第五節 -7- 障害 【シェーラ3】
シェーラは海面に上がった。
全身びしょびしょに濡れており、凍結魔法で作った氷の足場を支えにして、腕から腰、足とどんどん海上へと上がっていく。
全身が海上へと上がり、足場の上に立つと、彼女は海水で濡れた髪をさっとかき上げ、一気に全てとはいかないが、水を飛ばした。
そして、すぐ近くにある氷の華を見て、言う。
「油断してくれて、助かった。もし普通に戦っていたらと思うと……背筋が凍る思いだ」
シェーラはぶるっと身震いをした。
その身震いは、海水のせいなのか、ルイアと普通に戦っていた場合のことを想像したからなのか、それとも――
《油断してくれて助かった》
それとも、ルイアの殺気を予期してのことだったのか。
「なっ」シェーラは驚き、咄嗟に障壁を展開し、防御体勢をとる。しかし、遅い。
氷の華から四本の龍が飛び出し、一瞬でシェーラの身体を噛み砕こうと口を開け、勢いよく閉じられ――なかった。不自然に口を開け、閉じようとしているところで止まっていた。
数瞬後、シェーラの魔法が行使され、身を守るための障壁が展開される。すると、龍の口が勢いよく閉じられ、しかしその牙は障壁に阻まれ、シェーラに届くことはなかった。
今、何が……? とシェーラは思ったが、それは一瞬のことで、すぐさまその思いをルイアに向けた。今、すべきは、ルイアを倒すことだ。
《シェーラ様! 援護します!》
と通信魔法。もしかしたら、彼らが何かしてくれたのかもしれない。シェーラはそう結論づけ、それ以上は考えないようにした。
《頼む。私だけでは、やはり、無理そうだ》
《了解》
すると、船の障壁に魔法陣が浮かび上がった。兵たちが自身の魔法を使って援護するなんてことはしない。勇者がわざわざ船に援護するための魔法の陣を描いたのだ。それを使う方が高い効果が得られるのは当然の話である。
わざわざ確認せずとも、さっさと援護してくれればよかったのに……、とシェーラは思ったが、彼女は実戦経験はないに等しい。故に、そんなことを思ったのだが、兵たちがシェーラの指示なしに攻撃しなかったのは、シェーラを邪魔しまいと思ってのことであり、何も言わずに援護すれば、それがシェーラに当たる可能性も高かったからだ。加えて、勇者の魔法陣は常人には理解出来ないほどに複雑であり、魔力で起動させるだけでも一苦労なのだ。そのため、起動するのに時間がかかったことも、理由の一つである。
そして、魔法は発動した。
魔法陣が輝き、そこから魔法が放たれたのを感じた。だが、不可視であった。『攻撃』の魔法とやらだろう。『攻撃』のみを追求した結果、『攻撃』という概念以外何も残らなかったという魔法。ちなみに、シェーラはその魔法なら簡単かもしれないと思い、勇者に教えてもらったが、純粋過ぎるその魔法は、純粋過ぎるが故に難しかった。シェーラは勇者のような邪念の塊がどうしてあのような純粋な魔法を使えるのか不思議になったほどである。
その魔法は不可視であったが、視えた。
シェーラの障壁の上にあった四本の龍の身体の部分が消えたからだった。
それを見たシェーラの反応は、
「あ、当たるかと思った……」
で、あった。
ぶっちゃけ当たったらシェーラの障壁なんてないが如くシェーラが消え去ってしまうほどの威力だった。つまり、『当たるかと思った』=『死ぬかと思った』である。シェーラは涙目になっていた。死の覚悟ができていないわけではないが、こんな死に方は嫌だ。
《……油断した》
ルイアの通信魔法。それにちょっとだけシェーラは同情した。今のは仕方ない。私自身、驚いたくらいだもの。まさかあんなに威力が出るとは……。
そんなことを思っていると、
《……すみません。ここまでの威力だとは思いませんでした》
《確認してなかったのか!?》
シェーラは驚いた。いや、本当に、確認してなかったのか!?
《勇者に、魔力の無駄遣いはやめろ、と》
《くっ。一理あるが故に、言い返せんッ!》
シェーラはぎりっと歯を軋ませた。勇者め、覚えていろよ! と勇者への復讐(断じて八つ当たりではない)を固く誓った。
《だが、それほどの威力ならば……いや、それほどの威力がなければ、あの魔族は倒せないだろう。上の第九はわからんが、少なくとも、あの魔族は、私一人の力では倒せない。せいぜい、動きを止めることくらいだ。だから、頼む。私があの魔族の動きを止めた時に、先の魔法を、魔族に当ててくれ。次は、本体に》
《御意》
そして、通信魔法が切れる。準備に取り掛かったのだろう。
シェーラはルイアのいる方向がわからなかった。氷の華からは解放されているのだろうが、それから、どこに行ったのかはわからない。
だから、シェーラは、言う。
「凍れ凍れ、魔よ凍れ。汝は裏切者の地獄へ落ちる者。地球の重力がすべて向かうところへ落ちる者」
『詠唱』を、紡ぐ。
「コキュートスの中心へ。地獄の中心ジュデッカのさらに中心へ。汝らの王が幽閉されている場所へ」
歌うように、詠う。謳うように、詠う。
それに対し、ルイアは、《なにをしているのかは知らんが、止めさせてもらう》と通信魔法をした。わざわざ通信魔法をしたのは、魔族の精神が誇り高いからか。それとも、ただ私に混乱を誘いたいだけなのか。それはわからない。
だが、一つだけ確実なことがある。
それは、もう遅い、ということだ。
「今、此処をその地へ変えてみせようッ!」
『詠唱』は、終わった。
魔法の構築も、終わった。
故に、魔法は、発動する。
それは、『詠唱』通りの魔法。今いる場所を、コキュートスへと変える魔法。裏切を行った者が永遠に氷漬けになっている場所へと変える魔法。
実在の、では(残念ながら)ないが、宗教的な意味での魔王が氷の中に永遠に幽閉されている場所へと、変える魔法。
つまり、その魔法は、永久凍結。
対象を、氷の中に永遠に幽閉する魔法。
そして、それを、対象だけでなく、今いる場所全体に作用させる魔法。
それがどういうことか。
その答えは、すぐにわかった。
シェーラの『詠唱』が終わった瞬間、辺りに光が満ちた。空気中に飛散する氷の粒が光を反射して光っていたのだ。だが、何故、氷の粒などがあったのか。それは、簡単な話だ。一瞬で、水が凍る温度にまで気温が下がったからだ。急激な気温低下により大気中の水蒸気が氷に昇華したのだった。それはさながら宝石の粉が舞っているような光景であった。
そして、その効果は、すぐに海にも作用した――正確には、海へ作用したついでに、気温がここまで急激に下がったのだが。
海が、凍った。
水平線の、遥か遠くまで。
一瞬で、世界は、白に染まった。
そして、その場にあった、全ての船の障壁に、
魔法陣が、浮かび上がり、
それは、煌々とした輝きを発し、
「――終わりだッ! 魔族!」
暴虐なまでの威力を秘めた魔法が、放たれた。