヤはというと、彼女は表情を凍結させて、何も考えていないように見えた――実際のところ、彼女の脳内では現状を把握するために目まぐるしく思考が展開されており、それを表情に出す余裕すらないだけであった。
「ど、どういうことですか?」
《そういうことだよ》
「……うれしい」
《え?》
「あの、とってもうれしいです。私、本当に、うれしくて……もう、死んでもいいかも、です」
サヤの目元に嬉し涙が滲んだ。声でそれを察した勇者は、あわあわと慌てながら、《そういえばお前はそういうやつだったな。いやでもそこまでかよいやいやいや》なんてことを、しどろもどろに言う。
サヤは思わずくすりと笑う。「どうして、勇者様が慌ててるんですか」
《それは……》勇者は言い淀み、バツが悪そうにして、《お前が、俺の予想以上だったからだよ》
「予想以上? 何がですか?」
《疑問のすべてを教えてもらえると思うのは愚衆の悪徳だぞ》
「疑問は乞うてでも解消せねばなるまい、って勇者様が言ってませんでしたっけ」
《確かに言ったが……それは言葉の綾ってやつだ》
「でも、言ったことは事実です。真実は主観的なものでしかなく、故に曖昧であるが、事実は不変に絶対の事実であり、それ以外の何物でもない……でしたよね?」
《それはそうだが》
「言い訳は必要だが、それは慰み以上には成り得ない……ですよ?」
《……いや。俺が原因であり、これは俺の意図したことでもあるが、まさか、お前がここまで口論に強くなるとはな。昔のお前が今のお前を見たら、とても同一人物だとは思えないだろう》
「口論の常套手段に議論の脱線というものがあるが、あれほどに醜いものは珍しい。議論の場に立つならば――」
《参った》
勇者が嘆息する。両手を上げて参ったのポーズをする勇者を想像して、サヤは得意な調子になった。
サヤの言葉はすべて勇者の受け売りであり、勇者が言ったことを言っているだけだった。だが、それを使われて負けるとは、なんとも皮肉なことである。むろん、相手がサヤでなければ、サヤ以上に弁の立つ者であっても、勇者は口論に負けないのだが。
「じゃあ、教えて下さい」
《別にいいが、お前こそ、いいのか?》
「なにがですか」
《いや、個人的には、俺ほど人間的な思考をする人間なんていないと思っているんだが、よく勇者は人の心がわからないとか、そんな感じのことを言われるんだよ》
「知ってます」
《なら、わかると思うんだが、俺にとってはなんでもないことでも、お前からすれば、これを言われると、なにか思うところがあるかもしれない。今までの経験上、これを言えば、俺ではなく、お前が後悔する》
「む」勇者様がそこまで言うのなら、そうかもしれない。サヤはそう思って、一度、迷った。勇者様は必要ならば嘘をつくし……いやまあ必要じゃなくても、ただの気分でも、それが勇者様に利益を、感情的利益、優越感だとか、面白みだとか、愉悦だとか、そういうものを得るためならば、嘘をつくはあるけれど、正しい。人間的な問題において、勇者様が間違っていることなんて、全くとはいえないけれど、ほとんどない。
だから、ここは勇者様の言葉に従うべきで……そっちの方が、確実に賢い選択で……
でも、知りたい。
その思いをそのままにして、サヤは言葉を発する。
「きっと、勇者様は正しくて、私が後悔することになるんだと思います。でも、それでも私は、知りたいんです。だから、教えて下さい」
はっきりと、率直に、サヤは言う。それに勇者は、《……まあ、そう言うとは思っていたが、知らないからな》と嘆息した。
「はい」サヤは思い切りよくうなずいた。
《じゃあ、説明しよう》
勇者はその声を説明口調のときのそれに変え、説明を始めた。
《予想以上とは何か、という問いだったな。それを簡潔に述べるならば、お前が俺に対して抱いている感情の大きさが予想以上だったということ……加えるならば、好意とでも言おうか。俺はお前の好意に気付いていたし、それを隠そうとしていたことも知っていた。いや、単純な好意に関しては隠す気なんてなかったのかもしれないが、ここで俺が言っているのは恋愛感情的な……異性に対して抱く感情だ。まあ、同性に対して抱く人間もいるが、それは例外にしておこう。親や子に抱くような、親密的な感情ではなく……あるいはそれも有するのかもしれないが、もっと別の……そうだな、ここでは単にこう言うべきだろう。愛。そういう意味での好意は、隠そうとしているつもりで、俺が気付いていることにも薄々勘付いていたらしいな。実際、俺はお前の愛に気付いていたわけだが、その度合いが予想以上だったということだ。ここまで愛されるのは、たぶん、初めてだ。多大な利益だが、これはなんと言うか……恥ずかしいな。うん、羞恥という言葉がふさわしい。羞恥と歓喜が同居しているような、いや、それとも違う、形容しがたい感情だ。本当にそれを表現することは難しいが、端的に、ただある事実だけを述べるならば、嬉しい。お前が俺に抱く愛が、まさかこれほどのものだったとは……これこそまさに、嬉しい誤算ってやつだな》
勇者は冷静に、分析するように、すらすらと述べた。恥ずかしいと言っていたが、本当に恥ずかしいと思っているのか疑問なほどに平坦な声だった。
「…………あぅ」
対するサヤは混乱していた。ぱくぱくと金魚のように口を開閉させ、目を回し、顔を真っ赤に染めていた。やっぱり後悔していた。もう恥ずかしさとかその他色々が混沌となって、もうなんともいえない状態だった。へ? なに? どういうこと? やっぱりなの? いや、やっぱりってなに? なんで納得してるの? なにを納得してるの? 勇者様が私の好意に気付いていたこと? そんなこといまさら過ぎるでしょう。私自身、好意を隠す気はなかったじゃない。でも、愛は? あ、愛? 愛に関しては、隠そうとしていなかった? 隠そうとしていたかもしれない。なんでだろう? 今の関係を壊したくないから? この距離感が心地よかったから? のぼせない、いつまでも浸っていられるぬるま湯に、身を任せておきたかったから? 変わらず、ただ現状維持だけを望んで、より良きを望まなかったから? 望んでいたよ。望んでいたんだ。でも、実際のところはどうだった? 隠してた。でもバレてた。でも勇者様の予想以上だった。これってすごくないかな? 私、勇者様の予想を超えるほどの想いを抱いていたわけだよ? すごいよね。やばいすごい。すごすぎ。私ってばすごい。でもバレてた。私の想いバレてた。隠そうとしていたことがまず恥ずかしいし、それがバレていたことはもっと恥ずかしい。なにこれ。なにこの感情? 恥ずかしい? そうだね。それだ。勇者様も何か言っていたじゃないか。羞恥と歓喜が同居しているような……いや同居してないよ。羞恥だけだよ。思いっきり一人暮らしだよ。羞恥独立してるよ。歓喜に徹底抗戦してるよ。同居してるとしても歓喜が閉めだされちゃってるよ。羞恥が占領しちゃってるよ。歓喜かわいそう。助けてあげて。ついでに私も助けてくれたら万感の思い。だから助けて。誰か助けてよー!
「あうぅ……。うー! あー! にゃあん。むぅー。ぐぐぐぐぐ」
サヤは自らの顔に手を押し当て、頬をぐにゃぐにゃと変形させる。足をばたばたと動かしたり、ごろごろと寝転がったりする。奇声を発しながらそんなことをしていたので、もし誰かに認識されていたら尋常じゃなく恥ずかしい。でも認識されているはずがないし、万が一、億が一、兆が一、京が一、不可説不可説転が一、認識されていたとしても、今の恥ずかしさよりはマシというものだ。今、私が感じているこの恥ずかしさを超えるものなんて、三千世界のどこにも存在するとは思えない。
《だから言っただろう》
勇者の呆れたような声。サヤは先ほどのように言い返すことはできず、だが、子供が何らかの過ちを犯した時、その内容を吟味するまでもなく、言い訳にもならないような言い訳を言うことがあるが、それと同じような調子で、「でも、聞きたかったから仕方ないじゃないですかぁ」とだけ言った。
《聞きたかったから、か。欲望の肯定による選択は時に過ちを呼び込むんだよ。それも教えたはずだが?》
「知ってますよ。この世で一般的に言われる悪人とは、自らの利益に忠実で、且つ、その利益が公共の福祉に反する者、阻害する者、でしょう? 逆説的に、公共の福祉に反しない限りは、どれだけ利己主義であっても悪人ではなく、つまり勇者様は悪人ではない」
《その通りだ。満点をやろう》勇者は満足気に言った。
「でもこれって勇者様を正当化してるだけじゃ」
《何言ってる。俺は正しい。正当化なんてする必要すらない》
サヤはそれに反論しようと口を開いたが、正当化してるだけかもしれないけれど、それでも勇者様が悪人ってわけじゃあないよね、と思い、反論するのをやめた。誤解を防ぐために述べておくが、面倒くさいとかじゃない。
《というか、俺の予想より羞恥は感じていないようだな。もうそのような状態とは》
その言葉を聞いた瞬間、サヤの行動は停止した。停止魔法により停止されたのではないかと思われるほど完全に停止した。生まれる沈黙。《……まさか》察する勇者。そして意識の到来とともに、感情は表出する。
《……?》
だが、爆発は生じなかった。どういうことだ? 疑問に思う勇者であったが、その答えは、すぐにわかった。
それは音のない爆発だったのだ。
「…………勇者様の、いじわる」
顔を腕で隠すようにしながら、サヤは小声で、しかし意思のこもった声で言った。
その声はさながら毒であった。甘美な毒。それはたちまち勇者を侵し、正常な判断能力を失わせ、突飛な行動を起こさせる――
「え?」
サヤは腕から顔を上げ、目前の信じられるはずもない光景を見た。抱かれていることがわかった。それが誰なのかなんて考えずともわかった。
「な、なにしてるんですか、勇者様」
戸惑った声でサヤが言うのに、「転移魔法で飛んできただけだ。お前の指定点を使えば、簡単なことだ」
「そういう意味じゃないですよ!」
「ならどういう意味だ? まあこの俺に限ってお前の思考が読めないなんてことはなく、つまりその答えを聞くまでもないのだが、お前は方法ではなく理由を訊ねているわけだな。答えを簡潔に述べるならば――愚問だ。そのような質問は意味すらなさない」
「ど、どうしてですか?」
何か重大な理由があったのかもしれないと思い、訊ねる。そうだ。勇者様が何の考えもなしにこんなことをするはずがない。なにか。なにか私には考えも及ばない理由があるに決まっている。
「お前の姿が見たかったからだ」
「私には考えも及ばない理由ですね!」
予想もつかない理由であったが、何も重大な理由ではなかった。
「そうか? ならばお前はまだ俺の本質を理解していないということになる。俺は自らの欲求に忠実だ。はっきり言って、俺は俺の利益しか考えていない。これは俺の言う全ての利益に当てはまるが――利益とは、物質的なものだけではなく、精神的、観念的なものも含んでの、利益だ。金銀財宝も利益といえば利益だが、俺にとっては、快楽や幸福といったものが真の利益といえる。そもそも、金銀財宝なんて、大して有益ではないがな。実験に有用性があるくらいで、どうして普通の人間があんなものをあれほどまでに望むのか、俺には理解し難い。まあ理解はできるから、賛同はできないといったほうが正しいか」
「勇者様、ちょっと、話が逸れてるような……」
「それはその通りだ」勇者は同意して、話を元に戻し、続ける。「要するに、俺は利益を求め、その利益がお前の姿を見ることだった、ってわけだ」
「私の姿を見ることが、どうして利益になるんですか」
サヤの問いに、勇者は即答した。
「花を愛でることに理由が必要か?」
サヤはその意味を理解し、頬を染めた。
「と言っても、俺は花なんてものを見るくらいなら、お前の顔を眺めていたほうが愉しいわけだから、この比喩は適切ではないかもしれないな。そうだな、花ではなく、恋人を、とでも言おうか。うん。俺がお前に対して抱いている感情を表すには、これが適しているだろう」
恋人なんて言われて、頬の赤がさらに濃くなる。
「恥ずかしがるな。そんな顔をされては、俺さえも気恥ずかしくなる。お前は勘違いしていないとは思うが、俺は人間だぞ。利益だけを追求する鉄の心を持つ者ではなく、普通の人間と同じ、普通の心を、感情を持つ人間だ。その価値観に少なからず差異は存在するが、それだけだ。だから、本当に、そんな顔はしないでくれよ……少なくとも、今はまだ、な」
「じゃあ、いつなら、いいんですか」
「決まっているだろう。魔王を倒した、その後に、だ。それまでは、余計な感情に心を動かせるな。俺に対する好意は抱き続けてもいいが、それくらいにしておけ。俺も、今はまだ、これくらいにしておく。『戦場での友情は戦況を優位に変えるが、それも過ぎれば、敗北を招く』。それと同じことだ」
「わかりました。……なら、早く、魔王を倒さなきゃ、ですね」
「ああ。俺たちの栄光ある未来のためにも、早く魔王を倒さないとな」
勇者は転移魔法を使い、消えた。